子どもの頃に夏の数日を両親と過ごした福島にあるいくつかの湯治場が今になって懐かしくなり訪れてみようと思い、高湯や野地温泉に出かけた。この二つの温泉は大変よかったので、また福島の温泉にしようと思い、今回は土湯温泉に決める。福島駅でレンタカーを借りるも、遠回りせず、吾妻スカイラインを走り、浄土平から東小富士を登り、あとは旅館でのんびりする予定で出発。
最初は4日出発の予定だったが、天気予報では4日は雨だった。浄土平だけは雨にあたりたくないということでギリギリ様子を見て、1日前倒しにした。おかげで3日はこれでもかというほどの快晴で、4日は予報通り雨だった。
10月3日(火)
東京発8時新幹線で福島駅に。レンタカーで約1時間。福島市内から山に向かう頃、前方に東小富士が見える。ぽっかりと空いた火口とそのそばに今も噴煙を昇らせる浄土平の山肌が見える。これ以上ないほどの快晴。吾妻連峰が美しい。そして、かなり恐ろしいカーブの多い山道を登り、浄土平に着く。
岩肌から立ち上る大きな噴煙とあたり一面吹き上げる小さな噴煙。この地の名の由来によれば険しい山道を歩いてきた修験僧がこの花咲く平地にやってきて、これを「浄土」と言ったとか。私には地獄平がぴったりにも思える。
反対側にはなだらかな東小富士。下から木の階段を登り、頂上に着くと、ぽっかり空いた火口が丸見えで、一周もできるという。ガイドでは頂上まで15分とあり、いかにもすぐに登れそうに見えるのだが、シビアにみれば、今の私の足では無理とあきらめざるを得ない。もう少し若かったらとは詮無いこと。
ここにはまた日本一高いところにあるという天文台(標高1600m)があり、水と土曜日の夜に星空ガイドをしてくれる。先日、仲間と行った野辺山天文台(標高1350m)と星空観賞は残念ながら曇りだったが、ここの規模は野辺山とは段違いに小さい。しかし、今夜なら素晴らしい星空が見えるだろうと思ったが、本来の目的は温泉。浄土平ビジターセンターでランチを食べて、一路土湯温泉に向かう。
*東小富士の火口を見られなくて残念でならなかった。そこで、火口がどんなか福島観光情報サイト「ふくしまの旅」からお借りした。
土湯温泉は私の記憶とは全く違っていたのでびっくり。山の中の高湯や野地よりは下にあるせいか、昔から温泉地として賑わっていたようで、旅館もたくさんあり、れっきとした温泉街である。土湯こけしで知られているようにこけし屋が多い。旅館ででてきたこけしの箸置きは可愛かったが、何万円もする大きいこけしもある。
肝心のお湯は熱い湯の苦手な私にもちょっと温すぎた。
10月4日(水)
朝食前にもう一度湯に入る。今朝は予報通り雨。
福島市内に向かう途中にある慈徳寺に寄る。ここには「種まき桜」(福島市指定の天然記念物)という見事なシダレ桜がある。樹齢300年を越えるこの桜が咲いたら苗代に種を植えると言われてきたようだ。春にはおそらく見事なシダレ桜が咲くのだろう。福島市観光コンベンション協会の公式サイトから写真を借用させてもらう。
その後、福島市内に入り信夫山のふもとにある福島県立美術館を訪れる。立派な建物。隣にある図書館も同じく立派な建物。特別展は「少女たち」。著名な画家によるものではなくひたすら少女の絵を集めている美術館が京都にあるそうで、そこから借りたものである。無名でもかまわないが、もう少しハッとする絵が見たかった。むしろ常設展に面白い絵が多かった。
昼すぎに福島駅に着き、早い電車で帰宅。
さて、次はどこにしよう。いつ行けるかな。
心待ちしていた4年ぶりのドイツ。大いに楽しんでこよう。出発は7月2日だが、わが町から成田空港までの高速バスが今年は未だ運行中止。早朝に荷物を持って電車やバスを乗換えたりするのは辛い。それで初めて成田で前泊することにした。ずいぶん気が楽。
この前泊のおかげで思いもかけぬ難を逃れることができた。というのは航空券を買うときに、JALは到着日だったらドイツのどこでもドイツ鉄道(DB)が無料というサービスがあって、今回もそれを利用することにした。チケット購入時にDB利用とさえチェックすれば目的地を書かなくてもいいので、大変お得で便利なのだ。
今回はフランクフルト空港からバンベルクに行くことにしてバンベルクに宿をとった。ところがコロナ後の状況いかんによって、入国手続きにどのくらい時間がかかるかわからない。場合によってはバンベルクに行く電車がすごく遅くなってしまうかもしれない。そう考えて、だったらバンベルク行きは翌日にして、ドイツ到着日はフランクフルトで1泊するほうが安心かもしれないと考え、DBの利用はやめることにした。
そこで、バンベルクの宿をキャンセルし、フランクフルトのホテルを予約。この件をJALに伝えようと思って電話をしてもなかなか伝わらないので、前泊する日に空港で相談してみようと思った。
JALの受付で伝えたところ、それをするなら行路変更手続きをしないといけないという。ところがこの変更を受け付けるのはドイツ鉄道。しかも変更手続き料2万円という。黙って乗らなかったらどうなのだろうと尋ねると、それは1区間乗らなかったのだから、行路通りにしていないので、帰りのブレーメン空港からのルフトハンザには乗れないというのだ。つまりフランクフルトからブレーメンまではドイツの管轄なので、一か所不備(ドイツ鉄道を使わなかったということ)があれば、ルフトハンザに乗ることはできないというのだ。そんなこと知らなかったけど、帰れなければ困る。
JALの担当者に泣きついて何とかしてほしいと頼む。JALからドイツ鉄道に連絡を取ってくれたのだが、つながらないという。担当者は大変親切でいろいろ連絡を取ってくれて、なんと3時間もかかって、なんとか大丈夫なようにしてくれた。これが明日の出発前だったら、あるいは帰りブレーメン空港でだったらと思うと、間一髪助かったという思い。
ところが、まだあった。帰りのブレーメン空港でチェックインしたところ、4名ほどオーバーブッキングになっているという。万一乗れなかったらどうしたらいいのかとあれこれ考えて、ともかく全体のチェックイン時間終了と同時に受付に頼む。なんとかチェックインできた。やれやれ、助かった(Gott sei Dank!)
