2022年

コロナ禍で海外には行けない年が続いてしまい、代わりにできるだけ国内旅行をしようと思った。そうして

いるうちに2022年になってしまった。今年も国内旅行を楽しむことになるのか。


野地温泉 2022年12月5日~6日

12月5日(月)

いつものように東京駅で駅弁(30品目)を買って、乗車。いつもは箱だけの写真だったが、今回は中身もお知らせ。

 

郡山まで1時間半弱。あっという間だ。駅近くのレンタカー店で車を借り、会津若松に向けて出発。

私は会津に2度来たことがある。だから、今回、鶴ヶ城(会津若松城)の天守閣が工事で城内には入れないという事になっていても、別段、残念という気はしなかった。そもそも天守閣に上がるには狭い急な階段を5階ほど登らなければならないので、むしろホッとしたというところかな。

城内に麟閣という茶室がある。これは時の藩主蒲生氏郷が千利休の子どもの少庵をかくまい、千家の再興を願って建てたもの。ここでお茶をたててくれる。薯諸(じょよう。諸にはクサ冠がつく。意味は上用と同じ)饅頭付き抹茶一服600円。

城から飯森山に向かう。戊辰戦争の一環だった会津戦争(1868年)で新政府に反対し、敗北した会津藩は朝敵とされた。白虎隊とは官軍に抵抗して戦った会津の若き武家男子の部隊で、負けを前にこの飯盛山で自刃した。彼らの墓(7名あるいは8名とも)がある。

前に来たときは、確か急な山道を登っていったという記憶がある。飯森山自体は標高314メートルの低い山だが、登り口から何とも急な階段になっていて、とても現在の私の足では無理。諦めて、近くの蕎麦やで昼食。山菜蕎麦が美味しかった。

 

私は明治維新の歴史に弱くて困るのだが、会津若松の歴史は面白い。でも、なかなか頭に残らない。

2021年7月に訪れた高湯温泉がとてもよかったので、再び福島の野地温泉に決めた。高湯も野地も私が子どものころから何度も親に連れられてきた湯治場だった。今回の野地温泉は特に思い出が深い。

 

ホテル内に飾ってあった昔の温泉の写真を見て、これだ!と思った。野地温泉は途中の土湯峠を越えたところにあるが、写真によると昭和20年頃に土湯から送迎用馬車が始まったと書かれている。私の記憶では、馬の背に乗るには私が小さすぎたので、土湯温泉の旅館だったろうと思うが、小さな炬燵櫓を借りて、それを逆さにして馬の背に括り付け、その中に私が入って野地温泉まで行ったのである。私が3歳のころである。不思議にもそのときの記憶が残っているのだが、そんなことあるかなあと思っていたのだが、この写真を見て、私の記憶に間違いなかったと思った。

同時に、こんな山奥の温泉を見つけてやってきた父は本当に温泉が好きだったのだなあと思った。ただ、炊事場でご飯を炊いていた母はどんなことを考えていたのだろうと思う。今は温泉にいくということは主婦にとっては「上げ膳据え膳」の極楽の時間のはずだが、わざわざコメ持参でやってくる。おかずが何だったのかまったく記憶にない。今頃になって母に聞きたいことがいっぱいある。

 

野地温泉にはもう一つ思い出がある。はっきりしないが、おそらく中学2年か3年のころだったと思う。お湯から上がって廊下で空の月を見ていたとき、近くに同じように月を見ている少女がいた。浴衣を着ていて、とても素敵な少女だった。お互いに気が付くと話を交わしていた。彼女は福島の人で母親と一緒にやってきたという。私と同年だった。昔の常だが、住所を教えあって以後文通が続いた。彼女も東京の大学に入り上京した。たびたび会っておしゃべりをしたものだ。結婚し娘さんが生まれ、その子の名前が私の次女と同じだったのも面白い偶然だった。ところが、ここ数年、大病を患ってしまい、会うことができないでいる。

かなりおセンチなことを書いているが、そんな昔の思い出いっぱいの野地温泉にやってきた。もちろん新しい建物になっていて、彼女と出会った廊下(ベランダ?)など思い出しようもない。

 

その野地温泉に向かう途中、雪が降りだした。ホテルに着いたときはすでにあたり一面雪景色になっていた。明日どうなるだろう。ホテルの人は何事もないかのように、これからは毎日こんなですよと。

さっそく温泉!軽い硫黄温泉。草津温泉のような強い硫黄ではなく、程よい匂いで、温め。とてもいい湯だった。温泉の次に楽しみなのはもちろん食事だが、これはかなり残念だった。

お湯の良さで食事のマイナスは相殺にするか。

今日の夜中はW杯日本対クロアチアだ。ちゃんとテレビで見られるということも調べてある。これで勝てばベスト8だ。勝算ありと踏んだのにPK戦で負けるとは。(その後、クロアチアは何とブラジルに勝ちベスト4!)がっかりして眠る。

12月6日(火)

起きてすぐ外を見たら一面雪。どうなるのだろうと心配。ところが、なんとホテルには専用の除雪車があり、除雪している。除雪車が動いているのはニュースで見たことはあるが、実際に見るのは初めて。

 

じっと見ていると、雪で埋もれた車のフロントになんだか黒い棒が2本立っている、並んでいる車もほぼ同じ。なんか鬼の角みたいに見えるが、フロントガラスのワイパーで、これを立てておかないとガラスに張り付いてしまって大変なことになるそうだ。まったく知らなかった。長靴とシャベルが玄関にあって、客がみな自分で自分の車の雪下ろしをする。ホテルのサービスではないのだ。

なんとか走れそう。猪苗代湖に近づくころには青空になる。昨年の高湯温泉からの帰り道と同じコース。あのときは観光船に乗ろうとしたが、休業中で、そのまま帰ったが、今回は野口英世記念館に寄る。

 

昔一度訪れたことがあったが、そのときは今のような立派な建物ではなかったように記憶している。今は英世の家はちゃんとした屋根の下で保護されている。よく知られた囲炉裏の部屋はその通り残されていて、英世の履歴と仕事内容についての展示が2階までぎっしりと展示されている。英世は立派な人だった。同じ境遇で育っても、英世のようにはならない。人って不思議だなあと思う。

記念館のそばに世界のガラス館と地ビール館がある。ガラス館は展示物がたくさんあって見て楽しいが、ビール館には呆れた。2階にビール醸造機が2つガラスに囲まれて展示(?)されているだけ。あとはレストランの席だけ。

ここで昼食をとる気持ちも失せ、昨年と同じ「猪苗代道の駅」のレストランで食べる。連れが注文した「ジオカレー」はご飯が磐梯山の形(真ん中が凹んでいる)に盛ってあって、1816mと書いた旗が立っている。お子様ランチみたいだ。

ゆっくり車を走らせて郡山へ。いつも思うのだが、トンネルの入り口がただ半円だけというのは何か味気ないと。今回、なんととても面白いトンネル入り口発見。もっと面白いのがないかなあ。

車を返して、夕方の新幹線で東京へ。夏だったら、まだまだと心残りだが、すっかり暗くなってしまった。これでいいかというあっという間の1泊の旅だった。

もう今年も終わり。来年はどんな旅をすることができるだろうか。


稚内、留萌、登別、札幌5泊6日旅行         2022年10月3日~8日

九月に入って台風がいくつもやってきて、大丈夫だろうかと気になりつつも日程変更は無理なので、とにかく出かけることにした。

予定は、稚内の納沙布岬と宗谷岬、留萌の黄金岬、登別温泉、アイヌの博物館「ウポポイ」。

天気予報ではほぼ雨。果たして夕陽を見ることができるだろうか。

 

10/3()

