失敗だらけのザーゲの旅

 

Ⅰ 強制送還された話

 

 古い話です。1990年の夏、ベルリンの壁崩壊の翌年、ドイツに関心のある人なら絶対行って見たいでしょう。で、ウィーンからプラハ経由でベルリンまで、夜行列車は混むからと予約取って乗りこんだのですけど、オーストリアとチェコの国境で、トランジットビザを取ってなかっため降ろされました。

 

 当時、西ドイツから東ドイツに入るときは、列車内でなにがしかの西マルクでビザが買えたので、それが当然だと思っていたのです。ガイドブックにはどう書いてあるか知らないが、自分の狭い経験だけを信じて、行動するのがザーゲの流儀、単なるバカと言われてもしかたないし、実際日本に帰ってきて、その話をして、まわりの人たちから軽蔑の目で見られたです。

 

 で、降ろされたのは私と私の娘ふたり、アルゼンチンのフラフラお兄ちゃんと日本人の若者と全部で5人。真夜中、列車から降ろされた5人のドジたちはパスポートを取り上げられて殺風景な事務所で待たされること2時間。その後、オーストリアの国境まで送還すると告げられる。1輌だけの貨物車みたいなものに乗せられる。両側に木の椅子が申し訳程度あるだけ、窓も格子がはまっていて、外はわずかしか見えない。そう、映画で見るあのユダヤ人護送みたいな雰囲気です。

 

 国境の町、グミュンデで降ろされ、駅前にホテルがあるから、そこに泊まって朝一番の汽車でウィーンに戻って、そこでちゃんとビザを取ってからチェコに入れと親切(!)に教えてくれる。お人好しの私はホテルに無料で泊まれると思ったわ。おそらく私みたいなドジ用のホテルなんでしょう、恐ろしく古びた迷路みたいな内部のホテルで、3000円ほど。悲運を嘆きつつ、アレ、ここって、グミュンデだったなあと気づく。昔、あこがれの町として私の記憶に残っていた町だったのです。これはラッキー。

  

 かつて私がのめりこんだフランツ・カフカ、彼が恋人ミレナと不倫の逢瀬を楽しんだのがここグミュンデ。まさかこんなホテルではあったわけないな。なつかしいカフカを思いだし、翌年はトランジットではなく、ちゃんとプラハで降りて、カフカの墓参りまでしたわ。

 

 さて、いまはまだ真夜中のホテル。アルゼンチンのお兄ちゃんは野宿すると言って、駅前で別れた。日本人の若者は頼りなさそうだったので、一緒に泊まりましょうかと誘い、私たちの部屋で、一緒にインスタント味噌汁を飲みながら、一番列車を待つ。

 私はその日、東ベルリンの知人が駅まで迎えに来てくれることになっていたので、思わぬ出来事を伝えるのにひと苦労。壁破れたとはいえ、まだ混乱激しい1990年、東ベルリンと電話がつながるのは大変なこと。ドジな自分が悪いのだからしかたないし、おかげでグミュンデに来られたし、あれこれあったけど、いい思い出できた。

 

 朝一番の列車でウィーンに戻る。グミュンデの駅で、フラフラアルゼンチンのお兄ちゃんも姿を見せ、一緒にビザ取りに行こうと誘われる。日本人の若者は数日前からウィーンの友人のところに泊まっていたんですって。ビザなしでベルリンへ行こうとした彼になにも言わなかったのかしら、その友人。人のこと言えないけど。彼はその友人によく相談すると言って、ウィーンの駅で別れた。

 

 で、チェコ大使館がどこにあるかわからないのですよね。日本のガイドブック持ってたけど、チェコ大使館の場所なんて書いてないし、町の人だって誰でも知っているわけではないでしょう。アルゼンチンのお兄ちゃんが必死で聞きまくっているので、私はまかせた。彼はでもドイツ語はまるで駄目。片言もいいところの英語しか出来ない。

 お兄ちゃん、なんて言ってるかというと、「チェコアンバサダ、チェコアンバサダ」と繰り返して、地図を見せてた。それで、なんとかわかったのだから凄い。しかも午前中しか開いていないということまでわかってしまった。

 

 チェコ大使館は町はずれにあるシェーンブルン宮殿のそばだった。手続きは簡単だったのだが、問題は小銭。つまりビザに貼る写真が必要で、事務所内に簡易写真撮影の場所があるのだけど、硬貨がないと駄目。窓口は人が殺到していて、両替などしてくれない。両替するには宮殿まで行って、そこでなにか買ってつり銭手に入れるしかない。そばと言ってもそんなそばじゃあない。

