おりおり


2023年

◇ニュートンのリンゴ

リンゴについて調べていたら、ニュートンの「あの」リンゴの木が接ぎ木されて世界のいろいろなところに贈られていたということを知った。日本では1964年に英国から日本学士院長に贈られ、小石川植物園に移植したという。おりしもリンゴの実りの季節、あわよくばと出かけることにした。小石川植物園は1684年に麻布の薬園を綱吉の別邸だった小石川に移転。今は東大付属植物園として一般に開放されている。

私は二度目。個人的なことだが、4代目園長の中井猛之進東大教授の息子は昔私が好きだった作家の中井英夫(塔晶夫)の父上である。深夜草書の斎藤慎二さんの紹介で中井英夫の家に遊びに行ったことがあり、彼から親の話を聞いた覚えがある。なんと昔のことだったろう。

快晴の11月14日、大塚駅から都営バスが植物園前で止まるということがわかり、それ以上調べないで出かけた。これが間違い。この都営バス1時間に1本。なんということ!私の怠慢で結局往復とも流しのタクシーを使うことになった。

正門から坂を上っていくとすぐのところに柵に囲まれてニュートンのリンゴの木がある。私は知らなかったが、リンゴの木は自家不和合性(同じ樹木の花粉は受け入れない性質)のために単独では実がならないので、「由香里」を花粉親として受粉させ結実させているそうだ。詳しいことは理解できないが、なんとなく近親の結婚が禁止されているのと似ているように思った。植物はもちろん人間も自然の一部。せっかく訪れたのに、枝にはまだ緑の葉が枯れずについているが、残念ながら花も実もなかった。

埼玉大学出身の物理学者梶田隆之が2015年にノーベル賞物理学賞を受賞したその記念に小石川植物園から埼玉大学にこのリンゴの木が贈られたそうで、2023年(今年!)に初めて実を付けたという新聞記事を見た。青い実の写真も載っていた。もう落ちてしまったかな。行けたら行ってみたいなと思って、大学に問い合わせの電話をした。新聞記事通り青いリンゴが一個実ったが、残念ながらもう落ちてしまったという。キャンパスは自由ですから来年いらしてくださいと言われた。電話を切ってから、そのリンゴはどうしたのか聞くのを忘れてしまった。どうしても気になったので、もう一度電話して尋ねた。親切に答えてくださったのだが、なんといつの間にか無くなっていたというのだ。誰かが持って行ったか、カラスの仕業かもと。もったいないこと。

 

下の写真 キャプションがうまくアクセスできないので、ここに。

左 ニュートンのリンゴの木  右 花粉親の由香里


◇2023年の紅葉を追って

 小石川植物園にリンゴの木を見に行ったとき、この木のぞばにイロハモミジ並木というのがあって、紅葉すればさぞ見  事だろうと思った。今年の秋の異常気温で都内の紅葉は遅れている。多分12月にならないと無理かもしれない。12月に入ると私の都合で外出がままならないかもしれないので、できれば一本でもいいからきれいな紅葉を見てみたいと思った。有名な見どころはそれは美しいだろう。でも、混むだろう。人を見に行くのではなく、身近な町の公園でこれぞという楓を見てみたい。というような思いでいくつか樹木のある公園や神社を歩いてみた。そのいくつかです。

 

・清澄庭園で秋の半日を過ごす(11月20日)

 18世紀初めに久世大和守の下屋敷を明治11年岩崎弥太郎が買い取り、その庭園を回遊式林泉庭園として完成。

モミジにはまだ早いのは承知していたが、公園池の中の島に生えているハゼノキが11月中旬から真っ赤に染まると

公式サイトに書いてあったので、期待したが、やはりこの暖かさで、紅葉した木は1本もなし。赤い葉の木はなし。だが、桜の枝になにやら真っ赤なものが並んで生えている。あとで調べると、これは桜などに生えるサルノコシカケの一種らしい。初めて見た。

ベンチに座ってのんびり。夕方には帰宅。予想通りとはいえ、真っ赤なモミジが見たかった。 

・善福寺公園 (11月21日)

昨日に続いて近場の善福寺公園へ。善福寺川は桜の名所でなんども行ったことはあるが、公園は初めて。荻窪からバスで善福寺公園下車。池をゆっくり一回りして1時間。水面に木々が写り、思いのほかよかった。武蔵野台地には井の頭、石神井、善福寺と湧き水によってできた池がある。この善福寺公園と井の頭公園はよく似ていた。規模はこちらの方が大きい。 

思った通り、紅葉樹はなかった。しかし、公園行バスは青梅街道を走るのだが、その街路樹の銀杏が黄色くなっていて美しかった。 

カメラを持っていくのを忘れたので、善福寺公園の写真はなし。

 

・井草八幡宮(11月22日)

何としても赤いモミジを探そう。昨日善福寺公園に行く途中に井草八幡宮があったので、今日はここへ行ってみることにした。神社は立派だったが、思ったほど樹木が少なくて、やはりモミジの木は1本もなかった。代わりに富士塚があったので、よかった。鳩の森八幡神社の富士塚に行ったのは去年の10月だった。頂上まで登るのはけっこうきつかったが、ここの富士塚は盛土に近い。しかも柵で囲われていてそばに行くことができない。それでも思いもかけぬ富士塚が見られたのでよしとした。 

12月になったら、都内の小さな公園でも美しい紅葉が見られるだろうか。散歩がてら歩き回ろう。


◇消えゆく銭湯

昨年、吉祥寺にある銭湯「よろず湯」の前を通ったら、「しばらく休業」という貼紙があった。

今は銭湯も厳しいのかなと思っていたら、先日の貼紙は「3月をもって廃業します」だった。26日はお別れ会をしたようだ。貼紙によると店主の病気が快復できずに廃業を決意したという。大正時代からの営業だそうだ。

駅前のバス通りのビルが解体されて、そこから細い煙突が見えるようになった。煙突は銭湯の存在を主張し、都会とは違った味わいがあった。私はここの銭湯には入ったことがないが、いつか行ってみたいとは思っていた。浴室の絵は富士山だったそうだ。

 

知らず知らずに町は変わっていく。

◇初詣  1月2日 三鷹市野崎八幡神社

 毎年暮れになると来年の初詣はどこにしようかと言いながら、結局近場で済ませてしまう。

それなら同じ近場でもまだ行ったことのない近場にしようと思った。吉祥寺駅からバスで約20分、三鷹市の野崎八幡神社に決める。ところがこれが私の勘違いで、森鴎外や太宰治の墓がある禅林寺そばの神社(八幡大神社)が野崎八幡神社だと思い込んでいたのだ。

それはそれでもかまわない。というのも、野崎八幡神社は1689年に創建、野崎村の村鎮守となり、境内の薬師堂は愛知県の尼僧によりもたらされたと言われ、この薬師は特に目に効くと言われている。毎年108日の夜9時から「団子撒き」という行事が行われる。朝から団子を7200個作り、薬師様にお供えしてから、その団子を人々に撒く。土に触れた団子は「お目玉」と言って特に目に効くそうだ。コロナ禍になってからはビニールの袋に入れて渡しているという。

由緒ある立派な神社なんだ。全然知らなかった。10月に行ってみようかな。で夜九時からというのが気になる、こんな由緒ある神社だったら、どれほど参拝者がやってくるのかと、ちょっとは気分うきうきして出かけたとしても悪くないはず。

ところが、ところがである。なんと閑散とした境内。しばらくして参拝者がやっと一組。こんなことってあるだろうか。社務所はあるのだが、シャッターが下りている。お札や破魔矢、おみくじなどを売る窓口などどこにも見当たらない。

エッ、エッという感じだ。何で?お正月は神社にとって、「かきいれ時」ではないの?