ということで、今回の旅行はその後のドイツ鉄道の相も変わらぬ遅延に振り回わされ、まさにドイツにやってきたなあという感じだった。
予定通り離陸。現在ヨーロッパに行くにはロシア上空を飛べないので、北極圏(Artic circle)上空を飛ぶか、中央アジア横断のどちらかになる。
私の場合、行きは北極圏上空を飛んでドイツに入った。北極圏に入ったら窓からずーと外を眺めていた。スチュワーデスさんが飲み物を持ってきたとき、そろそろ北極圏ですよと教えてくれた。
北極は英語でNorth Poleというが、ポールが立っているわけではないので(笑)、見える陸地が北極なのか、ひょっとしてグリーンランドなのか私にはわからない。ただ、氷の浮かぶ海は北極海だろうとは思う。行きは昼間だったが、帰りは夜なので、ひょっとしたらオーロラが見られるかもと期待したのだが、帰りは中央アジア横断でゴビ砂漠を眼下に見ることになった。これまでのロシア上空とは違った景色が続き面白い。ただし、この航路は確実に飛行時間が2から3時間余計にかかる。
7月2日(日) こうしてやっと4年ぶりにフランクフルトに着いた。
7月3日(月)
朝早い電車でバンベルクへ。目的は2つ。1つ目は魔女の鎮魂碑を見る。バンベルクの魔女迫害はドイツ1と言われているが、「魔女」への鎮魂の碑が2015年にできて、そのときの慰霊祭のことが日本のテレビで報じられていた。調べたところ、旧市庁舎のそばにあるガイヤースヴェルト城のそばのようだ。コロナが収束し、ドイツへ行けるようになったら、なんとしてもバンベルクへと思っていた。
ところが私がやってきたとき、城は工事中だった。そばのインフォメーションセンターで尋ねたところ、城の工事が終了するまで市の中心地にあるシェーンライン広場に移動しているという。なんとか探し出したが、慰霊碑はエッツ!という感じだった。碑と言っても、畳3つほどを並べたくらいの大きさの石板にいくつか彫られた赤色のシミのようなものがある。横の立て看板には「焼け跡」とある。2020年にここに移動したそうだ。いつになるかわからないが、城の工事が終わり、前の場所に戻った時はもう少し慰霊碑らしくなっているだろう。
もう一つの目的は大聖堂内にある「バンベルクの騎士」像である。この像は柱の持ち送りのところに立っているのだが、そこにグリーンマンの顔が彫られているというのだ。バンベルクは好きな町なので、何度も訪れているし、必ず大聖堂にも行く。だからこの騎士像を何度も見ているが、グリーンマンには気づかなかった。
グリーンマンというのは多くは教会にある人面の彫刻で、口から出ている、あるいは口から吐き出している緑の葉で顔が覆われているもの。W・アンダーソン『グリーン』(河出書房新社)によれば「古代の森の神がキリスト教のもとで生き残り、獲得した、新たな姿」だという。かつて、グリーンマンに興味を持って調べ始めたのだが、よくわらないまま、だんだん調べる興味が薄れてしまった。しかし、今回バンベルクに行くにあたって、このことを思い出したので、ぜひよく見てみようと思った。なるほど、確かに騎士像の足元にはグリーンマンがいた。しかし、口から吐き出す(あるいは飲み込む)典型的なグリーンマンとはちょっと違った。
その後、大聖堂そばの新宮殿裏にあるバラ園に立ち寄る。バラも真っ盛りだったし、そこから赤い屋根の連なる市内を眺めると、「アー、バンベルクだなあ」と思う。こうして2つの目的を果たし、さて、バンベルク名物のラオホビーア(燻製ビール)を飲もうと思ったのだが、予約したベルリン行きの電車に乗るため、駅へ急ぐ。この予約だが、ちょっと手間をかければ大変お得になっている。私がバンベルクから乗った電車は日本で言う新幹線、3時間でベルリンに着く。運賃は75,90€だったが、これをネットで予約すると45,90€になる。ただしキャンセルはできないので、必ずその列車に乗らなければならない。今回は乗る電車の8割を予約したので、だいぶ得した。
とはいえ、びっくりするほどの円安だ。貧乏旅行だから得になることはなんでも利用する。4年前は1ユーロ117円だったのに今は160円!
こうして、3時間後、4年ぶりのベルリンに到着。\(^o^)/
7/4(火)
「ベルリンで6泊」が最初の予定だったが、あちこち行きたい町が出て来て、結局ベルリンは3泊。それも使
えるのは中2日。予定を絞りに絞らねばならなかった。
ホテルはチェーンホテルのインターシティ。ベルリンではいつも利用している。その理由の一つに滞在中市
内の交通手段がすべて無料というチケットのサービスがある。大きな町の場合、これはとても便利だ。
歩き疲れたら、近くのバス停を探し、やってきたバスに乗って、終点まで座って行き、帰りは適当な市電の
ある駅で降りる。カフェーなどで一休みするよりずっといい。車窓を楽しめるし、バス停の表示で名前だけ
知っていた場所もわかる。例えば、これはバスではなくSバーン(市電)だったが、ノレンドルフ駅に停車し
たとき、エッ、ここはケストナーの『エーミールと探偵たち』の舞台ではないかと思って、一瞬降りてみよ
うかと思ったりもした。
ということで、無料チケットを使い、2日間で予定したものはなんとか見ることができた。そのうちのいくつかを。
・マルクス・エンゲルス像
私が初めてベルリンに行ったときにはすでに東西の壁はできていた。西ベルリンの旅行社でヴァイマル(東
ベルリン経由)に行けるよう手続きを済ませ、何も分からぬまま電車に乗った。そのとき、勝手がわからず
うろたえていた時、親切にしてくれたのが東ベルリンに住むグランツォー家だった。以来、壁が崩壊し、ベ
ルリンへ行くことが容易になると、必ずグランツォー家と会った。そのころ、ジョニー(グランツォー家の
主)がやっと手に入ったと喜んだ車でベルリンの町を案内してくれた。懐かしいあのトラバントである。ま
ず案内してもらったのが崩壊したベルリンの壁に沿って延々ドライブ、そして名前は憶えていなかったが大
きな台座だけのある広場、そこにはマルクス・エンゲルスの銅像があったもので、そのときはすでに撤去さ
れていた。
話が長くなったが、最近、このマルクス・エンゲルス像が復活して、カール・リープクネヒト通りにあると
いう新聞記事を読んだ。ということでこれはぜひ見なくちゃと思ったのだ。探すのに苦労した。ところが何
ということはない、大聖堂そばのシュプレー川沿いの公園にあったのだ。後ろにはフンボルトフォーラムの
建物がある。
この像が最近になって復活した詳しい理由はわからないが、ドイツだけでなく現在も世界を二分する思想の
バックボーンだったこの二人はやはりベルリンになくてはならないのかもしれない。
驚くことには、この公園にやってきた若者が銅像の前で楽しそうに記念撮影をしていることだった。彼らに
とってマルクス・エンゲルスは何者なのだろうと、私だって答えられないが、あれこれ考えた。
・フンボルト大学のエントランスにあるマルクスの言葉
マルクスついでにフンボルト大学(東西分断以前はベルリン大学)にも。大学のエントランスの正面壁にマ
ルクスの言葉が刻まれている。大学創立200年記念のときのものだという。
Die Philosophen haben die Welt nur verschieden interpretiert, es kommt aber darauf an, sie zu
veraendern. (哲学者は世界をいろいろ解釈しただけだった。だが、世界を変えることこそ重要なのだ。)
マルクス『フォイエルバッハ論』
そして、壁に至る階段が数段あるのだが、一段ごとに「Vorsicht Stufen 階段に注意」と書かれている。こ
れは2009年に新しく書き込まれたそうだ。けっこう皮肉?