羽田から稚内空港へ。稚内にはANAしか飛ばないので、JALで貯めたマイルは使えず。予約した時点で23970円。鉄道だったらどうなのだろうと調べたら、東京から稚内まで新幹線や特急、ローカル線を乗り継いで14時間11分、33420円だった。飛行機なら2時間弱。飛行機よりも鉄道のほうが時間もかかり、値段も高くつくのだ。

空港バスで稚内市内へ。駅前にランドマークのように建っている高い建物がこれから2泊するホテル。私の部屋は10階。もちろん眺めは抜群。昼は駅前のラーメン屋「たからや」で塩ラーメンと決めていた。2時半頃に店の前に行ったところ、閉店だった。今日は休日ではないしおかしいなあと思ったが、翌日11時半ごろ再び行ってみてわかった。すごい人気の店で麺がなくなると閉店にするのだ。私の前に行列ができていて、あと30分で麺がなくなるから今並んでも無理と言われた。ここのラーメンを逃したのを皮切りに、旅行中の食事は何もかも希望通りにならなかった。

 

駅の観光案内所の女性職員はとても親切だった。私の希望と天気の具合を勘案していろいろアドバイスしてくれた。それに従って今日と明日のスケジュールを立てる。

・稚内公園。

バスはないので、タクシーで往復。途中に開基百年記念塔・北方記念館がある。稚内の歴史と文化、樺太関係の資料を展示。70メートルの展望室からは利尻、礼文、樺太まで見えるという。晴れていたとしても今日月曜は休館。

 坂道をかなりあがったところが公園。今のところ雨も上がり、上からの眺めは素晴らしい。公園内には二つの碑がある。遠く樺太のほうを見つめる引揚者の像のある樺太島民慰霊碑「氷雪の門」、もう一つは「9人の乙女の碑」。これは、1945年8月20日、樺太真岡町の郵便局でソ連軍侵攻を前に青酸カリで自決した9人の電話交換手の慰霊碑である。慰霊碑の中央には、乙女たちの別れの言葉「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」が刻まれている。

 

沖縄ひめゆり学徒隊の敗戦間際の悲劇はひめゆりの塔としてよく知られているが、ここにも同じような悲劇があったのだ。北海道、特に稚内と樺太との結びつきは本州にはなかなか伝わらない。故郷樺太に帰りたいという人々の願いがやがて実現できるかは政治の世界の話になる。

・港北防波堤ドーム

稚内駅のそばに古代ローマの建物かと思わせる円柱とアーチの屋根を持ったドームがある。長さ424メートル、高さ13.2メートル、支柱数70本。圧倒される。高波防止用の建物である。

日露戦争後のポーツマス条約で北緯50度以南の樺太が日本の領土になると、稚内は樺太への中継地となり、小樽、稚内、樺太間の定期航路が開設された。1922年には天北線や宗谷本線がここまで線路を伸ばし、稚内は鉄道と一体になった港湾都市となった。

ただ、稚内港での停泊は北風と高波のために困難を極めたそうで、この巨大なドーム型防波堤を作ったのだという(1936年に完成。その後1978年に改修)今は利尻、礼文島航路の接岸岸壁になっている。

昨日、飛行機で乗り合わせたご夫婦が礼文島や利尻に行くツアーの参加者だった。ところが強風のため今日の午後と明日の出航はすべて欠航の表示がホテルのフロントに出ていた。あのご夫婦はどうなっただろうか。私も初めはせっかく稚内まで行くのだから礼文島だけでも行こうかと思ったのだが、なんとなく天気が気になってやめた。

・稚内駅前に短い線路が地面に残されたままになっていて、ここが「宗谷線最北の駅」という看板がある。かつてドームまで伸びていた線路が廃線になった姿である。駅のプラットホームの端にも同じ看板がある。

夕方のバスでノシャップ岬(野寒布岬)へ。なんとしてもここの夕陽が見たかった。

ちなみに、ノシャップ岬は日本海と宗谷湾を区切っている。根室半島の岬は納沙布(ノサップ)岬で日本最東端。宗谷岬は日本の最北端。

午後なら天気も少し回復しているかもしれないと午後の岬行き最終バスに乗る。ところが、だんだん雨と風が強まってきた。バスは海辺スレスレを走る。天気ならさぞ素晴らしい景色だろうが、雨で何も見えず。バス停ノシャップ岬で降り、日本で2番目の高さという赤白ストライプ模様の灯台を見て7分ほど歩くと岬が見える。日没は17時5分。雨はなんとか小降りになったものの風が強く、うまく歩けない。岬の先端に立っているイルカのモニュメントまで這うようにしてたどり着く。日が沈み始める。「ああー、夕陽だ」やっぱり綺麗。私のカメラではうまく撮れないので、いつもいつも目に焼き付けるだけ。

最終バスで稚内駅に戻ってくる。雨風がいっそう凄くなる。ホテルは駅前なのにそこまでたどり着くのに信じられないほど身体が前に進まない。駅ナカにある食堂は夕食向きとは言えないので、結局ホテルのレストランでサッポロビールと天ぷら定食。

10/4(火)

今日のスケジュールは、雨の場合、午前中に旧瀬戸邸へ。歩いても行けるがタクシーを使う。

瀬戸邸は、どこにでもよくあるが、その町の成功者が建てた邸宅である。昭和20~40年代、稚内は底曳網漁の前線基地として活気にあふれていた。石川県からやってきた瀬戸常蔵(1909~1987)はイワシの底曳き網漁で大儲けした。その邸宅である。建物は昭和27年に建てられた近代和風作りで、国の登録有形文化財に登録されている。

玄関を入ると、ガイドさんが出てきて、どのくらい説明の時間を取りましょうかと聞く。最高2時間までできるという。私は半分の1時間にしてもらう。説明がとてもうまい。

珍しいものもたくさんあった。初めて霧笛を見た。ガイドさんが鳴らしてくれた。フーン、これが霧笛の音か。すっかり忘れてしまったが、昔けっこう好きだった俳優赤木圭一郎の映画「霧笛が俺を呼んでいる」の主題歌を思い出す。

 

稚内駅構内に「鐘ポッポ」という彫刻がある。駅員が鐘を手にした像である。これは1993年にJR東日本が鉄道車両をサハリン鉄道に無償提供したお礼にもらった鐘であり、樺太がまだ日本であったときに機関車の汽笛代わりに使われていたものだという。彫刻家の流政之が日本とロシアのポッポヤの友情と絆を伝え残そうとしてこの稚内に設置したものだという。何度も書くが、稚内と樺太とのつながりは大きい。

瀬戸邸はなにかにつけ町の役に立っていた。樺太から最後の引き揚げ船で稚内にやってきた横綱大鵬幸喜が地方巡業で稚内にやってきたとき(1964年)ここに泊ったとか、1945年頃を設定した映画「北の桜守」のロケで吉永小百合がこの部屋に泊ったとか。

帰りは、町案内に繁華街と書いてあった通りを歩いて駅に。どこかで昼食をと思ったが、シャッターの降りた店ばかりの寂しい街並みだった。駅構内のコンビニ(北海道はほとんどがセイコーマート)でお弁当を買って、ベンチで食べる。 

午後のバスで念願の宗谷岬に。ガイドブックには席は右側がいいとか書いてあって楽しみにしていたが、右も左もなかった。猛烈なな雨と風で外は何も見えないまま、日本の最北端宗谷岬に着く。バスから降りたとたん、吹き飛ばされそうになる。横殴りの風と雨。写真でみた最北端のモニュメント(折り鶴をモチーフにした)「祈りの塔」、その手前横に1808年(別の場所からだったが)樺太探検に出かけた間宮林蔵の像が見える。ところが、どんなにしてもそこまでたどり着けない。道路に立っているポールにつかまり足を踏ん張ってカメラを向けてシャッターを押すだけで精いっぱい。