 

ひたすらびっくりして、そのまま帰ったが、どうにも不思議で翌日また行ってみたが、前日と同じ。うちの近くに畳半畳ほどの敷地にお稲荷さんが祭られている。そうした小さな小さな神社がたくさんあることはわかる。しかし、ここは村鎮守だったのだ、もう少し格上だろうに。

と若いカップルがやってきた。地元の人かな。声かけたら、ここは初めてなんだって。「こんなに参拝者のいない神社っておかしくないですか」と尋ねてみた。ところが彼らはエッという顔をして私を見て、「この辺神社多いから」と言う。そうなのか、ここも半畳ほどの稲荷神社と同じなのか。「団子撒き」の時は大変な賑わいのようだから、新年の行事などそれほど大切ではないのかもしれない。

 

ある程度の神社だったら参詣者が列をなすものと思い込んでいた私が間違っていたのかもしれない。

昨日は新年七不思議の一つなんて思って帰ってきたけど、こんなもんかと合点するしかないのかな。

2023年の(やっぱり)不思議な初詣でした。

 


2022年

富士塚詣で

富士山までお詣りに行くことが一般にはむずかしかった江戸時代のこと、身近に霊峰富士を築いてお参りできる富士塚を考案した庶民の知恵は素晴らしい。富士塚が全国各地にあるのかどうかわらないが、東京だけでもたくさんあるとか、特に立派な富士塚は重要有形民俗文化財になっている。

 

久しぶりに晴れ間が見えた10月19日、鳩の森八幡神社境内にある富士塚へ行ってきた。ここは我が家から電車一本で行ける。千駄ヶ谷駅下車5分。 八幡神社 (渋谷区千駄ヶ谷) - Wikipedia

 

ネットには急坂で足場に気を付けるようにというコメントも見られたが、標高6メートルということだったので、馬鹿にしたわけではないが、軽く考えていた。ところが、どうして、岩でできた狭い急な坂で、両側に張ってあるロープにつかまらないと怖くて登れないし、降りられない。びっくりだった。

 

境内には将棋堂もあり、すぐ近くに将棋会館もある。中に入って将棋ショップを見る。そうか、ときには藤井聡太もここへやってくるのかと思う。

帰りは原宿駅まで歩き、明治神宮をお参りする。すでに薄暗くなり始めた。木々の、春とは違う緑の香りが心地よかった。

これからは別な富士塚をいくつか詣でてみようと思った。


太宰治と三鷹 Ⅰ

2020年の青森旅行の際、五所川原で太宰治の生家を訪れ、その後ほどなくして「富士には月見草が似合う」と書いた『富嶽百景』の御坂峠を訪れたりと、一昨年は久しぶりに太宰治(1909 -1948)に触れた年だった。かつて三鷹の禅林寺にある太宰治の墓も2度ほどお参りもしたが、太宰が特に大好きな作家というわけではない。ただ、なんとなく気になる作家ではある。

 

数年前から三鷹駅そばの跨線橋が古くなり、撤去話が持ち上がり、最近正式に決定したというニュースがあった。この跨線橋は三鷹に住んでいた太宰がよく散歩をしたところで、ここで撮った太宰の写真が雑誌などに掲載されている。ということで撤去は決まったが、少しでも残したいという太宰ファンの希望もあり、一部残すことになったそうだ。一部ってどの部分をどこに残すのか、その辺はまだ決まっていないらしい。

 

この跨線橋のことは知っていたが、行ったことがなかったので、先日(2022212日)行ってみた。

三鷹駅北口から線路に沿って歩いて7分ほどか、確かに古くさびだらけの跨線橋がある。急な石の階段を上り、狭い橋を渡ると、反対側は三鷹南口になる。新聞でニュースになったせいか、カメラを抱えた人々が大勢いる。

三鷹には太宰治が住んでいた家や入水自殺した玉川上水も流れている。春になって天気のよいとき、散策しよう。ということで、これを「太宰治と三鷹Ⅰ」としよう。

太宰といえば頬杖をついた写真や銀座のバーの高椅子に座り込んでいる写真でよく知られている。『新潮日本文学アルバム 太宰治』は見て面白い。

ここでは跨線橋に立つ太宰と先日写した古くなった跨線橋の写真を載せる。ついでにもう一枚面白い写真を載せる。『人間失格』の書影ではない。太宰治生誕110年の2019年に青森の製パン業者「工藤パン」が作った菓子パンの袋である。たまたまスーパーで見つけて買ってきた。『走れメロス』版もあるというが、入手できなかった。

2021年

ゲルデイの金婚式

私の仲良しゲルディの娘さんから今年の12月18日が両親の金婚式であるというメールをいただいた。ゲルディ一家とはドイツのハルツ山地にあるヴェアニゲローデで知り合った。ずいぶん長い付き合いである。

そのおめでたい席にすぐ駆け付けるということはできないので、お祝いのメッセージを送る。娘さんから当日の写真とビデオが送られてきた。

 

日本における金婚式はどんなお祝いをするのか知らないが、ドイツでは結婚式のとき新郎新婦が市庁舎の前で丸太を切って共に助け合うという儀式があることは知っていたし、何年か前に一度見たことはあったが、金婚式でも同じようなことをするのだとは知らなかった。

 

ゲルディはちょっと緊張しているのかな。夫のクラウスは日頃とは格段に違った男ぶり(失礼)でした。コロナ禍で2年ドイツへ行けないでいる。来年2022年はどうだろうか。 

二人がダンスをしたり、丸太を切るビデオや家族の集合写真など見ていただきたいものはたくさんあったが、残念ながら画像オーバーで載せられなかった。


最近訪れた美術展2つ

 

1.「没後70年 吉田博展  東京都美術館」20211.263.28 

 

中学時代だったか、美術の授業で版画を制作したことがあった。何を彫ったのかまったく覚えていないし、その後、版画とは縁などなかったが、彫刻刀が入った箱(6本だったか)はなぜか捨てがたく、長いこと手元に置いてあったが、先日断捨離した。

版画に特別な思い入れがあるわけではない。我が家にある版画といえば、昔、プレゼントにいただいた池田万寿夫の額入り版画が1枚あるだけである。

 

たまたまテレビで吉田博展の紹介番組を見て、版画の世界を見てみようかと思い立って、コロナ禍の時期ではあったが、都美術館へ行ってきた。

2021224日)。

吉田博(18761950 福岡県久留米市生まれ)は版画の世界の大御所。イギリスの亡きダイアナ妃も彼の版画を部屋に飾っていたという。吉田は日本山岳画協会を結成したほど山が好きで、山岳の版画を多く制作している。

瀬戸内海に浮かぶ帆船を描いた「帆船シリーズ」(1926年)は朝、霧、夕、夜の4種類ある。同じ版木で摺色を変えたものという。摺色によって雰囲気がまったく変わり、しばし見とれてしまう。

また、「日光陽明門」(1937年)は30回も摺ったものだという。40センチ×20センチほどの小さな版画だが、細かすぎて素人の私には摺数の多さの効果がよくわからなかった。

 

私が気に入ったのは、昭和の代表的な農家の土間で働く2人の女性を描いた「農家」(1946年)という作品だった。農家の雰囲気が目いっぱいに伝わってくる。

版画は、絵を描く、それを版木に彫る、最後に色をつけて摺る。この過程を各自分担するか、すべて一人でするかだ。また摺も同じ版木でするか。いくつか版木を彫るか。このような版画の制作過程が私にはどうしてもイメージできない。たとえば、北斎の版画は絵は北斎が描いただろうが、彫り師と摺り師がいたわけなのに、なぜ彼らの名前は残らず(版元はわかるが)、北斎だけの作品になるのか。

