ザーゲの旅 2013年


水上温泉 <12月29日~12月31日>

 

 毎年の行事になってしまった暮れの水上温泉のんびり旅行。今回はカメラも持っていかなかった。

 


ノルウェー(オスロ、ベルゲン)+ドイツ <8月24日~9月13日>

 

 日本へ戻ってきたら、大きな仕事が待っていた。それにかかりきりにならざるをえず、旅日記は書けなかった。来年に持ち越したくないので、日程表みたいになってしまったが、記しておくことにした。

 

8月24日(土) 羽田―オスロ

 感覚としては23日の夜、正確には24日午前0時40分発でドゴールへ。これだと同日午後13:15にオスロ着。なんか得した気分になる。娘と一緒。オスロは何と20年ぶり。 

 

8月25日(日)オスロ市内 

 

8月26日(月) オスロからベルゲンへ

 オスロ空港からベルゲンまで約1時間。ガイドブックではベルゲンにはベルゲン急行に 乗って行くことを勧めているが、7時間かかる。

 その半分は明日ベルゲンから乗る路線と重なるので、空路にする。 

 

8月27日(火) ソグネフィヨルド

 20年前は北極圏のほうへ行ったので、ベルゲンは初めて。これぞフィヨルドというものを見たいと思った。いくつかコースがあり、電車、バス、船を乗り継いで戻ってこられる。観光客のために、乗り継ぎが実にうまくできているので、それをネットで知らべれば問題ない。

 問題はお天気だ!ガイドブックでは大方雨に会うと非情なことが書かれていたから、ずっとお天気で過ごせたのは、ラッキーと思うほかない。

 

*おかしなことだが、オスロもベルゲンもバスマットがない。そんなに安宿にしたわけではないのだが、これはどういうことだろう。

 

8月28日(水) ハダンゲルフィヨルド 

 

8月29日(木) ベルゲンからオスロ経由フランクフルトへ 

 

8月30日(金) フランクフルトからリューデスハイムへ

 数年前に仲良しグループ「魔女の会」でドイツ旅行をしたとき、リューデスハイムのつぐみ横丁でランチを食べたことがあった。そこはホテルでもあったので、今回はそこに泊まった。

 

 ここにやってきた目的はヒルデガルト・フォン・ビンゲン関連の場所を訪れることだった。まずは、リューデスハイムから渡し船(それなりに大きなフェリー)で対岸のビンゲンへ行く。

 ヒルデガルトフォールム(フォーラムのこと)の薬草園をじっくり見て、そこのレストランでバイキング式ランチを食べる。そのあと、ライン河畔にある歴史博物館のヒルデガルト展示室とそばにある

 

 薬草園を見て、再びフェリーでリューデスハイムに戻る。

 まだ元気だったので、ゴンドラでニーダ―ヴァルトへ行き、戦勝記念のゲルマニア像を見る。

 

8月31日(土) リューデスハイム ― フランクフルト―ダルムシュタット

 リューデスハイムのブドウ畑の上にあるアイビンゲンのヒルデガルト修道院を訪れ、フランクフルトに。 娘はそこから日本へ。私はダルムシュタットへ。ここで3泊し、オーデンヴァルトの森を歩き回る予定。

 

9月1日(日) ジークフリートブルンネンへ

 ドイツの英雄叙事詩『ニーベルンゲンの歌』の主人公ジークフリートが殺されたという場所を見に行く。

 ヘッペンハイムからバスでニーベルンゲンハレまで行く。ここにインフォメーションセンターがある。そこから山道を普通なら20分で着けることになっているが、私は道を間違えて森の中で迷い、1時間以上かかってしまったが、なんとかたどり着いた。

 

9月2日(月) リンデルブルンネンへ

 ジークフリートが殺された場所はいくつか説があり、ここ「リンデルブルンネン」もその一つ。ダルムシュタットから電車でミヒェルシュタットで降り、バスで国道を走り、シュメルツまで。ここからちょっと歩いて脇道に入る。

 

9月3日(火) ボンへ

 ボンへ行く前にダルムシュタットのマチルデの丘に。ユーゲントシュティールの建物を集めた一画である。ユーゲントスティールの建物はあまり好きになれそうもなかった。

 

 ボン大学植物園へ。広い植物園と野菜など有用植物を栽培しているところと2か所ある。思っていた以上に面白い植物園だった。

 

9月4日(水) ドラッヘンフェルス(ドラゴン岩) 

 

9月5日(木) ブレーメン

 聖書植物園が目的。ドームで市民団体によるゴスペルのコンサート(無料)があったので、拝聴する。

 

9月6日(金) ヴォルプスヴェーデ

 前から行ってみたいと思っていた芸術村。ユーゲントシュティールの画家たちが集まって作った村。かなり広い。堪能するにはここで1泊必要。次に機会がったらそうしたい。

 ダルムシュタットで見たユーゲントシュティールの建物はあまり好かないと書いたが、絵は大好きなのだ。私の好きなフォゲラーの記念館が見られて、とりあえずは満足してブレーメンに戻る。

 

9月7日(土) ハンブルク経由ベルリン

 途中下車してハンブルク大学植物園へ。初めてだったが、素晴らしかった。お勧めは毒草コーナー。 

 

9月8日(日) ベルリン

 ベルリン自由大学植物園は今年の春に続いて2度目。ここの 植物博物館はお勧め。今回はドイツ全国花市が行われていて、園内に400ほどの店が出ていた。どこもかしこも花、花、花だった。

 

 そのあと、シュタージ博物館(東ドイツ国家公安局本部跡)へ。当時の資料が興味深い。特にDDR時代のポスターに思うところあり。旧東ベルリンに住む知人一家のことが頭をよぎる。ネクタイの中などに隠された盗聴機器なども展示されている。

 

9月9日(月) ベルリン

 ヒトラーブンカー(壕)を探してついに探せず。議事堂付近を歩き回った一日。

 

9月10日(火) ベルリンからライプチヒへ

 ベルリンフィル無料ランチコンサート。年に何回かこういうサーヴィスをするそうだ。ホールの階段や床に座って聴くので、柱の陰にならないような場所を選ばなければならない。私は1時間半前に並んでいたが、初めてだったので、どこに場所とりしていいのかわからず失敗した。

 

 終演後ライプチヒへ。夕食は「四季」という廻る寿司屋へ。前に来たとき、笑ってしまうが、カウンターの椅子が高くてて、座れずテーブル席で我慢したので、今回はどうしてもカウンターに座って、廻る寿司がどうなっているのか見ることにした。

 カウンター前には水の流れる溝があり、ここに寿司をのせた皿が船形の桶(?)に乗って流れていく。一皿だいたい450円くらいだった。手前の皿は天ぷら。 

 

9月11日(水) ハレとライプチヒ市内散策

 ハレはヘンデルの生まれた町。駅に着いて感慨深いものがあった。大昔、一度訪れたことがあった。ベルリンの壁が崩れてすぐのころだった。駅前に労働者のこぶしをかたどった大きな彫刻が飾られていた。今はもうない。

 ハレで見たいところがあったのだが、期待はずれだったので、早めにライプチヒに戻 る。造形美術館に行く。私の好きな美術館の一つである。

 

 ここにはベックリンの「死の島」の第5バージョン(最後)がある。今回は絵のある部屋に入っとたん、思わず笑ってしまった。というのは写真を見てもらえばわかるが、現代の死の島はこういう世界だったのだ。これ香港でしょう。香港のこれってテトリスの世界じゃないですか。で、監視員の女性に思わず「これってパロディ?」と尋ねてしまった。彼女は「香港だと思うでしょうね」と笑っていた。有名な美術家の作品らしい。 

 

9月12日(木) ライプチヒからフランクフルトへ

 仕事関係の方とフランクフルトでランチをする約束になっていた。それが終わってから、空港へ行くまでの2時間ほどツァイル通りをブラブラする。総ガラス張りの高い建物ショッピングセンターができていたのでびっくりした。

 

9月13日(金) 成田へ

 こうしてまた日本に戻ってきた。来年の春も行けるかな。 


有馬温泉・京都 <6月1日~6月4日>

 

6月1日(土)

 親戚の法事で大阪へ。羽田から関空へ。曇り空だったので、富士山は期待していなかったが、羽田を過ぎて間もなく、これまで見たこともない構図で富士山が目に飛び込んできた。まるで一幅の絵のようだった。 

 

6月2日(日)