昔ヨーロッパの最北端ノールカップ(ノルウェー)に行ったことがある。北緯71度10分21秒、北極点から2102.3km。曇天でとても寒かったが、風がなかったせいか、特別何も困難なことはなかった。マインツ(ドイツ)の町中には北緯50度のラインがひかれているところがある。ここ宗谷岬は453122秒。稚内のノシャップ岬は4526分、59.1. わずかな差で宗谷岬が日本の最北端になる。

ノールカップも荒れたらこんなではないだろうな。でも、ここが日本の最北端なんだ。そう思うと、ある種爽快で、笑うしかない。

観光客はバス休憩所に入って次のバスを待つ。それが最終便。北海道をバスで移動して知ったのはどんな小さなバス停もちゃんと屋根付きの小屋になっていることだ。冬対策なのだろう。

10/5()

636分のJR宗谷線で幌延(ほろのべ)へ。

後日、幌延駅の自販機で冷凍の合鴨ラーメンを売ることにしたという記事を読んだ(北海道新聞)。幌延駅でバス待ちする間、あたりをキョロキョロしたが、飲み物の自販機は目にしたが、これはあったろうか。

ここから沿岸バスで留萌(るもい)へ。バス停138か所、3時間半。バスは沿岸を走るのだろうから、天気が良かったら、素晴らしい景色が見えるはずだった。稚内でもみられなかった礼文・利尻島、なにより利尻富士がみえるはず。景観からすれば、かなり残念なバス旅行だったが、人々の暮らしの一端が見えて感慨深かった。

沿岸バスと言っても、一日4本程度運行の路線バスである。観光バスではない。乗客は地元民である。海辺ばかり走っているわけにはいかない。30分から1時間かけて少し大きな町にある高校に通う学生が主な乗客だ。私の高校は地元だったから歩いて通えたが、電車で通う仲間もいた。彼女たちは放課後駆け足で駅に向かう。このバスに乗り合わせている高校生も同じような学校生活を送っているのだろうなと地方出身の私は懐かしむ。

また、こうした小さな町(村)に必ずあるのが大きな病院である。地元にも小さな個人病院もあるのかもしれないが、どうなのだろう。病院を選ぶことができているのだろうか。それは都会の贅沢なのかもしれない。なんてことを思いながらバスに乗って旅する。

沿岸バスは留萌駅近くのバス停が終点。明日の電車の時間を確認するために駅に行く。それなりに立派な駅舎なのだが、来年3月には留萌本線(留萌―寒川)が廃線になり、このJR留萌駅はなくなる。JRは一日の乗客200人以下を廃線の対象にしているようだ。代わりに沿岸バスや中央バスが本数を増やし、運賃もJRより安く設定するらしい。

新幹線ができてから、〇〇本線がどんどん廃線あるいはローカル化していく。ほとんどがワンマンカーになっている。なんか寂しい。

留萌駅の周りの店は一つ一つ店じまいして引っ越していったらしい。町の人口も今は1万9千人ちょっと。地図に描かれた繁華街も名前ばかりでさみしい。かつてはニシン漁で繁栄、ニシン街道というのもあったらしいが。

都会生活に慣れてしまった私からすると、レストランはともかく、コンビニくらいはあって普通と思ってしまうが、それは甘いのだ。

明日乗る予定の高速中央バスターミナルを確認したが、窓口はなく、切符は自動販売機、飲み物の自販機はあるが、パンとかお菓子とか売っている売り場などなし。まわりにもない。思うに、住民も旅行者もたいがいは車を使うから、それほど不便ではないのかも。私みたいに不満を言うのが間違っているのかもしれない。

さて、私が留萌に来た理由はこの町のはずれにある黄金岬の夕陽をみることだった。観光案内でもここの夕陽は絶賛。ところが、行けても帰ってくるバスがない。仕方ない。タクシーを頼む。この運転手さん、とても親切で、日没前後の時間を待ち料金なしで待っていてくれた。

 

岬には「黄金岬」碑とスイッチを押すと歌が聞こえる石碑がある。歌は1966年テレビドラマ「若者たち」の主題歌だったもの。作曲はこの留萌出身の佐藤勝。私のとても好きな歌だった。照れずに言えば、私は自分の人生のありようをこの歌に見ていたかと。

 

「きみのゆくみちは はてしなくとおい だのになぜ はをくいしばり きみはゆくのか そんなにしてまで」(作詞藤田敏雄)

 

残念ながらスイッチが壊れていて、歌は聞けなかった。

 

今日の天気も薄曇り、沿岸バスの車窓からかすかに利尻富士が見え、大きな丸い虹も見えた。しかし、夕陽はどうだろうと危惧したが、なんと素晴らしい夕陽が水平線に向かって沈んでいくのが見えた。あまりにまぶしくてカメラも向けられず、目を細めて眺めているうちに、なんと水平線上に雲がたなびき始め、あと少しというところでお日様の沈み隠れるところはみられなかった。

ホテルに戻り一休みしたところで、大げさだが念願の美味しい寿司を食べに行くことにした。ホテルで聞いて、やっと見つけたその店は「今日は貸し切り」だって。もう一軒近くにあった寿司屋に入る。味はどう? 望みすぎるとだめなのよね。

 

10月6日(木)

高速中央バスでサッポロへ。ホテルに荷物を1泊預かってもらい、登別温泉の送迎バスで登別へ。1泊くらい温泉でのんびりすることもあり、だったらこれまで来たことのない登別にしようと。ここの地獄谷は一見の価値ありともいわれているので、登別温泉に決定。北海道には「別」の付く地名が多い。アイヌ語で「川」の意味だそうな。

ホテルにチェックインしてから、まずは地獄谷へ。どうということのない坂だが、私にはきつい。15分ほど歩いていくと地獄谷。もっと広くて恐ろしいところかと思ったがそうでもなかった。しかし、登別はやはり観光地だ。客も多いし、土産物屋もけっこうある。コンビニもある。

バスが温泉街に入ったときから、町全体に鬼の像がたくさんあるのに気が付いた。焔魔堂なんて大きなお堂もある。由来を調べてみると、噴煙を上げる地獄谷が鬼の棲家のようだからということらしい。

おそらくいつ頃からかはわからないが、観光用に新しく作られたものではないかと思う。

夕食前に入ったお湯がことのほかよかった。温めでいくら入っていてものぼせない。満足。 

 

107日(金)

温泉から登別駅までバス。その後、JL普通列車で白老まで。今回の旅行は登別から支笏湖や昭和新山など見て、札幌に戻ろうと考えていた。ところが、ひょんなことからアイヌについて確かめたいことがあり、白老の「ウポポイ」に行くことにした。

1997年に「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識及び啓発に関する法律」(通称アイヌ新法)が成立する。その目的は「アイヌの人々の誇りの源泉であるアイヌの伝統及びアイヌ文化が置かれている状況にかんがみ、アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する国民に対する知識の普及及び啓発を図るための施策を推進することにより、アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現を図り、あわせて我が国の多様な文化の発展に寄与することを目的とする」

この法律によって北海道アイヌ協会には膨大な予算が入ることになった。協会はこの法律の目的のために白老市にウポポイ(民族共生象徴空間)という広大な空間を作った。そこには広い庭、博物館、体験交流ホール、レストランなどがある。この体験交流ホールで私もアイヌの歌や踊りの実演を見ることができた。

目的を読めば何ら問題はないように見える。ところが、最近、あることから 『アイヌ先住民族その真実 疑問だらけの国会決議と歴史の捏造』(的場光昭 2014年展転社)という本を読む機会があり、その結果、この法律の成立に大いに疑問を持つことになり、アイヌ協会についても不審を感じた。ただ、このことはかなり政治的なことになるので、このHPにはふさわしくない別なテーマになるので、これ以上書くのは止める。