 

どうも私の無知をさらけ出しているようだ。版画について何もわかっていないなあということが分かったので、ちゃんと版画についての本でも読んで知ろうと思っている。

2.「あやしい絵展」 東京国立近代美術館 323日~516

 これは以前何かの美術展に行ったとき、入口に置いてあったパンフレットを見て、行くつもりだった。パンフのキャッチフレーズ、「絵に潜む真実、のぞく勇気はありますか?」に惹かれたのだ。しかし、残念ながら期待外れだった。

 パンフレットには「退廃的、妖艶、グロテスク、エロティックといった「単なる美しいもの」とは異なる表現」を「幕末から昭和初期に制作された絵画、版画、雑誌や書籍の挿図などから紹介」と書いてあるが、展示作品からはそのような世界は見えなかった。何点か絵として面白いものはあった。橘小夢、秦テルヲ、特に小村雪岱の作品は独立した展覧会で見たかった。「妖しい絵」とつなげるのは無理のように思えた。しかも、並行して、ロセッティ、ミュシャ、バーン=ジョーンズなどの作品が展示されているのも不可解だった。楽しみにしていただけにがっかり。(202148日)

 *再度の緊急事態宣言により425日から511日まで休館

 *取り上げたかった絵は撮影禁止だったので、文のみ。

 

 


2020年

カラスウリとドラクラ

 ここ一か月に2つほど念願の植物との対面ができた。

 

一つはカラスウリの実。私の周りにカラスウリの生えている場所を見ることはなかった。数か月前に知人がフェイスブックでカラスウリの実の写真を載せていたので、ぜひ分けてほしいと頼み、それが先日手に入った。

子どものころ、私はカラスウリの実を開いて、中の種子を取り出して遊んだ。種子は打ち出の小槌の形をしている。ちょっと変形していると大黒様にそっくり。

あの種子をもう一度実際に見てみたいと長年思ってきた。ついに再会できた打ち出の小槌。しみじみと眺めた。写真に納めようとしたが、小さくて、黒くて、私のカメラではうまく写らなくて残念だった。私の宝箱(がらくた入れ)に仕舞っておく。カラスウリの花は夜に咲き、朝にはしぼんでしまうそうだ。

何年か前、石垣島で同じように夜咲くサガリバナ(サガリバナ科)の群落地を夜に見に行った。そのときに感動した思いをカラスウリでも味わってみたいと思っているが、それが可能な場所はあるだろうか。

 

神代植物園の大温室にはサガリバナもあるとわかったが、夜の入園はないので無理。

もう一つはラン科の「ドラクラ」の花。数年前、調布の神代植物園の大温室にある「蘭室」で葉だけを見た。横に花の写真が添えてあった。まるで猿そっくりだった。植物の花にはずいぶん変わったものや面白い姿のものがあるが、これが見られたらなあと思い続けていた。植物園の人の話では開花時期はいつとも言えないので、ときどき電話で尋ねてくださいとのこと。

神代植物園は私の町からバスで20分ほどで行けるので、天気のいい時は散歩コースにしている。数か月前に行ったときはちょうど咲き終わって散ってしまったところだった。先日もまず無理だろうなと思いながらも蘭室に入ったところ、なんと花が咲いていた。確かに猿の顔に見えて、感動。写真でも少しは猿っぽいのがわかるだろうと思う。

植物によく接している人には笑われそうだが、ささやかな夢の出会いだった。まだ果たしていないものに四葉のクローバーがある。いつか思いがけないときに会えるかもしれないと期待だけは持っている。(2020.12.6


お花見

2019年

 

最近は近場の公園や並木道の桜を愛でて終わりということが多かったが、今年は何か所か桜の見どころを訪れる機会を持った。特に目黒川、善福寺川、王子飛鳥山などはそれぞれ堪能できた。

 45日は神代植物園に行ってきた。ここは都内で数少ないというアーモンドの木があってその花が見たかったからである。昨年秋に訪れたのだが、台風のために大きな被害を受けていたるところ立ち入り禁止でアーモンドの木にも近づけなかった。初めて見ることができた。これがアーモンドと知らなければ桜か桃かと思いそう。実が成る秋にも来ようと思う。

 

薄墨桜を見に岐阜県根尾谷へ行ったのは2017410日だった。満開だった。そのとき二代目の桜を全国に寄贈し、東京は武蔵野市に贈られたということを知り、調べたのだが、そのときはわからなかった。今年になって武蔵野中央公園にあるとわかった。少し早いかと思ったが、6日に行った。すでに満開すぎて葉桜になっている隙間に白い小さな花が見られた。来年は早めに見に行こう。


初詣

2019年

 松陰神社と豪徳寺

 年ごとに近場の同じ神社で済ませてしまう初詣だが、今年は新しいところへ行ってみようと思った。

 ・松陰神社

 安政の大獄で刑死した幕末の思想家吉田松陰の霊を祀っている神社である。松陰が安政の大獄で刑死したのはわずか30歳のときだった。明治維新にいたる激動の時代をどう判断するか私にはその知識も力もないのでこれ以上書けない。松陰の墓や松下村塾を復元した建物などあり。

 https://www.shoinjinja.org/history/

 

豪徳寺

 なにより招き猫の発祥の地だというので、松陰神社にお参りしたあと豪徳寺へ。曹洞宗の寺院。この寺に伝わる招き猫伝説は井伊直弼の息子の直孝が、激しい雷雨にあったとき、猫に招かれてここ門内に入り、難を逃れた。その礼としてここを井伊家の菩提所にしたということらしい。寺院の裏手にその菩提所がある。井伊直弼の墓もある。

 

三重塔もある。これは2006年に大仏師渡邊勢山が作ったもの。層の横木には十二支の彫り物が飾られているのだが、なんと猫も彫り込まれている。境内にいたボランティアさんの話では、大仏師の遊び心とか。右手に本物っぽい猫。うまく撮れていなくてすみません。

 境内には招猫観音を祀る「招猫殿」があり、その横手には願が叶ったお礼として、大小さまざまな招き猫が実にたくさん奉納されている。

 右手を挙げている猫は金銭を、左手は人を招くという。両手を挙げているのは両方ともという欲張りかあるいはお手上げという意味だそう。ここの猫はすべてよくあるような小判は持っていない。

 ところが招猫殿には招猫観音と書いた提燈が掲げてあるので、どんなものか見たかったが、格子戸で遮られていてよく見えない。わずかに招猫が2匹飾られているのが見えたが、左手と右手の猫だった。これはもう一度行って確認しなければと思った。右手奥に右手猫がかすかに見えるはず。

昨年京都に行ったとき、今年4月に会うドイツの友人へのお土産に両手を挙げている招き猫を買ってきた。というのはその友人の家に大きな招き猫が飾ってあって、右手だったのだが、それが人招きなのか金招きなのかその時はきちんと言うことができなかった。それで今度はちゃんと説明できると思い、だったら両方とも招く両手猫もいいかと思ったのだ。しかし、お手上げという解釈もあるらしいのでどうしよう。

 

松陰神社に行くのに初めて世田谷線に乗った。これがなんとも面白かった。路線の風景は井の頭線に似ていなくもないが、どちらかというと都電の雰囲気だろうか。また乗ってみたい。

