ザーゲの旅 2006年


ドイツ+ウィーン+プラハ+マリーエンバート <8月23日~9月12日>

 

 今年のドイツ魔女街道ツアーは残念ながら催行されなかった。それで、ツアー用に予定していた日数を個人旅行に組み込んで、ちょうど3週間の旅になった。

 今年の「ヴァルプルギスの夜」に参加して、5月に帰ってきてから、その後始末や新しい仕事に追われて、気がつけば8月。これという旅のテーマを考える時間的余裕もなかったし、4月に『魔女の薬草箱』を出して、少しばかり息抜きもしたかった。だから、目的はいくつかあったものの、娘と一緒の、主に観光旅行に徹した旅だった。

 観光旅日記を書くのは苦手なので、ザーゲにとって面白いと思われたことを行程に沿って列挙することにした。つまらなかったら、読み飛ばしてください。

 

フランクフルト(1泊)

 ここでは仕事。「いかにもフランクフルト、いかにもミュンヘン、いかにも・・・」という町の写真を撮って帰らねばならない。プロのカメラマンなら別だろうが、素人にとってこれは実に難しい。

 夕方フランクフルトに着いてから、駅前のホテルで一休みしたあと、カイザーシュトラーセを通って、ツァイルという大通りまで歩く。結局いい写真は撮れずに、帰りにまた来ることにした。

 

ミュンヘン(5泊)

 [1日目]

 昔、ミュンヘンでカメに乗った少女の噴水を見た。もう一度見たいと思い、ミュンヘンに行くたびに歩き回るのだが、どうしても見つからなかった。ミュンヘン在住のやまねこさんに教えてもらい、やっと目的を果たした。覚えていたのはブルーメンシュトラーセ。ところが、カメと少女の噴水はその1本横の道だった。

 「へーこんなところにあったのかな」とあたりの風景の記憶がよみがえらない。でも、確かにまちがいなく探していた噴水だった。

 

 夕方、やまねこさんと市庁舎前で会う。彼には仕事で写真をお借りしたので、そのお礼を言いたかった。昨年の夏もやまねこさんにお世話になり、見たいところをくまなく見ることができた。今回も見たいところを挙げてお尋ねしていたら、親切に連れていってくれた。

 その一つ、ロレト礼拝堂については「黒い聖母子像」として最後にまとめる。

 

[2日目]

 ドイツで一番高い山ツークシュピッツェに行く。前に来たときは時間がなくて、山頂だけしか行けなかったので、今回は1日かけて、アイプ湖や、ふもとの町ガルミッシュ・パルテンキルヒェンもゆっくり見ることにした。

 山頂はまだ雪が残っていて、フリースのコートを着て、ちょうどよかった。天気は快晴、まぶしく、顔がヒリヒリするくらい紫外線をじゅうぶん浴びた。こんな日はサンオイルが必要。

 山頂のレストランで食べた昼食は味がしょっぱくて閉口した。都市部ではそうでもなかったが、概してドイツの料理は塩気が多い。塩分摂りすぎの弊害など問題にしないのだろうかと思う。

 来たときとは違うゴンドラで山頂からアイプ湖まで降りる。観光客がほとんどいなかったので、私たちだけの湖のような錯覚を覚えた。すぐそばを泳ぎまわる鴨に見とれて、1時間に1本の電車に乗り遅れた。

 登山鉄道駅に戻り、そこからパルテンキルヒェン側にある聖マルティン教会に行く。このテラスに立つと、前方にツークシュピッツェがもっともきれいに見えるという。ところが、この日、あんなに快晴だったのに、教会に向かうころから雲行きが怪しく、テラスに立ったときは、ツークシュピッツェの頂は雲に隠れてまったく見えなかった。

 

 今回は娘の行きたいところを優先し、あらかたスケジュール作りも任せた。娘はネットを使っていろいろ調べたようだ。その際、訪れたい町のライブ映像をお気に入りに入れていた。もちろん、ガルミッシュ・パルテンキルヒェンも調べた。カメラの場所がどこなのかわからないので、町を歩きながら探そう、できればそこにずっと立っていようかなどと話していた。