 

白老駅から電車で札幌へ。札幌に来たのはいつだったろうか。あまりの変貌ぶりにびっくり。それまで稚内や鉄道廃線の憂き目にある留萌などを見て、札幌の町を見ると、いやでも地域格差について考えてしまう。札幌駅となりのショッピングセンター「エスタ」にはユニクロやヨドバシなど東京と変わりない店がずらりと入っている。

話に聞いていたラーメン共和国はこのエスタにある。やっとサッポロ塩ラーメンが食べられる。味? 一言いえば私には麺が固かった。味噌ラーメンはかなりニンニクが強くて、私にはきつすぎた。

 

108日(金)

アーア、帰る日が来てしまった。予定では、今日は歩かず、観光バスに乗って市内観光し、夕方新千歳空港へ。ところが、観光案内場で調べてもらったところ、バスによる市内観光は今は作っていないという。私は「はとバス」みたいな観光バスが一年中あるのかと思っていたし、ネットでは確かにあったのだが。

さて、どうしたものか、こういうとき私はたいていその町の動物園に行く。札幌には円山動物園がある。どんなものかわからないが、お天気もよいし、行ってみることにする。久しぶりの動物園。象が4頭もいた。シロクマもいた。これという動物はいなかったが、家族連れが半日楽しむにはちょうどいい。私も半日のんびりする。

それにしても新千歳空港のすごさ、すごい。この空間は何? 目が点になった。お土産屋の大群落にすっかりボーとしてしまった。温泉まであるそうだ。

予定通り18時のANAで羽田に。

 

今回はスケジュール間違えたかなと思った。今度北海道に行くことがあったら、札幌には滞在しない。代わりに支笏湖や洞爺湖などを入れた温泉地で〆たい。札幌は東京で十分。それにしてもあと2泊ほどは欲しかった。

今回の旅、夕陽や日本海沿岸など自然の景色を見るつもりだったが、歴史(稚内と樺太)や社会構造(鉄道の廃線、地域格差)、政治(アイヌ問題)など予想外の問題にぶち当たったようだ。しかし、とりあえずは満足としたい。 


9月12日(月)~13日 堂ヶ島温泉 1泊

できるなら2か月に1回は温泉巡りをしようと思って始めた温泉巡り第5弾は堂ヶ島温泉。西伊豆観光のキャッチフレーズは「夕陽の西伊豆」なんだそうだ。そこで、ホテルから見える部屋を予約。今日の日没は1757分。問題は天気だったが、ラッキーなことに朝から快晴。でも、暑かった。

912日(月)

東京から新幹線で三島まで。そこでレンタカーを借りる。これまで新幹線を利用するときは座席指定にしていたが、自由席でも大丈夫ということで、初めて往復自由席にする。いくらか節約になった\(^o^)/ 乗車時間45分、あっという間に三島着。それでも東京駅ではいつもの「30品目駅弁」を買って食べる。

 

新横浜を出てから、富士山が見えると期待していたが、新幹線はトンネルが多くて、なかなか見えない。やっと見えた富士山だが、富士山はやはり雪をかぶってないと富士山らしくない。夏富士って、まるで灰色一色の切り絵富士が空に張り付いたみたい。今度の旅行で富士を見たのは2回のみ。この写真、遠く、はるか遠くにみえているはず。

三島から修善寺まで1時間30分。修善寺はちょうど20年前家族4人で訪れて以来。ほとんど忘れている。

修善寺は807年、弘法大師空海が開基したと言われる。空海が桂川で病気の父の身体を洗う少年の孝行に心打たれ、独鈷(とっこ、あるいはどっこ)という仏具で川の中にある石を打ったところ、そこから霊泉が湧き出、その湯につかった父親の病は治ったという。川の真ん中に屋根付きでこの独鈷の湯が今も湧き出ているが、入れないし、足湯もできない。

 

なんとも暑くて疲れてしまい、この独鈷の湯の前にあるカフェで、連れはかき氷(宇治金時)、私はワサビソフト(クリームのそばにすりおろしたわさびがついている)を食べる。面白いものを考えるものだ。ワサビソフトというのは西伊豆の名物らしい。

修善寺と言えば、源頼家が幽閉され、非業の死を遂げた場所で、岡本綺堂の戯曲「修善寺物語」でよく知られている。2代将軍頼家と能面師夜叉とその娘2人。業の深い人間の話。あらすじだけも長くなるので、ここには書かない。

坂の上の2代将軍源頼家の墓と伊豆最古の木造建築指月殿(暗殺された頼家の冥福を祈って母政子が寄進した経堂)を訪れる。コロナ禍が少しおさまったからなのか、月曜なのにけっこう観光客が多い。あとでわかったのだが、ちょうどNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放映されているらしく、その影響があるようだ。

・・・誰かに盗られるくらいなら  あなたを殺していいですか  ・・・

九十九折り 浄蓮の滝 あなた…山が燃える  何があってももういいの 

くらくら燃える火をくぐり  あなたと越えたい天城越え 

              (歌 石川さゆり  作詞吉岡治  作曲 弦哲也)

 

ああ、浄蓮の滝を見てみたい、天城山を越えてみたい・・・そういえば「伊豆の踊子」もあったなあとガイドブックを見れば、天城越えは今は天城隧道を通るハイキングコースになっていて、堂ヶ島とは反対のコースになるので諦める。浄蓮の滝の滝つぼまでは階段200段を降りる。

もちろん往復で400段。近くの駐車場わきに滝の見える展望デッキがあると書いてあったので、これしかないなあと思う。ところがこの展望デッキ、とてもビュースポットとはいえない。滝つぼのそばに立っている人々の姿は見えるし、「天城越え」の歌碑(ボタンをおすと歌が流れるそうだ)は見えるが、滝はほんの一部しか見えない。下から戻ってきた人に聞いてみると、若い子だったが、登りがものすごく大変だったと、私を見て、とてもお勧めできないという顔つき。こうなればもう堂ヶ島に向かって、夕陽を見逃がさないようにするしかない。

堂ヶ島に着く。ホテルの部屋から水平線がしっかり見える。これなら夕陽は大丈夫だとうれしくなる。

まずは温泉で汗を流す。湯はぬるま湯で優しいが、前回の四万温泉の湯にはかなわない。

部屋のベランダから夕陽を見る。ここは駿河湾だが、海辺近くには大小の奇岩が顔を出している。それらの中の並んだ4つの島を三四郎島といい、干潮の時には海岸手前の伝兵衛島まで瀬が現れて、そのまま渡れる。この現象を「トンボロ」(陸繋砂洲。イタリア語)というらしい。フランスのモン・サン・ミッシェルや江の島も同じ現象である。

ホテルには夕陽の時間と干潮時間(完全に引き潮にならないときは渡れない)のリストがある。今日はもう終わっていて、明日は午後2時過ぎらしい。残念ながらそのころには帰途に着かねばならないので、いつかまた。

部屋から見下ろす海はあくまで碧い。そろそろ日没だ。

 海は広いな 大きいな  月がのぼるし 日は沈む

・・・

海にお舟を浮かばせて 行ってみたいな よその国

913日(火)

10時から出航する堂ヶ島遊覧船に乗る。20分ほどだが、島々の岩肌をまじかに見、日本の「青の洞窟」と言われる島の洞窟を通り抜ける。船のガラス貼り天井から上を見上げる。今日は曇りだと観念していたので、なんとも快晴で本当によかった。イタリアの青の洞窟には行ったことはないが、これで十分(!) 