世田谷線豪徳寺駅
世田谷線豪徳寺駅

2006年の初詣

 今年はどこへ初詣に行こうかと思っていたら、知人から面白い神社を教えていただいた。謂れを聞いて興味が出てきたので、今年の初詣はそこに決めた。浦和駅から徒歩で10分弱、旧中仙道に面したところにある調神社である。これで「つき神社」と読む。

 

 崇神天皇の勅命により作られた古い古い建物で、もともとは伊勢神宮に納める租(年貢)庸(労役)調(物納)の調の初穂を納めた倉庫だったという。あるガイドには「それで鳥居の横木がない」と書いてあったが、なぜ「それで」なのか私にはわからない。確かにここの鳥居には横木がない。2本の柱だけである。初穂が高かったということではないだろう。

 ともかく、この「調」は、漢和辞典によれば、「つき」や「みつぎ」と読む。この「つき」が「月」に転化し、月待ち信仰と結びついたようだ。そのため、旧本殿の壁に彫られた彫刻が「月にウサギ」という珍しいものなのである。

 

 手水場の水もウサギの口から出てくる。池も石造りのウサギの像がある。なにより面白いのは境内に入る鳥居の横にある狛犬が、ここでは狛ウサギである。旧本殿の彫刻は大昔のものだと思うが、手水場や狛ウサギはそれほど古いものではないのではないかと思うのだが、それはまだ調べていない。

 調べていないといえば、月待ち信仰についてもまだ調べていない。特定の月例の月の出を待ち、その月を拝む信仰で、十五夜さんの行事よりも古いという。二十三夜とか二十六夜が多いらしい。その理由はわかっていないそうだ。

 月については魔女の研究にも欠かせないので、いつかはと思っていたが、日本の月のほうが先に出てしまった。今年の宿題になりそうである。ツキを呼ぶということで浦和レッズがここで祈願するとか。ともかく戌年の初詣の報告としてウサギの写真をお見せします。 


2005年の初詣

(左)今年の初詣は深大寺へ。ときどき遊びにくるお寺だが、お正月は初めて。思いのほか参詣する人が多かったのにびっくり。帰りに特産のダルマを買った。

 (中央・右)正月7日、春を思わせる暖かい陽気につられて、三鷹の禅林寺へ散歩。ここには太宰治と森鴎外(林太郎)の墓がある。細い道を隔てて互いに向き合って立っている。ちょうど二人連れの女性がお酒と煎餅の袋を太宰の墓前に捧げているところだった。

 「太宰はお煎餅が好きだったのですか」と声をかけると、「さあ、ただ酒の肴にと思って」と笑いながら答えてくれた。

 明日からはまた寒い日が続くという。穏やかな1日だった。(2005.1.7.)

 


2003年初詣

 

 今年のお正月休みは茨城県にある大洗海岸のホテルで1泊しました。途中、鹿島神宮で初詣をしました。

 私はあるときからお御籤をしないことにしていました。というのは番号を引くやり方の場合、実に90パーセントの確立で42番なのです。縁起としてはあまりいいものではないので、やめていました。

 でも、今年はなんとなく復活させました。今回は箱の中から好きに選び取るというやりかたでした。

 

 と、なんと、なんと、でした。「思い立ち」は「よかろう筈がない」、「願い事」は「叶わない」、「旅立ち」は「よくない」でした。凶ですから「よかろう筈がない」というのはそのとおりなのでしょうが、「筈がない」という表現には思わず「大笑い(大洗)」してしましました。

 

 こうもはっきりと言い切られると可笑しくて、同時に「よし、ならばこの運命に挑戦してみようじゃないか」と私のやる気は高まりました。

 さて、今年の私の運命はどうなりますか。

 


本を読む

梶井基次郎「櫻の樹の下には」

 

 平成15年の桜も終わりに近づいてきました。全国には桜の名所がたくさんあります。

私は用事があって4月4日大阪へ行ったついでに、京都によって、円山公園のしだれ桜、清水寺の桜を見てきました。

 満開の桜を見ると、私はいつも梶井基次郎の詩を思い出すのですが、 昔、昔読んだので、どんな詩だったかなと、もう記憶も定かではなくなっていました。そこで久しぶりに読み返してみました。

 

 以下は、昭和3年『詩と詩論』に発表した「櫻の樹の下には」の冒頭部分です。詩ではありませんでした。

 

櫻の樹の下には屍躰が埋まってゐる!

これは信じていいことなんだよ。何故って、櫻の花があんなにも見事に咲 くなんて信じられないことぢゃないか。

俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。・・・

 

 

「ハリーポッター」

 

 魔女の部屋の住人、鈴さん、カスレさんが、あるとき、『ハリーポッター』について魔女の部屋に書き込みしてくださいました。カスレさんも鈴さんも、ひょっとしたら、このページにある『クラバート』紹介の冒頭部分を読まれてのことではないかと思いました。

 そこで、私は次のような書き込みをしました。

 

 「ハリーポッター」について、お互い受け止め方が違うようですが、違った感想をもつ人がいて当たりまえだと思います。

 私のまわりにも、鈴さん派とカスレさん派がいます。私はどうかというと、いまのところまだ1部しか読んでないので、全体を言うことはできません。ただ、1部だけに関してなら、鈴派かな。でも、話というのは全部読まないと最終的な判断はできませんから、読んでからにします。全部読めば、カスレ派ということになるかもしれません。

 児童書を専門にしていらっしゃるカスレさんの見方を無視することはできないと思いますが、なんといっても、最後まで読まないとね。

 

 このあとカスレさんからまたご意見がありました。それについて、私の返事はこうでした。

 

 カスレさんがいみじくも書かれていたように、ハリーポッターは駆け足で止まることができない「ジェットコースター」、「指輪物語」は「ズンズンした行進」というのは的を射た表現だと思います。

 駆け足で止まることがなく先を急ぐ、これがザーゲにはひっかかったのです。これ何?どうして?という事に対する答えがないまま、たとえば、ハリーの両親は本当はどういう人だったのだろう、ハリーは自分の素性がわかったとき、なにをどう考えたのだろう、両親が殺されたことをどう思うのだろうということが知りたいなと思うのですが、話はどんどん先に進んでいってしまいます。

 ハリーポッターの世界に入ったら、立ち止まることができずに、目の前に次々と現れてくる新しい世界へ突き進むしかないわけです。

 私にはそれが現代っ子をとりこにするロールプレイイングゲームのように思えてならないのです。それが悪いとはいいませんが、ちょっと恐ろしいなとも思います。

 

 それに対して、「指輪物語」は「ザクザク」ゆっくりゆっくり重い歩調で進むしかないのです。でも、いろいろなことを考えながら進むことができるのです。 この違いは私には大きかったですね。それで、ハリーのほうは第1巻でちょっとお休みという状態です。

 

 もちろんカスレさんの書かれているように、ケルトの伝説などとても興味深いものはあります。

さすが、イギリス人の著者、薬草やケルトの伝承をきちんと受け継いで、いいかげんなことは書いてないと思います。

 たとえば、「薬草ときのこ百科」でハリーが「花ハッカ」を探している場面があります。

 花ハッカはドルイド僧たちの間で魔力を持つハーブとして伝わってきたものですし、これは魔女よけのハーブでもあります。

 ドイツでは、この花を頭に飾ると、飛んでいる魔女が見えるとも言われています。ですから、花ハッカなんて言葉がでてくると、嬉しくなります。

 また、「忘れ薬」の作り方などという場面があると、どんなハーブを使ったものなのだろうとか、興味のひかれる場面はたくさんあります。

 

 多くの言い伝えがあるマンドレークについて、その後の巻に出てくるとも聞いていますので、それは楽しみなので、やはり全巻読んでみようとは思っています。が、最初に書いたように、目まぐるしく展開していくハリーの世界にやはりちょっとした違和感はあります。 