 ところがいざ町を歩いていると、記憶が曖昧で、確かこの噴水のあったところかもしれないと思う一方、ちょっと違ったかなとも思い始め、ついにここ!と断定できずに終わった。帰ってきてから確かめたら、確かにここだと思ったところだった。ほかの町はすべてわかったが、記憶って実に曖昧だと思って、可笑しかった。

 

[3日目]

 ヨーロッパバスを使って、日帰りでノイシュヴァンシュタイン城に行く。娘が中学生のときに、一度連れて来たことがあるので、またここを選んだようだ。

 私は何度か来ているが、城がもっともよく見えるというマリーエン橋には行ったことがなかった。城のほうからこの橋を見ると、とても恐ろしく見えたからだ。私はかなりの高度恐怖症なので、そういうところは避けたくなる。

 今回は娘と一緒なら大丈夫だろうと安心していた。ところが、橋に足を数歩踏み入れたら、もう駄目。すぐに引き返して、娘が戻ってくるのを待った。なんでもない橋なのにと呆れられた。城からの帰りはちょっと贅沢して馬車に乗った。

 

 このあと、ヴィース教会に行き、ついで、ホーエンシュヴァンガオ城を見、フュッセンから最終のヨーロッパバスに乗って、ミュンヘンに戻る。

 それぞれ好みだろうが、私はロココ様式の教会は好きなほうではないので、ヴィース教会にもそれほど感銘は受けなかった。祭壇に安置されている「鞭打たれるキリスト像」が意外に大きかった。この像が涙を流したというが、顔にはその跡は見えなかった。

 

[4日目]

 美術館へ行けばかならず発見がある。そのときどきの関心のありようによって、見ても見えなかったりする。誰の絵というのではなく、「あれ」(たとえば魔女)が描かれている絵を探すという意味で、展示作の多いアルテ・ピナコテークは何度訪れてもいい美術館だ。

 今回の発見は天使の足。魔女ならいざ知らず、私は天使に疎い。それなりに天使の絵や本は読んでいるが、天使のイメージは何種類かのステレオタイプの範疇をでていない。

 天使に興味のある人にはきっとよく知られているのかもしれないが、空を飛んでいる天使の足はどうなっているかなんて考えたこともなかった。

 だから、15世紀中頃にケルンで活躍したという作者不明の絵を見たときはドキリとした。服の裾が先細りしていて、足の見えない日本の幽霊とそっくりだった。

 

 夕刻、「赤頭巾」の噴水を探しに行く。これもやまねこさんに教えてもらったもの。1904年の作だが、なぜここに「赤頭巾」かということはわからないそうだ。ミュンヘンにはかなりの数の噴水があるそうで、それについての本もでているとか。ミュンヘン噴水めぐりもけっこう面白い。

 

[5日目]

 今日は市内観光。まずはニュンフェンブルクへ。目的は前回見忘れた馬車博物館。ルートヴィヒ二世が、夜な夜な、雪道を豪華なソリに乗って現実から逃避したという、そのソリを見てみたかった。その絵が残されているが、まさにその通りのソリが展示されていた。

 この博物館の名前であるマルシュタルとは王侯の厩舎および王侯所有の馬のことで、普通の馬や馬車ではない。ヴィッテルスバッハ家の当主が結婚式に使った豪華絢爛な馬車やちょっと地味な外出用馬車など、思っていたよりたくさんあって、面白かった。

 

 夕方、Neo Tokyoという本屋へ行く。これは私のちょっとした仕事。ドイツではずいぶん前から日本のマンガは人気だった。ここ数年で、マンガファンの数がかなり増え、Mangaは外来語として定着している。クラウン独和辞典にもちゃんと載っている。ドイツの本屋でマンガコーナーを見るのは普通のことである。そういえば、SUDOKU本もずいぶんたくさん売られていた。これはプラハでも見た。SUDOKUも日本発のものなのだろうか。

 

 日本マンガの専門店がミュンヘンにあると聞いて、訪ねることにした。店内はすべてマンガ。昔、私がよくみかけて買ったのは、『ドクタースランプ』や『ドラゴンボール』、雑誌『セーラームーン』などだったが、そのころと比べると、びっくりするくらいたくさんのマンガが独訳されている。手塚治虫や萩尾望都ものはほぼ網羅されていたし、浦沢直樹の『モンスター』も1巻から揃っている。なんでもあり。コスプレ用品も飾ってあった。私は矢沢あいの『NANA』を1冊買った。5ユーロだった。

