ザーゲの旅 2016年


大阪・秋吉台・広島 <9月3日~9月6日>

 

 義理の甥の結婚式に出席するため、9月3日に大阪入りする。せっかく大阪まで行くのだから、そのまま帰ってきてしまうのももったいないので、前々からぜひとも行きたかった秋吉台秋芳洞に行き、帰路、広島に寄ることにした。

 

 台風が日本列島を襲い集中豪雨の被害も出てきて、旅行には最悪の天候になりそうだが、結婚式を動かしてもらうわけにはいかないので、大雨を覚悟で出かけることにした。

 

9月3日(土)

 雪のかぶっていない富士山を上から見たのは初めてだったような気がする。雲の上から黒い(そう見える)富士山が突き出ている様はなんとなく異様に見えた。富士山はやはり雪が似合う。

 

9月4日(日)

 結婚式のあとそのまま新大阪から新幹線で新山口駅へ。2時間で着いてしまうが、運賃12930円は高い。新山口駅は新幹線用の駅として作られたので、駅前はホテルやレンタカーの会社が多い。ここで1泊。 

 

9月5日(月)

 新山口新幹線口から10:00の防長バスで秋吉台バスセンターまで。約45分。荷物を持っての移動だったので、コインロッカーがあるかどうか事前に観光案内所内に尋ねたところ、大丈夫とのことだった。

 確かにコインロッカーに荷物を預けることができたが、大が700円とはちょっと高い。

 

 私は鍾乳洞が大好きで、ヨーロッパに旅行したときなど、近くに鍾乳洞があればなんとかスケジュールに組み入れるようにしている。ただ、日本の鍾乳洞は残念ながら大きなところでは沖縄ワールドの玉泉洞、小さいながらも面白い日原鍾乳洞の2つしか行ったことがなかった。いつか日本最大と言われる秋吉台秋芳洞に行って見たいと思っていた。やっと念願が叶った。

 

 ところで、秋芳洞だが、私はずっと「しゅうほうどう」と呼んでいたが、1963年山口国体を期に「あきよしどう」と呼ぶことになったそうだ。

 昨日の天気予報では台風12号が山口を通るとのこと。もし鍾乳洞の内部が浸水していたら、入洞禁止になるだろう。この朝、台風は温帯低気圧になったという。そして今は小雨でなんとかなりそう。

 

 鍾乳洞内は細長く、秋吉台正面入り口と黒谷入口の2か所のほかに、ちょうど中間にカルスト台地展望台に出るエレベーター口とがある。どこからどうして歩いたらいいか、ネットで見てもよく分からなかった。

 案内所で聞いたところ、展望台行きのバスがあるので、そこで降りて、カルスト台地を見て、5分ほど歩けばエレベーター入口があるという。そのルートで行くことにする。 

 

 展望台の前にはカルスト台地特有の石灰岩が小さな壁のようになって見える。そこからはるか向こうの台地まで歩いていくことができる。一面石灰岩の原っぱが広がっているらしい。残念ながらそこまでは

行かなかった。

 

 エレベーター口から地下に降りて、黒谷入口に向かって歩く。一年中摂氏17度ということだったが、それほど寒くなかった。日本一と言われるだけあって、広い。玉泉洞やヨーロッパのいくつかの鍾乳洞はレーザー光線を使って幻想的な世界を作り出していて、それはそれで素晴らしかったが、秋芳洞は自然そのままの姿でよかった。45分ほど洞内を歩いて外に出る。 

 

 鍾乳洞入口からバスセンターまでちょっとした商店街になっている。道端に祈るお坊さんと河童の銅像があった。

 土産物屋の中のレストランでは河童そばが名物だった。なぜ河童かというと、この地に伝わる河童伝説に由来するそうだ。

 

 1354年、厳しい日照りが続き人々は苦しんでいた。そこで、この地に住む寿円禅師が秋芳洞(当時は滝穴と言った)に入り雨乞いを始めた。

 それを見た河童はかつて禅師の池の鯉を食べたことがあったので、自分を呪い殺そうとして祈祷しているのだろうと思い、さまざま邪魔をする。しかし、ひたすら雨乞いをする禅師に心うたれ、弟子となった。

 21日目の満願の日に大雨が降り、禅師は池に身を投げて感謝の意を示した。それを見た河童は禅師を助けようとして自分も溺れて死んでしまった(河童の川流れ?)。村人は寿円禅師とともにこの河童も禅師河童として弔ったという。 

 

 それにしてもこの河童そばの味は奇妙だった。鉄板の上に乗っていて熱い。つけ汁は甘い。でも案外リピートしてしまうかな。そのまま新山口まで戻ることはじゅうぶん可能だったが、1泊くらい温泉に泊まりたいものと思って調べたら、秋吉台と新山口の中間あたりに湯の口温泉というのがあったのでそこに泊まることにした。 

 

9月6日(火)

 湯の口温泉から新山口に出て、そこから新幹線で広島へ。広島は大学2年の夏に訪れて以来だから、なんとも大昔のこと。平和公園に行き、平和記念資料館を見る。東館が修復中だったので本館のみ。思ったことを文字にするのは今ここではとても出来ない。

 公園内の平和の灯や記念像などを見て、原爆ドームへ。その横手に本当の爆心地だった島外科内科医院がある。この建物上空600メートルのところで炸裂。今日も青い空。 

 

 広島城へ行く前に、ここは広島、なんといっても広島焼きでしょうということでお好み村というところへ行く。平屋建ての店や広島焼きの店が数階占めるビルなど、まさにお好み焼きゾーンだった。

 ネットで調べた店があったので、そこに入る。焼いているところを見ていたが、信じられないほど大量のキャベツを盛り、イカ、豚肉を乗せる。しばらくするとキャベツがしんなりしてきて、写真のような平らな形になるが、私の顔くらいあるか。隣の女性客は半分ほど残していた。私は頑張って完食する。

 

 広島城は木造の美しい城だった。内部の展示(主に城の歴史についてのパネル)を見ながら上まで階段を登る。

 広島城の敷地内に護国寺があり、道路側に大きな石の鳥居がある。この鳥居は原爆投下でも生き残ったそのままなのだそうだ。爆風によって町全体は破壊されたが、爆風を垂直に受けた場合、この鳥居のように破壊されないという。 

 

 広島といえば、なんといっても今年のカープ。この時点でマジック4。お好み焼き屋の店員の着ている真っ赤なエプロンや店内のポスターもそうだし、広島駅の土産物屋もカープ、カープ。なにせ25年ぶり。黒田も最後は古巣に戻ってきたのだ。私はカープフアンではないが、今年は優勝させてもいい(でも来年はどうかな?余裕の上から目線)。