遊覧船を降りて、海岸沿いを走り、黄金崎(こがねざき)で降りる。展望台に上がると、駿河湾に面した断崖が目の前に、風化によって削り取られた岩肌が黄褐色に輝いている。この黄褐色の大きな岩は海の水を飲もうとしている馬の頭に見えて、馬ロックというそうだ。

ここから富士がよく見えるということだったが、その方面には残念ながら雲がたなびいていて見えない。今回の旅では富士山を縁がなかった。

展望台の登り口に三島由紀夫の碑がある。父親の梓氏の揮毫である。『獣の戯れ』に出てくる一節。『獣の戯れ』は昭和36年に週刊新潮に連載され、新潮文庫になったもの。その中で三島はこの黄金岬のすばらしさについて書いている。作品は久しぶりに三島の文体に触れて懐かしかった。昭和30年代のあれこれが懐かしかった。『獣の戯れ』の一節

 

「黄金崎の、代しゃいろの裸の断崖が見えはじめた。沖天の日光が断崖の真上からなだれ落ち、こまかい起伏は光にことごとくまぶされて、平滑な一枚の黄金の板のように見える。断崖の下の海は殊に碧い。異様な鋭い形の岩が身をすり合わせてそそりたち、そのぐるりに膨らんでせり上がった水が、岩の角々から白い千筋の糸になって流れ落ちた。」

本当にこの通りだった。

ここからの眺めは、私がもし「日本100名景観」を作るとしたら、その一つになるだろう。

しばらく海を眺めて、沼津に向かう。魚市場の食堂で美味しい海の幸を楽しんで帰ろうという予定。海鮮丼か握りもいいし、てんぷらもいいしと、あれこれ考える。店もたくさんあり、昼時ともあって、けっこう人も多い。ネットで調べた人気の高い店に入る。ところがこれが大間違いだった。選んだメニューも悪かったのか、寿司は新鮮な魚の味がしないし、3種てんぷらもなんだかなあという感じで、しまった感いっぱい。

三島に戻り、レンタカーを返す。新幹線の駅ならお土産も買えるだろうと思っていたが、これも大間違い。吉祥寺のキオスク程度の広さの店が一軒。それでも見つけていたものがあってよかった。それは「猪最中」という和菓子。道中、電信柱に「猪最中」と書かれた宣伝文がたくさんあって、猪の絵まで描かれている。よし買って帰ろうと思ったのに、ホテルのショップ(ちいさい)にもなく、やっとここで見つけた。天城山には猪がたくさんいて、今も猪鍋を食べることができるそうで、猪は天城の名物なんだそうだ。猪最中は皮が猪の形をしていて、可愛い。しかし、味は普通の最中だった。

今回の旅、美味しいものとはちょっとばかり縁がなかったし、浄蓮の滝もだめだったし、でも、駿河湾の堂ヶ島の日没と月の出、黄金崎の素晴らしい景色に出会えた。それでじゅうぶん。

さて、次の温泉地はどこにしようか思案中。


7月19日~20日  四万温泉 1泊

「いい湯探しの旅」第4弾は群馬県中之条にある四万温泉に決定。

 ちなみに 第一弾(2020年奥多摩)、第二弾(2021年高湯温泉)、

第三弾(2022年下部温泉)

 

719日 (火)

東京からあさま号で高崎まで。駅前でレンタカーを借りて四万温泉に向かう。

高崎市内を出ると、かなり激しい雨。このところ、全国的に連日豪雨。お湯に入るのが目的とはいえ、天気はいいのがいい・・・ 

中之条に入る直前、メロディーラインと書かれた看板があった。私は全然知らなかったが、道路に溝をつけて、そこを車が走るとメロディーが聞こえる仕組みになっていて、群馬県だけでも10か所あるそうだ。私たちが通った道路は「いつも何度でも」(「千と千尋の神隠し」に出てくる歌)という曲だった。「星に願いを」とか「雪山賛歌」のある道路もあるようだ。

四万温泉に向かう途中に「甌穴(おうけつ)群」という名所がある。ウィキによれば、「川底の石が流されずに同じ場所で揺れ動き、その摩擦でくりぬかれた穴を甌穴という。何万年もの歳月をかけてくりぬかれた穴は大小8つあり、巨大なものは幅3メートル、深さ3.2メートルにもなる」という。

豪雨によって流れが凄まじく、川底の見えるところまで階段を下りていくのは困難だった。

ウィキに載っている写真を見ると、なるほど、こんなふうに見えるのかとわかるが、それは相当よい天候のときのようだ。

降り口そばにカフェがあり、その入り口前の柱の上に何万年前に丸くなったという石の一つが飾ってあった。この石をなでなでするとご利益があるというので、なでなでした(笑)。

 

翌日再び通りかかった。雨はやんでいたが、私には下まで降りるのは無理。橋の上から目を凝らすと岩の中から流れだす水が見える。それが穴の一つだろうか。写真にはうまく撮れなかった。

雨の中の甌穴群を見て、奥四万湖に向かう。この湖は洪水防止用のダムのために作られた四万川による人工湖である。四万川は利根川水系我妻川支流の一級河川。中之条に入ると、車窓から大きな川が激しく流れているのを目にしたが、それが四万川、一級河川でも「上」ではないかというほど豊かな水量である。

ダムから見下ろす湖面は、曇天なのに実にきれいなコバルトブルーなのに驚かされる。

これもウィキによれば、「湖水に含まれるアロフェン(アルミニウムケイ酸塩粒子)のレイリー散乱によるものと考えられている。これは、裏磐梯の五色沼(瑠璃沼、青沼)と同様の呈色機構である」とのこと。機会があればお勧めの湖。 

湖から下へと降りていくと四万温泉郷に入るのだが、その入り口に日向見(ひなたみ)薬師堂がある。古くて小さいがなかなか立派なお堂である。国指定重要文化財だという。

989年のこと、源頼光の家来がこの地でお経を読みながら寝てしまった。すると夢の中に童子が現れて「あなたの読経に心動かされた。四万の病気を治す温泉を与えよう」と言ったそうだ。目を覚ますと枕元に温泉が湧き出ていたという。これをもとにお堂を建てて本尊の薬師如来像をまつった。四万温泉の由来である。

現在の堂は1598年建立である。格子戸に小さな穴が開いているので、覗く。奥に薬師如来像と思われるものがぼんやり見える。お堂には食べるものに困らないようにという願いから、絵馬ならぬしゃもじを奉納しているようだが、残念ながら見えなかった。

昼食はお蕎麦が食べたかったのだが、よさそうな店がなかったので、シマノネというちょっとしゃれたレストランに入る。私はホットドックにする。ところがこれがすごいボリューム。でも美味しかった。

今晩の宿は積善館という古い旅館。「千と千尋の神隠し」のモデルとなった建物ということで有名らしいが、道後温泉の本館もそのモデルだと言われていて、日本にはそういう建物がいくつかあるらしい。

私たちがこの宿を選んだ理由は昔の湯治場の名残が残っているということ、つまり新しい部屋ではなく、古くて、部屋にはトイレも洗面台もないし、布団は勝手に自分で敷く。部屋で食事したかったら、お弁当式の食事をもってこれるという。なんかとても手抜きな内容で、もちろん値段も安い。とはいっても夕食のつかないビジネスホテルよりも高い。でも、そんな湯治場の雰囲気を味わってみようということで決めた。

国道から四万川にかかる橋を渡ったところが四万温泉郷。積善館は四万川に合流する新湯川(ネットではシンユカワと書いてあるが、地元ではアラユと言っている)にかかる赤い橋(慶運橋)を渡ったところ。大昔の湯治場に時代とともに新しい建物が増築され、内部は階段と廊下でつながれていて、迷路のよう。私は何度も迷う。新しい時代に合わせてエレベーターがあるのだが、止まる階は細切れ。1階だけというのもある。面白いと言ってもいいのかな。