 関西では法事のときのお供え袋には黄色と白の水引を使うということを最近知ってびっくりした。今日もまたびっくり。お坊さんが来るまで待っている親戚にお茶と和菓子で接待するのだが、その和菓子饅頭が白と黄色の皮、その饅頭を置く紙の縁取りも黄色だった。

 こちらでは当たり前のことらしく、ヘーとびっくりする私が逆にびっくりされた。

 関西と関東の違いについてあれこれ話題沸騰。そういえば、この春、伊勢志摩に行ってすき焼きを食べたことをHPに載せたところ、知人に関西風か関東風かと聞かれたという話をしたところ、さっそく今晩はすき焼きをご馳走してくれた。

 まず肉に砂糖と醤油を入れて焼き、それを食べる。そのあとでだし汁で野菜を煮る。最近は野菜を煮るときは割り下も使うそうだ。確かにすき焼きなのだから焼かないとすき焼きにはならないのだろう。

 法事のあとお墓詣りをしたのだが、このお寺には江戸時代の望遠鏡製作者岩橋善兵衛の墓がある。伊能忠敬が測量に用いた望遠鏡を作った人だそうな。 

 

6月3日(月)

 神戸は行ったことがあるが、六甲山や有馬温泉は初めて。義兄の運転で連れていってもらう。六甲山へ行く途中で香雪美術館に寄る。

 

 朝日新聞の初代社主村山龍平(香雪は号)の集めた古美術を所蔵している。美術館はそう広くないが、雪舟、狩野探幽、丸山応挙、池大雅、北斎など大家の作品が展示されている。長谷川等伯の絵もあるというので、楽しみにしていたが、これはあまりいいとは思わなかった。

 旧村山家住宅を利用。さすが豪邸。ちらりと見える庭園はさぞ春や秋には素晴らしいだろうと思ったら、その時期には見学会が開催されるそうだ。

 

 次に六甲山の頂上近くにある「六甲高山植物園」に行く。かなり広くて、いろいろな種類の高山植物が花を咲かせていてきれいだった。

 とくに赤紫のクリンソウ(九輪草、サクラソウ科)が真っ盛りでよかった。長く伸びた茎からまさに仏閣の屋根にある九輪のように何段にもなって円状に花が咲く。ドイツでは春に同じような輪になった黄色の花を咲かせる「キバナノクリンソウ」というのがあるが、輪は何段にもなっていないので、ここのほうが面白い。

 「ヒマラヤの青いケシ」もきれいだったし、エーデルワイスの花も咲いていて、けっこう堪能できた。 

 

 毎年暮れに行く水上温泉はかなりさびれてしまったが、有馬温泉は賑わっていた。熱海とか箱根並み?有馬の温泉は行基上人が発見したそうで、付近にはかなりたくさんの寺がある。そのうちのひとつが念仏寺で、ここは秀吉の正室ねねの別宅だったそうな。内部は見られない。有馬川にかかる「ねね橋」のたもとにねねの像がある。

 その他、いくつか寺を見て、旅館に入る。有馬温泉は日本三大古温泉の一つということでプライドが高いのだそうだ。宿泊料もそれなりに高い。でも、お湯は赤湯で熱くなく私にはよかった。

 ちょうど蛍の時期で、旅館の廊下から川辺に出られるようになっていて、そこから蛍が見える。夜の8時から9時ごろが見ごろだそうで、私たちは遅かったので、チラチラ見えるだけだった。

 

有馬を歌った歌を一首(紫式部の娘大弐三位)

  ありま山 いなのささはら 風ふけば いでそよ人をわすれやはする

 

6月4日(火)

 有馬温泉から神戸に出る。中華街で昼食をしたあと、新神戸駅まで送ってもらい、そこで親戚とは別れ、京都へ。明日は仕事日なので、今日中に帰られなければならない。だから、京都は数時間の滞在である。

 その数時間で見たかったもの。2つ。

 

 六波羅蜜寺の空也上人像。口から針金が出ていて、そこに小さな6体の阿弥陀仏が乗っている有名な像である。大昔見たきりだったので、また見たかった。とてもよかった。行脚姿の空也の顔の表情がとてもよかった。ここには重文がいくつもあり、狭いけれども見応えはある。

 

 そこから歩いて50メートルほどのところにある六道珍皇寺。チンコウともチンノウとも言うようだ。臨済宗の寺院だが、小野篁(タカムラ平安前期)の住居跡だった。篁は波乱に富んだ一生を送った人。隠岐への流罪に処せられたりしたが、最後は参議となる。

 

 その篁は夜になると冥界にいる閻魔大王のところへ通って仕事を手伝ったという。冥界への入口がこの寺の庭にある井戸だった。その井戸は格子戸から覗くしかないが、寺宝展等の特別公開時には見られるそうだ。面白いことにこの井戸は入口で、出口は嵯峨の福生寺(生の六道、明治期に廃寺)にあるという説もある。いつか行ってみたい。閻魔堂に篁と閻魔大王の木像が安置されている。

 

 京都市北区に篁のお墓があるが、その隣は紫式部のお墓である。なぜこの二人が隣り合わせになっているかというと、紫式部が地獄に堕ちないよう篁が閻魔大王にとりなした縁があるからだとか。ここにもいつか行ってみたい。

 

 グリム童話の「ホレおばさん」もそうだが、井戸や池の水をくぐるのが異界への入口という考えかたは洋の東西を問わずにある。面白い。

 

 六道というのは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の世界のこと。その辻というのはこの世とあの世を隔てる境界ということ。このあたり(東山区の清水寺南側にひろがる野)は鳥辺野といい、平安時代初期からあった埋葬地の一つだった。珍皇寺や六波羅密寺はそうした地に建立されたのである。

 

 篁の有名な歌(百人一首)を一つ

  わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟

 

 隠岐へ流される時に歌ったもの。「たくさんの大小さまざまな島を通って、自分は隠岐の島へ流されていくのだよ。都の人にそう伝えておくれ、釣り船にのっている漁師たちよ」

 

 6時の新幹線で帰京。車中で食べるお弁当をデパ地下で買う。手ごろな大きさの蒲焼弁当を買った。うなぎが好きなのではなく、折りの真中にちょっとしたおかずがあり、その左右に関東風と関西風の蒲焼とがのっている。それが面白くて買ったのだが、冷えてしまうと違いもよくわからずに失敗だった。

 

 急いで家に帰りついたとたん、本田がPKを決めたところだった。あとで携帯のワンセグで見られるのにと言われて「ヘー、そうなんだ」と思った。いまだ携帯を使いこなせていない。

 

 旅は非日常の世界へ入ること。帰ってくればうんざりする日常が待っている。だからまた旅に出たくなる。次の旅は夏までお預け。

 


ドイツ <4月25日~5月7日>

 

 今年のヴァルプルギスの夜(4月30日)はアイルランドに留学している女性Aさんとフランクフルトの旅行会社のMさんの二人を案内することになった。その日以外は勝手気ままな一人旅。主に植物園めぐりに時間を割いた。ちょっとしたハプニングもあったが、まあまあの旅だった。

 

4月25日(木)

 一昨年の夏マールブルクを訪れたとき、大学の建物前で声をかけて知り合いになった神学部の女子学生エレンさんに拙著をプレゼントすることになっていた。彼女の都合でドイツへ着いた日の夜8時ホテル前という約束。

 

 ドイツに着いて早々、フランクフルト空港駅からマールブルク行きの電車が20分ほど遅れる。インフォで、いったんフランクフルト中央駅にでてからのほうが早いと言われ、そうする。ホテルに着いたら8時ギリギリ。エレンさんはすでに待っていた。

 

 今のドイツはまだ明るいので、町外れのフラオエンベルク山にある聖エリーザベットのブルンネンに彼女の車で連れていってもらう。言い伝えによれば、聖エリーザベトがここの井戸で渇をいやし、そこに礼拝堂を建てたという。礼拝堂は1527年に壊されてしまい、1596年にマールブルク方伯の命で新たに作られた。市内にあるエリーザベト教会の前にも同じような井戸がある。

 

 そのあと、カイザーヴィルヘルム塔の建っている丘の上で夜景を眺めて、ホテルまで連れてきてもらい、いつかまた会えるといいわねと言ってサヨナラする。人間の縁って面白いものだ。

 

4月26日(金)

 駅前からKlinikum 方面のバスでマールブルク大学植物園へ行く。とても広くて、たくさんの種類がきちんと整備されている。お天気もよかったし、今日の予定はこれだけということもあって、すっかりのんびりして、夕方のバスで市内に戻る。夕方から小雨。