 

 広島空港のチェックインカウンターでこんな写真を撮ってきた。モデルになってくださってありがとう。また、ほとんど美味しくないスナック菓子も袋につられて買ってみた。10日、カープの優勝が決まった。

 

 広島空港19:35発で、羽田に20:55着。短い短い旅だった。 


ドイツ(ベルリン、トイトブルク、ミュンスター) <7月23日~8月4日>

 

 今年の夏は旅行期間がちょっと短めになってしまったが、もう一度行ってみたい町、初めての町など、ドイツ限定でゆったりとしたスケジュールを立てる。

 

7月23日(土)

 成田からデュッセルドルフ乗り換えでベルリン・テーゲル空港に。ベルリン4泊の予定。中央駅そばのホテルにチェックイン。このホテルは滞在期間中市内交通フリーのチケットがサービスなので、とても助かる。

 

7月24日(日)

 今日はシュプレーヴァルトの舟遊び。テーゲル空港に向かう機内から見下ろすと、幾筋もの川やかなり大きな湖がいくつも見える。オーダー川やハーフェル川、そしてシュプレー川だろう。ハーフェル川の支流シュプレー川はベルリン市内を流れる全長400キロの川である。

 

 大昔、旧東ベルリンの友人がベルリン市内から西に流れるシュプレー川の遊覧船に招待してくれたことがある。今回はベルリン市内に入る前のリュッベンという町を流れるシュプレー川遊覧を企画した。

 ここはキュウリのピクルスの名産地だそうで、いろいろな種類のピクルスがあるというので、楽しみ。

 

 リュッベン駅からバスでリンデンシュトラーセまで。ここにシュプレー川ボートツアーの乗り場がいくつかある。好きな乗り場を選んで乗る。

 遊覧船は船というより大き目のボート。約2時間の川巡り。特別これという見所があるわけではないが、シュプレーの森(シュプレーヴァルト)を流れる小さな川をのんびりと走る。

 

 船着き場そばにある土産屋ではピクルスが食べられる。土産用の箱詰めや瓶詰もあるし、試食もできる。薬草を使ったオーソドックスなものから、西洋ワサビ入り、ニンニク入りなどかたっぱしから試す。ピリッと辛いワサビ入りの瓶詰を土産に買う。箱詰めの賞味期限は1週間という。

 

 午後には市内に戻り、地下鉄のメーリングダムで降りる。ここには行列の出来るベルリン一のケバブ屋がある。昼はここと決めていた。噂にたがわず屋台の前にはずらりと行列。なんとか1時間待ちでゲット。

 串焼きのケバブではなく、デーナーケバブ(ドイツではケバプ)をパンで挟んだものである。昔食べただけでなんとなく敬遠していたが、さすがこの店のケバプは美味しかった。でも大きくて全部は食べきれなかった。

 このケバプ屋のすぐ近くにカリーヴルストの店があり、これまで一番だったエーバースヴァルダーにある店を越えたそうだ。ここも行列していた。私の好きな今は二番になったカリーヴルストの店は明後日の楽しみ。

 

7月25日(月)

 ベルリン・ハイ・フライヤーに乗る。チェックポイント・チャーリーからちょっと歩いたところにある。地上からロープで130メートルの高さまで吊り上げた気球に乗って15分ほどベルリンを一望するもの。

 正直怖かったが、なんとか達成! 

 

 午後はゼムリンにバター魔女の像を見に行く。今年の春に一度見に来たのだが、雨と寒さで滞在時間5分というお粗末さだったので、今回もう一度行くことにした。快晴とはいかない曇天だったが、春には行けなかった村外れにある湖まで歩く。ゼムリンは小さな海水浴場、ボートや釣り船もあり、ゴルフリゾート地だった。

 

 ホテルに戻り一休みしているうちに、うとうとしてしまい、市内遊覧船の最終に間に合わなくなった。この遊覧船は中央駅そばのシュプレー川乗り場から出発して、博物館島を見ながら一回りするもの。

 以前、ドームそばの川岸から遊覧船を見て、いつか乗ろうと思っていたのだが、次回に延ばすことにしよう。

 

7月26日(火)

 今朝はベルリン一を明け渡してしまったエーバースヴァルダーのカリーヴルストの店に行く。二番だろうとやはり美味しい。付け合せのポテトサラダが抜群に美味しい。 

 

 今日はいくつか美術館を巡る。

 

・アルテ・ナショナルギャラリー

 ドイツの画家の作品が中心。久しぶりだったので新鮮な感じで面白かった。

 

・ドイツ史博物館

 初めて見る。西暦500年から現代までの展示資料が豊富でびっくりした。ドイツ史に関心がある人にはお勧め。

 

・ベルクグリューン美術館

 実はここで大失敗。ベルクグリューン美術館はシャルロッテン宮殿の向かいにある建物。ピカソの絵がたくさんあるというので行ってみることにした。

 中に入るとバウハウス風の家具やガラス製品や食器が展示されている。なんかおかしいなと腑に落ちず2階に上がるもピカソなど一枚もない。そこでアッと驚く。私たちが入った美術館は隣先にあるブレーアン美術館だった。

 どちらもBで始まっていたので、よく確かめなかった。おかげで2つ見られたからいいか。ベルクグリューン展示のピカソの絵はいいものがたくさんあった。

 

・シャルロッテンブルク宮殿

 ここにエジプト美術館が入っていた頃訪れたことがある。BC1345年に制作されたというネフェルティティ像の素晴らしさがずっと目に焼き付いている。この像は今は博物館島の新博物館に移っている。

 宮殿はプロイセン王フリードリヒ1世がお妃のゾフィー・シャルロッテのために建てた(1699年)もの。正直ドイツの宮殿はどこも同じ。豪華さでいえば中くらいかな。宮殿裏の庭園はベルサイユ似。ちょうど夏の花が満開できれいだった。奥までいけば池や東屋など見られたが、この日の暑さに少々参ってしまい、眺めるだけで市内に戻る。

 

7月27日(水)

 午前中はホロコースト記念碑を見て、ブランデンブルク門からポツダム広場に出る。ベルリン・フォールムの絵画館へ。

 私は春に来ているが、娘が久しぶりだというので見ることにした。ここは何度みても楽しめる。

 ドイツで何度見ても飽きない美術館はたくさんあるが、ここもその一つ。今回は特別展がスペイン黄金時代展。特にエル・グレコの「無原罪の御宿り」や「聖マルティヌスと乞食」が見られてよかった。

 

 昼食はヴィッテンベルクプラッツにあるデパートKaDeWe(カーデーヴェー)のバイキング式レストランで。KaDeWeはベルリンの高級百貨店だが、私はこの名前が何の略なのか考えたこともなかった。