 この後、YUKAさん、Rosemaryさん、Twoさんから率直な感想をいただきました。

 

『ハリーポッター』続き

 

 ハンブルクにある魔女研究所発刊の『魔女の世界』という本を読んでいたら、『ハリーポッター』についての短い文が載っていました。

 『ハリーポッター』の内容を簡単に要約し、ドイツでも大変人気が高いことを紹介し、次いで、こんなことが書かれていました。

 

 「このものすごい熱狂のなかには、批判的な声も混ざっている。教会は、子どもが魔法にとりつかれるのではないかという恐れで、教会付属の図書館からこの本を一掃してしまった。

 実際、この世に魔法をかけてみたいという昔のあこがれがハリーポッターとともに大成功を収めたのだ。

 秘密に満ちたもの、超自然的なもの、魔法といったものが、合理的に構成された無味乾燥な日常生活と同じ比重で新しい場所を獲得した。・・・このような夢は許されていいだろう。」

 

 概ね、好意的に受け止めているようです。アメリカでこの本が「教会付属の図書館から一掃」されることになったというニュースを私はネットで知りました。もちろん、子どもたちが大反対して、ネットを通じて全国の有志たちと結束し、結局一掃されずに済んだということです。ドイツではどうだったか知りません。

 

 このように宗教的な側面から批判の声があがったりするのは、日本では考えられないことです。魔法に対する異常な警戒心は、はやりキリスト教国ならではのことだと思わされました。

 

 

オトフリート・プロイスラー『クラバート』

 

 世界中の人気を集めている『ハリー・ポッター』は確かに面白いけど、感動がないと言ったら、魔法大好きの皆さんから総すかんをくらいそうですね。ですから、こんなことを言うにはかなり勇気がいります。でも、それは私の本音なのです。もちろん、私の考えは独断と偏見に満ちていると思われてもいいのです。反論があって当然です。 

 と、こんなふうに言うからには、面白くて、感動する本を紹介しなければなりませんね。そこで、魔法使いの親方に戦いを挑む少年の物語『クラバート』をお勧めします。

 

 チェコに伝わる伝説をもとにした長編童話『クラバート』(1971年)の作者オトフリート・プロイスラーは私の好きな『小さな魔女』(1957年)の作者です。

 

 あなたが孤児で、2人の仲間と村から村へ物乞いしながら生きている14歳の少年だったとします。

 ある夜、夢の中でこんな声を聞きます。

 「シュヴァルツコルムの水車場に来い。おまえの損にはならぬだろう!」別の声も聞こえます。

 「親方の声に従え、従え!」

 

 あなたならどうしますか。

 14歳のクラバートはそれを受け入れて、ひとり水車場にでかけていきます。声の主は水車場の親方で魔法使いでした。

 

 『クラバート』はこんなふうに始まります。

 彼はそこでどんな経験をしたでしょう。声が言ったように、クラバートの選択は損にならなかったでしょうか。

 

 長編ですし、魔法使いの話ですから、いろいろな出来事が起こり、親方と水車場をめぐる謎がだんだん深まっていきます。

 さて、水車場に来て3年目(ここの世界では1年が通常の3年になっています。ですから、クラバートはもう立派な青年です)、クラバートは親方と生死を賭けた戦いをすることになります。

 

 打ち勝つ方法が一つあります。クラバートを助けてほしいと願う女の子が親方に直談判するというのです。簡単なようですが、問題があります。それは、クラバートを含む12人の職人が全員カラスになって女の子の前に姿を見せますが、女の子はそこからクラバートを正しく選び出さなければなりません。

 クラバートには愛する女の子がいて、彼女は彼のために水車場にやってきます。親方は、クラバートが、もしちょっとでも身動きして、知らせるようなことがあったら、女の子の命はないと宣言します。

 

 みな同じカラスです。しかもどんな合図も許されません。女の子は、12羽のカラスを1羽、1羽ゆっくり見て歩きます。二度、三度。そして彼女は間違いなくクラバートのカラスを指さします。

 

 女の子は、12羽の微動だにしない同じカラスの中から、どうしてクラバートを選ぶことができたのでしょう。その答えはこの童話の最後にでてきます。そして、その答えがこの童話の中心テーマでもあることがわかるのです。

 中村浩三訳 偕成社 1980年

 

 

アーサー・ミラー『るつぼ』

 

 ひさしぶりに『つるぼ』を読み返しました。私がまだ魔女についてこれほど関心をもっていなかった頃に読んで以来です。

 『るつぼ』は、アメリカのマサチューセッツ州セイラムで1692年に実際にあった魔女裁判を取り上げた戯曲です。

 

 その中で、副知事ダンフォースが魔女裁判について述べるくだりは、当時の魔女裁判がどんなものであったかを的確に言い表しています。ちょっと紹介します。

 

 「通常の犯罪では、どのように被告を弁護するか?証人を呼んで、無実を証明すればよい。ところが、魔法は、その名が示す如く、外見的にも、本質的にも、目に見えない犯罪である。そうだな?

 だとすれば、誰がそれについて証言できる?魔女と被害者だ。ほかにない。では魔女がみずからを告発することがありえようか?ない。それゆえ、頼るところは被害者だけだー現に被害者、子供たちは証言している。

 魔女に関しては、告白こそが証拠であることは何人も否定しえない。それゆえ、弁護士にあと何をせよというのか。」

  (『るつぼ』アーサー・ミラー全集Ⅱ 倉橋健訳 早川書房)

 

 魔女だと告発されたら、詭弁ともいえる論理で追い詰められていきます。作品の大部分を占める裁判の場面は息詰まるような迫力があります。

 

 アーサー・ミラーの作品をもとに作られたフランス映画『サレムの魔女』も強烈な印象を残します。イヴゥ・モンタンとシモーニュ・シニョーレが主演でした。シナリオはサルトルが書いています。

 この映画にかかわった役者や作家の名前は、若い人には馴染みがないかもしれませんね。もし、レンタルビデオ屋さんで見つけたら、ぜひ見てください。

 

 ☆ 現代創作童話

  最近読んで、楽しかった童話

・『小さな水の精』オットフリート・プロイスラー 畑沢裕子訳 徳間書店2003年

 『小さな魔女』で有名なドイツの作家プロイスラーの作品

 

・『まめのかぞえうた』西内ミナミ・さく 和歌山静子・絵  すずき出版 2004年

 作者は2002年で99刷りを数える名作『ぐるんぱのようちえん』(堀内誠一絵 福音館書店)のあの西内ミナミさんの最新作。奇想天外なまめの一生

 

・『まほうつかいのねこ』せな けいこ作・絵 すずき出版 1995年

 作者は『いやだいやだの絵本』、『おばけのてんぷら』(ザーゲの大好きな本)など多くの童話でお馴染みのせなけいこさん。なんともいえない魅力あふれる魔女と猫の話

 

・『わたしのねこちゃん』かんなりまさこ作 荒木良二絵 福音館 2003年

 わたしのねこちゃんとわたしの知って知らぬふりの関係が最後はどんなになっていくだろう。すっかり大好きになった童話

 

 ☆ 魔女の本

・『世界のお守り大全』ビジュアル版 デズモンド・モリス著 鏡リュウジ監訳 東洋書林 2001年

 石や植物のお守りについての写真と解説。説明はそれほど面白いとはいえないが、写真がきれいなので、見て楽しめる。

 


