ザーゲの旅 2005年


ドイツ+アルザス地方+アイスランド <8月19日~9月9日>

 

 今年も魔女街道ツアーが成立し、8月19日から25日までそれはそれは楽しい旅でした。今年はHPを持っている参加者の方がいらしゃらないので、旅行記の肩代わりをお願いすることができません。でも、送っていただいた写真をつなげて行程を紹介することにしようと思っています。しばらくお待ちください。

 

 参加者の皆さんとフランクフルト空港でお別れして、私はドイツに残り、一人旅を続けました。以下はそのときの旅行記です。

  

ストラスブール(フランス・アルザス地方)(8月26日~29日)

 

ライン橋

 ストラスブール駅からケール(ドイツ)方面のバスに乗って20分ほどすると、「ライン橋」に着く。ライン川にかかるこの橋を渡ると、そこはドイツである。目にする文字はすべてドイツ語である。

 ライン川はドイツの川か、それともフランスのものか。独仏両国はこのライン川をめぐって長いこと争ってきた。特にナポレオンに制覇されたライン川をめぐるドイツとフランスのナショナリズム運動にザーゲはとても興味を持っているので、フランス側からラインを眺めてみたいと思っていた。

 

 ストラスブールにはドイツから電車で入ったが、「次は終点シュトラスブルク」というアナウンスが面白かった。ドイツの鉄道だからドイツ語で言うのは当然なのかもしれないが、ひょっとしてそれはドイツの意地?などと考えるといっそう面白い。

 ストラスブールの町はずれに共和国広場があり、ここには二人の戦死した息子を抱いて嘆く母親の像がある。一人はドイツのために、もう一人はフランスのために命を落とした悲劇の母親像である。

 

ストラスブール大聖堂

 この町出身の彫刻家ハンス・アルプ(1887-1966)はヨーロッパの多くの建造物を見てきたが、「奇蹟のようなステンドグラスに飾られたストラスブールの大聖堂の内部ほど美しいものはない」と言ったそうだ。私もここのステンドグラスにすっかり魅了され、アルプの言葉がじゅうぶん納得できた。

 満足した気分で大聖堂の正面を出たら、偶然にも昔の同僚にばったり出会った。20年ぶりである。彼は奥さんと二人連れだったが、ずっとフランスのゴチック建築を見てきて、昨日ここに着いたという。フランスにはここよりももっと凄いステンドグラスはいっぱいあるよとあれこれ大聖堂の名前を挙げてくれた。

 

 私もこれまでフランスの大聖堂はいくつか見ているものの、ほとんど忘れている。「そうか、そういえば、私はこのところ主にドイツしか見ていないな」と思った。そこで、ちょっとへそ曲がりのザーゲは、ゴチック建築の優劣よりも、そもそもゴチック様式というのがどうなのかという論議(?)に話をすりかえる。

 ザーゲはこのところ初期ロマネスク様式にはまっているところがある。「狭い見方はしたくないが、ゴチックにはいかにも権威にみちた人間臭さが見えてしまう。それに引き換え、ロマネスクは・・・」

 これには友人も黙っていない。広場で夕食をともにし、昔と変わらず、青臭い激論(?)を闘わせた。

 

 この夜、大聖堂ではライトアップ・ショーがあった。音楽に合わせて、光の波が大聖堂のあちこちを駆け巡り、幻想的なひとときだった。11時まで見て、ホテルに戻る。友人夫妻のホテルと路地一つの近さだった。

 

コルマール

 翌日は念願のコルマールへ日帰りで行く。ウンターリンデン美術館にあるドイツ人画家グリューネヴァルト(16世紀)が描いた祭壇を見るのが目的である。コルマール近くのイーゼンハイムの教会のために描かれた祭壇だと言われている。

 祭壇の表にはキリストの磔刑の場面が描かれていて、キリストの苦悶の表情がなんとも壮絶でリアルだったのを画集で見て、いつか見てみたかった。祭壇の裏には蘇ったキリストが描かれている。

 この二つの顔の違いが実に対照的で、不謹慎ながら思わず笑ってしまった。写真で見ていただきたい。あまりに面白くて、何度も何度も表と裏を見比べて楽しんだ。

 

 次いで、16世紀の画家マルタン・ションガウアーが描いた有名な「ばら垣の聖母」があるというドミニカン教会に行く。中に入ったら、黒い聖母子像が飾ってあった。Marsatのレプリカだそうだ。どうしてここにそれがあるのか、受け付けで尋ねたが、はっきりした答えはなかった。 

 

 コルマールからワイン街道の半日ツアーがあるということを聞いていたのだが、そんなこんなで、間にあわなくなった。

復活後のキリストの顔はこちら↓。

 

 ストラスブールもコルマールもその町並みはほぼドイツに似ている。看板もドイツ語が多い。ドイツ語も通じる。それでも私はここはいかにもフランスだなと思った。それはなんだろう。あえていえば町の雰囲気が粋なのかもしれない。

 

アイスランド(8月30日~9月5日)

 アイスランドに行こうと思った直接的な動機は東海大学出版会から出版された『アスガルドの秘密』(ヴァルター・ハンゼン著小林・金井訳)を読んだことにある。この本のサブタイトルは「北欧神話冒険紀行」である。

 

 氷河と火山の国アイスランドを歩くには、特に内陸に入るには、命を落としかねない危険が待っているという。それは決して誇張ではないらしい。氷河が溶けて川となる、その川の流れは毎年変るので、地図に載せられない。しかも、内陸に入るにはその川を渡らなければならない。陸地はひたすら火山岩に覆われている。四輪駆動でないと絶対に不可能であるらしい。

 

 著者は、命の危険にさらされながら、神々の城アスガルドや宇宙樹ユグドラジルの根元にある「フヴェルゲルミルの泉」、「巫女の墓」など、北欧神話の舞台を探して歩く。読んでいて、まさに「血湧き肉躍る」だった。

 

 もちろん私に著者の歩いた道を追体験することは無理である。それでもとりあえずアイスランドという国に足を踏み入れてみたいという気持ちが膨らんで消えなかった。そこで、アイスランドのガイドブックを探した。日本人が書いた案内本はわずかしかなかった。特に私がほしいと思う北欧神話についての情報が得られるガイドブックは皆無に等しかった。しかし、絶無ではない。

 