 今回初めてKaufhaus des Westen (西側の百貨店)だと知った。ベルリンが東西に分断されたときにできた西側にある百貨店と言うことなのかと思ったら、1907年創業の実に古くて由緒ある百貨店だったので、単に地理的な意味だったのかもしれない。

 

 ドイツの一般的な百貨店はカウフホーフとカールシュタットで、これは庶民的なデパートである。多くは地下に食料品売り場があって、私はドイツ土産はだいたいここで買う。そしてこのようなデパートには

たいていバイキング式のレストランがある。何を食べていいのかわからないとき、あるいは少しだけ食べたいときに私はよく利用する。 

 

 夕方の電車でビーレフェルトに向かう。今回の旅行前にドイツ鉄道のHPに面白いサイトを見つけた。た

とえばベルリンだったら市内を走る市電や特急、バスが今どこを走っているかリアルに見られる。

 特急も快速もその列車番号が記されていて、特急の場合は電車のイラストが描かれていて、それがチョ

コチョコ走っていくのがわかる。実に面白い。

 

 自分が乗っている特急の中でこのリアル路線図を見てみたいと思っていたが、列車の中では残念ながら電波が通じなくて見られなかった。旅行前にこのサイトのことと夜中になるけど起きていたら私の乗るベルリン発特急の走るところを見てねと友人にお伝えしていた。電波が通じたとき、友人のAさんから「見た」というメールが届いていた。子どもじみているかもしれないが、とても嬉しい。

 

7月28日(木)

 ビーレフェルトから電車で50分ほどのパーダーボルンに日帰りで行く。この町の東にはトイトブルクの森があり、古くはローマ軍の基地があり、ザクセン族を征伐したカール大帝によってフランク王国の支配下になったという古い町である。地理的にはパーダー川(たった4km!)の水源があり、湧水の池がいくつもある。

 

 パーダーボルン中央駅とは別なパーダーボルン・カッセルラー・トーア駅が町中に入るのに便利。7月の

最終週末から9日間にわたって開催されるリボーリ(聖人の名前)祭りの日を控えて、大聖堂前の広場にはたくさんの店が出ていた。これから賑わうのだろう。 

 

 公園と図書館わきの池にこれがそうかという湧水が見える。皇帝居城跡にある王宮博物館はカロリング

朝やオットー朝時代の資料が展示されているが、なによりすごいのが地下に降りると見られる湧水の池である。

 ここには龍が住んでいたという言い伝えがあるそうだが、それはともかく城がこのような湧水の上に建っているという凄さである。眼の前に満々と水をたたえた池が薄暗らい中で見える。石造りだからもつのかと思うが、洪水になったらどうなるのだろう。 

 

 博物館を出るとき、係の人がテーブルに置いてあった薬草をお茶用にアレンジして袋に入れてくれた。

 15世紀にミサのとき美しい声で歌えるよう修道院で処方したハーブティだそうだ。ペパーミントとセージを混ぜたもの。ホテルで飲んだが美味しかった。

 

 大聖堂の中庭には「3匹のウサギ窓」と呼ばれる彫刻窓がある。よく見るとウサギは3匹だが、耳は3本しかない。本当なら耳は6本なければいけない。いわゆるだまし絵のようなもの。このように耳を共有する三匹のウサギというモチーフはほかの土地にもあるという。

 いわれはよくわからない。

 

 バスでノイハウス城へ。中には入れない。裏の庭を見るだけ。パーダーボルン市内から流れてくるパー

ダー川がこの庭の横でリッペ川と合流している。私は川の源泉とか二つあるいは3つの川が合流するところを見るのがなぜか好きなのだ。 

 

 ビーレフェルトに戻ってから聖ヨードクス教会に行く。ここに黒い聖母子像があるというので見に行く。すでに1240年頃にビーレフェルトのノイシュテター教会にあったということだが、由来については不明。 

 

7月29日(金)

 今日はトイトブルクの森めぐりである。デトモルト駅からタクシーとバスを乗り継いでいく。森へ行く前に、リッペ侯の居城であるデトモルト城を見る。ここはガイド付きでしか見られないし、撮影禁止。8枚の大きなタペストリーが見事。

 

 私がトイトブルクの森を訪れたのは15年ほど前になる。その後どうなっているかもう一度行ってみたくなった。

 その一つはグローテンベルク丘の上に建つヘルマン記念碑である。紀元9年、古代ローマ軍がゲルマニ

アの地を征服しようとトイトブルクの森に攻め入るも、ゲルマン軍の首領ヘルマン(ローマ名アルミニウス)によって阻まれ、全滅してしまう。以後、ローマはゲルマニアを諦める。ヘルマンはドイツを救った英雄だった。ところがこのヘルマンは当時ローマに留学し、軍事を学び、功績をあげていた若き貴族だった。つまり、彼は祖国のためにローマを裏切ったということになる。

 このヘルマンの巨大な像(台座+像50m)は1875年に完成された。台座の上まで階段で登れる。

 

 ヘルマン記念碑のある丘を下った所にあるハイリゲンキルヒェ鳥類・植物園は面白かった。魚類でもそうだが、どうしてこのような奇妙な姿の生き物がいるのだろう。進化論で説明できるのだろうか。おそらく人間ほど外見も中身も奇妙なものはいないのだろうと、いつもそんなバカげたことを思う。

 リス科のプレリードッグを見たのは初めて。盛んに穴を掘っている姿がなんとも可愛い。 

 

 トイトブルクの森でもう一つ再訪したかったのが奇岩の連なるエクステルシュタイネ(700万年前ころにできたという)である。前には怖くて渡れなかった岩と岩とを結ぶ橋を渡って岩の上にある小さな古代の神殿跡を見ようと決心する。ここはケルト人かゲルマン人の聖地だったところと言われている。

 

 この橋は下から見上げると本当に怖い。それでも意を決して階段を登ってみる。しかし橋のところまで

行ったもののどうしても足が動かない。すると、イタリア人の中年の男性が身ぶりで自分の腕につかまれと言ってくれる。ありがたく助けてもらった。それでやっと頂上まで達することができた。

 神殿跡の壁には丸い穴が開いていて、季節によってここから太陽が見えるそうだ。写真でしか見られな

かったのが実際に見られて満足。

 

 また、奇岩の一つに彫られたキリストの降下図は古代ザクセン族のシンボルだったイルミンの柱が描かれているという珍しいもので、いまもちゃんと残っているか見たかったが、そのままちゃんと残っていた。何の説明板もないので、知らなければ見過ごすだろう。もったいない。 

