魔女裁判は異端審問の変質していったものです。本来カトリック教会の教えに反する信者を罰する目的で作られたものが、いつのまにか信仰とは関係のない人々まで巻き込んでいったのが魔女裁判だったのです。
1484年、ローマ教皇が魔女狩りの薦めともいえる教書を公布します。その2年後、二人のドミニコ会士が、これを巻頭に載せた『魔女への鉄槌』という本を出しました。これはベストセラーとなり、魔女裁判のマニュアル本になりました。この本のせいで、ヨーロッパに魔女狩りの嵐が吹き荒れることになります。
ドイツでは、魔女裁判の最盛期は16世紀から17世紀にかけてですが、18世紀になっても、魔女狩りは行われていました。魔女狩りはドイツ全土をおおいましたが、特に激しかった町を訪れて、その名残をみつける旅を紹介したいと思います。
ヴュルツブルク
フランクフルトから電車で2時間ほど。ロマンティック街道の出発点であり、ユネスコ文化遺産の町に指定されたとても美しい町ですが、かつてここで激しい魔女狩りが行なわれたのです。
ヴュルツブルクの領主司教フィリップ・アドルフ・フォン・エーレンブルク(在位1623-31)は政策顧問のイエズス会と組んで、在位中、900人の魔女を火刑にしたという記録があります。1629年には29回にわたって総計157人が処刑され、その一覧表が残っています。
バンベルク
ヴュルツブルクから30分ほどの美しい小さな町です。大聖堂には騎士の理想とされる「バンベルクの騎士」と呼ばれる彫像があります。この町でかつて激しい魔女狩りが行なわれました。
下の図版は、当時魔女の家に収容され、裁きを待つ魔女の姿です。この家があったところはいまでは土産物を売っているきれいな店になっています。
アイヒシュテット
ミュンヘンからニュルンベルク方面の電車でインゴルシュタットを過ぎたすぐに、普通列車しか停まらないアイヒシュテット・バーンホーフという小さな駅があります。そこから1輌だけの究極ローカル線に乗ると、その終点がアイヒシュテット・シュタットです。
この町もまた魔女を迫害した歴史をもっています。1629年にはこの町の裁判官が274名の魔女に死刑の判決を下したということです。19世紀初めに、当時の裁判記録が公開されました。その一部を紹介します。
問-
1ヶ月および1年に被告人は何度くらい空を飛びましたか。それは何ゆえ、また何の目的ですか。
答-
1ヶ月に2回、1年に24回でございます。夫が目覚めて邪魔しないように、悪魔が粉を振りかけますので悪魔と私はどこでも望むところで番うことができます。台所でも寝室でも広間でも、屋根裏でも。
悪魔は、とくに飛行に用いるため私に三叉を与え、それに何らかの魔法の軟 膏を塗ります。・・・
(ロビンズ著『悪魔学大全』松田和也訳より)
この女性被告人は拷問を受けつつ約1ヶ月にわたる尋問で、45人の共犯者の名を挙げ、神を冒涜したこと、天気を左右したこと、子どもの墓を暴いたこと、酒蔵に侵入したことなどを自供しました。
この記録の最後は「被告人、悔い改めて死ぬ」とありました。
ドイツの北部ノルトラント・ヴェストファーレン州の小さな町レムゴにも魔女狩りの嵐は吹き荒れました。1667年から16年間この町の市長をしていたヘルマン・コートマンは数多くの魔女を処刑したことで、魔女市長として人々に恐れられていました。
彼の住んでいた豪華な家は現在「魔女市長の家」として見学できます。下の写真がその家の入り口です。
ロマンティック街道沿いにバート・メルゲントハイムという町があります。バーデン・ヴュルテンブルク州のこの美しい小さな町はドイツ騎士団城で有名です。
17世紀中葉、この町にも魔女狩りの嵐が吹き荒れ、この城で魔女裁判が行われました。裁判のときには、先輩格のバンベルクに助言を求めています。この町の郊外にアルカオベルクという山があり、そこに「主の十字架」と呼ばれる十字架があります。山に入ってすぐのところに、主の十字架はひっそりと立っています。高さ2メートルほどの黒い十字架に首うなだれたキリストがかけられています。