お勧めガイド2つ

・ヴァイキングをテーマにしたまんが家あずみ椋さんの『北欧 fifth』。

 彼女には以前私が企画した「魔女展」でお世話になっている。アイスランドに行くと決めてから、彼女に時間を割いてもらい、アイスランドの講義(?)を受ける。これがとても役に立った。

 

・山室静『アイスランド』(紀伊国屋書店)

 これは実用ガイドではない。アイスランドの歴史と文学について大変わかりやすく書かれた本である。

 

 長い前置きになったが、ついでにアイスランドへ行くときの実際的な手続きについて私の経験を簡単にお伝えする。

 

 日本からアイスランドへの直行便はない。アイスランド航空が飛ぶどこかヨーロッパ各都市(アメリカからもあり)から入る。日本から出発すると、コペンハーゲン乗り換えで同日アイスランドに着くそうだ。私はストラスブールからいったんドイツに戻り、フランクフルトから乗ることにした。

 

 航空券はアイスランド航空でしか買えない。格安航空券はない。日本支社で予約して買った。航空券についてはドイツのほうが安いのではないかと思って、調べたが、びっくり、なぜか高かった。

 

 アイスランドはアイスランド語、デンマーク語、英語が通じる。だからそのどれかに堪能なら、ネットで探せば、ホテルやツアーの予約も割安になるかもしれない。私は余計な苦労はしたくないと思い、ホテルの予約も、ツアーの予約も日本支社を通してやってもらった。事前に払込みするので、予算も立てやすい。

 

 ホテルを決める条件は、私の場合、いつも駅のそばだった。つまり駅なら誰に聞いても教えてもらえる。私は自他ともに認める方向音痴である。初めての土地に行くときは、絶えず迷子になるのではないかという不安がある。ホテルに帰りつけなかったらどうしようという不安は大きい。考えた末、あずみ椋さんがよく利用したというホテルにした。それは正解だった。その理由はあとで。

 

 無事アイスランドに着いて、さて何処へ行くかを決めるとき、個人で動くことはそうそうできない。アイスランドに鉄道はない。移動手段は、島の周囲に作られた自動車道と飛行機だけである。四輪駆動が操れて、地理に明るくなければ、現地ツアーに申しこんで、それを利用するしかない。

 

 現地ツアーの種類は多いので、かなり迷った。アイスランドへ行ったことのある人や情報を知っている人は、ぜひブルーラグーンに行ったほうがいいと勧めてくれる。これは火山国ならではの広大な野外温泉である。私もちょっと迷ったが、優先順位でいうと、日程からして、このコースははずさざるえない。

 

 こうして私のスケジュールとコースが決まった。首都レイキャヴィークに6泊、そこから日帰りの現地ツアーに4回参加、1日は首都見物。再びドイツに戻る。

 

 ツアーバスは町はずれのバスターミナルから出発するので、そこで申し込みしてもいい。しかし、人気のあるコースは曜日によって満席になる可能性もあるので、日本あるいは町のインフォメーションで事前に予約しておいたほうが安心である。特に飛行機を使うツアーはできるだけ早めの予約が必要だろう。

 予約しておくと、当日、ホテルまで迎えのバスが来てくれて、バスターミナルまで連れていってくれる。そこでそれぞれのバスに乗り換える。ガイドは英語のみ。

 

1.スナイフェルネース半島と氷河探訪

 ストラースブールにもう少しいたかったが、このツアーが8月末で終了になるので、アイスランドに入るのを8月30日にして、ギリギリ最終日の31日に参加した。

 ツアーコースはスナイフェルネース半島とスナイフェルスヨークトル氷河周辺、そしてアイスランド屈指の漁場ブレザフィヨルズル湾を遊覧船でめぐる13時間の1日観光である。

 

 アイスランドの大地には高木はない。この時期見られるのは大小無数の火山岩にへばりつくようにして生えるコケ類と、荒地に特有のヒース、名も知らぬ雑草くらいである。見渡す限り、岩だらけの台地は見事としかいいようがない。

 

 湾内の岩場には貴重な野鳥が棲みついて、遊覧船から見える。パフィンという珍しい鳥がいるそうだが、残念ながら姿を見せてくれなかった。途中で船は海底に網を下ろし、採れたてのホタテとウニが食べ放題となる。

 しきりにウニのお代わりをしているアメリカ人らしきご夫婦がいて、私を見て、「ウニ」と言って笑った。「なるほど、寿司ね」と応えると、嬉しそうに頷いた。旅行中に生ものは気をつけようと思っている私だが、美味しさに負けてたくさん食べてしまった。

 

2.ゴールデンサークル・ツアー

 一番人気のツアーである。間欠泉ゲイシール、黄金の滝グトルフォス、地球の割れ目ギャウのあるシングヴェトリル国立公園をめぐる8時間のコース。

 

・間欠泉ゲイシール

 本来のゲイシールは今は活動を止めている。代わりにすぐそばのストロック間欠泉が3分から5分間隔で湯を吹きあげている。丸い泉のお湯が少しづつ盛り上がってくると、さあ、噴くぞ!だ。高いときは数十メートルにもなる。こちらまでかかってこないのはわかっていても、そのたびに「ワー」と言って、身体をのけぞらせてしまう。見ていて厭きない。

 

・シングヴェトリル国立公園

 930年に世界で最初の民主議会が開かれた場所、アイスランドの聖地ともいえる。アイスランドは、9世紀、ノルウェー王との権力争そいに敗れて、ノルウェーを逃れた豪族たちが住みついた島だった。

 彼らは、君主制や王制ではなく、民衆の総意によって取り決めをなす「民主議会」によって、大事な案件や裁判を行った。そのことによって、自尊心や独立心の強い幾多の豪族が一つにまとまることができたのである。それは、彼らの祖先ゲルマン民族の共同体的運営を受け継いだものだとも言われている。

 平野を挟んで切り立つ岩壁が延々と続く。そこに立てば、声は木霊して、平野一帯に響き渡るだろう。多くの人々が集まる議会の場としていかにもふさわしい。

 

 また、ここは地球の割れ目(ギャウ)が観察できるところとして地質学上、大変貴重な場所なのだそうだ。「地球の割れ目」ってなんだ?長くなるが、ガイドブック(アイスランド航空会社)に載っている説明をそのまま引用してみる。

 