ドイツのほとんどの大学は自由に中に入ることができる。フンボルト大学にも何回も来ている。だが、悲し
いことに「見えども見えず」なのだ。
外へ出ると、急に空が暗くなり、ものすごい雷鳴、そして大雨。直ぐ止むはずと玄関入り口のひさしの下で
しばし雨宿り。それからウンター・デン・リンデン通りまで歩く。街路樹のボダイジュ(リンデ)が花盛り
で、芳香が雨上がりの澄んだ空気を満たす。この贅沢なひと時に感謝。
7月5日(水)
・ジーメンス工場の労働者のための住居へ
これは「大集合住宅ジーメンス地区」と言って、ユネスコ世界文化遺産「ベルリンのモダニズム集合住宅
群」の一つである。群だから全部で7か所あり、そのうち4か所はブルーノ・タウト(1880-1928 )の仕事で
ある。ブルーノ・タウトと言えば、1930年代に日本に3年半住んでいたことがあり、桂離宮の美しさを広め
た建築家である。
第一次世界大戦の敗戦国ドイツは膨大な賠償金を作るために、当時の労働者は劣悪な環境下で働かされ、彼らの住宅はまるで監獄のようだったという。タウトは、1924年から1932年まで、主任建築家として労働者のための住宅建設に力を注いだそうだ。こうして建てられた住宅は今も実際に住居として使われている。そして、2008年に世界文化遺産に登録されたのである。
今回それらの一つでも見たいと思った。7か所まわるのは時間的に無理。一番わかりやすく行けるところ、そ
れがシャルロッテブルク地区にあるジーメンス住宅(1929-1934)だった。タウトの作品でないのが残念だ
が、まずは一つだけでも見ておこうと思った。ベルリン中央駅からバスで約1時間。乗り換えなしでジーメン
ス駅に着く。
降りたところで、あたりをキョロキョロしたら、高い大きなビルが目に入る。それがジーメンス本社(ミュ
ンヘンにも本社があるという)。その脇の道に集合住宅が並んでいる。100年も前の建物だ。修理や修繕も行
われただろうが、大変きれいな外観だった。近くにあったベンチに座って、駅で買ってきたパンを食べなが
ら建物を眺める。
と、そばにたくさんの鳩が飛んできた。私のパンが目当てかと思ったら、そうではなかった。大きな袋を担
いだ女性が鳩の群れに向かってやってきて中身を地面にばらまいた。鳩の餌だった。女性の着ている上着の
背には何と訳すのだろう「Stadttauber Project Berlin e. V」と書いてある。非営利団体の鳩擁護プロジ
ェクト活動らしい。
この話をゴスラー在住の友人に話したところ、数か月前にあった出来事について話してくれた。市内の建設
現場で蝙蝠の死骸が数匹見つかったら、蝙蝠愛護団体が建設に取り掛かる前に調べるべきだったと抗議し、
今も工事が中断しているという。嘘のような本当の話である。
・ケーテ・コルヴィッツ美術館へ。
シャルロッテン宮殿の裏側にある。コルヴィッツは私の好きな彫刻家である。昔クーダム通りにあった時も訪れたが、今は大きな建物になっていて、中学生くらいの子どもたちの団体見学ツアーが何組も入ってきた。今も人気があるのだろう。
フンボルト大学の隣にノイエヴァッヘ(新衛兵所)という建物がある。昔はこの前に衛兵が立っていて、時間で交代する。その光景が面白かったのだが、いつの間にかこの交代劇はなくなり、今はケーテ・コルヴィッツ作「ピエタ(死んだ子を抱き抱える母親)』(1937年)の拡大レプリカが置かれるようになった。コルヴィッツが終生抱き続けたテーマは戦争の犠牲になった母親と子どもたちだった。
・ポツダム広場にある文化フォーラムの一つ絵画館へ。ベルリンに来たら必ず訪れる私の好きな美術館だ。今回はクラナハのサインを見つけ出す目的があった。
クラナハはフリードリヒ3世から授与された紋章をサインにしていた。指輪をくわえてくねくねする蛇という実に複雑な模様なのだ。今まで気にかけたこともなかったが、クラナハの絵は絵画館に多いので、それぞれなめるようにしてみたところ、やっといくつか見つかった。しかし、小さくて、本当かどうかわからない。でも、まあよしとする。
・シェーネベルク市庁舎へ。ベルリンが東西に分断していた時代の西側の市庁舎。1963年にJ・F・ケネディ
が壁に囲まれた西ベルリンに入ってきて、ここで市民に演説をしたのだ。その時の彼の言葉「私はベルリン
人の一人だIch bin ein Berliner」は市民に感動を与えたと言われているが、これには、嘘か本当か、こんなエ
ピソードがあったという。ドイツ語では普通ここで「ein一人の」を付けることはしない。そこで、当時も今
もベルリンにはベルリーナーというジャム入り揚げパンがあって、これは一個、二個と数えるから、ケネデ
ィのドイツ語は「私は一個の揚げパンだ」という意味になると言って、人々は大笑いしたという。
歴史の一幕をぜひ見たいと思ってやってきたが、特別大仰なものはなく、市庁舎の玄関脇の壁にケネディの
横顔とここで演説したという簡単な説明を書いたレリーフが掛けられてあるだけで、中に入っても特別何か
展示室のようなものがあるわけではない。実に素朴なシェーネベルク市庁舎だった。裏手にある公園でのん
びりする。
前から行ってみたいと思いながら、結局今回も行けなかったところがいくつもある。ベルリンで2日間というのはあまりにも短い。でも、しかたない。明日はルターの生まれた町アイスレーベンに移動する。
7月6日(木)
ルターシュタット・アイスレーベンには2度訪れたことがあるが、今回はルターが生後半年で引っ越したマンスフェルトという町にも行くことにした。ルターがヨーロッパの歴史に与えた影響の大きさを考えると、そのような人物が生まれ、育った町の空気だけでも吸ってみようかと思ったのだ。
ルターの生家や亡くなった家、洗礼を受けた教会など、ほとんどがアイスレーベンの中央広場にあるので、半日あればみられる。そこで残り半日はマンスフェルトに行くことにした。
バスは1時間に1本。ホテルでチェックインしていたら、1本目のバスを逃してしまったので、マンスフェルト滞在の時間が少なくなった。快晴。車窓から夏の田園風景が広がる。バス停で降りると、真向いの丘の上にマンスフェルト城が見える。上からの眺めはさぞ素晴らしいとは思うが、今の私の足では無理だろうとあきらめる。
バス停から坂道を下ったところに「ルター両親の家博物館」がある。ルターの父親は鉱山業で出世した上昇志向の高い人だったという。だから彼は息子マルティンが法学を捨てて修道院に入ることになったとき、ずいぶんがっかりしたのではないかと思う。
この博物館は両親の家だから、展示物はほとんど父親の鉱山業に関係するものだった。向かいに当時の家の一部が残っているが、特別何も展示されてはいなかった。