映画を観る

  11月と12月にドイツと縁のある映画を2本見た。1本はカフカ原作ロシア映画『変身』(2002年作/監督ワレーリイ・フォーキン)、もう1本はオランダ映画「アンナとロッテ」(2003年作/監督ベン・ソム・ボハールト)である。対照的な作品でそれぞれ見甲斐はあった。簡単な感想をお伝えしようと思う。

・「変身」

 カフカ没後80周年記念特別ロードショーだという。そうか、カフカが亡くなってから、まだ80年しかたっていないのかとちょっとびっくりした。

一時期カフカにのめりこみ、カフカの魅力にどっぷり浸かってしまった。卒論もカフカだった。若かった私にとって、カフカはすでに古典の人だとい 

う思いが強かった。6年前にはプラハにカフカ詣でもしてきた。

 

 映画のチラシには「永遠の不条理文学 遂に完全映画化」とある。カフカの作品を不条理文学と言ったのは、カミュやサルトルなどフランスの実存主義作家たちだったが、カフカの作品は社会主義に対するアンチテーゼだという見方もあり、いや、ユダヤ教の追及だったとも言われ、まさにさまざまな角度から言及されてきた。

 

 「変身」は、ある朝目が覚めると巨大な毒虫に変身してしまった外交販売員グレーゴル・ザムザの物語である。

 映画化の話を聞いた人の関心は、毒虫をどう見せるのかということにあったようだ。ドイツ文学者の池内紀は「(途方もない虫)を主演させて映画を作る方法が1つだけある。それはカフカを丁寧に読まないとわからない」と書いている。池内のこの言葉は、彼がザムザの変身をどう捉えたかということの解答になっている。

 ザムザの変身が何を意味するのか。これまで多くのカフカ研究家やファンがあれこれ解釈してきたが、その答えはさまざまだった。正解はない。作者カフカの意図する変身と読者が想像する変身の意味とは一致することはない。これこそ作品の独立化である。

 

 今回の映画では変身をどんな風に解釈しているかというと、チラシによれば原作に忠実だという。確かに、筋書きは忠実だったが、だからといって、カフカの意図に沿っていたかどうかはわからない。監督の変身解釈を伺うことができるだけである。

 これがカフカの面白さである。

 

 では問題の変身がどんな風に描かれているかは、種明かしをすることになるので、ここには書けない。漫画家の西島大介は、チラシに「変身のしかたがやっとわかりました。参考になりました。これで僕も明日から、困った時にはいつだって虫に変身できます」と書いている。

 

・「アンナとロッテ」

 ドイツ人の幼い双子が、両親の死によって、それぞれまったく違った環境の中で育つことになる。姉のアンナはドイツの貧しい農家に、妹のロッテはオランダ人の裕福な家庭に引き取られていく。

 ロッテが出した手紙は育ての親によって握りつぶされ、アンナには届かない。大人になって、そのことを偶然知ったロッテは、アンナのもとを訪れる。ロッテはなんの不自由もない音楽学校の学生で、すでにユダヤ人の男性と婚約している。一方、アンナは、暴力をふるう義理の親元を必死で脱し、いくつか奉公先を変えながら、今は金持ちの家の小間使いとして頼られ、それを誇りとして働いている。

 

 アンナとロッテは再会の喜びに浸る。しかし、帰る間際、アンナはロッテが婚約したことを聞き、喜び、彼の写真を差し出すロッテに、「ユダヤ人ではないわね」と言う。この一言がロッテの心に突き刺さり、彼女は堅い表情のまま、アンナに別れの言葉も言わずに去っていく。ドイツはヒットラーが政権を握り、ユダヤ人にたいする憎しみを煽っていた時代だった。

 

 第二次大戦が始まり、ロッテの婚約者は捕らえられ、アウシュビッツに送られ、殺されてしまう。ロッテはナチスの将校と結婚した姉のアンナを決して許そうとはしない。一方、アンナの結婚した相手も敗戦直前に連合軍の攻撃によって命を落とす。

 

 映画は、すでに老年に入った二人の出会いから始まり、回想を交えながら、また今へと戻ってくる。いかにも辛い生活を送ってきたことをうかがわせる姿のアンナが、優雅なマダム生活を送っているロッテのところにやってくる。姉を拒否し、山道へと入っていくロッテをアンナは追う。二人は道に迷い、森で一夜を過ごすことになる。そこで二人が話したことは?その結末は?これもこれから見る人のために書かない。

 

 原作はテッサ・デ・ローというオランダの女性作家の『双子の姉妹』だそうだ。私は原作を読んでいないので、どの程度忠実なのか離れているのかわからない。双子の姉妹が貧しい家と裕福な家に離れ離れになるという設定、しかも、互いの恋人が被害者か加害者かという設定は、見ようによっては少女小説と言われかねない。

 だが、私は涙を抑えることができなかった。ボロボロ涙を流して見た。それはまったく私の個人的感情による。老年になったアンナの姿に私の知人の姿が重なってしまったからである。その知人は今は80歳を超えて、老人ホームにいる。彼女の人生をここで語ることはできないが、戦争で夫を失い、3歳の子どもと一緒に東方からドイツへ避難してきた。彼女の苦労、ふるさとを失った悲しみとで、心の屈折は大きい。彼女の生活は常に過去の記憶と共存している。

 彼女もアンナと同じ強い心をもっている。苦しいことも積極的に切り抜ける力もあった。失った夫への愛は強い。しかも、視覚的に彼女とアンナは重なっている。若く美しかった彼女の老後の姿はまさにアンナの姿そのままだった。それは年をとったドイツ人女性のあまりに典型的な姿であるだけに、思えば思うほど、見れば見るほど涙が止まらなかった。まるで彼女を見ているような気持ちだった。

 彼女の悲しみをわかっているふうに接してきたが、一体なにをどんなふうにわかっていただのだろうかと思う。映画館を後にして、クリスマスカードを送ったばかりだが、やはり手紙も書こう。どう書いていいかわからないが、思ったことを伝えよう。

(2004.12.24.)

「バ○○の○園」

 

 久しぶりに大笑いした話。

 東映で「バ○○の○園」というタイトルの映画撮影が四国は板東で始まったという。第一次大戦で捕虜となったドイツ兵たちが収容されていた板東俘虜収容所が舞台で、その所長を松平健が演じるという。

 最初このタイトルを見たとき、私はバトルと読んだ。そう思った途端、もうバトルという言葉がしっかりインプットされてしまった。そして、東映だからというわけではないが、バトルならこれは学園ものかと、これもまたしっかりそう思い込んでしまった。

 ところがよくみればバルトだった。それにしても、では「バルトの学園」ってなんだろう、戦争だといっても日本の収容所の話だもの、まさかバルト海、バルチック艦隊なんてこともないしと、まったく訳がわからなかった。

  それで、ネットで調べたところ、この収容所の所長松江豊寿が見事なカイザー髭を生やしていたので、それで、ドイツ語の髭(バールト)からとったタイトルだということがわかった。写真で見る所長の髭は確かに凄かった。ドイツ語なら少しは知識もあるので、髭ときけばバールトとはわかる。でも、なんじゃ「髭の学園」とは? それに、バルトと聞いて、すぐに髭を思い浮かべる人ってどのくらいいるんだろう。

 

 それにしても「髭の学園」だよ。なんともいただけないネーミングだと思い、この映画のことを教えてくれた知人に、「あのタイトルは髭の学園だったよ」とメールした。 ところが、返ってきたメールは、「あのー、髭だってことはわかりましたが、学園ではなく楽園なんですけど」だと。