 「アイスランドは大西洋中央海嶺の延長線上に位置し、海嶺の頂上部には幅数10kmの地溝帯があることが知られている。地溝帯は地球の内部から上昇してきたマントルがその下で左右に分かれ、水平に進むためにできた割れ目」「通常、地溝帯は海面下1~2kmにあるため地上で観察することはほとんど不可能だが、地球上で2箇所だけ海嶺が地上に乗り出しているところがある。その一つがシングヴェトリルのギャウ(もう一つはアフリカ大陸)。

 一つ一つのギャウは長さ数km幅や深さも30mだが、このような割れ目が雁行延々と連なってアイスランドをほぼ南北に貫いており、このため、アイスランドの国土は東西に毎日1~1.5cmずつ(合計2~3cm)広がり続けている」

 

 地質学にまったく無知な私は、この文章を読んで「割れ目」というのがどういうものかどうしてもイメージすることができなかった。ガイドブックには、聳え立つ岩と岩の間を細い道が続く写真、あるいは岩壁の上から下を覗くと、そこには細長く切れ込んだ深い溝があり、その下には水がたまっている、そういう写真などが載っていて、これに「地球の割れ目ギャウ」というキャプションがついている。

 細長い道がどうして割れ目なのか、その水のたまっているところが割れ目で、そこをどんどん潜っていったら地球の内部に到達するのかと愚かなことまで考える。

 

 だが、ここにやってきて、やっとわかった。つまり、アイスランドそのものが広がり続けているのであって、その結果、雁行する岩壁が出来たり、水をたたえた溝ができたりし、それがよくわかるのがこの場所であるということだったのだ。凹のへこんだ部分が割れ目ということだった。やっとすっきりする。笑ってやってください。

 

3.アークレイリとミーヴァトン湖ツアー

 このツアーはアークレイリ発になる。アークレイリにはレイキャヴィーク国内空港から飛行機で40分ほである。このツアーはバスのホテル迎えはない。前日ホテルでタクシーを頼んでおく。空港に着くと、ツアーバスが待っている。

 

・ゴーザフォスの滝(神の滝)

 かつてアイスランドに入植したノルウェー人はゲルマンの神を信仰していた。だが、やがてキリスト教に宗旨変えをするようになる。そこで、これまで崇拝してきた異教の神々の像をこの滝に投げ入れたと伝えられている。見事な瀑布で見とれてしまった。

 

 アイスランドがキリスト教に鞍替えした歴史は非常に興味深い。アイスランドの宗教はルター派である。ところが、北欧神話の主神オーディンを崇拝する人々が今もいるそうで、最近になって、国がこれを正式な宗教として認めたということが『アスガルドの秘密』の「あとがき」に書いてあったので、ぜひとも確かめたかった。

 ガイドさんに尋ねたところ、確かにレイキャヴィークだけでも200人ほどのオーディン信者がいるという。彼らの儀式をぜひ見たい。そのためにもう一度アイスランドを訪れたいと思う。 

 

・ミーヴァトン湖

 ミーヴァトン湖は「蚊の湖」という意味だそうだ。この地は暖かいので蚊が大量に発生し、夏にはいたるところ蚊柱がたつという。目も口も開けていられないという。でも、刺さないというのが救い。それでも、虫に弱い私はマスクを用意した。本当はゴーグルもほしいところだったが、普通のめがねでよしとした。ところが、秋に入っていたからか、運良く蚊はほとんどいなくて助かった。

 この湖は素晴らしかった。湖畔には、緑の草に覆われた「偽クレイター」がいくつも点在し、それはそれは奇妙な光景だった。

 

・溶岩迷路ディムボルギル

 延々と奇怪な形をした溶岩の間を歩く。まさに広大な岩の迷路である。ツアーでは一番短いコースだったが、それでも30分は歩いたか。

 

 硫黄を勢いよく噴出する気孔のある大きな岩々、巨大な岩壁の地下に沸きでる温泉、蒼い色のガラスのような面を見せる火口湖など印象深い名所を巡り、再びアークレイリ空港に戻り、ツアーはここで解散。私は飛行機でレイキャヴィークへ。約11時間の旅だった。

 

4.カルディダールル渓谷と内陸ハイランド探訪

 ラングヨークトル氷河、その麓にあるソゥリスヨークル氷河、そしてオーク氷河に囲まれたカルディダールルの岩だらけの男性的な景観と華麗なフロインフォッサル滝見物。約9時間のツアー。

 

 このツアーを選んだのは、途中、北欧神話「古エッダ」の解釈本を書いたスノリが生まれ、そして暗殺された町レイクホルトを訪れるからだった。

 

 ヴァイキングが9世紀にアイスランドにやってきてから14から15世紀頃まで、この地はヨーロッパ史上素晴らしい文学を生み出した。祖先たちのルーツとその歴史を膨大な文学書に残したのである。 

 それが「サガ」と「古エッダ」である。前者はヴァイキングの歴史、後者は彼らの祖先の神話である。「巫女の予言」から「神々の黄昏」まで壮大な世界を見ることができる。その神話の世界を手本にして文学論(詩学入門)にしたてたのが「スノリのエッダ」だった。今回のアイスランド旅行の目的がこの舞台を見たいということは最初に書いた。

 

 スノリは偉大な文学者だったが、俗社会で動きまわる政治家でもあった。彼の政治家としての評価は分かれる。ただ、彼の行動がアイスランドに対する裏切りとみなされ、彼は暗殺されてしまった。

 

 アイスランドでは内陸のほうが緑豊かだったのは意外だった。氷河については一昨年行ったカナダのロッキー山脈のほうが雄大で勝ちかなと思った。

 

レイキャヴィーク雑感

 レイキャヴィークが気に入った一つに、町の中心部はほぼ歩いて見られるということがある。そして、ちょっと道に迷っても、上を見上げると、ハットルグリムスキルキャ教会の尖塔が見える。私の泊まっているホテルはこの教会の前である。これはなによりありがたかった。どこを歩いも、帰るところはあそこだなとすぐにわかるのは大助かりである。

 アイスランド滞在最後の日はレイキャヴィーク市内を散策して終えた。国立博物館は想像以上に面白かった。地中から見つかったというトール神の小さな像はハンマーと思われるものを抱いていて、興味深い。