 

 どうしたものかと思っていると、日本人の女性が声をかけてきた。旅行者ではない。ここで働いている人かと思ったが、そうでもない。その彼女が小銭を融通してくれた。あとで送るからと言ったのに、「いい、いい」と言う。困っている人の助けになればといいと言う。「なんでここにいるのですか」と聞くのも憚れて、ひたすら感謝して、小銭をいただく。

 

 ウィーンの北駅では自分のところのペンションを薦める日本人女性がいて、それは断ったが、数年後にもまた声かけられた。彼女は旅行者には有名な存在らしく、いまもいるという話を聞く。

 バルセローナのピカソ博物館だったか、いいと言うのにガイドしたいって言い張る変な日本人男性がいたが、これも断ったけど、あれはサービスなのか、ガイド料取るのかしら。いつもここにいると言っていたから、彼も有名なのかしらね。

 

 でも、チェコ大使館でドジな日本人を待って、見かえりなしに小銭を恵んでくれる日本人というのは奇特な人ですね。

 無事写真は撮れたけど、初めての経験ばかりで、しかも徹夜、出来あがった写真のすさまじい顔、我ながら、なさけないやら、大笑いやら。そのあと、市内に戻ろうとしていると、アルゼンチンのお兄ちゃんとばったり会った。

 

 彼とは大使館でサヨナラしていたのだが。彼もまた小銭がなくて困っていたのだ。私に借してくれないか、今夜またチェコ行きの汽車に乗るから、そこで返すという。

 そんなの絶対ありえない。そんな律儀なことをする彼ではない。で、私も恵まれたのだから、彼にも小銭をあげたのだけど、とりあえず今晩返してねというと絶対返すと真顔でいう。もちろん彼とはそのまま。

 いまごろは、彼もフラフラしないで、アルゼンチンでちゃんと根を張っているかしら。

 

 まる1日無駄にして、再び同じ夜行便に乗ることになったが、疲れはて、夜までシュテファン教会で眠りこけた。横にはなれないけど、うっぷして寝ていても、追い出されないからね。

 

 Got sei Dank ! (ゴットザイダンク! ヤレ、ヤレ、神に感謝あれ)

 


 

Ⅱ トイレ探しの話

 

 旅に出たら誰でも覚えはあるでしょう、トイレ探しの話です。ドイツの場合今はだいぶ変わってきましたが、昔はデパートでもトイレは有料、それもあればいいほう。トイレを探す苦労はたえずつきまとったものです。

 

・大昔、ベルリンの繁華街クーダムを歩いていたとき、どうしてもトイレに行きたくなって、トイレを探して歩いているうち、ヴィルヘルム教会のそばにやってきました。教会ならなんとかなるだろうと、中に入って、関係者に頼んだが、「うちにはトイレはありません」だって。嘘でしょう。

 真っ蒼になって駆けずり回り、デパートでお金払って、やっと一心地ついたけど、教会は困っている人を助けてくれるのではなかったのですか。

 

・これも大昔、北ドイツのメルンの町を歩いていたとき、どこにもトイレがないので、大きな建物をめざして、「よし、ここで借りよう」と恐る恐る中に入った途端、ものすごいベルの音がして、どたどたと大勢の人が駆けてくる様子。

 「エッ、なにか悪いことしたか、不法侵入?」思わず足がすくんでしまいました。と、大勢の子どもたちが勢いよくこちらに、つまり玄関に向かって駆けてきたのです。そこは小学校だったのです。

 なにも、私が足を踏み入れた途端、ベルが鳴らなくてもいいではないですか。呆然としてその場を去りました。あんまりびっくりしてトイレのことは忘れてしまいました。

 

・あるとき、まだ小さかった娘とハンブルクを歩いていて、トイレが見つからないので、とあるビルに入っていきました。ちょうど関係者らしい女性がやってきたので、お願いすると、「トイレに行きたいのは娘さんがですか」と聞く。このさい、「はい」と答えたほうがよさそうなので「そうなんです、急に」と困った顔して言いますと、「待っててください」と言って、そばの部屋に行って、鍵を持ってきて、トイレのドアを開けてくれました。

 感謝してお礼を言いますと、「娘さんだけですよ」ですって。ななんだ! 「わかってます」といいましたが、もちろん私も利用させてもらいました。

 

・つい最近のこと、ドイツ中部のハルツ地方の小さな町でのこと、電車に乗る前に駅前の有料トイレに入ろうとして、コインを入れましたが、ドアはビクとも開きません。コインは返ってきません。壊れているようです。