 

7月30日(土)

 数年前にデュッセルドルフに行ったとき、ヴッパータールの上空を走る懸垂式モノレールが面白くて、今回もまた乗りに行く。

 ハーゲン駅に荷物を預けて、ヴッパータール・オーバーバルメン駅に。ここがモノレールの始発駅。終点フォールヴィンケルまで行って、折り返し、中間駅のヴッパータール中央駅で降りる。

 その後、3時間ほど市内を散策。主にモノレール駅のそばでモノレールの行ったり来たりするのを見る。

 ホント面白い。懸垂式モノレールはいくつかの方式があり、日本でもすでに運行されているが、ヴッパータールのモノレールは1901年に開始という古いもので、何より運行距離の半分近くが川の流れに沿ってその上を走るのがいい。

 じゅうぶん堪能して、ハーゲン駅に戻る。娘はここからデュッセルドルフ空港に向かい、夜の便で日本へ帰る。私は別な電車でミュンスターに向かう。初めて訪れる町である。 

 

7月31日(日)

 ミュンスターの市内はほとんどが遊歩道でバスのみが運行しているので気分よく歩ける。公共乗り物フ

リー一日券を購入して、バスを使ってあちこち回った。

 

・市庁舎の平和の間

 30年戦争終結のために結ばれたいわゆるヴェストファーレン条約(1648年)が調印された部屋である。この調印式を描いた有名な絵(ヘラルト・テル・ボルフ画)があるが、当たり前だが、全く同じ。

 

・Aasee(アー湖)

 市内からそう遠くない。変な名前!湖畔にはヘンリー・ムーアなど現代の芸術家の作品が展示されている。見る予定にしていなかったので、湖畔だけ見て終わり。 

 

・ピカソ博物館

 ベルリンのベルクグリューン博物館には及ばず、見応えがあったとは言えなかった。

 

・ LWL美術・美術史博物館

 LWLはヴェストファーレン・リッペ地域連盟の略。ピカソ博物館のすぐそば。中世初期の絵画と彫像、ドイツ印象派から国際的なアヴァンギャルトまでの作品、ガラス工芸品、後期ゴシックのウェストファリアの陶磁器など見応えのある博物館だった。最低2時間半は必要。 

 

8月1日(月)

 ドルトムント日帰り。お目当てはサッカースタジアムとロムベアーベルク植物園。

 ドルトムントと言えばやはり香川の所属するボルシア・ドルトムント。今はシーズンオフで試合はないが、スタジアムだけでも見たかった。スタジアムのあるジグナル・イドゥナ・パルク駅までは市電か地下鉄でいける。私は市電で行ったため、スタジアムの裏手に出てしまい、正面入り口までかなり歩く。フーン、ここがボルシア・ドルトムントのスタジオかと、サッカー少年(爆笑)でもないけど、感嘆する。

 なんとFan Weltという3階建の建物がある。ファンのためのショップだ。ユニフォーム、サッカーボール、小物、菓子、食器、なんでもそろっている。タックスフリーの表記もある。東京ドームの比ではない。見飽きない。

 BVB(Ballspielverein Borssia)のロゴのついたチョコ一袋だけ買う。 

 

 植物園にはスタジアムから電車を乗り継げばいけるのだが、いったん駅に戻ってからのほうが便利なの

で、地下鉄でロムベアーベルクまで。そこから徒歩5分ほど。薬草コーナーが目当てだったが、整備中で植え替えしていて、残念だった。奥手は樹木コーナー。コーナーというにはあまりに広く、途中で帰り道がわからなくなり、焦ったほど。 

 

8月2日(火)

 かつての旧領主司教城は今はヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学。立派な建物である。裏にある大

学付属植物園は素晴らしかった。すべての植物が種類別にきちんと分けられていて、学名と一般名が書かれた札がついている。種類も豊富でとてもわかりやすい。これまで見た大学付属植物園の中で5本指に入る。じっくり時間をかけて観察する。 

 

 夕方、デユッセルドルフへ移動。ミュンスターについてあまり下調べをしてこなかったので、しまったと

思った。もう一度訪れよう。

 

8月3日(水)

・文化フォーラム 絵画館

 前に一度見ているはずだが、ほとんど記憶にない。カスパー・ダフィット・フリードリヒ、ルーベンス・クラナハ(父)などよい作品もあったが、思ったほど時間をかけずに見終わる。ただし、特別展「スロヴァキアのガラス展」は面白かった。ガラスでこれほどのものが創れるのかと感心した。 

 

・薬草魔女の店(地下鉄ベンラーター駅下車)

 ドイツのネットで「薬草魔女の店」を調べたところ、デユッセルドルフに一件見つかったので、行ってみる。

 ネットでは薬草の店としか説明されていなかったので、小さな薬局のようなものかと思っていたら、市の

食材市場の中にある食用薬草の店だった。

 店の人に「あなたは魔女なんですか」と聞いたところ「いいえ」という答え。「ではどうして薬草魔女の店なんて名前なのですか」とさらに尋ねると、「そう言われてもね」という返事。彼女はオーナーではな

かったのか。そう見えたけど。おそらく「薬草魔女」という言葉は人の目を引くし、現代的で受けがいいからかもしれない。 

 

 夜の便で成田へ。

 デュッセルドルフ空港でチェックインしたら、係員から席がいっぱいになっているので、プレミアム・エコノミーに移っていただけないかと言われる。ラッキー!3回目。 


ドイツ(ミュンヘン・フルトイムヴァルト・カッセル・ドレースデン・ベルリン・ハルツ他)+チェコ(ロンスベルク) <4月21日~5月4日>

 

 今年はいつもより早めに出発することにした。GW中すべて留守をするのは悪いかなと気弱になったからである。

 ところが計算すると2週間になっていて、いつもより長い旅程になってしまった。そんな旅のあれこれ。

 

4月21日(木)

 羽田昼の便でミュンヘンへ。機内に座ったのになかなか離陸しない。30分ほどして、エンジンの不具合が見つかったので、修理のためしばらくお待ちくださいというアナウンス。エッ、エンジンっていちばん大事なところでしょう。完全に直してくださらなきゃ。 

 ミュンヘンを中国語にするとこんなふうになるのだ。尼僧も多いミュンヘンだから、尼を慕うのはわかるが黒はなんだろう?