 市に湯を供給する巨大なUFOみたいな建物(ペルトラン)の中にあるサガミュージアムはヴァイキングの歴史を蝋人形で見せてくれる。狭くても市内の見どころは多い。

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 (右) この教会の前に立つレイブル・エイリクソンの像。エイリクソンはコロンブスに先駆けること約500年前にアメリカ大陸を発見したヴァイキングで、キリスト教布教にも大いに寄与した人物である。

 

 日没は8時半、ツアーから戻ってきてもまだ町を歩ける。特別これといって買いたいものはないが、店内を一巡し、夕食はどこにしようかとレストランを覗きながら、ブラブラ歩くひとときは身体の底からリフレシュしていると感じられる。

 

 アイスランドの第一印象は空気が澄んでいるということだった。3年前から完全に火力発電所を廃止し、火山と氷河を利用して、地熱や水力を利用した発電にとってかわったそうだ。だから煤煙はない。こういう情報は旅行前に知っていたが、現地に立ってみて、その空気の澄明さは予想をはるかに越えていた。

 日本も火山の国、全島とはいかなくても、温泉地だけでもこうした発電を試みたらどうかと思った。インフラに莫大な費用がかかるので、アイスランドでも最初は猛反対があったらしいが、今では誰もがこの取り組みを認め、誇りにしているという。

 

 日本ではどうしてしないのだろうと不思議でならない。そこで、こういうことに関心のある人に尋ねてみたら、九州電力が実験的に行なっているということだった。もっと進めてほしいと思う。

 地熱利用が温泉玉子だけというのはいくらなんでも悲しいではないかと真剣に考えてしまった。

 加えて、各家庭に供給されるお湯が温泉というのも素晴らしい。ホテルのシャワーを浴びると、確かに硫黄の匂いがする。肌がすべすべしたように感じられる。私は特に湯船つきのホテルを望んだりしないが、このときは、湯船があったらいいのになと思った。

 

 アイスランドはカード王国である。現金が必要なのは、路線バスと電話くらいだと聞いていたが、実際そうだった。数百円の買い物にカードで支払う。私もタクシーや絵はがき数枚にカードを出してみた。嫌な顔などされない。当たり前のことらしい。

 

 9月5日、迎えのバスでケプラヴィーク国際空港へ向かう。早朝4時半である。これで昼過ぎにはドイツに着く。そのままミュンヘンに行くことになっている。

 アイスランドは6泊では足りなかった。アイスランドという国をしっかりと実感できなかった。広すぎたからかな。ツアーであまりにあちこち行きすぎたからかな。英語のガイドがもう少しよく聞きとれていたらまた少しは違っていたかな。理由はいくらでもありそうだ。

 

 1度でいいという土地もある。じゅうぶん満足したと感じられる国もある。親しみを覚え、何度でも訪れる国もある。アイスランドは1回来ただけではなにもわからない国だった。また来ることができるといいなと心から思って、アイスランドに別れを告げた。

 

 

 ミュンヘン(9月5日-8日)

 フランクフルトに到着し、そのままミュンヘンに向かう。ミュンヘン訪問の目的は2つ。一つはドイツ博物館に展示されている「マンドラゴラ」を見ること。もう一つは昨年ある仕事でお世話になったやまねこさんに会ってお礼を言うこと。

 この2つはどうしても今回の旅行中に果たしたいと思っていたので、アイスランドから直行することにして、なんとか3泊の滞在を確保した。

 

電話のないホテル

 いつも同じホテルでは芸がない。たまには新しいホテルを開拓しようと、ネットで探して申し込んだ。条件は駅のそば、あまり高級でないこと。

 今回のホテルは駅そばということだったが、実際は中央駅から徒歩7-8分かかった。バスで1駅だった。しかし、荷物を引きずらない限り、どうということもない距離ではあった。

 部屋は清潔で、値段もまあまあだったが、ひとつだけ困ったことがあった。部屋に電話がないのである。それでわかったのだが、ドイツでも携帯電話の普及はすごい。電話はもう不要なのかもしれない。でも、これではPCを利用することはできないだろう。

 

 どうしても日本に連絡をとりたいことがあったので、駅そばのインターネットサーヴィスの店に何度も足を運んだ。そこなら、電話もファックスも受け付けてくれる。返事はファックスでとお願いし、それはホテルのフロントでもらえた。フロントは親切だった。

 電話のないホテルがあるとは考えてもいなかったので、ネットでも設備紹介の欄はあまりよく確認しなかった。これからは注意しようと思った。

 

ドイツ博物館の薬事コーナー

 ドイツ博物館は2度目である。人の関心事というのは変るものだ。前回はまったく視野になかった薬事コーナーを訪れることになった。ここ数年、魔女の薬草について調べている。その関係から、ここに服を着た「マンドラゴラの根」が展示されているということをHP上の友人エリカさんから教えていただいた。これまで調べた魔女の薬草については来年まとめてお知らせできそう。  

 

やまねこさんと会う

 昨年のことだが、BMW本社の写真が必要で探していた。私のHPにリンクさせていただいているミュンヘン在住のやまねこさんのHPにとても素晴らしい写真が載っていたので、厚かましくも借用のお願いをした。やまねこさんは快く承諾してくださったので、お礼を申し上げたいと思っていた。春には行けなかったので、今回はぜひにと都合をつけてもらい、お会いした。

 

 8日の夕方、やまねこさんとお会いし、ミュンヘン市内にあるルートヴィヒ二世の像やヒトラーに関係する場所を案内していただいた。夜は地元向けのホーフブロイハウスに連れていってもらい、ビールで乾杯となった。

 新市庁舎の近くにあるホーフブロイハウスは、私も何度か行ったことがあるが、まったくの観光名所である。地元向けの落ち着いた別店があるのは知らなかったので、とても楽しかった。

 

 やまねこさんにはすっかりお世話になったが、彼のHPにも大変お世話になった。ミュンヘンの見どころが実に細かく紹介されている。一度覗いていただければわかる。凄いの一言である。

 今回、私が歩いたところはすべてやまねこさんのHPで知ったところである。そのいくつかを紹介する。

 

・ケストナーの家とお墓

 ドレースデンケストナー参りをしたことがあるが、ミュンヘンにもケストナーゆかりの場所がある。 

 

 ケストナーはドレースデンをこよなく愛していた。ナチに睨まれながら、ドレースデンに住む両親をおいて亡命できないと国内に留まった。彼はでも戦後ドレースデンに帰らず、ミュンヘンに居を構えた。なぜドレースデンに帰らなかったのだろう。調べなきゃ。