 

 店内はけっこう出入りがあった。スーツ姿の男性がどんな本だろう1冊買っていった。通勤電車の中でマンガを読むサラリーマンの姿がドイツでも見られるようになるか?まさかね。

 

ベルヒテスガーデン(2泊)

[1日目]

 ミュンヘンからベルヒテスガーデンに向かう途中、ザルツブルクで下車して半日観光する。どちらの町も私は初めてである。

 コインロッカーに荷物を預け、ザルツブルクカードを購入。今年はモーツアルト生誕250年なので、お膝もとザルツブルクはモーツアルトで明け暮れていたようだが、ザーゲの心に残ったのはモーツアルトではなく次の2つ。

 

(1)ホーエンザルツブルク城(要塞)

 築城の歴史がミニチュアの模型によってよくわかるように展示されている部屋。1077年に、当時の大司教が身の安全を確保するために建てたという要塞で、現在の形は17世紀頃のものという。代々の城主(司教領主)が城(自分)を護るために、いかに増改築を重ね堅固な城にしていったか、その推移が一目でわかる。興味深かった。司教領主の権勢の凄さが伝わってくる。

 

(2)大聖堂の天井

 私は建築の知識がないので、どう説明していいかわからないのだが、この天井の梁の組み方にびっくりした。よく見かける典型的なゴチック様式では、柱(リブ)が天井で交差する形。こういう天井はあまり見かけなかった。なんというのだろうか、教えてくださる方がいらしたらありがたい。

 

 ザルツブルクからバスでベルヒテスガーデンに向かう。途中で激しい雨。旅行前に天気予報を見たが、この週はドイツ全国、雨か曇天。覚悟していたが、ここだけは晴れてほしかった。ベルヒテスガーデンのそばにあるケーニヒス湖の美しさはドイツ1だと知人がよく言っていたので、今回、わざわざ滞在地に選んだのだから、晴れてほしかった。

 

それでもベルヒテスガーデンの駅に着くころには雨もやみ、傘をささずにホテルまで歩いていけた。ホテルのバルコニーに立つと、前方に幾重にも山々が見える。うっすら霧がかかって、墨絵のようだ。

 ホテルに着いたのが夜の8時過ぎ。ホテルのレストランは最終オーダーが8時と言われて、外へ出る。市の中心地まで坂を登って行く。墓地のそばが近道らしい。こういうときは二人連れは安心。

 

 市の中心に着いたが、ほぼすべての店は8時で終わり。やっと1軒、ケバプの店が開いていた。店の人に、「今の時間になると、どこも閉まっているんですね」と言ったら、「そうなのよ。でも、うちだけは9時までやっているの」と自慢そうに答えた。トリの手羽先のフライ、焼きソーセージ、コーヒーを注文した。すると、「あら、ごめんなさい。コーヒーはもう終わり。コーヒー飲みたかったら、明日、また来て」と言われてしまった。

 暖かい袋を抱いて、墓地のそばを通り、ホテルに戻る。残念ながら星は見えない。明日の天気が心配だ。

 

*締め切りのある仕事が終わらず、それに集中しなければならなくなった。年内にアップの完成は無理かもしれない。それで、書きたかったことをメモにして挙げるにとどめた。なんだか、公開日未定の予告編みたいになってしまった。時間ができたら少しづつ埋めていくつもりである。

 

[2日目]

・ヒトラー山荘のあるケールシュタインへ。途中、ナチスの記録が展示してあるドキュメンタチィオーン(資料展示館)で下車。「14歳未満にはふさわしくない」という張り紙のあるビデオ室や巨大なブンカー(防空壕)。山荘(イーグルネスト)のある頂上で猛吹雪にあう。

 

・ケーニヒス湖の遊覧船に乗る。曇天に続く雨空から一瞬顔をだした太陽のもとでみた湖の色。

 

ウィーン(4泊)

 [1日目]

・ベルヒテスガーデンからウィーンに向かう途中、もう一度ザルツブルクで下車。仕掛け噴水のあるヘルブルン宮殿へ行く。

 

[2日目]