1505年エアフルトの法学部の学生だったルターが帰郷する際、エアフルト郊外のシュトルテンハイムというところで、ものすごい雷にあい、「聖アンナさま、お助け下さい。そしたら私は僧になります」と言ったというエピソードはよく知られているし、その町には記念碑もあるというので、行ってみたいという気持ちもあったが、日程的に無理。
それにしても、このエピソードはルターという人間をよく表していると思う。私のようないい加減な人間だったら、「のど元過ぎれば」で、言ったことなどすぐ忘れる。ルターは違うのだ。
帰りのバスを逃すとルターの生家博物館がみられなくなるので、早めにマンスフェルトに別れを告げて、再びアイスレーベンに戻る。
ドイツについてからほとんどちゃんとした食事をしていなかった。でも、駅の売店には美味しそうなパンが並んでいるので、選ぶのに苦労するくらい。朝はそれで充分。でも、今夜は優雅にホテルのレストランに入ろう。
7月7日(金)
8時50分の電車でアイスレーベンを出発し、ハレ乗換で11時52分ゴスラーに着く。ホテルに荷物を預けて、皇帝居城へ。午後2時に居城の前で友人の由紀子さんと会う約束になっているのだが、なんと、居城に向かう途中でぱったり由紀子さんと出会った。彼女は今日ガイドの仕事があったのだが、それが早く終わってブラブラしていたところだったという。
由紀子さんと一緒に皇帝居城に入る。由紀子さんにガイドをしてもらい、新しいことをたくさん知る。ここの歴史絵巻は何度見ても面白い。
今日、ゴスラーを訪れるまでにはいろいろあった。昨年9月に友人アレックスの児童書『ちっちゃなブロッケンの魔女の冒険』を静山社より『ブロッケンの森のちっちゃな魔女』として翻訳出版できることになった。その出版祝いをしようということになっていた。いつもなら5月1日に彼の家にお邪魔しているのだが、昨年はまだ渡独は無理かと思い、延期にしていた。やっとこの夏にドイツへ行けることになったので、日程調整をしていた。だが、なかなかうまくいかず、結局は由紀子さんとアレックスの3人だけと会うことになった。どこかカフェでどうだろうと提案したが、彼は家に来てくれという。それで由紀子さんと訪れることになった。しばし談笑していると、奥さんのヴェロニカが実家のマリーエンバートからオンライン出演(笑)。実に便利というか便利すぎるくらいな世の中だとアナログの私は思うのだった。こうして今年の七夕の夜は楽しく過ごすことができた。
明日は日本からやってくる娘とブレーメンで合流の予定。到着が遅くなるので、その前にヴェアニゲローデで友人に会い、久しぶりにブロッケン山に登ってみようかと思っている。
由紀子さんにその話をしたら、「やめた方がいいよ。ハルツの森は死んでしまったから」と言うのだ。どういうことだ!聞いてびっくり。ここ2年ほどになるが、樹林(ハルツの樹林はほとんどがドイツトウヒ)がキクイムシという害虫に襲われて、ほぼ全滅してしまったのだという。
そういえば、ハルツに入って目にしたいくつかの森林がとても奇妙に見えた。夏なのに緑の樹木が見えない。あれは立ち枯れしていた樹木だったのだ。
どうしようか迷う。ハルツの森の思い出はそのままに残しておくか、それとも死に苦しむ森の姿を見ておくべきか。
7月8日(土)
ヴェアニゲローデで会ったゲルディも同じことを言う。そして今日は土曜、孫のチミーは勤めがないから、きれいなハルツの街を車で案内させるけど、と言う。
私がゲルディに初めて会ったとき、チミーはまだ小学校に上がる前。今はすっかり大人になって、ガールフレンドと一緒に住んでいるのだそうな。
考えた末、チミーの運転で私はゲルディと一緒にハルツを案内してもらうことにした。
夕刻には私はブレーメン行きの電車に乗らねばならない。ゲルディ一と旦那さんのクラウスさん、そして2人の娘さんにお孫さん、ゲルディ一家とサヨナラする時間だ。来年は絶対ブロッケン山に登るためにヴェアニゲローデにやって来ると決心してハルツを去る。
7月8日
久しぶりのブレーメン。ホテルはベルリンと同じインターシティホテル。ということは滞在中の市内公共交通手段は無料ということになる\(^o^)/。ブレーメンでは娘と一緒の8泊。ブレーメンから日帰りで出かけるコースが5日、残る3日はブレーメン市内をのんびりする予定。
以下は日程に関係なく、今回訪れる予定だったところをテーマ別にまとめたものである。
◇市庁舎巡り
内部を見ていない市庁舎がいくつかあるので、今回はそれを予定に取り入れた。ガイド付き案内で見学するツアーはいずれも当日の申込で大丈夫。参加者は多くて10人程度、時間は約1時間。
・ハンブルク市庁舎 7月9日(日)
ハンブルクはドイツ第二の都市だが、ベルリンとは別な趣があり、私の大好きな町である。これまで市庁
舎のエントランスまでは入っていたが、ガイドのつく内部ツアーに参加したことはなかった。
市庁舎では今も議会が行われている。エントランスには2階の会議室に上がる階段が左右にある。昔は貴族議
員用と一般議員用の階段は分かれていたのだそうだ。
部屋はどれも豪華。美しいシャンデリア、特に市の歴史を描いた大きな壁画のある広間が素晴らしい。壁画
は市の歴史を描いているのだから、もちろんハンブルク港や入港する船の絵もある。それらの壁画の中に一
つ疑問に思ったものがあった。ヒューゴ・フォーゲル(1855-1934)という画家の作品で、写真を見てもらえ
れば分かるが、十字架を掲げている人々の列は棺を担いでいる。この棺の主はハンブルクとブレーメンの大
司教だった聖アンスガー(801-865)という。その後ろに家来を引き連れて馬に乗っている王は、ガイド
の説明ではカール大帝だという。そうだろうか。カール大帝はハンブルクにやってきたことがあるのだろう
か。気になってガイドに尋ねると、確かにカール大帝はハンブルクにやってきていない。でも、大ドイツの
大王だからどこにでもいたのだと。なるほど、カール大帝とハンブルクは画家のイメージの中でむすびつい
ているというのか。この私の説明はいい加減である。もう少し調べないと。
ところで、もう一つ気になったのは、大会議室の入り口にあった見事に彫刻の施された飾り台と部屋の中の壁板である。壁板は中央にハンブルク市の紋章が彫られている。これはすぐわかる。もう一つ台のほうにはS.P.Q.Hと彫ってある。これはどういう意味か気になって写真に撮り、家に帰ってから調べてみた。すると、これはラテン語でS.P.Q.R「ローマの元老院と人間(Senatus PopolusqueRomanus )」つまりローマ国家の主権者を表す言葉の略で、会議を始める前に使う常套句と言ってもいい「紳士淑女の皆さま」の略なのだそうだ。知らなかった。なるほど、だから会議室の入り口にあるのか。そうと知れば、ここでS.P.Q.Rの RがHになっている意味もすぐわかる。このHはハンブルクのHなのだ。「ハンブルクの皆さん」だ。ではS.P.Q.J は?