食事はチマチマしたものがたくさん入った弁当に焼き魚や茶わん蒸しなどが付く。しかし、これ!という美味しいものがなかったのは残念。朝食のほうがむしろよかった。

しかし、ここで一番よかったのはなによりお湯の質だった。透明ですべすべして、肌にしみこむような優しい湯。ここには5種類の湯殿があり、どれも同じ湯質。これまでの温泉で今のところナンバー1かな。

四万の病を治すというここの湯は飲める。紙コップ三分の一ほど飲む。私の現在の悩みである50肩と腰痛などメージャーもメジャーな病だもの。なんとか治りますように。

7月20日(水)

9時半にチェックアウトして、今日の目的地榛名湖(はるなこ)に向かう。今日はなんとか晴れ間が見える。

昔、2度ほどきたことのある伊香保温泉のそばにある湖。懐かしい。あの当時はロープウェーはなかったが、今はゴンドラで榛名富士の頂上まで行ける。それほど快晴ではなかったが、頂上からかすかに本物の富士が見える。妙義山浅間山も見える。そういえば、このあたりは国定忠治の故郷だ。忠治地蔵とか墓もあるそうだ。

榛名湖に観光遊覧船があったら乗りたいと思ったが、観光ボートと釣り船だけだった。平日だからとは思っても、湖畔は実に閑散としている。コロナの影響だとしたら、本当に気の毒なことだ。

開店している湖畔の店に入る。ワカサギ料理が主だったが、私は川魚はあまり好きではないので、カレーライス(笑) 

伊香保にでるには長い長い急カーブを走らなければならないので、残念だが、伊香保はパスして高崎駅に直行。

高崎駅の構内タリーズでケーキとコーヒーで一休み。

3時15分の電車で帰る。

四万温泉は、思いもかけない「いい湯」だったので、満足。「いい湯探しの旅」第5弾はどこにしよう。

 

書き忘れたが、四万温泉にいる間中、鶯とホトトギスの鳴き声がずっと続いていた。托卵の時期なのか。


5月26日~31日 5泊6日 秋田・男鹿・平泉

私は秋田と相性が良くないようだ。2021年にはコロナ禍で東京からの観光客は来ないでという秋田市の公式サイトに泣く。その時は秋田から東京までの航空券をすでに購入していたので、竿灯館だけそっと見て空港へ。大雨だった。今年になって改めて計画立てていたら3月の東北地震で鉄道が不通となり、今回やっと秋田入り。梅雨時だが、秋まで延ばしたくなかったので、春に予定していたコースそのままで出発。

 *下の写真は私のお気に入りの駅弁(東京駅)

5/26   木 角館               

 角館を目的地にした理由は2つ。1つは桧木内川(ひのきないかわ)の土手沿いの桜並木と武家屋敷通りの桜並木。もちろんすでに葉桜になっているのは承知。

 

もう一つは町中にある新潮記念文学館。角館は新潮社の初代社長佐藤義亮の故郷である。その新潮社の記念館、なんと来月からの特別展の準備で休館中という。しかたない、近くに佐藤家の菩提寺である天寧寺(1791年建立)があるので行ってみる。町に記念館があるくらいなので、墓地に立札の一つもあっていいと思ったがない。広い墓地なので探し出せない。住職さんもいないみたい。そこに葬祭用の車がやってきて、お寺に用事があるのだろうか若い女性が降りてきた。そこで、記念館のことやここが菩提寺だということを説明し、尋ねてみる。彼女は一生懸命聞いてくれたのだが、最後の一言でガックリ。「それって会社ですか」。なるほど、新潮社なんてそんなものかも。ちなみに佐藤義亮の銅像は朝倉文夫作(1953年)である。

 

また、新潮社記念館前に見たことのある絵を彫った石碑があった。よく見ると、あの『解体新書』の扉絵である。これを描いた画家は小田野直武(1749年生まれ)といい、角館の人だそうな。

ホテルのレストランで夕食。比内鶏親子丼が食べたかったので、注文。ついでに、ビールを一杯と思い、メニューを見てびっくり。名古屋赤味噌ラガー(金しゃちビール)だそうな。もちろん注文する。なんと、かすかに味噌の香りがする珍しいビールだった。けっこう美味。

5/27

 ずいぶん前から男鹿半島に行ってみたかった。ここでも見たいものは三つ。一つはナマハゲの実演を見せてくれる伝承館。もう一つはそこから山道を登ったところにある真山(しんざん)神社。このそばに1万体の仏像がびっしり壁に飾られているお堂があるという。もう一つは男鹿半島先端入道崎の夕陽。

 男鹿半島は車なしの旅行者が自由にコースを決めるのは難しい。ナマハゲシャトルという車を前日までに予約する。これは発車時間が決まっていて、観光名所をつないで連れていってくれるタクシーのようなもの。

私が乗ったシャトルについて参考まで。

男鹿駅前から伝承館まで(1100円)。伝承館から男鹿温泉中央まで(1100円)

男鹿温泉中央から水族館まで(1100円)。水族館から入道崎まで(1100円)

 入道崎から男鹿駅まで(2500円) 相乗りが1回だけで、あとは私一人。

男鹿駅観光所で伝承館や水族館など6か所の入場券を1000円で売っている。かつ、このチケットにはお土産500円券付きというべらぼうな安さ。 

この観光所で案内係の女性に「Nさん?」と声をかけられる。私が予約したシャトル便の時間がもう1便早いのでいいのではないかというのである。1時間半ほど遅い便になるからだ。真山の万体仏を見に行きたいからと答えた。すると、彼女は困ったような顔をして、今日の天気では山道歩くのは難しいですよという。私の姿を見て判断したのだろうと思う。そう言われるとそれでも行ってみますとは言えなくなって早い便に変更してもらう。

誰か連れがいれば行けたかもしれないが、残念だった。後にシャトルの運転手にはそんなにたいしたことありませんよ。往復30分で行けますよ。ムリだったら引き返せばいいと。このとき相乗りしていた若者二人は行ってきたという。どうということなかったですよと。成人男性や若者の足と今の私の足は悲しいくらい離れている。ただし、いつか、もう一度挑戦してみたい。秋田から日帰りもできるから。

私が選んだ男鹿温泉旅館はネットレビューによると、女将がものすごく親切だけど、建物は古くて汚くなくて二度と泊まらないとさんざんな評価だった。そんなところをなぜ選んだかというと、温泉旅館はたいていそうなのだが、一人だけで宿泊できるところは少なく、男鹿もここしかなかった。確かに古い建物だったが、1泊だけだからなんとか我慢できたし、それほどひどくはなかった。

この旅館では夕陽ツアーというのがあって、一人でも(2000円)入道崎まで連れていってくれる。残念ながらお天気がよくなかったので、すぐそばの五風会館でナマハゲ太鼓の実演を見ることにする。五風という太鼓たたきのグループ(女性1、男性3)の実演である。これが実によかった。バチの音にひたすら引き込まれた30分だった。すばらしかった。これだけを聞きに男鹿にやってくるファンがいるという。納得。

5/28 土  

旅館から水族館へ。男鹿の海に接して立っている大きな水族館。窓から見下ろす男鹿の海はちょうど満ち潮だったのか、近くに点在する小岩の群が次第に隠れていく。どの水族館にもあるのだろうか、私が初めてみたのは「治療中」と書いたパネルのある大きな水槽だった。こんなに大きな水族館だから、「病魚?」もたくさんいるのだろう。

水族館から入道崎に。風が強い。灯台は思ったより低く、らせん階段115段だそうだが、やめる。ここの灯台は日本で登れる灯台16の一つだそうだ。昔、犬吠埼の灯台に登ったことがあるが、あのころは若くて元気だった。足が悪いのは悲しい。しばらく海をみて、男鹿駅に戻る。男鹿駅から秋田へ。