・美術史美術館で見たもの。

・王宮宝物館で見たもの。

・新王宮のエフェソス博物館でエフェソスのアルテミス像のレプリカを見たこと。

・ケルトナー通りにあるアメックス支店でアメックスのTCを取り替えたら、手数料を取られたこと。

・ドナウ川にかかる橋の上にあるドナウインゼル駅で降りて、夕日のドナウ川にしばしうっとりしたこと。

 

[3日目]

・日帰りでブダペストに行ったこと。

・ブダのマーチャーシュ教会に黒いマドンナ像があったこと。ザルツブルクで見たのと同じ天井の梁だったこと。

・ドイツ料理になってしまった感のあるグーラシュ(ハンガリー風シチュー)の元祖グヤーシュとフォアグラを食べたこと。

 

[4日目]

・メルク修道院へ行ったこと。

・シェーンブルン宮殿内にある動物園にミアキャットを見に行ったこと。

 

プラハ(3泊)

 [1日目]

・プラハがものすごい観光地になってしまったこと。

・壁面に黒いマドンナ像のある建物を見に行ったこと。

 

[2日目]

・友人アレックスの奥さんヴェロニカの実家マリーエンバートを訪問したこと。

・アレックスの家族に持っていったお土産のTシャツのこと。

・クーアハウスで吸呑みを買い、それで飲んだ温泉の味のこと。

・アレックスにカイザーヴァルト城へ連れていってもらったこと。

 

[3日目]

・ロレッタ教会で見た「マリアの家」の黒いマドンナと聖女アガタの絵。

・薬事博物館を探して、結局見られなかったこと。

・勝利の女神教会で見た着せ替えマリア像のこと。

・カフカ博物館はビデオだけということ。

 

ドレースデン(4泊)

 [1日目]

・ここで泊まったホテルの内装のこと。

・ノイシュタットの市場のこと。

・どこで夕食を食べたかということ。

 

[2日目]

・モーリッツブルクへ行ったこと。城の広間の壁を埋め尽く鹿の角飾りのこと。

・そのあとでマイセンへ行ったこと。アルブレヒツブルクの壁の模様のこと。

・ヒルトン近くのレストランで夕食を食べたとき、「水道水」1杯0.30ユーロ請求されたこと。

 

[3日目]

 ドレースデンから電車で東に50分弱、バオツェンという小さな町を訪れた。スラブ系の少数民族であるソルブ人が住む町である。ソルブ(ドイツ語読みではゾルブ)人のことをドイツ語ではヴェント人という。

 

 市内の表示はすべてドイツ語とソルブ語。幼稚園からギムナージウムまで、ソルブ語だけの学校もあるというが、現在、ソルブ語を話せる人たちは人口の約10パーセントだという。

 

 町は城のある高台とシュプレー河畔の低地に分かれている。高台には低地を挟んでどっしりとした橋が架かっている。雰囲気としては小さな小さなルクセンブルクのようである。

 

 高台の城内に「ソルブ博物館」がある。ソルブ人の生活史をビジュアルに展示してあって、大変印象深かった。少数民族の誇りをいかに残し伝えていくかがひしひしと伝わってくる。

 ソルブ人は大昔、ザクセン族によって征服されてしまった。そのザクセン族も9世紀にはカール大帝に征服されてしまう。

 征服する者よりも征服される者に、より共感を覚えるのは私が征服する者からほど遠い存在だからか。

 

 河畔に「魔女の家」と呼ばれる小屋のような小さな家がある。昔、ロマ人(ジプシー)の漁師小屋だったもの。この町が大火にあったとき、ロマ人の魔除けが役に立ったのか、この小屋は火災から免れたそうだ。

 だったらもっと縁起のいい名前をつけてもいいだろうに、「魔女の家」と呼ばれるようになった背景には、ロマ人たちが魔女狩りの時代にその標的にされたことがあったからだろう。

 

 私の好きな童話作家プロイスラーはこの地方の生まれである。彼の感動的な作品『クラバート』は、この地に伝わる「魔法使いクラバート」の伝説に基づいている。もう少し郊外まで行けば、クラバートの雰囲気がもっと見られたかもしれない。

 