 

・トーマス・マンの家

 マンは北ドイツ・リューベックの市民階級の出である。その彼のルーツを描いたのが小説「ブッデンブローク家」、私の好きな作品である。マンはその作品をここで完成させたそうだ。今はスペイン料理店になっている。

 

 マンは意図せず亡命するようになるが、それまではミュンヘンに住んでいた。何ヶ所か引越しをしている。今回はそのいくつかを見てまわった。彼の息子の家もミュンヘンにある。それらの建物にはレリーフがはめ込まれているので、探しやすい。 

 

・ショル兄妹の家

 反ナチ運動で逮捕され、処刑されたミュンヘン大学生だったショル兄妹の住んでいた家。

 通りに面した建物にレリーフがかかっている。それを見上げていたら、中から女性がでてきて、「ショル兄妹に関心があるの?」と言う。「ええ」と答えると、「彼らが住んでいた家はこの建物ではなくて、ここの中庭にあるのよ」と言って、ドアを開け、中庭に入れてくれた。ショル兄妹の本で見たのと同じ小さな家が建っていた。

 

 以前、ショル兄妹の記念碑がミュンヘン大学にあるというので、見に行ったことがある。彼らのお墓もミュンヘン郊外にあるが、時間がなくて、今回はパス。なお、「白ばら通信」の記念碑が宮殿の裏庭にある。 

 

・ヒトラーの家

 ヒトラーが住んでいた家にはなんのレリーフもないので、ここがそうだといわれなければわからない。ネオナチの聖地になってはいけないという方針によるそうだ。ただし、ショル兄妹のように、ヒトラーを倒すために闘った人々の記念碑はある。

 

・退廃芸術展
 1937年、ヒトラーの要請で「ドイツ芸術の家」が完成した。その落成式の記念に、ヒトラーが考える「ドイツ芸術の範」となるべき絵画、彫刻など約750点を集めた「大ドイツ美術展」が開かれた。
 この展覧会オープンの翌日、ナチスによって「堕落」した芸術家という烙印をおされた芸術家たちの絵画や彫刻を集めた「退廃芸術展」が開かれた。ノルデ、ココシュカ、ベックマン、ゴッホ、ムンク、バルラッハなどの作品が公開された。ナチスはそれらの作品をドイツ各地の美術館から没収していたのである。
 人々は、これほどの名画をこれほどたくさん見られる機会ができたことを喜んだ。展覧会は大盛況で、入場者は200万人を超えた。一方、ヒトラー公認の「大ドイツ展」は60万人だったという。

 

・ブルンネン

 ドイツにはどの町にも必ず噴水(ブルンネン)がある。ミュンヘンにも大小取り混ぜて膨大な数の噴水がある。ミュンヘンの噴水についてリストアップした本があるそうだ。

 私は噴水を飾る彫刻を見るのが特に好きである。ギリシャ神話の神々がモデルになっている像も多いが、その町の言い伝えや、庶民の生活とむすびついた動物や童話の主人公などの像も多い。どうしてこの像が選ばれたのだろうと想像するのは楽しい。

 今回、私がミュンヘンで見たかった噴水は2つ。一つはノルネンの噴水、もう一つはディアナの噴水である。

 ノルネンとは北欧神話に出てくる3人の運命の女神である。なぜここにノルネンの像がという謎は解けなかったが、製作年代が1907年だったことがわかったので、これがなにかのヒントになるかもしれない。これも調べなきゃならない。

 

 ディアナは英語で言えば、ダイアナのこと。多産と豊穣の女神、あるいは月の女神と言われ、女性には人気のある女神である。

 ギリシャ神話ではアルテミスとして登場するが、これがかなり恐ろしい女神なのだ。美しいが、狩りを好み、弓矢を持って野を駆け巡る。ときにこの矢は産褥で苦しむ女性を射る。そして、気に入らない男性を次々と殺していく。

 

 噴水といえば、昔、ミュンヘンで面白い噴水を見かけた。カメに乗った少女の噴水である。写真を撮ってはいたが、どこだったか、場所がわからない。あれはどんな謂れのある噴水なのだろうか。もう一度見たいと、ミュンヘンに行くたびに、ここだったか、あそこだったかと記憶を辿って歩くのだが、ついに見つからなかった。

 写真があるのだから、幻であるはずはない。すでに取り壊されたか、あるいは他の町だったか。そこでやまねこさんに尋ねてみたが、彼も見覚えがないという。

 ところが私が帰国してほどなく、やまねこさんから、発見したというメールが届いた。図書館まで行って調べてくださったとか。添付してくれた写真は、少女の身体が少し痩せているように見えたが、まちがいなく探し求めていたものだった。これでまたミュンヘンに行く用事ができた。

 

 ミュンヘンは私には広すぎて、いつも迷う。今回はやまねこさんが親切にも適切な指示をしてくださったので、電車もバスも徒歩も、ほとんど迷うことなく、見たかった場所に行き着けた。めったにないことである。

 

帰国(9月9日)

 帰国便はフランクフルト発が夜なので、ミュンヘンでゆっくりし、午後の電車でフランクフルト空港へ。チェックインして荷物から解放され、急いでフランクフルト市内へ。駅そばのパン屋でドイツパンを買い、リュックに入れて、空港に戻る。このパンを食べるのは明日の夜、すでに東京の自宅。

 かくしてザーゲの夏の旅行は終った。

 


春のドイツ <4月25日~5月9日>

 

 4月25日にハンブルクに着き、2泊した後、ハルツで8泊、フランクフルトで2泊、そしてカールスルーエで1泊して5月9日帰国というのが今回のスケジュールである。目的はたくさんあった。ちょっと大げさなタイトルもあるが、そのいくつかを報告したいと思う。

 

2005年の魔女に会えた?