 なにー、「髭の楽園」だと。ひょっとして、あかひげ先生みたいにこの所長はバルトさんと呼ばれていたのだろうかと思ったが、どうもそうではないらしい。ドイツ人も髭を生やしている人が多かったので、いわばここは「髭の男たちの楽園」というつもりなのかと思ったところ、またもどんでん返し。この「楽園」は「らくえん」ではなく「がくえん」と読むそうだ。フーム。

 これって日本語の乱れ? だって、楽園は「らくえん」だもの。後で、パンフを見たら、「がくえん」とルビが振ってあった。だって、そうしなければ誰だって「らくえん」と読むでしょうが。私は久しぶりに大笑いし、かつ腹がたった。そして、なんてセンスのないネーミングかと呆れた。

 

 一昨年、坂東収容所を訪れたときの私の報告があります。この記念館の建物だけでも見てください。そして、封切りになったら映画を見てもいいですね。6月上映です。


 ・オズの魔法使い

 2003年暮れに映画「オズの魔法使い」(1939年作)を見ました。原作とずいぶん違っているので、びっくりし、この映画化についてどんな背景があったか調べてみようと思いました。ネットで検索したところ、熱心なオズファンによって作られたホームページが見つかりました。そこにとても興味深いことが紹介されていました。

 

 オズの本は1930年代から1960年代までの30年間というもの、アメリカの図書館には置かれていなかったというのです。アメリカ図書館協会の児童文学部門の会長Anne Carroll Mooreがオズをニューヨークのパブリック図書館から排除してしまいました。それによってブラックリストにも載るようになり、全国のほとんどの図書館から姿を消したのです。Mooreは、排除した理由について口を閉ざし、説明しなかったということです。

 更に、1950年代にはデトロイト図書館組合会長Ralph Uvelingが再びオズ批判を展開、彼はその理由を「精神的向上心がない」とか、文学的質の低さの問題として取り上げたが、それは特別オズだけには限らない一般的作品批判の域を越えるものではなかったそうです。

 

 原作はこのように批評家にはあまり注目されなかったのですが、映画『オズの魔法使い』が1956年にテレビで放映され、しかも繰り返し再放映されるようになると、人気が出て、評判が高くなりました。そうなると、もはやこの作品を無視し続けることはできなくなり、図書館にも置かれるようになったそうです。 

 

 『オズの魔法使い』はフランク・ボームによって1900年に発表され、その後1920年までにシリーズ14巻、ボーム亡き後は、他の作家によって書き継がれ、全40巻を数える児童文学の名作として評価されています。

 そのオズシリーズがなぜ図書館から排除されたのか、理由がわからないというので、とても興味をもちました。そして私なりに考えてみました。推論でしかありませんが、こういうこともあるのではないかと思いついたことがありました。

 

 それは、アメリカにおける「ハリーポッター事件」に関連しています。『ハリーポッター』は子どもたちばかりか大人にも熱狂的に受け入れられ、世界的な大ベストセラーになりました。

 そのとき、この本をアメリカの教会図書館から排除しようという動きがありました。なぜかと言うと、魔法使いや魔女を肯定した本は認められないというのです。魔法学校へ通えば、魔法使いや魔女になれると子どもたちに容易に信じ込ませるのはまちがっているというのである。キリスト教にとって魔法や魔法使い、魔女というのは異端であって、とうてい認められる存在ではなかったからです。

 それで、どうなったかというと、この動きに子どもたちが大反発し、ネットを使って、アメリカ中のこどもが手をつなぎ、反対の声をあげたのです。教会はこどもたちに屈する形で認めざるを得なかったということです。

 

 これでおわかりのように、『オズの魔法使い』も魔法と魔女の世界が描かれています。悪い魔女もいますが、よい魔女もいます。そして、よい魔女の援助でドロシーはカンザスへ戻ることができます。オズの国は魔法に彩られた別の世界、つまりキリスト教の理念とはほど遠いところにある世界です。

 

 もし私の考えた排除の理由が一理あるとしたら、それはMooreが熱烈なピューリタンであったという前提が必要です。そして、アメリカ図書館協会の児童文学部門というのが教会とどんな関係にあったか、つまり当時のアメリカの図書館組織がどんなものであるかということを調べないといけないでしょう。

 私はアメリカ社会についてほとんど知識がないので、それを調べるのはかなり困難です。どなたかこういう問題を突き止めてみたいという方がいらしたら、ぜひお願いします。

 

 では、映画はどうだったかというと、おおむね好意的に受け入れられたようですが、いまほどの人気は、テレビ放映があるまで待たねばなりませんでした。 図書館から排除されたオズですが、テレビ放映によって、オズのよさがわかって図書館も折れるしかなかったのでしょう。

 

 しかし、オズの人気が映画によって生まれたというところが私にはひっかりました。たいてい原作と映画はだいぶ違うものです。原作が映画化されると、よく原作のほうがよかったとか、映画はまた別な面白さがあったなどという意見がでるものです。オズの場合も、もちろん細かい違いはありますが、導入部とラストシーンが決定的に違います。これが私にはとてもひっかかります。

 

 原作のドロシーは不意に襲われた竜巻によって、カンザスからオズの国へ行くことになります。ですから、彼女はなんとかしてカンザスへ戻りたい、戻る方法を知るためオズの国をさまよいます。そこで、彼女は、さまざまな冒険を経、知恵や勇気、愛というものがなんであるかを体験します。そして、めで たくカンザスへ戻ることができます。

 

 映画のドロシーは、まわりの大人が彼女を理解してくれないが悲しく、なんとかしてそんな世界から抜け出したいと夢みている少女です。それが「オーバー・ザ・レインボウ 虹のかなたへ」の有名な歌です。

 そこで、ドロシーは家出をします。しかし、思い直して、家へ戻る直前に竜巻にあい、オズの国に連れ去られます。言えば、ドロシーは望みだった虹のかなたへやってくることができたのです。

 

 にもかかわらず、彼女は、小家出(擬似家出)から家に戻ろうとしたように、ここでももとの世界に戻ることを願います。せっかく虹のかなたにたどり着いたのに、そして、そこでなんらかの挫折を経験したわけではないのに、どうしてそんなにもとの世界に戻りたがるのでしょうか。

 

 これはとても矛盾しているように思われますが、ラストシーンを見ると、なるほどと思います。原作ではなつかしいカンザスに戻り、叔母さんに会うところで終わりますが、映画では、オズの世界の出来事はドロシーの夢として描かれています。そして、しっこく「家ほどいいものはない」とドロシーに歌わせます。

 

 話は飛びますが、産業革命を経験した国では、女性にも職場が開放され、学問への門戸も開かれ、女性の社会進出は進み、1920年にはアメリカで女性の参政権が実現します。ちなみに日本で女性が参政権をもったのは第二次大戦後1945年のことです。

 しかし、一方、ピューリタン精神の強いアメリカでは、家を守ることこそ女性のなによりの役目という風潮は根強く残っていました。そういう社会の中で、家庭にしばられて思うように生きられない女性たちの不満は大きくなっていきましたが、どうしていいかわからない状況があったのです。

 

 映画のラストシーンは、こうした女性たちに安心を与えたといえます。「そうだわ、家ほどいいものはないのよね」という安心のメッセージを受け取ったのではないでしょうか。

 しかし、この安心はひょっとしたらまやかしだったかもしれません。というのは、それから10年もしない1963年、ベティ・フリーダンという女性が「新しい女性」(邦訳タイトル)という本をだし、これを契機にアメリカでウーマンリブ運動が始まります。彼女は、白人中産階級の女たち、とくに主婦の中にひそむ不安の実態を抉り出し、押し付けられた女らしさに埋没することを告発していきます。

 この運動はまたたくまにヨーロッパへもひろがっていきます。当時の女性たちの不満がいかに大きかったかということでしょう。

 