 旧大学の建物へ行く途中に広い公園が広がっているが、これは旧植物園で、今は市民の憩いの場になっている。

 

4月27日(土)

 マールブルクを10時頃の電車に乗ってカッセルへ。今年はグリム童話刊行200年祭ということでカッセルはそれなりに盛り上がっている。今日がオープニングなのだが、私はスケジュールの関係でどうしても今日は日帰りでヒルデスハイムの聖マリア聖堂と「レーマーとぺリツァエウスの博物館」(Roemer- und Pelizaeus Museum)を訪れることになった。

 

 聖マリア聖堂は現在修復中で中は見られないが、中庭でお堂の壁を覆う「千年のバラ」が見られたらそれでいい。

 ルートヴィヒ敬虔王(カール大帝の息子)の時代から言い伝えられている話がある。敬虔な王は冬のある日狩りをしていて屋敷に戻ってくるといつも胸にかけてある聖マリアの像がない。家来に探させたところ、雪のひろがる野原の一か所が緑になっていて、近づいてみると、野ばらの茂みで、そこに王が失くした胸飾りがあった。取ろうとしても取れない。それを聞いた王はそこに礼拝堂を建てさせたという。礼拝堂の壁を伝うバラは毎年芽を出し、グリム兄弟の『ドイツ伝説集』に載るまで、千年が経った。これが「千年のバラ」の由来である。

 

 続きがある。ヒルデスハイムの町は第二次世界大戦で空襲を受け、完全に破壊されてしまう。ところが、瓦礫となった礼拝堂のそばにバラの株が見つかり、これが生きていた。その後、何年も新しい株を出しては花を咲かせる。それらの株に誕生年の札がかけてある。一番最近のは1988年だった。

 

 で、私はここに来るのは4度目である。なんとかバラの花を見たいと思っているのだが、バラの花には早すぎる。5月末から6月初旬だそうだ。わかっているのに、またヒルデスハイムにやってきたのは「レーマーとぺリツァエウスの博物館」を見るためもある。私の仲間のOさんはメソポタミア研究家で、彼女からここには見るべき価値のあるものがたくさんあると聞いていたからだ。

 特別展はローマ人のトーガ展だった。常設展はエジプトの貴重な遺物がたくさんあった。Oさんだったらもっと楽しめただろうに。私には猫に小判。それでもとても面白く見た。

 

4月28日(日)

 カッセルのホテルをチェックアウトし、荷物をあづかってもらう。フリードリヒスプラッツで降りると、すぐ近くにグリム展開催の会場ドクメンタハレがある。なかなか凝った展示の仕方だった。子どもにも楽しめるような工夫がなされている。

 

 ただ、一つ不満があった。そこまでこだわらなくてもいいのかもしれないが、やっぱり気になる。2つのヒントでグリム童話のお話を選ぶという子ども向けのコーナーがある。そのヒントは「魔女、鳥籠」だった。

  答えは「ヨリンデとヨリンゲル」だが、実はこの話には魔女は登場しない。魔法使いの女である。どちらでも同じじゃない?と言ってはいけないのでる。これは拙著『グリム童話の魔女たち』を読んでいただければわかる。読むチャンスがなかったら、とにかく両者は別と考えてほしい。

 グリム初版が自由に読めるコーナーがあって嬉しかった。初版を入手するのはかなり困難か高価であるからだ。

 

 昼前にドイツメルヘン観光局のブリギッテさんと会い、会場そばのレストランで昼食をご馳走になる。今年のホワイトアスパラ。食後にドイツケーキ2つを半分づつ分けて満足。ご馳走様。

 

 その後、彼女の車でヘッシィシュ・リヒテナウの「ホレ博物館」に連れていってもらう。なんどかやってきた町だが、そのたびにまだまだということだったのが昨年秋やっとオープンしたのである。

 展示内容は子どもたちにも人気のあるグリム童話の「ホレおばさん」だから、子どもが楽しめるようになっている。また伝説としてのホレについて説明しているコーナーもあり、ホレと薬草をむすびつけたコーナーもあったが、特別にこれというものではなかった。

 でもホレが自分の名前にあやかって命名したというホルンダー(ニワトコ)のジャムが売っていたので、買い求める。

 

 今日は大忙しである。夕方にはカッセルのホテルに戻り、荷物を受け取りそのままヴェアニゲローデへ。

 ヴェアニゲローデのホテルについては出来るだけ毎年違ったホテルにしている。どんなホテルがあるか知っておきたいからだ。

 

 今年のホテルは目抜き通りに面しているので立地条件はよし。部屋も清潔でウエルカムフルーツがあり、毎日新しく補充されるし、受付の対応もいいので、オーケーを出したいところだが、難点は狭い階段でエレベーターがないことと受付が夜は不在であること。

 

 着いた時間が9時過ぎていたら、ドアに以下のところに電話をかけるようにという張り紙があるだけ。私は持参の携帯をドイツ番号にかけるかけ方がまだよくわからなかったので、これには困った。たいていは市内まで歩いて行くのだが、この日は疲れていることもあってタクシーを使った。それで運転手さんがドアまでトランクを運んでくれたおかげで、運転手さんに彼の携帯で連絡してくれるようお願いできた。5分くらいでホテルの女性が姿を見せ、なんとかチェックインできた。このことから考えて、このホテルを薦めることはできないなと思った。

 

 部屋で落ち着いて携帯のかけ方を調べ、ゲルディに通じたときは嬉しかった。海外仕様になっていても、たとえば同じ海外仕様の携帯を持っている日本人にかけるときは問題ないのだが、ドイツの電話にかけるときはちょっとした操作をしなければならない。それがわからなかったのだ。

 

 もう一つ携帯電話で困ったことはドイツに着いてその日のうちにドイツ時間に変更になるときもあれば2、3日かかるときもある。

 今回がそうで、最初、携帯があるから目覚まし時計はいらないと思ったが、万一を考えて持ってきたので、よかった。というのも部屋にも目覚ましつき時計があるホテルもあるけど、ない場合もある。モーニングコールを頼めるようなホテルにはほとんど泊まらないから。

 

4月29日(月)

 今日はひと休みの日。夕方ゲルディに会うまで、「ミニチュア自然公園ハルツ」に行く。最近できたらしい。ブロッケン山を中心にハルツの町の素晴らしい建造物をミニチュアで作り野外に配置したものである。日本にもよくあるものだから、どんなものかそれなりに想像はつくが、市内バスで20分弱で行けるようだから行ってみた。

 

 これまでハルツの主だった町はほぼ訪れているので、それらの建物を見て懐かしい思いをした。ブロッケン山駅はよくできていて、おもちゃのSLが動いていたり、ヴェアニゲローデ城の後方には本物の城が重なって見えたりとなかなか面白かった。

 隣の市民公園もよかった。自然の道をテクテク歩くと、カモの泳ぐ池や花壇、薬草コーナー、動物コーナーなどがあり、快晴もあって、のんびりできて休養になった。

 

 夕方ゲルディと会って明日の打ち合わせ。夜にはアイスランド留学中の日本人女性Aさんと会う。彼女はドレースデンやライプチヒを回って今日ヴェアニゲローデ入り。私と同じホテルを予約してある。 

 

4月30日(火)

 9時45分に市庁舎前でゲルディと会い、彼女の車でミヒァエルシュタイン修道院へ連れていってもらう。10時ちょっと過ぎに到着。

 旅行会社のMさんはすでに来ていて待たせてしまった。彼は日本人のためのツアーを担当している好青年。何度かハルツには来たことがあるが、ヴァルプルギスの祭りは初めてとのこと。来年にはドイツ永住権がとれるという。私はドイツ語については彼にすっかりおまかせして楽できた。代わりに薬草園の説明にはしっかり力を入れたつもり。

 

 今年のドイツは冬が去るのが遅かったようで、いつもなら目を見張るような菜の花畑はまだ青々。トチノ木のつぼみもまだ固い。こんなことは初めてだ。それでも薬草園ではそれなりに若葉が出ていたし、キバナノクリンソウ(サクラソウ科)はちゃんと咲いていた。

 この修道院の2階は楽器博物館になっている。数年前に来た時とずいぶん変わっていてびっくりした。展示室が増え、今風の機器を使って目でも耳でも楽しめるようになっていた。 

 