 こちら

 

ブロッケンの妖怪は今もいる?-山頂のホテルに泊まる

 ブロッケン山頂にあったホテルは第二次大戦の空襲で焼けてしまった。1950年代にいったん建てられたが、1990年のドイツ統一を記念して、新たに7階建ての近代的なホテルが2002年に完成した。

 ブロッケン山頂には歩いていけるが、登山の苦手な人は蒸気機関車で山頂まで運んでもらえる。4月は最終が3時40分ヴェアニゲローデ発、山頂には5時44分着。まだお日様は高い。夕日に染まるハルツを見下ろすのも、朝日が昇るのを見るのも、また山頂に霧が立ち込める夕方か早朝に見えるというブロッケンの妖怪(ブロッケン現象=御光)に会うにも、うまくない。それには山頂に泊まるしかない。

 

 ブロッケン山の写真を2枚 

 

 この日、胸はずませるザーゲを迎えるかのような快晴、こんな夜は霧が出やすいのではと、大いに期待する。

 駅からホテルまではちょっとした坂道を登って5分とかからない。ところが汽車から降りた途端、吹き飛ばされそうな強い風にさらされた。山頂は樹木1本ない荒涼とした台地である。まともに風を受けて、太ったザーゲでも足が進まない。寒い。汽車から降りたのはザーゲ一人。腰をかがめるようにして、ホテルのドアを開ける。

 

 この時間は7階のレストランがレセプションを兼ねる。部屋は新しく、けっこう広い。リンゴとオレンジがテーブルに乗っている。自由に食べていい。ここで、一休み。

 その後、レセプションに行き、受け付けの女性に、「あなたはブロッケンの妖怪をご覧になったことがありますか」と尋ねる。「見たことないです。最近はほとんど現れないようです」という。とはいえ、ここまで来て、外へでないではあまりに悲しい。

 

 風がなければのんびり歩いて1時間、山頂1周の楽しみができるのに。さて、勇気を奮って再び外へ。人一人いない。吹き飛ばされて行方不明になって、「ザーゲ、ブロッケンの妖怪に連れ去られたか?」というのも面白いかもなんて、冗談考えなければ先に進めない。

 

 まだまだ日は沈みそうにない。風はいっそう強くなる。と、そのとき、ハイネの記念碑の向こうの空に、あれはハルツのどのあたりだろうか、そこに7色の柱が立っていた。下界は雨だったのか、虹の一部がくっきりと見えたのである。妖怪には会えなかったが、この虹の柱でザーゲはじゅうぶん満足した。5分もしないうちに虹は消えた。この虹、強風に恐怖したザーゲの妄想ではない証拠として、下に写真を。

 

 翌朝、朝日が昇る前に飛び起きようと思っていたが、外はもう明るい。しまった!慌てて外へ出るが、相変わらずの強風。霧もなし。

 

 1824年9月、ブロッケン山頂のホテルに泊まったハイネは、早朝、友人から起こされて外へ出る。真っ赤な球が地平線から昇ってくるところを見ている。ハイネも妖怪には会えなかったが、ここからはるかかなたを眺めて、こんな詩を書き記した。ちょっと長いが引用する。

 

太陽が僅かに輝きそめて、すでに東方はだんだんと明るくなった。

見渡すかぎり、山の頂は霧の海にただよっている。

 

私が七里靴を持っていれば、あの山々の頂きを飛び越えて、風のように早く、

あの子の家に走ってゆくだろう。

 

あの子の眠るベッドから私はそっとカーテンを引きあけ、

あの子の額とルビーの口とにそっと接吻するだろう。

 

それからもっとそっと私は小さい百合のような耳に囁くだろう。

私達は愛し合っていて、決して離れないのだと夢の中で考えておくれ。

  (舟木重信訳)

 

 ハイネのこの詩を読むたびに、彼の感性に痺れてしまう。特に最後の「・・・夢の中で考えておくれ」だって! 

 

ブロッケン山に初めて登った日本人は誰? - オステローデ

 11世紀、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世は領主たちの反乱から逃れてハルツの森をさまよった。その頃、ハルツは人住まぬ恐ろしい森だった。16世紀頃、ドイツ人の植物学者がブロッケン山に生育する植物を調べるためにこの山に登るようになったという。

 

 その後、多くの人々がこの山を訪れるようになり、ドイツ人はこの山をブロックスベルクと愛称で呼んでいる。1777年のゲーテ、1826年のハイネ、アンデルセン、クライスト、シャミッソー、シューマンとその妻クララなども登っている。

 

 あるとき、知人から、明治35年の日付が書かれたブロッケン山の絵葉書を見せてもらった。知人の親戚がベルリンに留学していた際、ブロッケン山に登ったことを留守宅に知らせたものだった。

 明治期にドイツへ留学した日本人は多い。特にベルリンは多かった。彼らはおそらくライプチヒを旅行したり、そこからついでにブロッケン山へも行ったろうと推測される。そこで、ふと、では、ブロッケンに登った最初の日本人は誰だろうと思った。だが、そんなことわかるはずもないだろうと、ほとんど忘れかけていた。

 

 ところが、今回の旅行を控えた直前、富永孝著『日独文化交流史』を読んでいたら、「日蘭混血児ピーテル・ハルツィングがおそらくドイツで亡くなった日系人の第一号であろう」という文を目にした。そして、彼が亡くなったのはハルツのオステローデだという。しかも、彼は鉱務監督官としてハルツにやってきたというのである。

 

 鉱山技師としてハルツにやってきたならば、ブロッケン山に登らないことはありえない。「ドイツで亡くなった」とあるので、彼がドイツへやってきた最初の日本人かどうかはわからないが、富永氏の著書から見て、最初の人と考えていいだろうと思われる。ということは、日本人として初めてブロッケン山に登ったのは日系人のハルツィングと言っていいのではないだろうか。

 

 『日独文化交流史』によれば、彼の父はオランダ人、母は日本人、その長男として、1637年に長崎の平戸で生まれた。4歳のときに両親と弟とともに日本を去った。30代のときにハルツの鉱山開発の仕事に従事するために、ザンクト・アンドレアスベルクにやってきて、42歳という若さでオステローデで亡くなった。オステローデの城教会に埋葬され、そのそばに彼の功績を伝える墓碑銘があるという。

 

 この本によって、忘れかけていた疑問を思い出した。それで、オステローデがどんな町なのか、その墓碑銘はどんなものなのか、見てみようと思い立ち、スケジュールに組み入れることにした。しかも、オステローデはあの有名な彫刻家ティルマン・リーメンシュナイダーが生まれたところだと言われている。

 

 オステローデには、ゴスラーからクラウスタール・ツラーフェルトバスターミナルで乗り換える。乗り継ぎの時間がうまく行けば1時間ほどで行ける。バスターミナルで降りて、町の中心に出て、坂を登ると城教会聖ヤ―コビ教会に出る。私の足で20分もかからない。もっと近道もあるかもしれない。