 この町は洋カラシが名物だと聞いた。確かに瓶詰めカラシを並べたお店が目に付く。マルクト広場の出店では試食させてくれたので、甘口と辛口の2瓶を買った。ミュンヘンでは白ソーセージに合う味噌みたいな甘いカラシを買った。ザルツブルクでは塩、ブダベストではパプリカの粉。トランクの中は調味料でいっぱい。

 

・午前中見たアルテマイスターのことはまたあとで。

 

[4日目]

・再びモーリツブルクへ行き、ケーテ・コルヴィッツ博物館を見たこと。

・フェーダーヴァイサーを初めて飲んだこと。

・ホテルの近くの橋からドレースデンの夜景を眺めたこと。

 

[5日目]

・ドレースデンからフランクフルトへ。市内で「いかにもフランクフルト」の写真に再挑戦したこと。

・フランクフルトから夜の便で成田へ。機内で見た映画(往復で3本)のこと。

 「ダヴィンチ・コード」「ALWAYS三丁目の夕日」「トリスタンとイゾルデ」

 


春のドイツ <4月27日~5月9日>

 

 今年のドイツは春の訪れが1週間から10日遅かったようだ。4月末にドイツに行けば、麦の緑とまっ黄色な菜の花畑が見渡す限り広がり、その美しさに目を奪われる。トチノキには逆さ藤のような花が咲き誇り、春が来たと実感できる。今年の菜の花はまだ緑の葉のみ。トチノキも固く小さな蕾をつけているだけだった。

 

 ところが5月も4日を過ぎるあたりから、急に暑くなり、あっというまに菜の花が開き、トチノキの蕾は膨らみ、花が咲きだした。自然はなんて正直なんだろう。

 

 さて、2006年のザーゲの旅はこんなふうでした。

 

グループでヴァルプルギスの夜に参加する

 大成功だった。「ヤッタネ!」という気持ち。詳しいことはこちらをご覧ください。

 

リューネブルクにロッテを訪ねる

 ロッテの住む老人ホームを28日に訪ねる。リューネブルクの市庁舎前で息子さん夫婦と落ち合い、ホームへ。昨年の春に会ったとき、ロッテはもっと元気だった。私の着く時間が遅いと文句を言う気力があった。私たちが午前中に来るはずだと勝手に思い込んでいただけなのだが。

 今年のロッテは妙におとなしかった。老人ホームでの生活を受け入れてしまった顔だった。息子さんは「ママはいろいろなことを忘れていく。でもザーゲのことはまだ覚えている」と言っていた。

 英語では相手のことはyouだが、ドイツ語ではduとSieと二つある。親しい人同士ではduを使う。最近、ロッテはよく知っていたはずの人をSieと言っているそうだ。でも、私には「duと言ってたでしょう」と息子さんは言う。

 確かにそうだったが、昨年までは「ザーゲ、ザーゲ」と私の名前を呼んでくれたのに、今年は名前を呼んでもらえなかった。来年の春にはまた会いに来るから、元気でいてね。

 

アレックスに会って、お礼を言う

 ヴァルプルギスの夜が終わり、参加者の方たちの何人かと、翌5月1日にはゴスラー市内を見物し、5月2日にはブロッケン山に登る。3日にヴェアニゲローデから電車に乗り、ある人はフランクフルトへ、ある人はベルリンへと途中から別れる。ザーゲはふたたびゴスラーで降り、駅前のホテルに2泊する。

 

 5日の夜にアレックスがホテルに迎えに来てくれる。彼はゴスラー近郊に住む作家である。旅行直前にできあがった『魔女の薬草箱』を渡すことになっていた。裏表紙に彼が描いた魔女の絵を快く使わせてくれたのである。 

 庭でワインとバーベキューの夕食をいただく。その庭に、まるでシソの葉にそっくりな色をした葉の茂る木があった。聞けばハーゼル(ハシバミ)の木だという。もう少しすると緑になるのだという。私はこんな色のハシバミは初めてみたので、びっくりしてしまった。宣伝で申し訳ないが、ハシバミについては『魔女の薬草箱』の72頁に詳しく書いてある。不思議な力をもった植物である。

 

 アレックスの奥さんはチェコのマリアンスケ・ラーズニェ(マリーエンバート)出身である。昔、ザーゲはアラン・レネの「去年マリエンバートで」という映画を見て、とても感動し、以来、マリエンバートという地名は忘れられないものとなった。