5/29 日

 たびたび秋田を目的地にするのは、秋田近郊のカトリック聖体奉仕会修道院にある「涙を流すマリア像」を見るためである。一昨年は県外者拒否だったが、今年は緩くなり、4月と5月は日曜日の13時から16時までならマリア像を拝めることになった。

 

1963年秋田市の彫刻家若狭三郎が作った木製のマリア像が1975年から1981年までに101回涙を流したという。その涙は判定によれば人の体液だったという。

秋田のマリアの奇跡についてはウィキの説明に任せる。秋田の聖母マリア – Wikipedia

私はマリアの奇跡を信じて行ってみようと思ったのではない。もし本当にこの秋田のマリア像に奇跡が起こったのだとしたら、それはどんなマリア像(写真では知っているが)で、マリアが101回も出現した地とはどんなところなのか実際に見てみたいと思ったからである。

ところで、ウィキにも載っていたが、101という数字の解釈はとても面白い。最初の1はイブ、最後の1はマリア、その間にある0は永遠の神の存在を現しているそうだ。秋田のマリアも、言えば、101回で完結ということなのか。

 そういえば1991年に「101回目のプロポーズ」というテレビドラマがあった。これは99回お見合いをしてだめだった男性が、ある女性と100回目の見合いをし、101回目のプロポーズで成功するという話だった。脚本はあの野島伸司。調べてみたが、秋田のマリアとは関係ないようだ。

 

この修道院は浦野堂宮工芸(群馬県高崎市)の宮大工によって建てられた入母屋重層造りの完全な日本建築で、広い祈りの苑もなんと完璧な日本庭園である。「カトリックが日本の精神風土に根づくようにとの願いを」込めたそうだ。

修道院内の祭壇も障子(!)をあけて見せてもらえる。内部もマリア像も撮影禁止だったので載せられないが、これもウィキを載せる。

 カトリック修道院 聖体奉仕会【公式ホ-ムページ】| 秋田の聖母マリア (seitaihoshikai.com)

 

 

修道院に行く前に、これも念願だった秋田県立美術館へ行く。ここには藤田嗣二の「秋田の行事」(1937年)という大きなキャンバス(365×2050m)絵と作品十数点がある。

秋田の人平野政吉(1895-1989)は藤田に対する思い入れから絵を収集し、かつ藤田を秋田に呼んで大きな絵を描いてもらい、財団法人として美術館を設立したのである。作品数としては10点ほどだが、堪能できた。撮影禁止。特別展は風景木版画家川瀬巴水(1883-1957)展。しっとりした風景は心休まる。

秋田はこの土、日に東北絆祭りというイベントがあり、東北6県が集まって祭りを披露するそうだ。駅前から会場まで無料シャトルバスがあり、観光客が長蛇の列だった。事前に知っていたら時間をやりくりして見に行くこともできたかもしれない。美術館前の建物の壁がスクリーンになってライブ中継されていた。しばし見る。

 

この夜食べようと思っていた駅ビル内の「稲庭うどんの店」に行ったら、祭りのためにやってきた大勢の客のためにてんぷらはすべて売り切れて、うどんだけならありますとのこと。うどんだけでも美味しかった。

5/30 月

最初は秋田で終わりにする予定だったが、いまだ訪れたことのない平泉(中尊寺金色堂)に足を延ばして帰ることにした。

秋田から横手、北上で乗り換え平泉に午後到着。横手から平泉に向かう北上線はお勧め。車窓から見る景色は素晴らしい。山ふじが満開。ゆだ錦秋湖駅の錦秋湖とは人造湖だが、けっこうな観光地のようだ。その前の駅は和賀仙人(わかせんにん)駅。どんな謂れがあるのか調べたが不明。このあたりの駅名は面白いのがある。奥羽本線の「後3年」駅は、まさしくここが古戦場だったから。昔歴史の授業で習ったっけ。奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦い(1083年~)。盛岡には前九年駅があるという。

 秋田市では「手形休下町てがたきゅうかまち」というバス停があった。由来はまだ調べていない。

今夜は民宿。荷物を預けて、タクシーを呼ぶ。平泉の観光名所めぐりのとても安い「市内観光バス」があるのだが、土、日、祝日のみ運行なのだ。ユネスコ文化遺産の町になったのだから、もう少し観光客のことを考えてほしい。

そこでタクシーと交渉。こんなコースで合意。民宿→金色堂→中尊寺本堂下のタクシー乗り場から高館義経堂→そこから民宿まで。それぞれの区間で料金払う。

 

平泉では民宿を予約。道がわからず30分も迷う。玄関先には「welcom N・・・様」と書いた紙が貼ってあった。11組しか受けないそうで、宿のご夫婦も施設もすべてにおいて合格点だった。ただ、あまりに親切に応対してくれるので、なんか親戚の家に泊めてもらうみたいな感じ。贅沢な感想だが、私にはそっけないビジネスホテルのほうが気が楽だったかな。

・中尊寺金色堂 

 五月雨の 降り残してや ひかり堂

芭蕉が奥州に旅立って、ちょうど333年、金色堂を訪れてこの句を詠んだのは陰暦5月13日(太陽暦6月29日)。私が訪れたのは、ほぼ同じ日に、しかも五月雨がしばし降りやんだときだった。

本堂からゆるい坂を少し登ると金色堂のある広場に出る。この日はとてもたくさんの修学旅行生がいた。修学旅行も少しづつ解禁になったのかもしれない。

写真などでよく見る金色堂だが、思っていたよりも小さかった。それに、やはり覆堂の中に入っているお堂は無粋だ。もちろん金の建物ではすぐに傷んでしまうのはわかるが。

芭蕉の碑や銅像もある。 

・高館義経堂(たかだちぎけいどう):義経終焉の地に建つお堂。兄の頼朝に追われて平泉に落ち延び、藤原氏三代秀衡公の庇護のもと、この高館(丘)に居館を与えられた。しかし、1189年、秀衡の子泰衡の急襲にあい、この地で妻子とともに自害したと伝えられている。よく知られた話だが、義経は生き延びて、津軽半島から北海道にわたり、その後は中国大陸でフビライとして生きたという伝説も有名だ。津軽半島に旅した時、三厩(みんまや)という小さな駅で降りた。ここから竜飛崎灯台へ行くバスがでている。待合室の案内版に、義経はここから馬に乗って北海道まで飛んでいったという伝説があると書かれていたのを見たことがあった。何といっても義経伝説には夢がある。

お堂の入り口で拝観料を払って階段を数段登る。突き当り正面の下に北上川が見え、遠くに弁慶立ち往生の故事で有名な衣川がかすかに見える。

でも、北上川といえば私にはこれ!