 ずいぶんゆっくりしていたので、昼を過ぎてしまった。ここからバウムクーヘンハウスへ行く。この家については前の旅行記にも書いてある。県道のそばに建っている黄色のバウムクーヘン形の建物はなんとも目につく。昨日乗った公園行バスでも行ける。

 庭にはバウムクーヘンの実る木やバウムクーヘン形の噴水など、笑い出しそう。各人好きな種類のクーヘンと軽食(ソーセージとジャーマンポテトサラダ)で満腹。煮込んだ肉と野菜のシチュー風にクランベリージャムを乗せたクーヘンというのがあったのにはびっくり。想像できない。ゲルディとMさんが注文。あまりに珍しいので一口おすそわけしてもらう。お菓子というよりキッシュみたかった。

 

 市内に戻り、ホテルで一休み。Aさんは持参の黒い和服に着替える。彼女は背も高くスマートで美しい。草履を履いた和服姿がとても引き立つ。すれ違う人たちが彼女に目をとめるのはよくわかる。

 Mさんが車できているので、彼の車でシールケまで連れていってもらうつもりだったが、おそらく駐車場を探すのが大変だろうということでバスで行く。

 

 まずエーレントへ。まだ時間が早いので会場は準備中。それでも広場の中央には薪が高く積まれ、その中央に魔女人形をつけたポールが立っている。たとえ人形とはいえ魔女を焼くということに反対しているグループがいる。難しい問題である。

 この村はゲーテの『ファウスト』に出てくる。ファウストはメフィーストに誘われてヴァプルギスの夜にやってくるが、ブロッケン山へは行かないで、この村と(次に私たちが行く)シールケの間の道を入って魔女たちの集まる場所へ行ってそこで魔女たちと踊るという場面がある。

 

 シールケへ行くバスを待っている間、何か変な気がしてならない。いつものように道路が混んでいない。シールケに着いて会場に向かう間もおかしいなと思う。シールケの会場は出来上がっていて、屋台の前ではすでにビールを飲んで楽しんでいる人々の姿も見える。

 

 だが、いつもの様子とは違う。うるさいほどの音楽がほとんどない。魔女の姿も少ない。一昨年は7時半になると沿道にはドイツ各地からやってくる魔女たちの行列が市庁舎の前に集まって気勢を上げていた。

 私たちはビールや焼き肉などを頬張りながら待っていたのだが、その気配もないうちに8時近くになってしまった。どうもおかしい。8時半のバスでヴェアニゲローデに戻る。ともかくおかしい。こんなシールケの祭りは初めてだ。

 

 タクシーでヴェアニゲローデ城まで行く。ゲルディにシールケの話をすると、今年はこの地域ではこの日を挟んで5連休とか。自分たちのバカンスのためにどこかに出かけたのではないかと言う。フーン。信じられない。

 城での祭りは例年と同じくきわめてローカルだが盛り上がっていた。ゲルディのお孫さんのレアちゃんが11時すぎに火の曲芸を披露し拍手を浴びる。昨年より上手になった。

 

 12時頃、タクシーに来てもらって私たち3人は町へ戻る。明日はAさんは昼の電車でベルリンへ。Mさんはフランクフルトに。私はゴスラーへとハルツを去る。二人ともそれなりに楽しんでくれただろうか。シールケがこんなだったとは予想もしなかったので、案内役だった私はけっこうショック。

 

5月1日(水)

 10時半、ホテルの前に見送りにきてくれたゲルディにサヨナラする。ゲルディは私たちにチョコと薬草酒の小瓶をプレゼントしてくれる。Aさんは着物をゲルディにプレゼントする。Mさんは私に高価なアイスヴァインをプレゼントしてくれる。なおかつ私はMさんの車でゴスラーのホテルまで寄り道してもらうことになった。ありがたいことである。

 

 ゴスラーのホテルも初めてだったが、まあまあだった。次にまた使ってもいいと思った。Mさんとサヨナラして、チェックインし、すぐに市内の錫人形博物館へ。

 

 ちょうど錫人形による魔女展をやっているとゴスラー在住の由紀子さんから教えてもらっていたからである。史実を忠実に再現しているものと、ヘー、これも魔女にしてしまうのかというようなものもあったが、さまざまな魔女の錫人形は見て面白かった。

 

 夕方由紀子さんとホテルで待ち合わせして、彼女の車でアレックスの家へ。家族全員と遅れてやってきた友人のクリストファーとで夕食を楽しむ。

 アレックスは毎年5月1日を私のために空けておいてくれる。嬉しいし、ありがたい。

 

5月2日(木)

 今日はベルリンへ行く途中寄り道するところがあり、さて、トランクをどうするか、電車のルートを調べる。立ち寄り先の駅にコインロッカーがあるかどうかも問い合わせしつつ、決めたルートはゴスラーからブラウンシュヴァイクに出て、この駅のロッカーを利用。再びここへ戻ってきて、ベルリンへ。

 

 立ち寄り先は中世の民衆本で人気者のティル・オイレンシュピーゲルが生まれた村クナイトリンゲンである。ここは大昔一度訪れたことがある。よく行ってこられたと自分でも感心するくらい何の情報もない時代だった。

 

 ティルの墓のあるメルンや彼が一時期働いていたブラウンシュヴァイクにはなんども行っているのだが、クナイトリンゲンとその村へ入る町シェッペンシュテットはそのとき行ったきりである。HPを見るとシェッペンシュテットのティル記念館は当時とはまったく違って現代的な建物になっている。

 

 シェッペンシュテットにはブラウンシュヴァイクからヘルムシュテットで乗り換えてバスで行く。ところが電車が遅れて乗るべきバスはすでに行ってしまった。DBのインフォで尋ねると、次のバスでヘルムシュテットまで行って、そこから別のバスでWatenstedt Gravensleben駅で降りて、シェッペンシュテット行きのバスに乗るようにという。駅とあるが駅なんてものではないし、やってきたバスもすごかった。写真でみてもらったほうがわかる。

 

 ということでなんとかシェッペンシュテットの町に着いた。記憶が戻ってきた。もちろんずいぶん変わってしまったが。

 

 ティル博物館は午後2時からというので、先にクナイトリンゲンに行ってみようと思ったのだが、バスを使うと時間的に無理。インフォでタクシーを頼もうと思ったが、閉まっていた。町の人に聞いたら、この町にはタクシーはないという。歩きで5キロ。往復10キロは今の私にはきつい。

 

 もう少したてば博物館も開く。そこで聞いてみることにして、それまで町をブラブラすることにした。市庁舎の裏に教会が建っている。この塔はどう見ても曲がっている。ティルが悪戯して曲げたという話が残っている。昔と変わりない。懐かしく思いだす。

 

 2時になったので、博物館に入る。建物だけでなく展示内容もずいぶん新しくなっている。ティルの映画をビデオで見るコーナーもある。

 受付の女性にタクシーを頼めるか聞いてみると、オーケーしてくれた。すぐにやってきた。この町にタクシーはないって言われたが、おそらく町の人がタクシーを使うことなんてめったにないから知らないのだろう。

 

 畑の広がる一本道を走り、クナイトリンゲンに着く。ティルの生まれた家というのが教会のそばにあったが、今はなくて、そこにティルの像が立っているだけ。村の人口は800人強だそうな。集会場のようなところにティルの時代の台所が再現されている。

 

 ティルは生まれてすぐ洗礼を受けに行くのだが、途中でぐずって川に落ちてしまう。その川はここから数キロ先のアンプレーベンという村にあるのだが、時間的に無理かもしれないとあきらめて、シェッペンシュテット駅まで戻る。運転手さんは親切だった。

 

 ブラウンシュヴァイクで荷物を取り、ベルリンへ。ホテルは中央駅のすぐ横。ここはなにより立地条件のよさと値段の安さで気に入っていたので、2回目である。

 

5月3日(金)

 今日は日帰りでポツダムへ行く。初めてである。サンスーシー宮殿とツェツィーリエンホーフ、そして映画博物館を回る予定。

 

 駅前からサンスーシー行きのバスに乗る。サンスーシーは土、日ならチケットを買うのに2時間から3時間は行列するだろう、そのチケットは時間指定になっているので、それまでは宮殿の庭園を見たりして時間をつぶすようにとガイドブックに書いてあった。今日は金曜、10時ちょっと過ぎだが、すでにかなりの行列ができている。最低1時間は待ちそう。

 