 教会の祭壇横には確かに彼の墓碑銘が掛かっていた。ただ祭壇前には入れないので、墓碑銘をちゃんと読むことはできなかった、もっとも前に立っても、ラテン語だから読めない。フーン、ここが最初にドイツへやってきた日系人最期の地かと感慨深かった。

 

 前日は、彼が働いていたというザンクト・アンドレアスベルクに行き、ザムゾン鉱山跡を見学した。旅行直前の計画だったので、下調べを全然していなかったので、ただ行ってみたというだけになってしまった。

 ところで、リーメンシュナイダーのことだが、何かないかと町を歩いていたら、「リーメンシュナイダー」という古本屋があった。特にリーメンシュナイダー関係の本を扱っていると書いてあった。残念ながら店は閉まっていたので、入って見ることはできなかった。

 あとで、リーメンシュナイダーに詳しいつるッペさんからリーメンシュナイダーというレストランや学校もあるようだと教えていただいた。ここもまた訪れて探索してみたい町になった。

 

ドイツで最初の女性作家は誰?―バート・ガンダースハイム

 チューリンゲンのエリーザベトとビンゲンのヒルデガルト。この二人の聖女について私は大変に興味を持っている。彼女たちについてそれなりに調べ、彼女たちの跡を辿る旅もしてきた。そこにもう一人知ってみたいと思う聖女が現れた。

 

 ゴスラーに住む由紀子さんから、ガンダースハイムのロスヴィタという聖女のことを教えてもらった。彼女は貴族の娘として932年頃にバート・ガンダースハイムという町で生まれ、若い頃にオットー朝と深い結びつきのあるガンダースハイムのシュティフト教会に所属した。そこで、オットー大帝の姪の尼僧院長ゲルベルクから教えを受け、やがてラテン語で作品を書くようになり、973年頃に亡くなったという。

 ロスヴィタは、聖人伝説、恋愛小説、戯曲などをたくさんものしたという。このロスヴィタ・フォン・ガンダースハイムこそドイツ最初の女性作家だと言われている。

 

 15世紀に、彼女の作品がレーゲンスブルクの修道院で発見され、16世紀には、アルブレヒト・デューラーの挿絵つき写本がニュルンベルクで発見され、やがて、「ドイツのサッフォー」と評価されるようになる。

 

 ガンダースハイムはゴスラーから車で30分ほどのところにある。今回、由紀子さんと、彼女の友人ヘドヴィッヒと私の3人で訪れることにした。私たち3人が都合のいい日は5月5日しかなかった。この日はキリスト昇天祭でドイツは全国休日。普段であれば一般のガイドがあるが、この日は特別申し込みになる。ガイド料も高いが、ガイドさんを独占できる。ロスヴィタが修行していた教会の前でガイドさんと待ち合わせし、たっぷり案内をしてもらった。

 

 ガイドさんの話でも、ロスヴィタについては詳しいことはほとんどわかっていないという。ガンダースハイムで生まれ、ここのシュティフト教会で過ごし、そこで、作品を書いたということだけである。

 シュティフト教会内部のステンドグラスに彼女の姿が描かれ、教会わきに彼女の顔を彫った記念碑があり、そのそばにはロスヴィタの泉がある。ロスヴィタが自分の作品をオットー大帝に捧げている像になっている。

  面白かったのは、ロスヴィタというのは本名ではなく、「大きな声」という意味で、あだ名だったという。彼女のこの顔から想像できるだろうか。

 

 1973年以来ドイツの文学界で活躍する女流作家にたいして、彼女の名をつけたロスヴィタ賞が贈られている。マリーア・ルイーゼ・カシュニッツも授与された女性の一人である。

 ロスヴィタの作品は現代ドイツ語に訳されている。レクラム文庫に入っているので、日本でも入手できるが、とりあえずはロスヴィタゆかりの教会で手に入れたことを単純に喜び、これから読み始めるところである。

 

ロマネスク街道

 ザクセン・アンハルト州には州都マクデブルクを中心にロマネスク街道が走っている。北コースには24、南コースには36の、今も残るロマネスク様式の修道院がある。

 全部で60もある。すべて見るのはまず無理。これまで南コースの3つは行っているので、今回は同じく南コースを欲張って5つ訪れた。

 いづれの日も天気に恵まれて、バスの車窓から見えるブロッケン山は素晴らしかった。ロマネスク様式の修道院といえば、だいたい似ているから、いくつか見ているうちにどこがどこやらわからなくなる。ただ、共通しているのが静謐な佇まいか。

 また、いくつかの修道院には薬草園がいまも残っていて、それを見るのも楽しみだった。

 

ハルバーシュタット

 ハルバーシュタットは駅から市電かバスを利用したほうが楽。フィッシュマルクトか次のホルツマルクトが町の中心地である。

 ハルバーシュタットの大聖堂はロマネスク様式とゴチック様式の混在する堂々たるものである。ガイドと一緒でないと奥まで見られない。ガイド料(3,50ユーロ)を払っても入る価値はある。宝物館の展示品も豪華なタペストリーなど面白いものがあった。

 ラートハウス前にはローラント像が立っている。市場権と裁判権のシンボルであるローラント像はブレーメンのものが有名だが、ハルツではクヴェードリンブルクとここハルバーシュタットと、ともにラートハウス前で見られる。そういえば、この二つの町のマルクトはどこか似ている。 

 

オスターヴィーク

 ヴェアニゲローデから直通のバスで約30分で行ける。町はいたるところ修復中の家だらけ。しかし、古いが、実に凝った木組みの家であることがすぐにわかる。この町はあと数年もすれば素晴らしい町に変容しそう。また来てみたい町だ。修道院は外観は堂々としているが、内部はそれほど見るべきものはない。

 

イルゼンブルク

 イルゼンブルクの修道院教会も内部は全面的に修理中だった。それでも入場料は取る。何もないでは取りづらいと思ったのか、写真展が開かれていた。ドイツ各地の教会にあるTaufengelの像を撮った写真が展示されていた。

 タオフエンゲルというのは教会にある洗礼盤を持った天使の像である。これが意外と面白かった。教会を見るときのいい参考になった。1ユーロは高くなかった。

 