 アレックスには2人のお子さんがいて、1年の半分はマリエンバートで過ごし、チェコ語の生活をしている。今年は9月から数ヶ月マリエンバートの学校に通うという。だったら、「今年の夏はマリーエンバート」に行ってみようかなというザーゲの言葉に「お待ちしてます」と言われてしまった。

 というわけで、今年の夏はマリエンバートに行くことに決定。映画の舞台はマリエンバートではないので、実際の役には立たないが、もう一度ビデオを見ておこう。若いときの感動がよみがえるだろうか。

  

大昔に行ったブラウンシュヴァイクにふたたび

 ブラウンシュヴァイクにはゴスラーから電車で約1時間で行ける。毎年ハルツに来ながら、どうしてかあれ以来行ってない。大昔、ザーゲは、ドイツの民間伝説の主人公ティル・オイレンシュピーゲルに興味を持っていて、彼の跡をたどる旅をしたことがある。ブラウンシュヴァイクにはティルの噴水がある。

 

 あのとき、ブラウンシュヴァイク獅子公ハインリヒの建てた大聖堂とダンクヴァルデローデ城のある広場で、一人の日本人に会った。彼は「ゴスラーという町の近くの村でお菓子作りの修行をしている」と言っていた。「ゴスラーはとても素晴らしい町です。ここからすぐのところですから、ぜひ行ってみてください」と熱心に勧めてくれた。そのときは行けなかったが、十数年たった今、毎年こうしてゴスラーに来るようになるとは、夢にも思わなかった。

 ほとんど記憶もおぼろになっていた。駅前からバスに乗って市内で降りて、一回りした。が、獅子像の立つ一角は昔そのままだったが、こんなに賑やかな町だったかなと違和感が先立つ。町はずれにあるティルの噴水にたどりついたとき、少し記憶がよみがえった。そばのベンチに座り、しばし、昔のザーゲを思い出す。

 

 帰りぎわにフェルメールの絵があるアントン・ウルリヒ公博物館を見て、ゴスラーに戻った。なんだかセンチメンタルジャーニィーしているみたいだ。ザーゲもこんなことをするとはもう先も長くはないなと考えて、なんか可笑しかった。

 

ベルリンでジョニーに会う

 ジョニーは旧東ベルリンの人である。彼のお父さんはザクセンハオゼン、叔父さんはプレッツエンゼーで処刑されたという。彼はお母さんと二人でフランスに逃げ、戦後東ベルリンに住む。もう70は越えているはずだが、新しい奥さんとの間に昨年娘さんが生まれた。

 その娘さんに初めて会うのが目的。また、彼の2番目の奥さんとの間にできた長男ローベルトにも会いたかった。ベルリンは3年ぶりである。

 1歳になったばかりのローザは可愛い盛り。私があやすとしきりに笑ってくれる。そんなローザを見て、目じりを下げっぱなしのジョニー。奥さんのアンチェも幸せそう。

 

ベルトルト・ブレヒトの墓参り

 昼食をご馳走になったあと、ベルリン・ミッテにあるドロテーエン墓地に連れていってもらう。墓地の入り口はシャオセー通りにある。ここには、私がある時期熱狂的に入れあげたベルトルト・ブレヒトの墓がある。この墓地の前、通りに面したところに3階建ての家があり、その1階がブレヒトの家だった。彼は1956年ここで亡くなった。ブレヒトの墓の横には、ブレヒト演劇の一番の理解者であった妻、ヘレーネ・ヴァイゲルも眠っている。

 

プレッツェンゼー強制収容所

 ブレヒトの墓参りを終えたあと、アンチェはローザを連れて、一足先に帰宅。私はジョニーに車でオリンピックスタジアムに連れていってもらう。

 途中、彼の叔父さんが殺されたプレッツェンゼー強制収容所に寄る。ジョニーがそこにどんな思いを抱いているか私には知るよしもないが、昼食のとき、「どこへ行きたい?」と尋ねられて、出来たらプレッツェンゼーに行ってみたいと言った。

 

 昔、ヴァイマルの近くにあるブーヘンヴァルト強制収容所を訪れたとき、私ごときがこのようなところに来ていいのかと深く考えさせられた。ドイツの強制収容所など2度と見ようなんて思ってはいけないと、大げさに言えば、ナチスの強制収容所は私の中で封印された。