 ともかく行列に並ぶ。そこから見える景色を撮ろうとバッグからデジカメを取り出そうとしたところ、ない!どこを探してもない。リュックもポケットも、こんな小さな空間にあるはずがないではないかというところまで念入りに調べたものもないものはない!ポツダム駅前で駅舎を撮って、すぐにバスに乗った。バス停で落としたか、バスの中に置き忘れたか。

 

 だが、これから駅まで戻ったところで、バス停に落ちていなかったら時間の無駄。万一誰かが拾って届けてくれていれば、おそらく遺失物保管所にあるだろう。それなら夕方になるだろうと、すっかり覚悟を決めて、見るところは見ておこう。だからこの日の写真は充電を気にして携帯で撮ったもの。

 

 サンスーシー宮殿はフリードリヒ大王が生涯の大半を過ごしたお気に入りの夏の離宮。内部の豪華な部屋もよかったが、ドイツでたくさん見ている部屋と同じようで、正直なところ記憶に残らないかもしれない。日本語のオーディオガイドがあったのはよかった。

 

 大王は寒冷地でも育つジャガイモの普及を考えてその生産に力を入れたという。それで宮殿前の一画に大王の墓があるのだが、そこにはいつも数個のジャガイモが置いてあるという。その通りだった。大王は真剣だったのだろうが、ちょっとおかしい。

 

 宮殿のショップにゴスラーの友人アレックスの作ったガイドブックが売られていた。彼は独自の折りたたみ式ガイドブックを考案し、観光名所に納めている。私はいつも出来上がったら頂いている。それを見つけたので、ちょっと誇らしい気持ちになった。

 

 サンスーシーのバス停から乗り換えてツェツィーリエンホーフに行く。私はこちらのほうが面白かった。ホーエンツォレルン家の最後の皇太子ヴィルヘルムの住居だったところ。建物がよかった。

 そしてまさに第二次大戦の歴史を見せてくれる展示がよかった。ポツダム会談の会議室やここに集まった首脳たちの当時の記録写真などを見る。あれから60年余、世界の歴史の変動を思うと、私なりに感慨深いものがある。ここも詳しい説明のあるオーディオガイドがよかった。

 

 ここへ来たときのバス停は一方通行の道にあるので、帰りは別の道を通って別なバス停から乗ることになるのだが、その道がよくわからなくて時間をとってしまう。

 

 映画博物館は諦めることにした。そう、デジカメを探さなければならないのだ!駅まで戻って遺失物保管所がどこにあるか聞かなければならない。何時までやっているのかもわからない。駅にはバス会社の窓口があった。そこで聞こう。ともかく4時までに駅に着こう。

 

 バス会社の人はとても親切だった。電話をかけて、私ににっこり笑いかける。あったのだ!バスの運転手が保管していたという。彼は30分後に駅へ戻ってくるから待っているようにと。それでも本当に私のかどうかわからない。

 でも、まさか私みたいなドジをする人が同じ時間帯に二人はいないだろうと、それでもドキドキしながら待った。運転手はバス停に立っている私をみつけて「私のデジカメ」を渡してくれて、すぐにバスに戻っていった。どういう経緯か聞く間もなかった。それにしても何という幸運!

 

 私にとって貴重な写真が戻ってきた。というわけで、ポツダムの写真は携帯で写したものだけだが、その他は下手でもデジカメの写真を載せることができた。

 

5月4日(土)

 今日はベルリン自由大学の植物園でほぼ一日を過ごす。快晴ということもあったが、その広さ、世界の植物について詳しく展示してある展示館、園内の豊富な植物。ちょうど桜やマグノリアが満開で、飽きることなく楽しめた。

 入口でチェケットを買うとき、ボンザイ展も見るかと聞かれてすぐにはわからなかった。盆栽展のことだった。盆栽はこちらでかなり人気があるようで、会場には展示品と即売品があり、かなりの人だかりだった。

 

 そういえばしばらくぶりで円をユーロに替えてもらった。急に円高になってしまったので、手元にあったユーロを持参しただけで両替はしてこなかった。ところが、なぜかカードを使えるレストランやお店に行くことが少なく、現金ばかり出てしまった。

 明日と明後日の予定からすると残った現金ではどうしても足りそうにない。しかも明日は日曜だ。駅の両替所で1万円を替えてもらう。手数料を差し引いたとしても、69ユーロというのは信じられない。それでもお金の心配がなくなってほっとした。

 

5月5日(日)

 今日でベルリンも最後。夕方には友人のジョニー家に招かれている。それまで動物園へ行く。前に来たのはいつだったろう。ずいぶん久しぶりである。人気のクヌートが亡くなってしまったが、パンダがいるからと出かける。

 ところが知らなかったのだが、パンダも昨年8月に亡くなっていた。別に特別な動物がみたかったわけではない。何でもよかった。私は動物園が好きなのだ。

 

 入場料は13ユーロ。チェケット売り場に目下カードは使用できないという張り紙があった。昨日両替しておいてよかったと胸をなでおろす。

 

 それにしても動物園はつまらなかったな。お昼寝の時間なのか動物の姿がほとんど見えない。ゴリラの檻の前だけ人が集まっていたが、で、これはこれで面白かったのだが、動物についてはがっかりした。隣の水族館は昔見たときとても面白かったが、今回は時間がなくてパスした。水族館にすればよかったかなと思った。

 

 夕方ホテルに戻る。ジョニー一家は今日バカンスから帰ってくるので、息子さんのローベルトがホテルまで迎えに来てくれることになっている。ローベルトの奥さんと息子さんモーリッツに会うのは初めて。ということは3年ぶりか。

 

 ローベルトがモーリッツを抱いてやってきた。私がローベルトに初めて会ったとき、彼はまだ東ベルリン時代の小学生だった。時は経つのである。

 

 ローベルトの言うにはジョニーのお嬢さんが病気になってしまい、バカンスを1週間延ばしたので、今日はベルリンには戻ってこられない、そのことは私にメールで送ったという。私は旅行にはPCを持っていかないので、見ていなかった。

 

 代わりにローベルトと夕食まで一緒に過ごす。モーリッツが公園を見つけて遊びたいとダダをこねる。ローベルトはよしよしと車からスコップやシャベルを取り出して公園の砂場でいっとき遊ぶ。子どもを見守るとお母さんやお父さん、子ども同士でちょっとした喧嘩、日常の世界を垣間見る。夕食はタイ料理のレストランでご馳走になる。仕事を終えた奥さんも参加。ホテルまで送っていただき、サヨナラする。 

 

5月6日(月)

 鉄道を使った旅行では電車が遅れるのは大変なこと。悪いけれどドイツ鉄道への信頼は薄い。ということもあって、早めの電車でフランクフルトへ直行。中央駅のロッカーに荷物を入れようとしたが満杯。別な場所にもあるが、そこが空いているとは限らない。探しまわって時間だけたつのはもったいない。すぐに決心して空港まで出る。ここの荷物預かり所に頼んですぐに町に戻る。

 

 予定ではまだ行ったことのないゼンケンベルク自然博物館を訪れることになっていたが、どうも気が乗らない。ベルリンの動物園が期待はずれだったので、フランクフルトの動物園(これは素晴らしいのを知っているので)へ行こうかと思うも、これは時間がどうだろうかと、グズグズしてしまった。

 

 やっぱりドームに行こう。Mさんの勤める旅行会社がそばにある。彼は出張と言っていたからいないのはわかっていたが、顔を出してみよう。やはり近くにあるクラインマルクトを覗いてみよう。そういえばフェルトザラート(ラプンツェル)の種を買うことになっていたんだ。つまりレーマー広場を中心にブラブラして過ごしたということ。

 

 フランクフルト空港でなにやら大声で気勢をあげているのが聞こえる。 最初はサッカーの試合に集まった人たちかなと思ったが、近づいてわかった。空港の騒音禁止を求めるデモだった。どこも同じ。便利さを優先すれば犠牲も出る。

 

 飛行機は定時離陸。楽しみな機内映画は東京で見るのを控えていた「カルテット」と「東京家族」、そして何度みても面白い「フォレストガンプ」を見る。そういえば行きの機内で見た「ライフ・オブ・ベイ」、これは実によかった。昨年だったか、虎と少年の漂流227日という宣伝文句からほとんど興味をもたなかったのだが、友人から面白いと聞いていたので、だまされてもいいかと思ってみたら、確かにすばらしい映画だった。

 

 5月7日 15時成田着。

 