こんな風に気になることや目を奪われる豪華な部屋などを見ていると1時間はあっという間だった。
・ブレーメン市庁舎 7月10日(月)
ブレーメンの市庁舎はマルクト広場に立っている有名なローラント像と一緒に世界文化遺産に登録されてい
るが、どちらかと言えば地味である。ただし、内部はすばらしかった。
2階に登ったところに、天井から大きな骨が吊るされている。昔捕れたクジラの骨だそうで、部屋の中にも 大きなクジラの絵がある。また、大きな素敵な船の模型がいくつも天井に吊るされていて、面白い。
・リューベックの市庁舎 7月11日(火)
市庁舎前に立つと、市庁舎の壁の上部に丸い穴がいくつも空いている。これは海から吹いてくる強い風を通す穴だという。初めて見たときはびっくりしたが、面白いものだと思った。今回選んだ市庁舎はドイツを代表する市の庁舎だから、似ていると言えばそうだが、どれも豪華で目を見張る。
面白かったのは、議会室に並べられている布製の椅子にみな双頭の鷲の刺繍がきれいに施されていたことだった。さすが、ドイツ。
・オスナブリュックの市庁舎 7月14日(金)
2016 年にミュンスターの市庁舎を訪れて、次はオスナブリュックと予定していたらコロナで延期。やっと今回実現。ブレーメンから特急で1時間弱。
細かいことは省略するが、ドイツがヨーロッパ宗教戦争の現場となった三十年戦争(1618-1648)がなんとか収束し、講和条約締結の運びになった。ところが、この条約締結はどこの町で行うかという問題が起こった。その結果、戦勝国のフランス側(旧教)はミュンスター、スェーデン側(新教)はオスナブリュックということで決着をつけた。この締結はそれぞれの市庁舎で行われ、ミュンスターの市庁舎には当時の様子をしのばせる絵などがあったので、今回のオスナブリュック市庁舎はどうだろうかと期待していた。共にガイドなしの見学。
ミュンスターもオスナブリュックも市庁舎はほとんど同じ造りだった。中に入るとすぐ左手に「条約の間」という看板があった。受付を通すことなく、もちろん無料。それほど広くない部屋の壁には使者たちの肖像画。中央にテーブルが置いてあるが、なんか殺風景。比べられるようにミュンスターの条約の間の写真も載せた。「平和の鳩 1648」と彫られた彫金の鳩がドアノブ(1963年)だったのは可愛いかった。
◇美術館めぐり
ドイツの美術館の名称はムゼウムかクンストハレあるいはギャレリーやハウスと言う。ベルリンの絵画館はゲメルデ(絵画)ギャレリーという。今回訪れたハンブルクやブレーメンの美術館はクンストハレだった。また、貴重な資料を展示している資料館(センター)も含めたい。
・ハンブルクのクンストハレ(7月9日)
ハンブルクに来れば必ず訪れる私の好きな美術館である。特にカスパ―・ダーヴィト・フリードリヒの絵が何点かあり、なかでも「雲海の上の旅人」(1818)が好きだ。ところが、今回見当たらない。貸しだししているのだろう。がっかりしたのだが、粋な計らいがあって笑ってしまった。カスパ―の代わりにフィンランド生まれのエリナ・ブラザースという写真家の写真が掛かっていた。彼女は旅を好み、フリードリヒを好み、一枚の写真を作った。ピグメントインク(インクジェットプリンター用のインクの一つ)による不思議な写真だ。フィンランドの海を見下ろす彼女が肩に担いだバッグには「雲海の上の旅人」の絵が印刷されていた。
・ブレーメンのクンストハレ(7月16日)
滞在中に時間が許せば行ってみようと思っていた美術館。パスしないでよかった。たまたま私の好きな表現主義の画家展だったのでなおよかった。また、晩年のピカソが好んで取り上げたモデル「シルヴェッテ」の絵(1954年)もあった。ここはお勧め。土・日曜は入場無料。
◇芸術家の村ヴォルプスヴェーデ(7月12日)
数年前に訪れて時間が足りなく、またゆっくり来たいと思っていた。ヴォルプスヴェーデは歴史的には13世紀初めの文献に名前が載っている古い土地だが、1895年、画家フォーゲラー(1872-1942)がこの地を買って、芸術家コロニーを作り、多くの画家がやってきたことで有名になった。詩人リルケも滞在したことがある。ここでの芸術活動はユーゲントシュティール(フランスではアールヌーボー)と呼ばれている。
私の好きな画家の家が博物館になっている。以下その2つ。
・ハインリヒ・フォーゲラー美術館
彼の作った家バルケンホーフ(白樺の家)にはたくさんの画家が集まり、その中でカップルも生まれ、同時に別れもあった。このフォーゲラーが描いた「白樺の家」は今もそのままの姿で美術館となって私のような(笑)フォーゲラー・フアンが訪れる。
・パウラ・ベッカー・モーダーゾーン(1876 -1907)美術館
コロニーにやってきた若い画家パウラはここで結婚し、子どもを産み、そして31歳で亡くなる。彼女の生
き方は簡単には書けない波乱に満ちた生涯だった。彼女の絵は実に大胆で、私は好きだ。
・ブレーメンのパウラ・ベッカー・モーダーゾーン美術館(7月15日)
市内ベトヒャー通りにも彼女の美術館がある。今回はパウラのエッチング特別展だった。
・エルンスト・バルラッハ・ハウス(ハンブルク7月13日)
バルラッハ(1870-1938)は表現主義の彫刻家だった。彼の作品はヒトラー時代に退廃芸術として没収された
り、焼かれたりした。友人の画商が彼の作品を守るためナチス党員であることを利用して彼の作品を集めて
戦争から守り通した。バルラッハの作品はハンブルク市中で見ることが多い。たとえば、市庁舎前広場には
「両大戦戦没者慰霊の碑」が立っているが、その裏側には彼の絵が刻まれている。
私のバルラッハ・ハウス訪問は2度目。最初のときに深い感銘を受け、いつかまた来たいと思っていたので実現できて本望。
・エーリヒ・マリア・レマルク平和センター(オスナブリュック7月14日)
レマルクの資料を展示している。彼の『西部戦線異状なし』(1928)は第一次世界大戦に出征した若者が地
地でだんだん厭戦(反戦ではない)に傾いていくが、あるとき間違って仲間の銃で撃たれて死んでしまう。