 しかし、最近になって、封印するということは記憶を抹殺することであり、それはまずいのではないか、あの時代の記憶にできるだけ触れることが今は必要なのではないかと思うようになった。ベルリンならザクセンハオゼン強制収容所のほうがよく知られている。しかし、今回のスケジュールから見て、ザクセンハオゼンは無理だと思っていた。

 着いたときは、しかし、残念ながらすでに門は閉まっていた。鉄の格子から、ジョニーの叔父さんのことを思い、祈った。

 

オリンピック・スタジアム

 今年のワールドカップの決勝戦が行なわれるスタジアムである。だが、それとは別に一度は行ってみたいと思っていた。なんといっても、あの1936年のベルリンオリンピックが行なわれたところである。

 スタジアムに着いたときは、夕日がそろそろ沈みかけるときだった。入場料4ユーロを払って、スタジアム内を見ることができる。とても綺麗に整備されていた。勝ち進んでここにやってこられる国はどこだろうと思う。夕陽を浴びて静かに立っているこのゴールを揺るがすのは誰だろう、ゴールは何回揺れるのだろうと思う。

 

 入り口から入って観客席に下りる通路の端に1936年ベルリンオリンピックの勝者の名を刻んだレリーフが飾られている。Japanの字がたくさん見える。競技場を作った人たちの顔を刻んだレリーフもたくさん飾られている。

 競技場の入り口付近には大きな鐘が置かれている。オリンピックのときに使われた鐘である。確か、レニ・リーフェンシュタールの「民族の祭典」の冒頭はこの鐘が鳴るところだったように記憶している。鐘の表面には爪で五輪をしっかりはさむ鷲の紋章が刻印されている。

 このスタジアムはまさにあの当時のドイツの国威を示すために作られたところだということがよくわかる。そのような場所を残していること、そこでサッカーの決勝戦をすること、そのことに国内から非難が起きたと聞いていたが、翌日、ジョニーが新聞の切り抜きを私のいるホテルにファックスで送ってきた。

 それによると、サッカーの大会中、つまり6月9日から7月9日まで、この競技場のそばでスタジアムの歴史展が開かれるという記事だった。スタジアムの歴史といえば、つまりナチスの歴史でもある。それを1か月間開催するというのだ。自虐的なまでのこうした反省癖を見ると、ドイツってなんてしたたかなんだろうと舌を巻く。

 

ペルガモン博物館と絵画館

 ベルリンの美術館はこれまで大小とりまぜてそれなりに観てきたが、ガイドブックを見ると、だいぶ様変わりしたようだ。あらためていろいろ見たかったが、時間の問題があり、1日しか当てられなかった。それで、ペルガモン博物館と絵画館を選んだ。

 前者を選んだ理由は前に観たときよりも、少しはバビロニアについての知識が増えたので、もう一度観てみたかったから。日本語によるイヤホーンガイドも無料で貸してくれる。きちんとした日本語だったので、嬉しかった。

 後者はダーレム美術館とボーデ博物館の絵画コレクションを統合し、1998年にオープンしたもので、フィルハーモニーの裏手に新しく出来た文化フォーラム内にある。 ここはまだ見ていなかった。

 私の一番好きな時代(13世紀から18世紀)のヨーロッパ絵画が勢ぞろいしている。半日当てるつもりだったが、午前中にローベルトと会って、話が長引いてしまい、入館したのが3時ちょっとすぎ。残念ながら3時間しか時間がとれなかった。

 ガイドブックにはベルリンで一箇所だけお勧めするならペルガモンと書いてあったが、好みにもよるが、私は絵画館をお勧めしたい。

 

ベルリン市内で 

 アレクサンダー広場のテレビ塔にサッカーボールが!というニュースを日本で見て、いったいどんなことになっているのかと思った。左下の写真が答え。手前の建物は森鴎外の『舞姫』で有名なマリーエン教会。

 この教会には面白いものがある。ペストの大流行で死が日常化した時代、人々は死を意識せざるをえなくなった。しかも、死神は、貧富、階級、年齢の差なくやってきて、その人の手を取って死の舞踏に誘う。「死の舞踏」というテーマが絵画に現れる。その壁画が、教会に入ったすぐのところに、ガラスで囲われて見える。ほとんど消えかけて、一部だけが見える。以前は曜日指定で入場料を取った。今は修復のための基金を集めていたので、誰もが見えるようにしているらしい。