 今回は前半がやたら忙しく、後半はのんびりしすぎた感のある旅行だった。でも、いつもいつも駆け足でなくていい。見たいものは見られたし、ボケッとする時間もたくさんあった。気ままな一人旅は捨てがたい。

 それにしても、こうして旅のメモを書いていて愕然としたのは、写真を撮るということに全く熱意がなかったなあということ。だから下手な写真になったのも当然なのだが。一枚としていい写真がない。どうしてあれを撮らなかったのだろうというところがいくつもある。なんか目に納めておけばいいかなという思いが強かった。せっかくポツダムでは運よく戻ってきたデジカメなのに。この気持ちは何なんだろう。


堺・伊勢志摩 <3月23日~3月28日>

 

 24日に大阪で親戚と一緒に会食することになり、どうせだったら前から気になっていた伊勢神宮に行ってみようということになった。10月には式年遷宮もあるし、連れの関心事である西行の跡もたどれるということで、5泊旅行となった。

 

 伊勢志摩は高校の修学旅行以来だから、まったく初めてと同じ。それなのに、準備不足を痛感した。帰ってきてから調べることが多々あり、「ヘー」とか「なるほど」ということばかりだ。覚書の意味で説明が多い旅行記になってしまった。いつも以上にダラダラした文になってしまったので、流し読みか、飛ばし読みしてください。

 

3月23日(土)

 羽田から関空。そして電車で堺へ。

 

・与謝野晶子生家跡

 道路拡張のため家は取り壊されてしまった。記念碑に載っていた家の写真を見ると、入口は車道のほうにあったようだ。生家はかなり大きな和菓子屋で「駿河屋」という。晶子の情熱的な生き方を凡庸にしか生きられない私は素晴らしいと思う。

 

・利休邸跡

 ガイドブックでは市内の見所へ行くのに、阪堺線の駅名が載っているが、阪堺線というのは都電みたいな路面電車で、一駅の間隔が短く、本数も少ない。待っているより歩いたほうが早い。ということで、与謝野晶子の碑の立つ同じ通りをしばらく歩く。看板が出ているので、その横道に入ったところが利休邸跡である。

 更地に柵囲いがしてあり、奥に井戸があるだけ。私は連れほど利休に思い入れはないので、フーンという感じで写真を何枚か撮る。

 

・くるみ餅を食べる

 利休跡から歩いて、「かん袋」という和菓子屋に寄る。連れが子どもの頃、堺の親戚が必ずここの餅を持ってきてくれたその味が忘れられなくて、堺に行ったら食べたいと思っていたという。

 

 まだあるかとネットで調べたらちゃんとあった。鎌倉時代末期(1329年)に和泉屋徳兵衛が和泉屋という商号で開いたのが始まりという老舗。「かん袋」は秀吉の命名だそうな。その理由は長くなるので、省略。

 

 中に入って食べる。くるみ餅は東北の「ずんだ餅」(餅を枝豆の餡でくるんだもの)と同じ。なぜ「くるみ」かというと、果実の胡桃ではなく、「餡でくるんだ餅」という意味なのだそうな。

 メニューは「くるみ餅」と「氷くるみ餅」の2種類。明治時代に、冷凍技術が輸入されて、氷が簡単に作られるようになり、カキ氷をかけたものを作ったという。見た目は不思議。食べてみたかったが、オーソドックに普通の「くるみ餅」を注文する。餅5つでシングル350円。これはいいが、土産用に壺入りとポット(プラスティック容器)入りと2種類ある。壺が雰囲気あってとてもいいのだが、シングルで壺入りは1050円、ポットで850円と高い。売切れたら営業は終わり。

 食べ終わるころ、続々と客が入ってきて行列。もう少し遅かったら無理だったかもしれない。なかなかの味で満足した。賞味期限が当日だけなのでお土産にできないのは残念。

 

・南宗禅寺

 南宗禅寺は1557年開山、大坂夏の陣で焼失、1617年、沢庵(たくあん)和尚により再建さた寺。境内には、枯山水の庭園、重要文化財の仏殿・山門・唐門、千家一門の供養塔、八方睨みの龍の天井画、利休好みの茶室実相庵(じっそうあん)などがある。

 

 何家のだったか墓所の両側に、脚の部分にマリア観音の像が刻まれている灯籠があった。キリシタンが禁制となっていない時代のものだ。昨年暮れに桂離宮を見学したとき、すでにキリシタンご法度の時代で、やはりマリア観音を刻んだ灯籠があって、これは地中に埋めておいたという。それで見られなかったのだが、ここで見られるとはうれしかった。

 

 ボランティアガイドが熱を入れて説明してくれたのがよかった。最近こういうガイドが増えて観光客にはとても嬉しい。退職して郷里に戻り、ガイドをしているという中学時代の同級生のことを思いだした。頑張ってやっているかな。 

 

・堺博物館

 堺博物館のすぐそばに堺茶室というのがあり、これは連れのお目当て。でも、特別どうということもなかった。私のお目当は博物館。常設展のテーマは「堺―仁徳陵と自由都市」。

 

 堺の自由都市というのに興味があった。1476年頃から会合衆(有力商人で構成されたもの)が自治を担っていた堺は1568年織田信長から軍用金二万貫が課せられ、会合衆がそれを拒否し、抵抗するがついには屈服してしまう。1577年、織田信長が堺を視察し、1586豊臣秀吉により環濠の堀が埋められ、1600年徳川家康が堺に奉行所を置くことによって堺の自由都市は終わる。堺とドイツのハンザ同盟自由都市を比べてみたかった。それはこれからの宿題。

 

 環堀は今は残っていないということだったので、博物館なら何か資料が見られるかと思ったのである。なんとか少しでも跡が残っていたら見たいなと思っていたので、南宗寺でボランティアガイドさんに聞いたところ、裏手に少し残っているという。でもその裏手というのがわからず、時間がなくて、博物館へ向かう。

 

 博物館は仁徳陵の真向いにある。市内からちょっと離れているので、タクシーを使うことにしていたが、なかなかつかまらず、ひたすら歩く。疲れ果てたころ、これはすごいラッキーでタクシーが通りかかった。運転手の話では、堺にはタクシーの数が少なく、特に昼過ぎから3時頃までは運転手の休み時間なのだそうだ。博物館の帰りは電話で呼び出すように言われた。

 

 博物館はまあまあ面白かったが、環堀については当時の図面があるだけだった。南海ホークス(今の福岡ソフトバンク)関連の部屋があったのは面白かった。ホークスの本拠地は1988年まで大阪球場だったが、戦前は堺市にある中百舌鳥球場が主本拠地だったそうだ。しかしグラウンドの立地条件が悪く、戦後になってからの公式戦は1試合も開催されなかったという。堺市博物館の前に利休の像がある。

 

 仁徳天皇陵は正門より見るだけで中には入れない。大きなご陵だから全貌を見ることは無理。市役所の21階が展望台になっていて、そこからならよく写真で見る前方後円の墳墓が見えるというので、楽しみにしていたのだが、どうしても夕方には親戚の家に着かなくてはいけなかったので、中止にする。

 

 半日で判断するのは無理だとはわかっているが、商人町としての堺の面影は伺いようもなかった。堺の自由都市も千利休も南海ホークスも、今は昔。

 

3月24日(日)

 親戚一同集まってランチで会食。ウェスティンホテル3F「故宮」。ミシュラン一つ星だからということか、なかなか美味しかった。値段も手頃。

 食事が終わってから、新装なった大阪駅ビルへ。屋上までエスカレータで。「天空農園」には野菜や薬草が植えられていた。ちょうどミモザがきれいに咲いていた。それにしても、いつも思うのだが、大阪は緑が少ない。

 

3月25日(月)

 大阪難波から松阪へ。松阪はゴーストタウン化していると何かの本に書いてあったが、本当にそういう感じ。式年遷宮の影響はこの地までは届かないのか。ホテルでチェックインし、荷物を預かってもらったあと伊勢駅へ。

 

・伊勢神宮外宮

 御正宮は門のところまでで中へは入れない。新しい宮は左手にシートをかぶせられて、金色の千木(屋根の両端に飾られるV字形の木材)と鰹木(屋根の上にある数本の丸太)が少し見えるだけ。

 

 

 お宮の造りには出雲大社の大社造りと伊勢神宮の神明造りがあって、細かい違いがある。しかし、両方ともにお寺と違って、仏像や天井画といったものはないし、きわめてシンプル。でもそれが美しい。