だが、その日の大本営発表は「西部戦線異常なし」だった。ズッシリ心に残る作品。
彼の『凱旋門』(1946)は日本で宝塚歌劇団が上演し、人気を集めたようだ。
◇公園
ドイツの公園、特に市民公園は素朴だが、緑を楽しめる雰囲気に満ちていて心が休まる。そのような公園を一つ。
・市民公園ブレーメン(7月15日)
どこも同じだが、ジョギングする人、ひたすら歩く人など。私もひたすら歩く人。この公園には無料動物園がある。つまり入り口がないからどこからでも動物の檻に近づける。特に珍しい動物はいないが、まあ楽しい。公園の中に大きな池があって、約一時間半のボート遊覧がある。粗末な乗り場だが、ちゃんと立て看板は出ている。そこで11時発のボートを待っていたが、誰もいない。ボートも来ない。どうも勝手に休業にしたようだ😠
◇観光船
ブレーメン市民公園のボートには乗れなかったが、今回はけっこう船に乗った。以下、そのいくつか。
・アルスター湖遊覧船(ハンブルク7月9日)約1時間
ここの遊覧船は2度目。涼しくていいかと思ったのだが、この日はギンギラギンのお日様のもと、屋根なしの船だったので、前回よりはかなり評価低し。
・リューベック遊覧船(7月11日) 約1時間
リューベック市内に入るホルステントーア門のそばから出ている。リューベックはトラベ川とトラベ運河に囲まれた中の島になっている。この島を一周して戻ってくる。トラベ川を河口に行けばバルト海にでる。レンガ造りの塩の倉庫を見ながら、港らしい景色を楽しむ。が、この日も暑かった。
・エルベ河フェリー(ハンブルク7月13日)
ハンブルグには市電の路線に沿って短距離ながらエルベ運河を短時間で移動するフェリーがある。今回はバルラッハ・ハウスに行く市電の代わりにこのフェリーを利用した。新しくできた評判のエルプフィルハーモニーの建物のそばの船着き場から10分ほど乗る。これまでと違った方向から港を見ることができて思いのほか面白かった。
◇楽しい食事の時間
久しぶりのドイツ、食べたいものをたくさん食べようと思った。それらのいくつかを忘れないうちに。
・ブレーメン市庁舎広場のレバーケーゼ(7月10日)
ドイツへ行けばたいていレバーケーゼを挟んだサンドイッチを食べる。この店はドイツ旅行者のブログでほめていたもの。その通り美味しかった。
・ブレーメン市シュヌーア通りのカフェ
前回のブレーメン訪問ですっかり気に入ったレストラン・カフェ。帰国前の日も行った。
・ニーダーエッガー本店のカフェ7月11日
リューベックに来たら必ず訪れるニーダーエッガーの本社。ここのマルチパン(マジパン)はドイツでは有名なお菓子だが、日本では販売していないので、知らない人が多い。でも、店内に並べられたマルチパンの種類を見ると、つい手を出して籠に入れてしまう。この店の2階にあるカフェーのケーキも美味しい。
・リューベック船員組合の家(7月11日)
船員の家(1535年)だった建物が今はレストラン。もちろん魚がメイン。私は焼いた鯛料理。娘は焼いたタラ。
・何といってもカリーヴルスト(ハンブルク7月9日、13日)
ハンブルクのお目当てカリーヴルストの店に行ったら、この日は休日だったので、近くにあるファミレスみたいな店で食べたちょっと変わった一品。料理の名前は「レインボーサラダ」ですって?13日には希望通りのカリー・ヴルストが食べられた。
◇魔女のこと
今回の旅では私のテーマの一つでもある魔女の慰霊碑探しを7月3日にバンベルクで果たしたが、もう一か所残っていた。それが7月14日のオスナブリュクでだった。
オスナブリュックの魔女迫害は実に酷いもので、ピークは1561年から1639年。1582年には163人の女性、1636年には40人以上の女性のほとんどが火刑で殺されている。しかし、2012年、市議会は彼女たちの名誉回復を宣言。
これらの魔女たちを捕らえて拷問にかけた塔が今も残っている。13世紀には見張り塔だったブックス塔で、市内はずれにある。中は見られない。
また、大聖堂の中にあった裁判所に魔女を引き連れた時に通ったという「魔女の小道(ヘクセンガング)」があり、市庁舎そばには「魔女の泉」があるという。
塔と「魔女の小道」はすぐにわかったが、「魔女の泉」がなかなか見つからない。レマルク・センターや地元の人にも聞いたが、よくわからないという。市庁舎の受付で初めてわかった。市庁舎前広場に大きな噴水があり、そこには市の歴史を刻んだと思われる場面の銅像(?)があるのだが、そこに後ろ手に縛られて座っている魔女がいた。よほど入念に探さないとわからない。
◇ドイツ・アラカルト
あまりに細かいことを書くのはやめにする。「へー、こんなことが」とか「ウーン、こんなものがね」といった私が見つけた偏った、でもちょっと面白い写真を最後に載せて、今年の旅の報告は終わりにする。
◇オスナブリュック
・「ハールマンの泉」
本当かどうか確認していないが、ドイツで働く坑夫を主人公にした泉はこれが初めてだとか。
・駅前に大きなドラム缶のようなものが置いてある。なんと、紀元9年にローマ軍を撃退したヘルマン(ローマ名アルミニウス)によるトイトブルクの戦いの記念碑だという。この戦いの地はこれまでトイトブルクのどこかと思われていたが、オスナブリュックに近いところだったと実証されたらしい。
・オスナブリュック城
今はオスナブリュック大学。裏庭が素晴らしくて、ベンチですっかり長居した。
◇ハンブルク
・ミニチュアランド
前回に続いて再度訪問。何度見ても目が点になってしまう。みな人形です。半端じゃないんです。
◇リューベック
・ガング
市中の通りをよく見ていると、両側に狭い通路があるのがわかる。入り口にガングと書かれ、番号がついている。この通路は公道なので、自由に入ってもいい。奥には住居があり、そこから左右どちらかに別の道に通り抜けることができる。
ガイドブックでずいぶん宣伝したせいか、旅行者が入り込むのだろう。いくら公道とはいえ、迷惑だろうなと思っていたら、なんと今は奥に入っても通り抜けられないようになっているか、すでに入り口に柵が作られていたりして入れないようになっていた。残念だが、他人の住居を覗き見するようなうしろめたさがあったので、これでよしか。