 

 旧東ベルリンの横断歩道にとりつけられた信号の「止まれ」と「進め」の人間の絵が可愛いと統一後人気がでた。アンペルマンという。このアンペルマングッズを売っている店がハッケシャアーホーフというところにある。5月に入って、急に暑くなり、冬物しか持参していなかったので、そこでTシャツを買った。

 右下の写真は私が泊まったホテルのそばの信号機。ここではアンペルマンはまだ健在だった。

 

宗教改革発祥の地ヴィッテンブルクへ

 ルターがカトリック教会を批判し、1517年に95か条のテーゼをヴィッテンベルク城の教会の扉に張り出したとき、宗教改革はドイツを経てヨーロッパへと始まっていく。

 この小さな町が、16世紀以降のヨーロッパの歴史を大きく変えた震源地であることを思うと、とても不思議な気持ちになる。

ルターの生まれたアイスレーベンや聖書の翻訳をしたヴァルトブルク城は何度か訪れたが、いつも観光客でいっぱいだった。ここヴィッテンベルクも、数年前に訪れたときは人であふれていたが、今日は日曜日ということもあるのか、とても閑散としていた。

 テーゼを貼った教会の当時の扉は木製だった。1760年に焼失してしまい、今のブロンズ製は1858年に再建されたものである。今回、再びここに来たのは、前に修理中だったこの扉を見たかったからである。教会の内部にはルターの墓がメラヒントンの墓と並んでいる。下の写真はマルクト広場に立つルターの銅像。

 

 マルクト広場に面して、この町の市長であり、ルターの友人でもあった画家クラナッハの家がある。受付の女性が出てきて、気の毒そうに、入場料4ユーロなんですと言った。なぜ気の毒そうな顔をしたかすぐにわかった。建物は当時のままだが、内部は荒れ果てていて、クラナッハの絵を飾る部屋もなく、彼の奥さんが経営していた当時の薬局の用品がいくつか展示してある小さなガラスケースがあるだけ。現在、クラナッハ財団が当時の姿に戻すべく、活動しているところらしい。4ユーロはカンパと思えばいい。

 

 ルターが説教したという聖マリーエン市教会で面白いものを見た。教会の南の外壁の上のほうに豚の石像が飾られている。ユダヤ人を豚にたとえて、彼らを教会から排斥するために作られたものだという。

 1305年のものらしいが、長いこと気がつかれず、1983年のルター生誕祭の改修工事で発見された。ナチスの時代のユダヤ人迫害の一つクリスタルナハト(水晶の夜1938年11月11日)を記念して、1988年の11月11日に、この像の下にあたる地面にこのことを記したレリーフがはめ込まれた。

 豚の像を撤去することなく、お詫びのレリーフを作るというところに、オリンピックスタジアムの展覧会と同様、ドイツの過去に対する詫び方が見えて、興味深かった。

 

 そういえば、ハルツの東にあるクヴェードリンブルクの教会の入り口扉にも豚の取っ手があった。最初はとても可愛いらしいので、写真に撮ってみたりしたが、知り合いのガイドさんから、あれはユーデンザオ(ユダヤの豚)と言って、ユダヤ人の蔑称だと聞いた。

 

 駅から町へ入るロータリーのような辻の一角にルターアイヒェというミズナラの木が立っている。何代目からしいが、ルターを記念して植樹したとか、ルターがこの木の下で破門状を焼き捨てたとか、いくつか説はあるが、その木の周りが小さな公園になっている。写真の向かって右側に立つ樹がルターアイヒェである。公園のそばの桜が満開である。

 

こんなもの食べた

 今度の旅行では、もちろんホワイトアスパラはしっかり食べてきたが、あまり心(胃)に残る食事(写真)はとれなかった。それでも、彩りにいくつか。

 

 遅かった今年の春もこの数日で足早にやってきた。菜の花畑も一挙に黄色くなった。明日はベルリンから電車でフランクフルトへ出て、その夜の便で日本へ帰る。ドイツを去る最後の日はやはりドイツの田園風景が一番だ。(5/29)