 近くに人が通りかかって、「どうしたの」と聞くもんですから、しまったなあと思ったのですが、一応状況を説明したんです。なぜ困ったかというと、こういうときけっこうドイツ人て親切で、あれこれ対応してくれるのです。でも今は時間がないんです。

 彼はああだこうだとドアノブをガチャガチャさせて、おまけにポケットから自分のコインを出して試してみたりするんです。でももちろん駄目。無駄になったコインのお返しをしようとしましたが、彼は両手を広げて、「いいよ、残念だったね」と慰の言葉を残して行ってしまいました。

 電車に乗れば、トイレはあるので、コインを無駄にしても、すぐに電車に乗ればよかったのですが、彼の親切に出会ったおかげで、1時間に1本の電車を逃してしまい、トイレも1時間我慢しなければなりませんでした。

 

 この手の苦労話はいくらでもありますが、読んであんまり面白くもないかなあ。いつかまた続くかもしれません。

 


 

Ⅲ 鍵で困った話

 

 旅行先でトランクの鍵を無くして困ったという話をよく聞きます。トランクを無くしたのなら、諦めがつきますが、目の前にあるものを開けられないというのは無惨です。私はトランクに鍵はかけないようにしています。
  

 私が困ったのはドイツの鍵のことです。ドイツ人の鍵好きはかなり有名、いろんなところに鍵がかかるようになっています。ホテルの部屋の中の洋服タンスにも鍵がかかるようになっています。
 それに鍵は2回まわさないと開きません。この2回がけっこうくせもので、2回まわせばといっても、途中でわからなくなってしまいます。たいていガチャガチャやっているうちに開きます。これは私が不器用だからかもしれませんが。


 最近はホテルの部屋もカード式が多くなったようです。部屋に入ったすぐわきにカードを差し込むところがあって、そこに部屋のカード式鍵を差し込むと明かりが点くようになっています。これはドイツだけでなく、どこでも最近の流行のようです。
 初めて、このタイプの部屋に泊まったときは困りました。真っ暗な中で、スイッチを探して、壁をさすりさすりするのに、どこにもない。慌てました。一緒にいた娘がカードをじっと見ていて、わかったのでよかったですが、頭の硬い私だけだったら、一晩中、部屋の壁をさすっていたのではないでしょうか。


 さて、私が困った鍵の話をお話します。 ドイツの田舎のペンションに泊まったときです。他の国は知りませんが、ドイツのペンションのオーナーは土、日などはまず家にいることはなく、泊まり客に玄関と部屋の鍵を渡して、そのまま外出してしまいます。


 ある土曜日の夜、観光から帰ってきて、玄関の鍵を開けようとして、鍵穴 に鍵を差して、ガチャリとまわしたら、なんと鍵が中でポキッと折れてしまったのです。針がねみたいなものないかとあたりを見まわしても、そんなもの都合よくありません。ヘアーピンがあったので、それで鍵穴から折れた鍵の残骸を取り出そうと試みたけれども、ビクともしません。


 ペンションには誰もいません。土曜日です。みんなどこかへ出かけたのでしょう。いくら夏とはいえ、10時を過ぎれば暗くなってきます。お手上げ。玄関先で野宿か、部屋がないなら諦めもするが、つまり鍵をなくしたトランクと同じです。なまじ鍵があるから困ってしまう。ほんと困りました。あたりは畑だけ、なにもない国道に一軒ポッキリの宿です。泣きたくなりました。


 もう夜中の12時になります。と、自動車の音が聞こえて、なんと私の立っている前で止まりました。泊まり客が帰ってきたのです。ありがたや、でも、彼が鍵を持っていたって、鍵穴から折れた鍵をとりださなければなりません。彼もお手上げ。私はひたすら謝るだけ。
 幸い彼はここの常連で、家の裏手に行って、どうやってか中に入ることができたのです。中で鍵穴と格闘している様子、だいぶたって、やっとドアが開きました。


 翌日、オーナーにその話をしたら、「あなたは鍵を2回まわしたでしょう。ここは一度でいいのよ」とのたまうのですが、1度も2度もなく、鍵穴に入れた途端にポキリですからねえ。で、鍵破壊代金を請求されるかしらと思ったのですが、「しかたないわねえ」ということで終わりになりました。


ゴットザイダンク!
鍵のないホテルなら、入れなくなる心配はないけど、泊まるには心配。

 


 