 

 伊勢神宮は20年に一度新しくお宮を作って引っ越しする。引っ越し先は同じ敷地内。これが式年遷宮。外宮、内宮とも同じ。いくつかある別宮も同じく20年ごとに引っ越しする。ただ全部一遍では費用が大変ということもあって、年をたがえて行う。今年は外宮、内宮の御正宮だけで、別宮はそれぞれ済ませている。

 

 引っ越し前の敷地にそれはそれは小さな木造の宮が置かれていて、前はここでしたよと見せているのが面白い。

  

 もう少し広いところかと思ったが、表参道火除橋~手水舎~鳥居~御正宮~多賀宮~土宮~風宮と見て1時間半ほど。 

 

・二見浦

 この駅はなんと珍しい無人駅だった。切符は回収箱に入れ、乗るときはとりあえず駅員が姿を見せて切符を販売。いないときはそのまま乗って中で買う。

 

 二見には西行が6年ほど住んでいた。町のHPには西行で町興こしをするつもりだと正直に書いている。そして、「そこに西行がいた」という展示会が開催中ということだったので、まずはそこへ向かう。会場は仕舞屋風の建物「夢ぎゃらりぃ」で、浦に向かう道筋にある。

 

 二見浦は五十鈴川が伊勢湾にそそぐ河口にある三角州状の地帯にある。私はこれを「ふたみがうら」と言っていたが、駅名は「ふたみのうら」であり、西行の歌でも「ふたみのうら」である。展示会の会場にいた職員に尋ねたところ、どちらでもいいらしい。

 会場は無料。それほど広くない1階部分に西行についてのパネルや西行が住んでいたと推測される安養寺の跡の写真や年譜、西行関係の書籍などが展示されてある。正直、これで町興しは無理、西行ファンには失望されそう。

 

 安養寺跡の発掘調査が終わったら、そこをその名も「西行公園」とするそうだ。できればそこに小さくてもいいからそれなりに充実した西行記念館を作ってほしいものだ。西行ファンは多いのだから、そうすれば人はたくさんやってくる。

 

 二見浦といえば夫婦岩。展示会場から歩いてすぐのところ。もともとはこの二つの岩が輿玉神社を拝む鳥居の役目をしていたそうで、夫婦岩と呼ばれるようになった時期は不明である。しめ縄を張ったのも江戸中期頃と推測されているので、西行はこのしめ縄は見ていない。

 夫婦岩は二つの岩に間から日の出が拝めることで有名である。ただしこれは夏至のときであって、冬は岩の間から太陽が昇ることはありえない。よく初日の出の写真などに使われているのは夏に撮影されたものだそうだ。

 

 神社にある大きなカエルの像(二見蛙)は猿田彦大神の御使いだそうな。防波堤にそって芭蕉や本居宣長、山口誓子などの碑がいくつもたっている。西行の碑がなかなか見つからない。このころ、激しい風が吹き出し、歩くのがやっという状態だったのであきらめた。あとでわかったのだが、もう少し先まで歩けばよかったらしい。

 

 ・すき焼きを食べる

 松阪に来るならなんといっても松阪牛でしょうということで、この町一という「和田金」という店を予約しておいた。ここは仲居さんが最後まで付きっきりで作ってくれる。味付けに苦労しないし、食べることに専念できるが、これは回転が早いから店にとってはいいのかもしれない。しかも、しっかり奉仕料が別払い。飲み物を入れて一人1万円ちょっと。贅沢な夕食だった。 

 

3月26日(火)

 駅前でレンタカーを3日間借りる。これで好きな時間に好きなところに行けるので、楽だ。私は運転できないので、こういうとき運転できる連れの存在はありがたい。

 

・本居宣長記念館

 書くまでもないが、 本居宣長(1730~1801) は伊勢国松坂(三重県松阪市)の人で、木綿商の家に生まれるが、医者となる。医業の傍ら『源氏物語』など日本古典を講義し、歴史書『古事記』を研究し、35年をかけて『古事記伝』44巻を執筆した。その他『源氏物語玉の小櫛』、『玉勝間』などがある。

 

 本居宣長記念館は松坂城跡のそばにある。展示品はびっくりするほど豊富である。日記、読んだ本のリスト、手紙、どれもこれも宣長がどれほどの勉強家だったかがよくよくわかる。細かい字でびっしり書かれた研究書や日記にはほとほと感心する。すごい人だったのだなあと改めて知らされる。18世紀最大の日本古典研究家という称賛も決して誇張ではない。医者でもあった宣長の薬箱が展示されていた。当時の薬箱の様子がわかって面白かった。

 

・本居宣長旧邸

 12歳から72歳で亡くなるまで暮らした旧宅。53歳のとき2階の物置を改造して新しい書斎を作った。鈴が大好きだった宣長は書斎の床の間の柱に鈴を吊り下げ、その音色を楽しみ、この書斎を鈴屋(すずのや)と名づけたという。保存のために松坂城跡の現在地に移築された。1階部分だけ見ることができる。書斎には上がれない。ただ、戸が開けられているので、外から床の間の掛け軸が少しだけ見える。

 

 ところで、新しい土地を訪れるとなんて読んでいいのかわからない名前に出会うことがある。松阪は「まつさか」か「まつざか」か。また松坂か松阪かというのも気になる。駅の表記では松阪、ローマ字で「まつさか」だった。しかし、記念館の展示説明や宣長の直筆では両方あって混乱する。館員の尋ねたところ、昔は松坂だったが、地名改正のとき、松阪に統一したという。大坂と大阪も同じである。そういえば大坂夏の陣は大阪とは書かないなと思う。

 

 宣長の古典にたいするあくなき追求心を見せられて外へ出る。石垣だけが残る松阪城跡で八分咲きの桜を見て、次の地へ行く。

 

・本居宣長奥津城(墓のこと)

 今日のハイライトである。本居宣長は自分の墓のデザインを遺言として残している。死後、松阪市内に近い妙楽寺の地所である山室山の上に彼のデザインに沿った「本居宣長奥津墓(城)」が造られた。

 

 山の上というのはどのくらい高い山なのか、記念館の館員に尋ねたところ、「けっこうきつい山道で20分くらいかかるでしょう。」ということだったので、坂の苦手な私はどうなるやら不安だった。

 妙楽寺の下にある駐車場に車を止めて石の階段を数十段登ったところに寺がある。その横手の山道を登る。確かにきつい箇所もあったが、思ったほどヘトヘトになることなく、奥津城の見える下までたどり着いた。

 石の階段を登ると、木枠で囲まれて、宣長のデザインした通りの墓があった。説明によると、最初の墓は何度か改変され、没後100年祭のときに作ったものはデザイン通りではなかったらしい。その後(平成13年)再建するときに元の形に復元したという。

 

 宣長は鈴と同じくらい山桜が好きで、墓のそばに山桜が一本植えてある。この桜の木、丈だけ伸びて果たして花は咲くのだろうか。宣長の死後、彼の弟子を任じた平田篤胤の碑もある。やっと見られたという思いだった。満足して山を下りる。 

 

・おかげ横丁とおはらい町

 おかげ横丁は食べ物屋が密集していて、人も密集。昔の縁日のよう。伊勢名物の「てこね寿司」を食べる。寿司飯のマグロづけ丼みたいなもの。特別に美味しいというものでもなかった。

 同じ伊勢名物の「伊勢うどん」(太い麺に甘目のたれ)を昨日外宮そばで食べたが、私はてこね寿司より伊勢うどんのほうがよかった。

 おはらい町は両側に土産物屋が並んでいて、いくつか中に入ってあれこれ見るのも楽しい。もちろんここも人、人、人。

 

・神宮内宮

 さすが外宮より観光客がかなり多い。式年遷宮の影響だろう。いまはまだ10月としか聞いてないが、引っ越し(?)当日の混雑はすさまじいものになるのではないかと想像できる。駐車場に車を入れるまでが大変。

 宇治橋~鳥居~御手洗場~御正宮~荒祭宮~風日祈宮を回る。どこにでも必ず人がいるので、知らない人の記念写真を撮っているようなものばかり。

  

・西行谷見つけられず!