 

4月22日(金)

 昨年春にミュンヘンでノンフィクション作家村木眞寿美さんと会う機会があった。彼女とは大学1年のとき以来である。

 村木さんは大学卒業後ヨーロッパに渡り、勉強を続け、ドイツ人と結婚し、ずっとミュンヘンに住んでいる。

 

 彼女は翻訳家であり著述家であり、オーストリア・ハンガリー帝国の貴族ハインリヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵と結婚した日本人青山光子(1874-1941)の紹介者としても活躍している。

 

 その彼女がヨーロッパと日本のかけ橋として石庭を造る仕事にかかわってきたということを知った。石庭はドイツ、スイス、チェコなどの地に全部で現在10出来上がっている。ぜひ見たいと思ったので、この春行ってみようと思い村木さんに相談した。

 

 ドイツとチェコの国境の町、フルトイムヴァルトとチェコのロンスベルク(チェコ名ポペジョヴィツィ)の石庭だったら村木さんが車で案内してくれるという。ところが私の出発直前、村木さんが足を悪くして車の運転が無理になり、現地の人に案内を頼んでくれることになった。

 

 それで、ミュンヘンからフルトイムヴァルトまで電車で行く。駅には石庭を造った当時の市役所の職員の方と庭師のシュテファンさんが迎えにきてくれ、二人は駅から車で5分ほど、この町の市公園に連れていってくれるということになった。

 

 石庭を造る苦労は大変なものだった。ドイツ人には理解できなかった石庭という庭のために、まず市の職員を京都に呼び、石庭を見てもらい、研修をしてもらった。その後、日本の庭師が13人この町にやってきて、森の中で石を探す作業から始め、2001年に完成。村木さんの熱意を受け止めて名古屋の造園業者中原氏が主スポンサーになっている。

 

 車から降りて石庭の前に立ったとき、正直目頭が熱くなった。こんなところに日本があるという思いだった。この町はドラゴン祭りで知られている。それにちなんで、石庭の縁を飾る二つの長い石砂は日本とヨーロッパの龍が戦わずして輪を成す姿を現しているという。「交龍の庭」と名付けられている。

 

 庭石は森から運び出したそのままのものだという。探す苦労も大変なものだったはずだが、日本からの石と言われても違和感のないものだった。この庭の横にもう一つ小さな日本庭園がある。この石灯籠は日本から持ってきたものだという。

 庭師のシュテファンさんが2週に1度ほど、砂熊手で砂紋を描いているのだそうだ。 

 

 二人にホテルまで送ってもらい、夕方4時にロンスベルクからヤーナさんが迎えに来てくれる。ヤーナさんは生後半年の二人目の息子さんと一緒だった。今は育児休暇中だそうだ。彼女の仕事はロンスベルクにあるクーデンホーフ光子が夫のカレルギーと過ごした城の再建である。

 光子はオーストリア=ハンガリー二重帝国崩壊後、カレルギー家の財産を失い、病に倒れ、ウィーン郊外で没する。

 夫を早くに亡くし、7人の子どもと過ごしていたこの城は今は荒れるに任せて無惨な姿となっている。ヤーナさんはその城の再建に熱心に取り組んでいる。

 

 フルトイムヴァルトから車で10分も走るとすでにチェコである。なおそこから20分ほどのところにロンスベルク城がある。

 前方にはボヘミヤの森が広がる。かつて何もわからずボヘミアンという言葉に憧れたことがあったなあ。

 

 ヤーナさんに城の中を見せてもらいながら、正直、再建までは気の遠くなるような道のりだと思った。時間ばかりでなく、経済的な問題が大きい。村木さんも再建運動にずいぶん力を貸してきたようで、この城の一画にも小さないながら村木さんの石庭がある。 

 

 村木さん、フルトイムヴァルトの市職員さん、ヤーナさんたちの親切をいただいて経験できた貴重な一日だった。

 

4月23日(土)

 午前中に龍博物館を見る。龍祭りは8月に盛大に行われる。博物館内は写真禁止だったので、お見せできないが、世界の龍の置物など、龍に興味のある人には面白いだろう。午後の電車でカッセルへ。

 

4月24日(日)

 カッセルのグリム博物館が場所も変わり、建物も立派になったと聞いていたので、行ってみる。これまでの博物館のある通りの近くにある。確かにすごい建物で、たくさんのツアーがガイドの説明を聞いている。これまでの部屋の様子や展示内容もすいぶん違ってしまった。どちらかというと学者グリム兄弟の業績が中心になっていて、グリム童話関連が少なく、童話ファンや子どもにはかなり物足りないものになっていて残念だった。

 

 カッセルで見たかった埋葬文化博物館はグリム博物館の隣にある。昨年ウィーンで二つほど葬儀博物館を見たが、ここはもっとしっかりしているという話だったので、来てみた。確かに葬儀文化について時代順に展示してあり、けっこう見応えがあった。特に葬儀(人間の死)をテーマにしたカリカチュア―がとても多いのにびっくりした。日本ではどうなの だろうと思った。

 

 夕方は春には必ず会うことになっている知人二人と待ち合わせてカッセル郊外のレストランで食事をして楽しむ。この日は寒くて朝から霙が降っていたが、食事をしているうちにかなり本格的な雪になった。

(雪の写真がリンク切れ)

 

4月25日(月)

 カッセルからドレースデンに向かう途中ライプチヒで下車して、アオワーバッハスケラーで昼食。レストラン内部を飾る壁画を写真に撮るのが目的だった。最近壁の模様替えをしたのか、これまで見たことのなかった絵も飾ってある。

 森鴎外がここを訪れたときの絵もある。 

 

4月26日(火)

 ドレースデンにけっこう大きなDDR(旧東ドイツ)博物館ができたと知人から聞いていたので、行ってみる。よくも集めたと思う。私にはベルリンが旧東ドイツだったころからの知り合いがいて、何度かお宅に招待されたこともあり、当時の雰囲気も知っているし、トラバントにも乗せてもらったこともあるので、懐かしかった。

 そこで思ったのだが、ベルリンもそうだし、最近、DDR博物館が規模の大小はともかく旧東ドイツの町に増えたように思う。

 単なる懐古からなのか、もう少し複雑な心情が芽生えているのか、私にはわからない。

 

 その後、久しぶりにアルテマイスターでのんびり絵を見て過ごす。エルベ河畔のテラス下にあるレストラン横丁でサラダとアスパラスープを食べる。 

 

4月27日(水)

 ドレースデンからベルリンへ。ポツダム広場のクルトーアフォールムへ。そこの絵画館をのんびり見て、今日の予定は終了。

 絵画館からブランデンブルク門に出て、そこからホテルまで歩く。私の足でも可能な距離。

 

 ドレースデンやベルリンに来たらやはり美術館。そしてフェルメール。 

 

4月28日(木)

 ベルリンから近距離電車で約1時間、そこからバスで20分ほどのゼムリンという村へ行く。1672年5月、この村に住むアンナ・ラーンスという女性が魔術をかけたバターを売ったと告発されて裁判にかけられ、「バター魔女」として処刑された。