Ⅳ とんでもないほうに行ってしまい、そこはドイツ語圏スイスなのにフランス語ができなくて、しかも小銭がなくて困った話

 

 長いタイトルだけど、中身は短くします。10年前の話。ベニスからジュネーブへ行こうとして、ベルンに行ってしまった。私の乗っていた車両は途中Brigでジュネーブ行きの車両と別れて、北上してベルンに行くものだった。

 

 そのとき私は、ずいぶん長い停車だなあと思ったものの、ビュッフェでのんびりお茶してた。そのうち、なんだか見覚えのある景色と聞いたことのある駅名(何年か前にBrigからベルンまで乗っているのて、覚えていた)が出てきた。列車はベルンに向かってひた走り。慌てて自分の席に戻ると、私の乗っていた車両は真中あたりだったのに、いまは最後尾。もうひとつ後ろの車両だったら、間違いなくトランクとサヨナラだった。

 

 ベルン着22時。私は翌日どうしてもジュネーブにいなければならない用事があったので、ホテルも予約していたし、なんとしても、その日の夜にジュネーブに着きたかった。幸いベルン発ジュネーブ行きの最終に間に合いそう。夜中になってしまうけど、ひとまずホッとする。

 

 でも、こういう失敗は、よくあることだし、トランクは助かったし、失敗に入らない出来事かもね。で、とりあえずジュネーブのホテルに遅れる旨電話することにした。ところが電話をかける小銭が少ししかない。いまのようにテレカなどなかった時代。ベルンからジュネーブまでいくらかかるのかしら。わからない。とにかく財布、ポケットをまさぐって、ありったけのの小銭を手にプラットフォームからホテルに電話する。

 

 ジュネーブはスイスだけど、フランス語圏だということは知っていたけど、このときはそんなこと脳裏にもかすめず、電話口のフランス語聞いて、グェーとなった。小銭は足りるか、時間の勝負、英語は通じない。高級ホテルなら英語マンいるけどね。

 

 こういうとき、他の人はどうするんだろう。ガチャリ、小銭が切れた。ジュネーブに連絡なしで夜中に着いて、もうダメですと言われたら困る。いつだって、安宿しか泊まらないけど、野宿はしたことない。

 

 必死で考えた。最終列車を待つ人はわずか。でも、勇を鼓して、一人、一人聞きましたね。「フランス語できますか」って。実に運よく4人目の若いアメリカ人の女性が助けてくれた。彼女はフランスに友人がいて、フランス語オーケーだって。しかも、電話の小銭まで負担してくれた。(私はよく小銭と縁がある。大金と縁をもちたいものだが)

 

 ジュネーブの駅を出ていく彼女の後ろ姿に手を合わせて感謝したわ。こういう失敗にはどういう教訓をつけたらいいのだろう。

 

 まぬけは旅するな? ポケットには小銭を?どこの言葉も不自由しないようにせよ? 助けてもらえるまで、アタックせよ?

 

 今回はザーゲとしては、あまり名誉な失敗ではありませんでした。 

 


 

Ⅴ ザーゲの反省

 

 ある日の夕食時、「金山寺味噌ある?」と聞かれた私、「エッ、銀座に店ある?」

 こういう言葉の聞き違いって、けっこうギャクのネタになりますよね。

 以下は私が旅先で赤恥かいた言い間違い。笑ってやってください。

 

1.デンマークはコペンハーゲンのレストランで。そのとき、私は連れとシェークスピアについて激論(?)を闘わしていた。ボーイさんがやってきた。

 娘はオムレツが食べたいという。おもわず私、「ハムレットをひとつ!」

 

2.これも昔、ドイツのレストランでのこと。

 食事を終えて、外に出てしばらくして、娘のコートを忘れたことに気がついた。すぐにひきかえして、受け付けに行った。「さっき、ここに娘のコートを忘れてしまった(フェアゲッセン)のですが」と言ったつもりが、

 「娘のコートを食べてしまった(ゲゲッセン)のですが」と言ってしまった。 

 


 

 ザーゲの失敗はもっともっとあるのですが、このコーナー、どうしてわざわざ自分の恥を曝すことがあろうかと、ザーゲは考えるにいたりました。すべきことは、人を笑わせることではない、魔女街道の普及ではないかと、そう思うにいたりました。つまり、ザーゲは失敗を公表(?)したことではなく、公表することの無意味さに思いをいたし、反省したのです。

 ですから、「ザーゲの失敗だらけの旅」は一応これで終わり。でも、ザーゲが旅に出たと知ったら、またなんかやってるなと思って間違いありません。