  匂いやさしい白百合の濡れているよなあの瞳 想い出すのは 想い出すのは 北上河原の月の夜

 

右手には松尾芭蕉の歌碑。

夏草や つわものどもが 夢のあと

 

左手を少し歩けば小さなお堂があり、中に義経の木像が安置されている。このお堂は明日行く予定の毛越寺(もうつうじ)所属のもので、受付のお坊さんも毛越寺のお坊さん。芭蕉が曽良を連れてやってきたのは1689年6月29日(太陽暦)のことである。ちょうど333年前になる。 私は芭蕉がうたった夢のあとを見たかったので、念願叶った。

5/31

 

 毛越寺は民宿から歩いて5分くらい。残念ながら雨がひどく降り出した。民宿にトランクを預け、傘を差しながら寺へ。ここの見どころは広い池を一周する日本庭園。たくさんのお堂。面白かったのは、後に発見されたという曲水の宴のために作られた流水路だった。初めて見た。曲水とは上から流れてくる杯が淵に座っている者の前を通り過ぎるまでに和歌を詠み、杯の酒を飲み、その杯を再び流すという貴族の遊びである。

 民宿に戻り、タクシーで迎えに来てもらい、達国窟(たっこくのいわや)毘沙門堂へ。このお堂の写真を見た時、ぜひ行きたいと思った。

岩を彫ってお堂を作るのはほかにもある。例えば、私が見たのでは、日向灘の断崖の洞窟の中に本殿がある鵜戸神社もそうだった。

 それに比べると、ここは規模が小さいが、岩の中にがっつり(!)神社が組み込まれている。ウーン、なんでこんな大岩の中にお堂を造るのか。中は撮影禁止。

平泉駅に戻り、そこから一ノ関に。まだ雨。快晴のときとは絶対違っているのはわかっているが、駅前からバスで20分ほどの厳美渓に行く。厳美渓は山梨昇仙峡と似ている。たくさんの岩の間を流れる川の見事さが売りだが、山梨県の昇仙峡のほうが雄大か。

ここではかっこう団子というのが名物。川の向かい側から団子とお茶を乗せた籠がロープで運ばれてくるというもの。今日は雨のせいか、中止。でも、店の椅子に座って食べることはできる。美味しかった。

一ノ関は餅が名物らしいが、駅前の店もコロナ禍かほとんど閉まっているし、観光客もほとんどいない。一ノ関は新幹線が止まる駅なので、構内の土産物店はそれなりに充実していたが、夕食は帰りの新幹線の中でと思ったのだが、駅弁は売れきれ。コンビニのお弁当を買う(トホホ)

こうして久しぶりの旅行は終わった。今どき多くの旅行者は自家用車かレンタカーで移動するのだろう、私のようにタクシーを使うのは思ったより割高になった。交通費45620円。宿泊代が37680円。

効率の悪いコースだったが、あれ、これ見たいという欲張りのプランではなかったので、電車の移動だけでもじゅうぶん楽しめた。

 

それにしても東北本線は1輌か2輌のワンマンカーになってしまったのはさみしい。ただ、どんな小さな駅もホームの先か後ろかにエレベーターが設置されていた。数年前はなかったと思う。とても助かる。

 

・特別記すことではないと思いはするが、とても気になったこと。

平泉の駅でのこと。先ほど乗ったタクシーの運転手がタオルを振りかざして大声で叫んでやってくる。「おかあさん、おかさあん・・・」と。私がタオルを落としていたようでそれを持ってきてくれたのだ。

相手を「おかあさん」と呼ぶことについては、これまで何ども嫌な思いをし、時には「私はあなたのおかあさんではありませんよ」ときつく言ったことがあるが、知人によると怒る私が悪いのだそうな。これは一般的な呼び方なのだからと。

では男性に対して何というのかと思った時、そういえば、やはり運転手が「昨日お父さんが・・・」と言っていたなあと思いだした。運転手の父親とは思えない話だったが、そのまま聞き流したが、なるほど、ここではそう言うのか。おかあさんという呼び方はどうも関東以北のような気がする。関西ではちょっと違う呼び方があるのではないかと思う。いずれにしてもいい感じの呼び方ではない。日本語の便利な「すみませーん」でいいのではないか。こんな場合は「お客さん」でいいのではないかと思う。

 

さて、次の旅行先はどこになるだろう。ドイツは来年の春に可能だろうか。遅くても来年の夏は行きたい。それまでに、あといくつか国内旅行を楽しみたい。


4月19日~20日 1泊 身延山・下部温泉

 今年からできれば2か月か3か月に1度は1泊の温泉旅行をすることにした。『日本100名湯』という本を参考にする。1泊ということは近場である。連れが車で疲れずに行ける範囲に限定。その初めとして下部温泉を選んだ。ここは身延山のふもとの町で、武田信玄の隠れ湯として有名だそうだ。身延山には行ったことがないので、日蓮宗総本山の身延山久遠寺をお参りして、下部温泉で1泊、翌日は河口湖の富士本栖湖リゾートというところで開催されている「芝桜祭り」を見て、「ほうとう」のランチを食して、早めに帰宅というコースを立てる。

4/19(火)

身延山久遠寺山門に11時頃着く。本当なら山門から百何段かの階段(菩提俤/男坂)を登るのだが、それは無理。脇道から本堂そばの駐車場まで車で。

五重塔、本堂、祖師堂、報恩閣(拝殿、仏殿などの総受付がある)を見て、近くから出ている登山電車で奥の院「恩親閣」へ。

 

まず私の偏見というか日蓮宗についての無知から生じた驚きをいくつか。

拝殿も本堂もご本尊様が仏陀ではなく日蓮だったこと。したがって、外の柱から本堂に流れる「五色の糸」は日蓮上人の手と結びついていた。

 

また建物の装飾が京都や奈良の落ち着いた関西風の木の色合いとは違って、なんというか日光東照宮陽明門のような極彩色であったこと。これは日蓮が関東の人であったことと関係しているのかもしれないと思った。この違いは面白かった。日蓮宗の大本山である池上本門寺には行ったことがないので、今度行って比べてみようと思う。

日蓮について簡単に。

日蓮(12221282)は鴨川市漁業の息子として生まれる。両親はそれなりの地位があったという。誕生する前年1221年は承久の乱である。権力が朝廷から鎌倉幕府に移っていった波乱の時代である。日蓮は真言密教の祈祷を用いた朝廷方が鎌倉幕府に負けたのはなぜかという疑問を持ち、かつ「なぜ多くの宗派があって争っているのか」と思ったそうだが、日蓮宗内部の争いはまさにその一つであって、分派につぐ分派が生まれる。日蓮宗は政治的な思考が強く、たとえば親鸞のように精神世界に入りこむのではなく、日蓮の教えの核は現世の政治と結びついているように思える。『立正安国論』(1260年)がまさにそれではないか。「竜口の法難」や「佐渡流罪」(12711274)も日蓮の政治活動と捉えられるだろう。偏見、無知であることは承知。でも、身延山に行って、なんとなく感じたことである。きちんと勉強しないのに、勝手なことを書けるのも自分のHPだからだ。

ロープウェイで奥の院の恩親閣まで。ここで昼食をと思っていたのだが、レストランは閉まっていた。この日は身延市の休日なのか、下におりても、ほとんどの店が休みだった。まるでゴーストタウンみたいだった。不思議。そういえば久遠寺の境内も参詣者が少なく、これが日蓮宗の総本山?というさみしさだった。

本堂付近には立派な枝垂桜の木がいくつか立っていたが完全に葉桜だった。花の時期にはさぞ素晴らしいだろうと想像できる。ところが、今回、河口湖のほうに行くにしたがって満開の桜が姿を現すので、びっくり。帰ってきて翌日のニュースで富士吉田は桜が今が満開と報道していたので、なるほど、この辺はずいぶん遅いのだとわかった。

夕方早くに目的の下部温泉ホテルに。私には好都合な温めの湯だった。のんびり、のんびり湯を楽しむ。夕食は節約してバイキング式にしたが、「やっぱりね」という料理だった。

しかし、贅沢な旅行をするのではないと決めたのだから、これで十分。

420日(水)

「芝桜祭り」の会場へ。ちょっと寂しいなあと思ったら、今日の芝桜は3分か4分咲きらしい。それでも紫色のムスカリや黄色いレンギョウなどきれいに植えられている。そして芝桜の花壇のはるかかなたに富士山が見える。ただ、くっきりの富士とは言えず、雲が動いて頂上が見えたと思ったら、また雲という具合だった。

予定通り河口湖近くの店でほうとうを食べて、帰途に就く。

「湯に入ってのんびりすごす」という目的は達した。次回は6月か7月頃、どこにしようかと、さっそく『100名湯』を手にする。