 オズの映画が大評判を取った時代というのは、家庭から抜け出して飛ぼうとする女性たちがまだなんらかの解答を見いだせず、でも、これでいいのいかと不安を感じていた時代だったといえます。

 

 虹のかなたを夢想するのはいいけど、実際にそこへ入り込んでしまったら、そこから戻ることを考えるのがよし、それが当時の女性へオズの映画が与えたメッセージでした。

 具体的な道の見えなかった女性たちに、魔法の世界のちょっとした冒険を与えたのです。しかし、やがて、「でも、あれは夢だったのね。やはり家ほどいいものはないのだわ」というラストシーンが用意されていたのです。

 

 私は、なんのメッセージもない原作のほうが好きです。竜巻という偶然のいたずらで入り込んだオズの国ですが、結局はオズの魔法使いは偽者、怖いと思った魔女もあっけなく滅びてしまう、でも、ドロシーはそこでどれだけ多くのことを学んだことでしょう。

 読んでいるうちに、「エッ、ドロシーはカンザスへ戻ってしまうの。ここでもっと冒険してよ」と夢中になってオズの国のドロシーを応援したくなります。 「でも、カンザスに戻ったドロシーはオズの国で得たすばらしい経験を生かして、きっと素敵な生き方を見つけていくのだわ。だから戻るのも仕方ないか」と納得します。原作のドロシーは決して家ほどいいものはないなんて結論はださないでしょう。

 

 でも、「なんですって、映画ではオズの国の出来事はみんな夢ですって。まあ、夢でもいいとしよう、でも、そこで得たもの、あのカカシやブリキの木こりやライオンの悩みがどうやって解決したかなんてことはもうすっかり忘れて、家ほどいいものはないですって!そんな結末ってありか!」というほど私はがっかりしたのです。

 

 「あなたはすぐにこんなふうに裏読みばかりして、もっと素直におなり」という反対意見が出てくることはわかっています。

 でも、なにせ、オズが図書館から排除されていたということにびっくりし、オズのことは何一つ知らず、なんの資料も読まず、いきなり書き始めたのですから、まったくの独断と偏見です。あるいは、こうした考えはすでに言われていることかもしれません。

 興味だけが大きくなって、いまのうちに思ったことを書いておこうと思っただけですから、事実誤認の指摘、どんな意見も批判も、誤字脱字にいたるまで、素直に受け入れます。 

 

 今回はオズファンmarinaさんの素敵なホームページにお世話になりました。オズについての資料はほとんどこのサイトを利用させていただきました。marinaさん、ありがとうございました。しばらくして彼女のサイトにアクセスしましたが、見つかりませんでした。新しいサイトに移ったのかもしれません。

 

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・ドイツ映画「グッバイ、レーニン!」

 2003年 監督ヴォルフガング・ベッカー (ドイツ・アカデミー賞9部門受賞)

 日本上演が2月に決まってから、心待ちしていました。連日、満員という報を聞いて、いつ行こうかなと考えていましたが、先週、午前の部に間に合いそうな時間がとれたので、恵比寿ガーデンプレイスに向かいました。東西ベルリンの壁が崩壊する前後、旧東ベルリンに住むある家族の物語。壁崩壊がテーマではないが、この歴史的事件が核にあってこそ成り立ちえる映画である。

 

 父は西の女と一緒に西へ亡命し、二人の子どもを抱えて、社会主義国の発展に尽くす母親がいる。しかし、時代はこの体制の存続を許さない。社会主義体制に不満をもつ息子アレックス。やがて壁崩壊につながる連日のデモ。そこに参加する息子。それを見た母親はショックで心臓発作を起こし、意識不明の重体。

 

 8ヶ月後、母親は意識を取り戻す。重なるショックは致命的と医者に告げられたアレックスは母に壁崩壊の事実を知らせないようにしようと決意。刻々西側化するベルリンの現実を母親から遮断するべく、家に引き取り、そこで東ベルリンはそのまま存在しているという虚構の世界を作り上げる。

  西の品物に囲まれ、西のボーイフレンドと同居する姉の困惑もなんのその、捨ててしまった旧東の品物を見つけ出し、友人の助けを借りて、ビデオで虚構のテレビニュースを作り上げる。こうして必死にとりつくろうアレックスの奮闘。これが決してドタバタにならず、ひどい作り話にもなっていないところがいい。

 しかし、こんな状態をずっと続けるのは無理な話。アレックスは母親に本当のことを告げようと決意する。そのとき、母親から意外な真実を聞かされる。 これから見ようと思っている人の楽しみを奪うことのないよう、これ以上筋を紹介するのはよそう。

 

 私がベルリンに初めて行ったのは1976年、壁は厳として存在していた。西ベルリンから東に入るときの緊張をいまだに忘れていない。その後、ふたたび東ベルリンに入ったとき、偶然から素敵な息子二人のいるドイツ人家族と知り合いになった。ドイツを訪れるたび、東ベルリンにある彼らの家に泊めてもらった。壁が崩壊してからも訪れた。

 その知人の両親はナチス時代にフランスに彼を連れて亡命し、戦後、東を選んだ。彼はいま、かつての反ナチ活動、レジスタンスの歴史を残すことに力をそそぎ、一方で、東西ベルリンの格差解消のために闘っている。

 

 昨年、彼のところを訪れたとき、新聞のコピーをいただいた。イラク戦争反対デモの写真が載っていた。デモの先頭には、すでに75歳を越えてなお矍鑠とした彼がいた。彼の長男はちょうどアレックスと同じ歳、長髪でギター片手の彼は、そんな父親に愛情をいっぱいだきながら、私には両手をひろげて、肩をすぼませてみせる。

 

そんなわけで、『グッバイ、レーニン』の世界は私にとって客観的にみることができなかった。再現された旧ベルリンの光景に、思わず目頭が熱くなる。決して深刻な歴史ものではない。親子の愛情、家族のつながりがテーマといっていい。そして、壁が崩壊してから15年が過ぎようとしている。旧東も旧西も、この統一をかなり冷静に見られるようになっている。

 

 そんな時代の流れがあって、この映画から多くの人はオストラジーを感じているという。いうまでもなく、オストは東、ノストラジー(郷愁)の言い換えである。東への郷愁、言いえて妙だと思った。

 だが、この郷愁とは旧東ドイツそのものに対してではなく、理想の社会を作りあげるために闘ってきた人々が旧東ドイツにはいたということ、その理念への郷愁ではなかったろうか。

 その実現はあの体制では実現不可能であったし、その旧体制と引き換えに選んだ西の社会もまた多くの問題を抱えている。

 

 先日、私は彼に『グッバイ、レーニン』を見てきたことをメールで伝えた。どんな答えが彼からもらえるか、楽しみである。と同時に、私はドイツのことなど本当にはわからないだろう。なにかを見たと思うことはおこがましいのではないかとも思っている。(3.13.2004)

 

 数日後、彼から返事があった。「なんか気おくれがして、まだ見ていない」ということだった。あまりに深くかかわると、振り返るのが辛いのだろうなと思った。(25.3.2004)

 


別れ

 ・2003年(平成15年)12月5日、母が永眠いたしました。

母の自家版歌集『狭庭』より私が好きなものを二つここに捧げ、母を偲びます。

 

誰もいず落葉まいちる公園に

たたずむわたしは絵のなかにいる

 

鷺草はま白き姿われにみせ

いずこの空に旅立ちゆくか

 

・2017年(平成29年)5月26日  唯一の弟が亡くなりました。

 弟は、良き夫、二人の子どもの良き父親として一生懸命生きてきました。安らかに。