デュリュベック

 ヴァアニゲローデからバスで20分もかからない小さな村である。ここを舞台にした私の大好きな魔女伝説がある。ヴァルプルギスの夜にこの村出身の2人の若者が村に住む女たちに頼んでブロッケン山に連れていってもらうという話である。

 いつかこの村に来てみたいと思っていた。少し遅い春だったが、あたりは一面の菜の花とムギの畑、そこに堂々と立つザンクト・ヴィートス修道院教会。祭壇がよかった。

 薬草園は残念ながら全面的に改修中だったが、中庭には勿忘草が満開だった。

 

ミヒャエルシュタイン

 ここの修道院で開かれるコンサートは素晴らしいという評判である。楽器博物館も併設されている。以前来たとき、ここの薬草園がよかったので、もう一度訪れたいと思っていた。

 ヴェアニゲローデから近いのだが、バスの便が極端に悪い。乗り継ぎしながらでもと覚悟していたら、バート・ハルツブルクに住む日本人女性のテムさんが道案内をしてくれることになった。

 私は由紀子さんの車に同乗させてもらい、テムさんのあとを行く。彼女は「最近用事でこのあたりにやってきた」と言っていたが、下調べの労をとってくれたのではないかと感謝している。それで迷うことなく着いた。

 

 薬草園はまだ真っ盛りというわけにはいかなかったが、とても見ごたえがあった。特に、シュッルセルブルーメの花が満開だったので嬉しかった。この花の名前、辞書ではセイヨウサクラソウ/プリムラとあるが、ドイツ語では「鍵の花」である。写真を見てどう思われるだろうか。私はドイツの主婦の誇りである鍵束を思い浮かべるのだが。

 

食べたり、飲んだり

 

マイボウレ

 5月は白アスパラが旬。しっかり食べてきた。しかし、5月の料理はそればかりではない。マイボウレという5月1日に飲むシャンパンもある。クルマバソウ(ヴァルトマイスター)をシャンパンに漬けた春の飲み物である。

 友人のアレックスの家でご馳走になり、また由紀子さんからは1本プレゼントされた。甘いので、私の好みというわけではないが、春の喜びを知る伝統的なドイツの飲み物である。

 

グリューンコールとラバーバー

 ドイツの冬の代表的な菜っ葉グリューンコールの煮たものを一度食べてみたかった。由紀子さんの手作りでご馳走になった。「今年はこれが最後のグリューンコールよ」と言われていただいたが、味加減も絶妙で、今回のドイツで食べた食事の中で最高だった。

 ラバーバーは由紀子さんの家の庭に生えていて、それで作ったという。葉も茎もフキとそっくりなのだが、茎はちょっと赤い。

 ドイツでは、雨が降りだしたら、子どもたちがこれを傘の代わりにするといわれている。そのあたりも、日本のフキと似ている。

 これに砂糖を入れて煮ると、赤い汁が出る。なんと色も味も梅干そっくりである。これにクリームをかけてデザートのようにして食べる。私はまずクリームなしで食べてみたら、なんとも美味しくて、そのままのほうが口に合う。これも最高だった。

 ラバーバーというのは日本の植物図鑑によると、キャラブキあるいはフキノトウと書いてあるが、あんな酸っぱい味ではないから、ちがうものか、あるいは私が知らないだけか。

 

ゴーゼビール

 ゴスラーの地名は町中を流れるゴーゼ川に由来するという。その名をつけたゴーゼビーアはこの町の名物だったそうだ。今では生産量が少ないのか、ちょっと値段が高いということもあって、どこでも飲めるというものではなくなったようだ。

 ゴーゼ河畔のレストランで「樽だしゴーゼビーアが飲めるのはここだけ」という看板を目にしたので、迷わず入った。黒と白があり、どちらがお勧めかと尋ねたら、白だという。味が濃くて、美味しかった。

 

残念だったこと

 

・5月1日にマイバオム(5月柱)を立てる風習については2004年ベネッケンシュタインのマイバオムで紹介したが、この樹木信仰の名残はハルツではかなり素朴な姿で残っている。

 中でもイルゼンブルクのマイバオムは私の大のお気に入り入りだった。今年、3年ぶりでイルゼンブルクを訪れ、マイバオムの立っている広場に行ってみた。アレ? ない!どうして?

 

 さっそく広場前にあるインフォメーションで尋ねてみた。すると数年前からもう立てなくなったという。「どうしてでしょう」と尋ねても、理由はわからないという。「とても残念」というと、「私もです」と彼女は言うが、ならば理由くらい知っていてほしいと思った。

 おそらく費用がかかるからか、あるいは、もうこのような風習に関心を寄せなくなったのか、残念というより、腹ただしい思いだった。

 

・カールスルーエ近郊で薬草魔女のビッケルさん主催の薬草めぐりに参加する予定だったが、当日、予定の時間になったら、ものすごい雨が降りだした。最寄の駅まで行ったのだが、集合場所には急な山道を歩いて40分かかるということがわかり、取りやめにせざるをえなかった。

 以前に1度参加しているので、またのチャンスもあるだろうと、残念ではあったが、それほど落胆もしなかった。おかげでカールスルーエの城博物館と美術館をゆっくり見られることができた。

 

 城博物館の地下にある古代室には、前から興味を持っていたミトラス教(太陽神ミトラスを信仰。のちにキリスト教に滅ぼされる)の遺跡を紹介する一角があり、写真でしか知らなかったミトラス神の石像(本物)がいくつも見られた。これはなによりの収穫だった。美術館では私の好きなマックス・ベックマンの特別展があったので、これも嬉しかった。 

 

 これで旅の報告は終り。まだ書きたりないことがたくさんあるので、それはまたいつか追加するかもしれない。

 実を言うと、この旅に出る前、仕事上のことで、ちょっと落ち込むことがあった。それで、ドイツ以外のまったく知らない国に予定を変更し、緊張の連続によって気持ちを切り替えようかと思ったが、それはさまざまな理由で無理だった。

 

 ハンブルクに着いた翌日、リューネブルクにいる知人を訪ねた。彼女はいま老人ホームに一人身を寄せている。それもまたザーゲの心を重くした。

 

 それでも、ハルツで数日過ごすうちに、少しづつ心が軽くなった。それは現実からの逃避でしかなかったかもしれない。しかし、これが旅の効用か。

 次のドイツへの旅は夏になるだろう。そのときは、心軽く出発したいものだと思う。

  (2005.5.24)