・聖霊養老院(リューベック)
世界一古い社会福祉施設と言われている。1286年から1970年まで運営されていた貧者や病人のための施設。立派な建物に入ると、広いホールがある、その奥に細長い廊下があり、片側に狭い部屋が並んでいる。その一つを見ることができる。雨露が凌げるありがたい避難所だったのだろう。
・ホルステン門のラテン語碑
ロマンチック街道のローテンブルクの門にはラテン語で「来る者には平和を 去る者には無事を」と刻まれた有名な言葉があるが、ここリューベックのホルステントーアには「内に結束 外に平和を」と刻まれているそうだ。長い旅路の末にたどり着いた人、これから出かける人、誰にも幸あれですね。
・聖マリア教会にある悪魔の像。
言い伝え。酒の好きな悪魔がここに居酒屋ができると思い込んで、建設に協力したところ、そこには教会が建つと知って怒り、建設用の岩をはぎ取り投げ捨てたという。その岩に座っている悪魔像。1999年作。この教会とはレンガ造りの素晴らしい聖マリア教会である。
・ボニツェ・デス・フモールス(仏陀の笑い)。ベルント・ヘトガー作(1914)
ヴォルプスヴェーデの駐車場横に置かれた仏陀の像。仏陀が笑っている理由など詮索する必要はない。見ているだけで笑ってしまう。
来年春にまたドイツへ行けるかどうか分からないが、希望だけは持っていよう。
2023年8月31日
大阪にいる義兄夫婦とこれまでは1年に一度どこか温泉に泊まって歓談の時を持ってきたが、コロナでその機会も遠のいていた。この3月にやっとお互い都合をつけて会うことができた。
歓談の場は赤目四十八滝で有名な三重県赤目温泉に決めた。なぜ赤目かというと、しばらく前に松尾芭蕉の『笈の小文』を読む機会があり、『奥の細道』とは違った人間芭蕉の句に興味を持つようになった。そこで、芭蕉が生まれ、江戸にでてくるまで暮らしていた岐阜県伊賀上野に行ってみたいと思うようになり、その近くで泊まれる温泉が赤目だった。
ということで、伊賀上野で義兄夫婦と落合い、レンタカーを借りて、芭蕉ゆかりの地を見て、赤目温泉にむかう。
3月13日(月)
東京から名古屋を経て亀山へ。そこから関西本線加茂行きで伊賀上野に。東京駅から約3時間半。なんと伊賀市はそれほど大きな町とは思えなかったが(人口約10万)、駅が3つもあった。待ちわせの駅が違っていた。携帯で連絡を取り合い、レンタカーだったので、それほど時間を費やさず義兄夫婦と会うことができた。
上野公園に車を止め、4時間ほど芭蕉ゆかりの地を訪れる。上野公園?東京の地名のいくつかは伊賀地方の町名に拠っているのだそうな。上野や赤坂(芭蕉の生家)がそうである。伊賀上野は家人がずいぶん前にきたことがあったので、案内を任せた。ただ、家人が訪れた当時はまだ若くて、スタスタ歩けた。こんなに歩くのが大変だったかなあと家人。
・上野公園内にある伊賀流忍者博物館はパス。
伊賀上野といえば芭蕉よりも忍者の方が有名とは思うが、時間がないので、芭蕉だけ。
・芭蕉翁記念館。何と今日から1週間休館だった。残念!調べておかなかったのは私の不覚。
・俳聖殿 芭蕉の姿をイメージして建てたものだそうだが、ウーンと首を傾げる。
・上野天神宮 1672年芭蕉29歳、この神宮に処女句集『貝お捕飛』を奉納して、俳諧師になるため江戸へ旅
立つ。
・芭蕉翁生家(上野赤坂町)
裏庭の「釣月庵(ちょうげつあん)は『貝おほひ』を執筆した書斎。
・松尾家の菩提寺愛染院境内。芭蕉翁古郷家。
遺言により遺骨は大津膳所の義仲寺の義仲の墓の隣。臨終に駆け付けた門弟らが芭蕉の遺髪を伊賀に持ち
帰り、ここ愛染院の藪かげに埋めて、碑を建てた。
・蓑虫庵(屋根の飾りに大きなアワビの貝が乗っている)。これは見たかったのだが、残念ながら、庵そのものが改修工事でビニールシートで覆われていた。
予定以上に時間がかかり、寄れなかったところがいくつかあり、旅館に着くのが遅くなった。
私たちが泊る温泉はちょっと変わっている。受付や食堂のある建物とは別に広い庭の中に和風の別荘(別な玄関のある2部屋が何棟か)がいくつも並んでいる。裏から見るとバラック建てみたいだ。
時間も遅いので、まず食事ということになった。食事は松坂風「すき焼き」。肉も野菜も美味。最後に入れた饂飩がすばらしく美味しかった。
3月14日(火)
昨夜はすごく疲れてしまい、温泉に入る気力もなく、朝風呂にする。じっくり1時間ほどお湯を楽しむ。透明のぬる湯で悪くなかった。ただ、部屋を出て、外を歩かないと湯殿まで行けないので、冬はどうなんだろう。
三重県は目下県民サービスがあって、旅館に泊まると割引のほかに一人4000円のお買い物券がもらえる。旅館の店で土産物を買い、赤目の滝に向かう。
赤目の滝は滝川渓谷沿いの約4kmに23ほどあり、遊歩道が整えられているので往復3時間ほどで四季折々の景観が楽しめるとガイドブックに書いてある。よく読めば急な階段を登っていくところが何か所かあるようだ。残念ながら今の私の足では果たしてどれだけ歩けるかわからない。最低1つくらい見られたらよしとしよう。
素晴らしいお天気だった。陳腐な表現だが、新緑が目に鮮やか、渓谷の水は澄み、聞こえるは鳥の鳴き声。でも、でも、である。ちょっと歩くと狭い板の橋、怖い。すぐにも急な階段がある。無理。いつの間のこんなに足が悪くなってしまったのか悲しい。階段下に休憩場があるので、そこで私は休む。家人も階段上の滝を2つ見て、戻ってくる。びっくりしたのは義兄夫婦の健脚。急な階段をいつくも登り、滝をいくつも見て、平気な顔をして降りてくる。脱帽。
滝をみるには入場券を買って山道にはいる。そこにサンショウウオ水族館がある。サンショウウオは澄んだ水に棲む。ウーパールーパーもサンショウウオの仲間。初めて見た。可愛い顔をしている。その後、近くに赤目ダムがあると言うので、行ってみた。観光客の姿は見えず、静かなひととき。