 今回の旅行でどうしても見たかった場所に「二つの西行谷」があった。一つは西行が庵をむすんでいた二見の安養寺そばにある「二見の西行谷」。

 数年前のどなたかのブログに「JRが走り、山側の神宮御薗裏手の架道橋(かどうきょう:道路にかかる鉄橋)のネームプレートには「西行谷架道橋」とある。 昔のレンガ造りでなかなかの風情が残る架道橋である。」と書いてあるのを見つけたが、どうしても見つけ出せなかった。

 

 もう一つは「伊勢の西行谷」と言って、伊勢内宮そばにあったという。ここも調べてやっとわかったのは、伊勢志摩スカイラインの入口そばの県営競技場跡に碑がたっているということだけ。

 競技場は内宮のそばである。競技場といっても広いし、そのどこかということだし、だいぶ暗くなっていたので、見つけることができるかどうかわからなかった。案の定、あたりをしばらく歩き回ったが見つからなかった。もう一度来ることにして今日はホテルに戻る。 

 

3月27日(水)

・斎宮歴史博物館

 今回の旅で私が一番よかったところ。記念館の展示は素晴らしかった。私は斎宮についてほとんど知識がなかったので丁寧な説明、豊富な展示物、ビジュアルにイメージできる映画など、どれも興味を持たせるものだった。綿密な企画にも感心したが、かなりお金をかけたのではないかと思う展示館だった。

 斎宮は「さいぐう」、「さいくう」、「いつきのみや」「いわいのみや」 などと言う。古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所である。 『日本書記』によれば、崇神天皇が皇女に命じて宮中に祭られていた天照大神を大和国の笠縫邑に祭らせたとあり、これが斎王(斎宮)の始まりとされる。その後、斎宮は伊勢神宮から20キロ離れたところに移る。

 

 天皇の代替わり毎に必ず新しい斎王が選ばれた。先代の斎宮が退下すると、未婚の内親王から候補者を選び出し、亀卜(亀の甲を火で焙って出来たひびで判断する卜占)により新たな斎宮を定め、様々な儀式を経て、総勢200名が斎王の伴をして伊勢に向かう。これを群行という。

 斎宮に籠った斎王はお付きの女性たちと静かに暮らし、年に3度だけ神宮での神事に奉仕する。斎宮寮には寮頭以下総勢500人あまりの人々が仕えていた。そのほとんどが男性だった。

 

 面白いことに展示品の中に胎盤を入れた皿というのがある。これはどういうことなのだろうかと不思議だった。斎王用ではなく、お付きの女たちのものだったのだろうか。いくら斎王が神に仕えるのが使命とはいえ、これだけたくさんの男性に囲まれて生活していれば、恋愛事件の一つや二つあってもおかしくないのではと不埒なことを考えたのだが、やはりそういう事件はいくつか記録に残っている。

 私はとても満足して記念館を出た。 

 

・アワビを食べる

 鳥羽展望台に向かう途中のパールロードで牡蠣を食べさせる店を目指す。私はあまり牡蠣が好きではないが、試してもいいかと。野外に木のテーブルを並べた店があり、そこは食べ放題、詰め放題の店。客たちはテーブルの上のコンロに牡蠣を乗せて焼き、美味しそうに食べている。2000円で食べ放題というのは安いが、私たちは匂いだけかいで、素通り。このあたりどこも同じような店ばかり。

 浦村海岸のところでやっと好きなものだけを注文する普通の海鮮店を見つける。 焼き牡蠣は5個一皿なのだが、「体調の悪い人はよく考えてからにしてください」という張り紙がある。牡蠣を食べ過ぎ大変な思いをしたという知り合いがいるので、牡蠣はやめる。焼きアワビ1個、これで1680円。伊勢エビのクリームスープ。これが780円だが、小さなカップに七分目ほど。値段の割には美味しいとは言えなかった。

 

・ミキモト真珠島

 湾に面した小さな島(歩いて渡れる)にある。真珠の養殖の仕組みを見せてくれる博物館と真珠販売の店、レストラン、海女の作業を見せるイベント(といってもほんの10分弱)など。

 

 真珠を買うつもりはなかったし、特別に面白いと思ったものではなかった。ただ、二つだけヘーというのがあった。海女の作業というのは海女が海に潜り集めた貝を桶に入れる作業を実演してみせるのだが、海上に上がってきたとき、いっぺんに息を吸うのは肺にとって危険なので、少しづつ息を吸う。そのときヒューヒューという音がする。それが聞こえる。

 それに真珠貝の貝柱は勾玉の形をしているというのが面白かった。レストランでそれを入れたピラフや干したものなどが食べられる。それにしても入場料が1500円というのは高すぎる。

 

・鳥羽展望台

 伊勢湾を望む高台(標高506m)にある。今日はあまり良い天気ではなかったので、残念。快晴だったら渥美半島も見えるし、冬の早朝なら真向いに富士山が見えるという。それでも大小様々な小島(神島、答志島など)が見えて、それなりに展望を楽しめた。 

 

・金剛証寺

 この地方最高峰の朝熊山は古くから山岳信仰の対象となり、825年空海が真言密教道場として建立したと伝えられている。その後、臨済宗に改宗した。

 伊勢神宮の鬼門を護る寺だったので、「伊勢へ参らば、朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」と言い伝えられているという。

 

 この朝熊だが、本来の読みは「あさくま」だったが、いつのまにか音が約され「あさま」になったと考えられている。伊勢神宮摂社の朝熊神社は「あさくま」である。 このように音が省略された地名読みはここへ来る途中の石鏡もそうである。「いしかがみ」ではなく「いしが」である。

 

 それなりに大きなお寺だった。芭蕉の句碑もあった。奥ノ院まで行く時間がなく、松阪へ戻る。

 

・西行谷発見!

 でも、どうしても伊勢の西行谷を探したくて県立競技場へ再び。競技場前の駐車場に車を止めようとしたら、中から職員が出てきて、ここは6時で閉門だからそばの駐車場をお願いしますと言う。6時5分前だった。しかし、これ幸いとばかりに職員に尋ねると、すぐに教えてくれた。

 

 競技場の裏手、スコアボードに向かって立ち、後ろを振り返るとそこに看板が立っていた。ここが西行谷であると書いてある。その谷は下から見た限りでは狭くてこれが谷?という感じ。上を伊勢志摩スカイラインが走っている。それでもついに「ヤッター」という気持ち。 

 

3月28日(木)

 今日の夕方にはレンタカーを返さなければならない。荷物を積んで、これまでに見残したところへ向かう。

 

・御城番長屋敷

 城址から見下ろすと長い屋根続きの長屋が2棟(20戸)見える。江戸末期に旧紀州藩士が松坂城警護のため移り住んだ武家屋敷である。いろいろな歴史があって、安政3年には藩士の身分を捨てたが、1863年、松阪城の御城番として藩復帰を勝ち取る。明治維新による藩消滅の危機にあい、合弁会社「苗秀社」を設立して生き延びた。

 

 屋敷は今も子孫が維持管理し、12戸は借家として使われている。西棟北端の一つが内部公開されている。たまたま子孫にあたる管理者の女性がいて、いろいろ説明してくれた。子孫であることに大変なプライドをもっているように見受けられた。

 

・猿田彦神社

 猿田彦神はニニギ(天照大神の孫で、天孫)の神の天下り(高天原から地上に降りる)を先導した神さま。先導ということから、交通安全・方位除けの神社として信仰されている。境内には、天宇受売命(アメノウズメノミコト=日本最古の踊り子)を祀る佐瑠女神社(さるめじんじゃ)も建っている。アメノウズメについては興味があるが、神社そのものには特に感想はなし。

 

・内宮別宮月読宮と外宮別宮月夜見宮

 どちらも「つきよみ」と呼ぶが、内宮か外宮かで漢字が違う。4祭神が祀られている月読宮が面白かった。正面から見ると4つのお宮が並んでいる。ここも遷宮するのだが、前に建っていた敷地に同じように4つの小さなお宮が並んで建っているのがまるでお伽話のお家のようで面白かった。

 

・伊勢旅行の最後にカレーライスを食べる

 昼食をおかげ横丁で食べることにした。魚偏はもういいかなという感じになっていたので、洋食屋で普通のカレーライスを食べる。カレーは普通の味だったが、コップの水が実に美味しかった。聞けば五十鈴川の水だという。

 

 松阪に戻り、車を返し、名古屋まで出て、新幹線で東京へ。夕食は名古屋駅の高島屋で「味噌カツ弁当」を買い、新幹線の中で食べる。家に帰りついたのは21時頃。

 今回の旅行、見られなかったところもあったが、ほぼ90パーセントは見られたので、不満や残念という思いは少なかった。