 2002年に村人たちがアンナを鎮魂する碑を建てた。

 

 今回の旅行計画を立てているときに、この話を知って、それならベルリンに行ってその碑を見てこようと思った。場所はゼムリンのドルフプラッツというところに建っているという。ネット情報ではアンナの詳しい罪状は不明だった。村に行けばなにかわかるかもしれないと思ったのだが、結局碑を見ただけで詳しいことは帰ってからの宿題になった。

 

 ゼムリンへ行くバスは15人乗りの小さなもので、乗客は私一人。運転手に尋ねたところ、ドルフプラッツのバス停は終点の一つ前だという。この日はときどき雨の降る寒い日だった。電車は1時間に1本。バスは2時間に1本。今日一日はアンナの碑を見つけて帰るだけになるだろうと予定して出かける。

 

 ところがゼムリンの村に近づくと、なんと車窓からバター魔女の碑が見えた。そこがドルフプラッツのバス停のようだ。

 運転手に降ろしてもらう。終点まで行けば、少しは町らしいものがあるのかもしれないと思ったが、雨と寒さ、2時間に1本のバスということを考えると、今回はともかく碑だけみて、終点から折り返してくるバス(5分後)に乗って駅まで戻ったほうがいいと判断した。

 

 碑の写真を撮っているうちにバスが来たので乗る。運転手は変な顔をしている。こうしてバター魔女の碑は見ることができたが、不満も残った。もう一度来よう。 

 

 早くにベルリンに戻れたので、バウハウス記念館に行く。日本語のオーディオガイドもあるが、内部写真禁止。バウハウスの理念は美術と建築に現れているというが、特に日常生活品の機能的な簡素な美しさによく表現されていると思う。

 食器や電気スタンドなどショップでも買えるが、それなりに高い。 

 

4月29日(金)

 午前中、ソニーセンター内にあるフィルムハウスへ行く。展示内容はドイツの映画史である。特にマレーネ・ディートリヒ関連のものが多い。マレーネ・ディートリヒの映画は数本見ているが、今回よくよく見るに彼女は決して美人ではないということを発見(笑)

 目じりが幾分下がっていて、どちらかというと愛嬌のある顔に見える。しかし、個性的な魅力はすごいものだ。誰だったか私の知っている人に似ているなあと思ったけど、思いだせない。 

 

 午後の電車でヴェアニゲローデへ。友人のゲルディが迎えに来てくれる。私の泊まるホテルで一緒に夕食をし、明日の約束をして別れる。

 

4月30日(土)

 9時半に市庁舎前でMさんと待ち合わせする。Mさんは魔女の秘密展を観に来てくれた若い女性で、ハルツに行ってヴァルプルギスの夜を見たいとコンタクトしてきた。ドイツは初めてだというので、ならばいっそ30日と翌1日、私の案内でよければ一緒しましょうということになった。

 

 そのMさんと街を散策し、彼女の希望だった古書店(この町に1軒だけある)を見て、ゲルディと待ち合わせする。

 車の運転はゲルディのお嬢さん、ゲルディの御主人も同乗。最初にヴェアニゲローデ郊外にある自動車販売店に行く。

 ゲルディのお孫さんチミーがそこで修理士として働いている。私がチミーに会ったのは彼がまだ小学校に入る前だった。

 今は20歳になって働いている。仕事中だったが、ちょっとだけ顔を出してくれる。

 

 その後、ハルツの町のそれぞれ特徴的な建物のミニチュアが並んでいるミニチュアパルクを訪れ、すぐそばのバウムクーヘンハウスに行き、私は魔女の絵のついたバウムクーヘンを買う。 

 

 その後、Mさんと二人でSLに乗ってブロッケン山へ。一昨日の雪が残っていて足場が悪く一回りすることはできなかった。

 

 帰りはシールケで降りて会場までハルツの森を歩いて下る。今年は魔女の行列が盛大だったので面白かった。会場にはたくさんの店やライブ演奏の舞台などがあるので、それはそれでいいけど、行列を見るだけだったら14ユーロ(だったか)払わなくても済むので、それでもいいかもしれないと思う。

 

 8時半を廻ったところで、ヴェアニゲローデの城の祭りに行くことにして、バス停に行くも私の方向音痴のために30分も無駄にしてしまう。おまけになんと毎年出ているバス停はひっそりしていて、バスの気配もない。ウーンと考えているうちに同じような観光客が4人ほど集まる。そのうちの一人がタクシーを頼み、6人相乗りでヴェアニゲローデまで。

 

 どうもバス停の場所が変わったようだ。会場を出るときに係員に聞いてみるべきだったと反省する。しかし、いつものバス停を変更したのならそれについて案内くらい出しておいていいのにと思う。サービス悪い。

 

 ヴェアニゲローデに着いたが、城に行くには遅すぎるので、ニコライ広場で行われている春迎えのライブ演奏をしばらく聞いて、それぞれ宿に戻る。

 

5月1日(日)

 朝ゲルディがホテルまで来てくれて駅まで連れていってくれる。Mさんもやってくる。ゲルディとサヨナラして二人でゴスラーまで。

 市内散策し、昼食はマルクトプラッツのレストランでちゃんとしたホワイトアスパラとホワイトアスパラのスープ。旬のものはやはり美味しい。

 その後、バスでランメルスベルク鉱山へ。私は何度も来ているので、Mさんだけ鉱山内に入るトロッコツアーに。私は、ツアーが終わるまで、外の空気を吸いながらのんびり過ごす。 

 

 ゴスラーの駅でベルリンへ向かうMさんとサヨナラする。ハルツの良さを伝えることができたとすればいいのだが。

 

 ホテルで一休みしたあと、ゴスラー在住の由紀子さんと会い、彼女の車で友人のアレックス家を訪ねる。毎年私の来るのを待っていてくれるアレックス家の人々と楽しいひと時を過ごす。お別れするときにいつも思う。いつまでこうしてハルツに来ることができるだろうかと。

 

 由紀子さんから手作りのベーアラオホのペーストをいただく。ドイツでは春になるとベーアラオホを摘んで、ラザニアに使ったり、ペーストにしてスパゲティに絡めたりする。葉はスズランに似て、花は白くで可憐。ラオホはネギのことだが、ネギよりもニンニクの味が強い。 

 

5月2日(月)

 午前の電車でバンテルンという村に住む日本人女性Hさんのお宅へ行く。彼女とはけっこう長い付き合いがあり、昨年の「魔女の秘密展」の図録作成のときも手伝ってくれた。彼女のお宅にはときどきお邪魔するのだが、いつも時間がなくてあっという間にサヨナラになるので、今回は村を案内していただき、彼女がオルガン演奏をしている教会も見せていただこうと思っている。