その前には石の祭壇があって、花束が奉げられています。横の木のベンチの背もたれに「汝の悩みは主に投げよ」と彫られています。
しかし、この十字架はかつて「魔女の十字架」と呼ばれていたのだそうです。近くには「魔女の十字架ホテル」があり、山のふもとに停まるバス停は「魔女の十字架」と言います。
この町で生まれたある詩人は、子どものころに、この十字架の前で「魔女の処刑」という遊びをしたと言っています。この町の湯治場250周年記念のときには、死刑執行人や司祭、十字架にくくりつけられた魔女を乗せた車の行列があったそうです。
1960年代にはこの名前の由来について論議がなされたそうです。魔女がここで処刑されたとか、異教の聖地だったとかさまざまな説がでました。こんな面白い推理もありました。教会の人が「主の(Herren)」と書くべきところを「魔女の(Hexen)」と書いてしまったというのです。
つづりをみればありえないことでもないけれども、そんなドジなクリスチャンがいるのでしょうか。
ドイツには魔女の塔と名づけられた塔がいくつもあります。観光用のものもありますが、実際に魔女が収容されていた塔もあります。本物、偽物とりまぜて、魔女の塔を紹介します。
ゲルンハオゼン
フランクフルトから普通電車で小1時間のところにあります。バロック時代の作家グリンメルスハオゼンが生まれた町です。その生家の裏手に魔女の塔があります。この塔は実際に魔女たちを収容していたものです。数年前、この町に住む女性たちがかつての魔女迫害の犠牲者に捧げる記念碑を作り、塔のある庭に立てたのが「叫ぶ人々」という実に印象的なブロンズ像です。
フルダ
ドイツの守護者ボニファーツィウスの墓所である大聖堂そばに魔女の塔があります。実際に魔女を収監したかどうかはわかりませんが、塔の壁面にかかっている看板にも、町の地図にも「魔女の塔」と書かれています。
シュタイナオ
グリム兄弟が幼年時代を過ごした町シュタイナオにも小さな魔女の塔がありました。観光用かと思い、インフォメーションに問い合わせたところ、この塔には魔女が二人収監されていて、その後処刑されたということでした。
ハイデルベルク
ハイデルベルク大学新館を入っていったところの城壁にツタのからまる塔があります。これが実際に魔女を収監していた魔女の塔です。私が行ったときには、構内に入る門が閉まっていて、残念ながら中に入れませんでした。塔の尖端がわずかに見えただけでした。入口には魔女迫害の鎮魂のプレートがありました。
マールブルク
マールブルク城内に魔女の塔があります。週1度、ガイドが内部を案内してくれます。
塔の1階部分だけですが、天井の低い狭い石の部屋がいくつかあります。石の壁に何か刻まれた文字が見えます。茫然とします。
このコースは人気があるのか、いくつもグループが外で待っていて、ゆっくり中にとどまっていることはできません。監禁された魔女ではないのですから、それでいいのでしょうが。
その後も魔女の塔を探しにドイツを歩いていてきました。時間をつけて紹介します。
ブルンネンという言葉は井戸、噴水、泉(湧水)のどれをも指す。魔女のブルンネンはかつて無実の人々を魔女として迫害、処刑してきた歴史に対して20世紀に入って鎮魂の碑を建てる動きが始まり、その一つが魔女のブルンネンだった。以下は私が訪れた魔女のブルンネンの紹介である。
(続く)
ドイツの魔女裁判は18世紀後半になっても行なわれました。最後の魔女は1775年に処刑されたアルゴイ地方出身の農婦アンナ・マリーア・シュヴェーゲリンだと言われていました。ところが最近新しい資料が発見されて、彼女は処刑されず、6年後に獄死したということがわかりました。
下の写真は彼女を裁いた裁判所のあった町ケンプテンの美しい宮殿とそのそばにあるシュヴェーゲリンのための噴水です。