名張に向かい、駅で車を返し、駅そばのレストランで昼食。サービス券利用。残りのサービス券で名張名物という和菓子を買う。名張駅から→大和八木で乗り換える。ここで義兄夫婦とは来年の約束をして別れる。
名張駅前に江戸川乱歩像があった。彼は名張の人だった。
私たちはさらに四条→烏丸→四条大宮まで行き、駅そばのビジネスホテルにチェックイン。私はここで2泊(残念だったが金曜が仕事なので)、家人は残って更に2泊、京都を散策する予定。
この日は疲れてしまい、夕食はホテル近くの「餃子の王将」に行ってみる。「何も京都で餃子を」と娘は呆れ顔だったが、ここが一号店なんだそうで、客が列をなしていた。メニューが豊富で、安いのがありがたい。味もまあまあだったし。京都で餃子、いいじゃないか。
3月15日(水)
・豊国神社
63歳で亡くなった豊臣秀吉の遺骸は阿弥陀ケ峰(京都、東山三十六峰の一つ)に葬られ、麓に廟社が造営されるも、豊臣氏滅亡後はいくつかの土地を移動し、1880年にこの地に再建され、別格官弊社として復興したそうだ。この神社は初めて来た。秀吉は京ではどんな位置づけをされてきたのか気になる。
・三十三間堂。
何十年ぶりだろうか。今度京都に行ったら行ってみようと思っていた。建物の内部は新しくなり、バリアフリーになっていた。しかし千手観世音菩薩は変わらない。前に立っている菩薩の顔はよく見えるが、最後列の菩薩はほとんど見えない.それでは可哀想ではないか、時々場所変えするのだろうかと受付のお坊さんに尋ねた。変えないそうだが、今はすべての菩薩の顔写真と説明をつけたビデオができているという。確かに自由にみられるビデオが置いてあった。
昔は庭も見られたのだったか、思い出せない。椿がきれいに咲いた庭だ。そしてあふれる観光客。今は外国からの観光客オーケーなので、ここなど日本人よりも多いかも。
・「角谷(すみや)もてなしの文化美術館」
江戸の吉原といえば遊郭、京都の島原も同じ遊郭かと思っていたが、それは違った。島原は遊郭ではなく花街(かがい)だという。花街というのは歌舞音曲を持って客をもてなすので女性も客になれるが、遊郭はあくまで女性との付き合いが目的なので芸事はいらないということらしい。
その島原に大きな揚屋(今の料亭)が残っていて、ガイド付きで中を見せてくれると知って、予約する。約1時間のガイドは大変中身が濃くて面白かった。
この一角に入る大きな門があり、これは「おおもん」と呼ぶ。お寺の大門は「だいもん」というそうだ。
・京都駅イセタンの弁当
今日も疲れたので、お弁当を買ってホテルで食べることにした。京都高島屋の地下にある食品の店をあれこれ見ながら好きなものを選ぶ。カツやコロッケを売っている店のケースに「ヘレ」と書いた揚げ物がある。目の間違いかと思った。まちがいなくヒレカツのことだ。関西ではヘレというらしいが、その謂れはわからないそうだ。こういう地域性を見るとやはり旅は面白いなあと思う。写真を撮るのを忘れた。
3月16日(木)
・知恩院
ここの納骨堂には、亡き義理の両親のお骨が分骨して納められている。いつか私たちもここに納めてもらうつもりだ。午前にトロッコ列車を予約しているので、早朝にお参りする。
・トロッコ列車
嵯峨嵐山駅の隣がトロッコ嵯峨駅。ずいぶんな人でびっくり。人気のほどがわかった。ここからトロッコ亀
岡駅まで保津川に沿って25分のルート。桜や紅葉の時期ならもっと見事な眺めだったかもしれないが、こ
れでも十分満足。
近くの馬堀駅から嵐山へ。渡月橋のそばの蕎麦屋で昼食。嵐山は人、人,人。着物を着た人、人、人・・・この人の波に正直吐き気がする。私もその一人だ。だからもう京都はしばらくいいとさえ思った。
・妙心寺退蔵院(臨済宗大本山)
嵐山の人の波から逃れて妙心寺へ。46もの塔頭がある広い寺だ。その一つ退蔵院に。本堂の方丈には有名な国宝瓢鮎図(ひょうねんず。昔はナマズは「鯰」ではなく「魚扁に占」と書いたそうだ)の絵がある。足利義持の命で描かれたもの。水墨画のパイオニア如拙の絵。小さなひょうたんでヌルヌルした大きな鯰をいかに捕らえるかという禅の問題としてよく知られている。
絵の上部に京都五山の高僧31人の答えが書かれているが、もちろん私には読めない。帰宅してから調べた。ネットは便利だ。
その答え一つ「どうしてまた瓢箪でナマズを抑えようとするのか。魚は意識することなく、どっぷりと、広々とした水中に浸かっている。そのように、人もまた、無限の道の中にひたっているのだ。」
フーン、まさに禅問答?残り30人の答は以下のサイトに。。
超ミステリアス。不思議な国宝「瓢鮎図(ひょうねんず)」って何だ? | 和樂web 日本文化の入り口マガジン (intojapanwaraku.com)
さすがここは静か。客の姿もまばらというよりほとんど見られない。ただ、桜の季節は別らしい。門を入った目の前に見事な紅しだれ桜の木が枝を広げている。満開のときは歓声が奥の売店まで聞こえるという。「元信(もとのぶ)の庭」の見える間で長いこと座って、うたたねまでして、元気を取り戻す。京都駅に戻る。私の旅はこれで終わり。
帰りの車中で夕闇に浮かぶ富士山が神秘的なまでに幽玄な姿で浮かび上がって見えた。通路側の席しかなかったので、写真に撮ることはできなかったが、今も目に焼き付いている。
★こんなこともあった。
実は13日の朝、東京行きの快速に乗って、新幹線の切符を確認しようとしたら、乗車券がない。特急券はある。バッグをひっくり返すようにみてもない。1週間ほど前にみどりの窓口で購入したものだ。ないものはない。おそらく最初の電車に乗るときに落としたのだろう。新幹線に乗るときに事情を話したら、降りた駅で乗車券代を払い、乗車券紛失の証明書をもらう。後で見つかったら、それを持って駅に行けば換金してもらえるということだった。1枚の紙切れだもの、まず無理だとは思ったものの帰り着いた駅で事情を説明したところ、なんとあったのだ\(^o^)/。ただ、個人情報保護の観点から拾い主の名前を明かすことはできないと言う。お礼を言いたくてもできないみたいだ。百万円とかだったら別かもしれない。翌日返金してもらった。7700円の乗車券。
さて、次はどんな旅をしよう