 

 美味しい昼食をご馳走になる。ベーアラオホのラザニアである。

 その後外へ、幸い快晴、暑いくらい。そこは春のドイツ。教会ではオルガンのところまで登っていった。教会のオルガン演奏を聴く機会はあるが、オルガンの前まで行ったのは初めて。演奏席がかなり狭いので、怖かった。 

 

 Hさんはこのような自然いっぱいのドイツでドイツ人の御主人と息子さんに囲まれて、翻訳やオルガン奏者として生き生きと暮らしているのだなあと嬉しく思った。

 ミュンヘンの村木さん、ゴスラーの由紀子さん、そしてHさんと、日本人がドイツで活躍しているのを知るのは嬉しい。

 

 今回はなんとなくいろいろな面で準備不足だったが、決定的に準備不足だったのが両替。カードはダメという店に入ったり、私のもっているカードが使えなかったりで、ユーロがなくなりそう。明日はもう帰国だが、何に必要になるかわからない。

 外国で現地のお金がないというのは不安。今日は日曜日、フランクフルト中央駅の両替所が開いていてくれるといいのだがと念じた。9時ちょっと前に飛び込む。9時までだったので助かった。

 

5月3日(月)

 帰国便は夕刻6時。何の予定も入れずに、フランクフルトの町をブラブラ歩く。もったいないような気がするのだが、こういう過ごし方もあっていいだろう。

 

5月4日(火)

 昼に羽田着。

 

 今回の旅日記はドイツで食べた春の旬料理3つの写真で終わりにする。 


吉野ケ里・福岡・岩戸山古墳・宗像大社 <4月7日~4月11日>

 

 一昨年春に声をかけてもらった「魔女の秘密展」監修の仕事、テレビ広報番組作りでドイツを案内し、展覧会は昨年大阪でオープン、その後、名古屋、新潟、浜松、広島、東京を巡回し、福岡で閉幕。そのオープニングセレモニーと講演のため、福岡を訪れることになった。せっかく福岡に行くからには北九州のどこかを見てみたいと思い、2日間延泊することにした。 

 

4月7日(木)

 オープンセレモニーは明日9時からなので、今日中に福岡に着いていればいい。それで早めに東京を立ち、宮崎県の吉野ヶ里(よしのがり)公園に行く。生憎ものすごい雨。

 吉野ヶ里公園は700年という長い弥生時代のすべての時期の遺構や遺物が発見された遺跡を見せる公園である。

 

 ずいぶん前にここに卑弥呼(3世紀頃)が住んでいたのではないか、邪馬台国はこの地にあったのではないかと議論されたが、今はそれもほとんど問題にされていないようだ。 

 

 弥生時代の村落を再現した建物もさることながら、一番見たかったのが弥生時代の墳墓である。甕棺墓(かめかんぼ)と言って、素焼きの大きな甕に死者を入れて、同じ形の甕でフタをする紡錘形をした棺を丘の上に埋葬する。その跡地を見ることができる。ここだけで約3000の棺が見つかっているという。 

 

 晴れていたらもっと歩き回れたのにと残念に思う。今回は国内旅行だったので、私の味方テルテル坊主を連れていかなかったせいかな。

 

4月8日(金)

 主催者の担当者がホテルまで迎えに来てくれて、タクシーで会場の福岡市博物館へ。福岡は初めての町なので、これまで名前しか知らなかった博多とか天神とかいう文字を目にすると嬉しくなる。博物館はヤフードームの近くにある立派な建物である。 

 

 セレモニーも無事終わり、午後から太宰府天満宮に行く。このところ、ちょっと怨霊信仰に興味を持っていたので、菅原道真の怨霊伝説がここでどんなふうに見られるか楽しみにしていた。道真は左大臣藤原時平の陰謀によって大宰府に左遷され、失意の中、ここで没する。その後、天変地異が多発したことから、朝廷に対する道真の怨霊による祟りだと言われ、天神様として神に祀り上げられる。

 

 今は学問の神様になった道真だが、彼の怨念は、朝廷が意識せざるをえない朝廷側の「良心の呵責」が生み出したものである。

 従って、この地の人々に崇拝されていた道真の怨霊がここで暴れたということはなかったという。

 

 天満宮は道真の墓のある廟になっている。道真の遺骸を牛に乗せて野辺送りに出たところ、牛車はここで立ち止まって動こうとしなかったので、ここを墓所にしたという説があり、境内には牛の像がいくつかある。道真の住居や大宰府政庁跡もあるが、距離もちょっと離れていて、歩いていくには時間もなく残念ながら見られなかった。 

 

 「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ」

 

 道真が京の家を離れるときに庭の梅の木を見て歌った歌である。この梅の木は道真を慕って、ここ大宰府の道真の屋敷まで飛んできたという。この梅の木が飛梅(とびうめ)と言って、本堂前に植えられている。残念ながら梅の季節はすぎていて、実のなる季節には早すぎた。 

 

 道真公は、妻とも離され、ほとんど蟄居状態で食べるものにも事欠く有様だったようだ。しかし、道真を慕っていた老婆が梅の枝に餅をつけて窓からそっと差し出したという。さまざまな説があるが、天満宮の名物、梅が枝餅の由来である。

 焼いて熱々のうちに食べる。私も賞味した。 

 

 大宰府天満宮の敷地内に九州国立博物館がある。特別展は「始皇帝と兵馬傭」で、私は上野の東博で見ているが、招待券をいただいたし、どんな博物館か見てみたいということで訪れた。建物は実に立派だったが、常設展は思ったほどではなかったのが残念だった。

 

4月9日(土)

 今日の午後は講演がある。その前に博物館の学芸員さんから聞いていた冷泉山龍宮寺を訪れる。言い伝えによると、1222年、博多の津に打ち上げられた人魚の骨を祀っているという。

 当時の寺は1600年にこの地に越してきたが、人魚の骨は変わらず祀られているという。骨は本堂に安置してある。函の中に大きな骨が数本入っている。

 

 本当ならずいぶん大きな人魚だったな、ひょっとしたらジュゴンのようなものだったのかなと、あとで九州の民俗学に詳しい方にその話をしたら、あれは牛の骨ではないかという見方もあるということだった。「でも、今の科学だったらいくらでも検査できるでしょうにね」と重ねて問うと、笑って、「それはしないでしょう」と言ったので、それはそうだろうなと私も笑ってしまった。 

 

 この後、福岡市博物館へ行く。ここにはあの有名な金印「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおういん)のオリジナルがある。一辺の平均が2.3センチという小さなものである。確か中学校の授業で知ったのが初めてだったと思う。この歳になってオリジナルが見られるなんて。博物館の学芸員の方に説明をいただいた。専門家の話は貴重である。

 この博物館は大変すばらしかった。展示の仕方がきちんと整理されていて、わかりやすい。 

 

 講演が終わり、お世話になった方々に挨拶をし、久留米に向かう。久留米駅はJRと西鉄のふたつある。駅の規模としては新幹線の停まるJR久留米のほうが大きいし、西鉄駅まで頻繁にバスが出ているが、私は翌日のバス利用のため西鉄久留米にホテルを予約した。

 

4月10日(日)

 西鉄バスで八女方面へ。福島高前で下車。目的は岩戸山古墳。北九州で最も大きい前方後円墳の一つといわれている。

 

 墓の主の名前はわかっていて、筑紫君磐井(つくしのきみいわい)という。最初ここの名前を聞いたとき、私は女性かと思った。とてもロマンチックな名前だと思った。

 

 ところが、磐井は筑紫君一族の長の男性名だったのだ。百済に味方するヤマト王権が、新羅との交流のあった磐井に百済救済の軍事的負担を強いてきた。それにたいして九州の豪族が磐井を盟主として反乱を起こしたのである。

 

 これを「磐井の乱」といい、527年のことだった。しかし、磐井は翌年敗れて殺される(生き延びたという説もあり)。

 彼は生前に自分の墓を作っていた。これが磐井の墳墓である。この一帯に同じような豪族の墳墓がいくつもあり、それらを岩戸山古墳群と呼んでいる。 

 

 岩戸山歴史文化交流館の裏の小高い丘を登ると、そこが前方後円の墳墓である。天皇家の墓の場合は宮内庁管轄になるので、そばには行けないが、磐井の場合は墳墓をひとまわりできるし、墓の上まで登れる。古墳のそばには別区と呼ばれる台地がある。かつて裁判を行った場所である。 

 

 資料館には、この墳墓のまわり(あるいは上)に飾られていた石造りの人型や馬型が展示されている。ヤマトの埴輪に対抗して石の人型や馬型を作ったのも九州豪族の意地だとも言われている。 

 

 福岡市博物館の学芸員さんの話によれば、ここ九州では古墳はそう珍しいものではないという。確かに地図を見ると古墳の点在するのがわかる。岩戸山古墳群だけでももっと見てみたいところがあった。車で来ていたらそれらのいくつかを見てまわることもできるだが。

 

 さて、資料館を出て、八女茶で有名な八女へ。八女に行ったら、いたるところ八女茶のお店が並んでいて、名物八女茶菓子などというものもあるのかと勝手に想像していた。町の中心地でバスを降りるが、閑散として、お店はどこもシャッターが下りている。歩いている人も目につかない。日曜日だったからだろうか。なんかドイツの小さな村の日曜日みたいな感じだった。

 

 八女に行くにはどうしたらいいか地図を見ていたら、羽犬塚という駅があった。「はいぬづか」という。奇妙な名前である。調べてみると、その名の由来についていくつか説があった。その中で私が勝手に選んだのは秀吉にまつわる伝説である。

 

 島津氏を攻めるために九州に遠征していた秀吉には羽の生えたように機敏に動き回る犬がいて、大変可愛がっていたのだが、遠征の途中で亡くなってしまう。大変悲しんだ秀吉はその地のお寺に埋葬し、羽犬塚を築いたという。それで、その地は羽犬塚と名付けられ、今はJRの駅名にもなり、市内にはいつくか羽犬の像があるという。

 

 まわりから物好きなと笑われたが、いいじゃないかと八女からバスでJR羽犬塚駅へ。

 さっそく駅前に羽犬の像があった。駅前からバスで宗岳寺へ。ちゃんと羽犬塚があった。その隣が羽犬塚小学校で、校門のそばにも像があった。駅まで戻って、そばの自然の森公園に行く。ここにも羽犬像があったが、あまりに現代的な作りなので、うまく写真に撮れなかった。 

 

4月11日(月)

 宗像大社に行く。アマテラスオオミカミとスサノオノミコトが誓約(占い)したとき、アマテラスの息から3人の女神が生まれた。彼女たちはアマテラスの命を受けて皇孫を助けるため宗像に降りて、この地を治めたという。

 

 3人の女神のうち市杵島姫神を祀っているのが、宗像大社辺津宮。たぎ津姫神を祀っているのが中津宮(船で行く大島)、3番目の田心姫神を祀る沖津宮は沖ノ島にある。案内書によれば、沖ノ島そのものがご神体となっていて、女人禁制で、男性も1年に1回だけ裸で禊を受けて上陸できる。普通は神主が一人交代でお宮を守っているという。

 

 女神を祀る島がなぜ女人禁制なのかと私は不審に思っている。おそらく後年(いつかわからないが)男性社会になってから作られたタブーなのだと思う。

 

 辺津宮の裏手にある坂道を登っていくと、第二宮(ていにぐう)、第三宮(ていさんぐう)がある。3人の女神をまとめて祀っている所。

 

 大社の奥手に高宮という一画があり、ここは神が下った場所と言われ、祭祀が行われたという。沖ノ島では4世紀後半から9世紀末まで行われた祭祀の跡が22か所も確認されているという。その期間、祭祀の形態は、岩の上で行われた岩上祭祀、岩陰で行われた岩陰祭祀、半岩陰・半露天祭祀、露天祭祀と変わっていく。

 

 岩そのものを神とみなす自然崇拝から祭祀の場所が露天に変わって、3女神を祀る人格崇拝になっていくのがわかる。

 奉納品はほとんどが中国や朝鮮半島からもたされたものである。大陸との密な交流がよくわかる。それらの奉納品は8万点出土していて、すべて国宝だという。それらが見られるのは大社のそばにある神宝館である。

 

 予定より早めに福岡空港に着いてしまう。食事をし、頼まれたお土産を買いこみ、あとはボケッとしてロビーで本を読んですごす。福岡は初めてだったが、また来てもいい町になったなあと思いつつ、帰途につく。

 

 福岡へ行ったちょうど1週間後、熊本大地震が起こった。当然だが、報道は熊本のことばかりで、福岡については一度だけ震度が発表されただけ。展覧会の展示品はどうなったか気が気でなく、早朝だったが、東京の担当者にメールをいれたところ、博物館の学芸員さんが夜のうちに駆けつけて無事を確認したということを聞き、ほっとした。

 今もまだ九州の地震は終息していない。これ以上被害のでないことを祈る。