11月には旅行しようと思っていた。どこにしようか迷ったあげく、渥美半島(愛知県)の田原市、伊良湖岬、神島(三重県)、犬山市の明治村を見に行くことにした。
11月12日(火)
東京から「ひかり」で豊橋駅へ。レンタカーを借りる。
・まずは二川宿(豊橋市)へ。東海道53次の33番目の宿場町である。時間がなく本陣資料館はパスして、町の雰囲気だけ感じてみようと少しばかり歩く。数軒の宿があるだけの(今日だけかもしれないが)寂しい宿場町だった。
・田原市は渥美半島の大部分を占める。まずは市内にある田原城へ。築城は1480年頃。廃藩置県後の1872年に取り壊されて、今は城跡に新しい建物が建っている。見晴らしはいい。城址には田原藩の家老で画家でもあった渡辺崋山(1793―1841)を祀った崋山神社がある。
私は画家としての崋山は知っていたが、政治家としての崋山についてはほとんど知識がなかった。開国論者だった崋山はその著によって藩の批判を受け、田原に蟄居を命じられ、責任をとって自刃する。これが言論弾圧として知られる蛮社の獄事件である。
・田原市内から車を走らせて潮音寺へ。ここには杜国の墓がある。杜国は尾張における芭蕉開拓者の一人で、芭蕉の「笈の小文」の旅に同行している。彼は手形で空米を売った咎で死罪となるが、徳川光友の恩赦によって畠村(田原市)に追放される。彼は家族の財産を守るためか、妻と離縁する。そして畠村から保美(田原市)に移り、そこで1690年に亡くなる。
芭蕉は1687年に弟子の越人を連れてこの地に杜国を訪れている。そのとき詠んだ歌が
「鷹一つ 見付けてうれし いらご崎」
ところで芭蕉が見つけたという鷹は杜国だという見方もある。芭蕉は聖俳として奉られる俳句の第一人者であるが、れっき とした同性愛者でもあった。そういう立場で見ると、この句は実に面白い。芭蕉は愛弟子杜国に会うためにはるばる旅してやってきたのだ。「うれし」という直接的な表現が芭蕉の素直な気持ちを表わしているように思える。杜国の「わび住まい」は今は無く、その跡地が小さな杜国公園になっている。
芭蕉が詠ったこの鷹はタカ科に分類される鳥サシバのことで、9月初めから大群の「秋の鷹渡り」を始める。これが見られるのは鹿児島佐多岬、沖縄伊良部島と伊良湖岬だそうだ。今なら「はぐれサシバ」も見られるかもしれないと聞いていたので、なんとか見られるといいなと思った。翌日神島でこれではないかという鳥の姿を見かける。右の写真はウィキから借りたもの。まちがいないだろうか。
伊良湖崎に向かう途中にも芭蕉の碑がある。シーサイドゴルフクラブ入り口の前の小さな丘の上にある。句碑は「鷹一つ・・・」である。ところで「伊良湖」の読み方だが、2016年頃から「いらご」になったそうだ。
明日乗る神島行き伊良湖崎の船着き場を確認してホテルへ。途中、椰子の実記念碑のある丘に立ち寄る。
柳田國男が海流の研究で1898年に1ヶ月半ほど伊良湖崎に逗留していたとき、浜辺で椰子の実を拾ったそうだ。柳田がその話を友人の島崎藤村にしたら、島崎は「その話いただきます」と了解をとって、それをもとに作った詩が「椰子の実」である。これに曲がつけられて今も多くの人に歌われている。
「遠き島より 流れよる椰子の実一つ・・・」
ところで本当に椰子の実がここに流れ着くことがあるのだろうか。昭和54年に伊勢湾フェリー会社が創業50年を記念して実験を始めた。北マリアナ諸島のロタ島から1000個の椰子の実を投流したところ、たった1個だけ三宅島に着いたそうだ。それを記念して樹を植え、投流者と取得者の名前とその場所を書いた看板がそのそばに立っている。その後、毎年のように今度は石垣島から投流する実験を行い、その結果をリストアップした看板がある。
これは読むと面白い。例えば平成27年6月19日に106個流して、2~3ヶ月後高知県と宮崎県にそれぞれ1個が流れ着いたという。残念なことに伊良湖崎に着いたという記録は記されていなかった。
そろそろ日没の時間になる。ホテルに向かう。丘の上に見える白い建物がホテル。
ホテルの最上階には夕日と日の出の両方が見える部屋があり、そこを予約したのだが、宿泊予定の11日は雨という天気予報がずっと変わらずだったので、出発日を一日遅らせることにした。ところが日没は見られるが、日の出は見られない部屋なら変更できるという。日没第一だったのでやむなくそれに変更した。
今日の日没は16時50分。もちろん浜辺でも見られるが、部屋でゆっくり見たかった。しかし、屋上でも見られるというので行ってみた。風がすごくて吹き飛ばされそうになりながらも沈みゆく太陽を見る。日没は心に染みる。
11月13日(水)
神島は伊良湖崎からは目と鼻の先に見えるが三重県鳥羽市になる。鳥羽からも伊良湖崎からも伊良湖水道を通って船便がある。鳥羽からは40分弱、伊良湖崎からは15分で行ける。
人口300人ほどの小さな島で、公共の交通機関はないので、歩くしかない。島を一周して 約2時間だというので、私たちは3時間を予定し、10時の船に乗り、帰りは14時の便。これが最終。
神島はなんと言っても三島由紀夫の『潮騒』で有名になった島だが、古くから「神の島」と言われていて、八代龍王を祭神とした八代(やつしろ)神社があり、そこには古墳時代から室町時代の宝物が秘蔵されているという。また鳥羽藩の流刑地であったので、志摩八丈とも言われたそうだ。
三島由起夫はこの島に数ヶ月滞在して『潮騒』を書いた。この小説は三島にしては素直な恋愛ものである。そのためか映画化も5作ある。私は出発前に山口百恵と三浦友和主演のものを見た。
神島にやってくる人は『潮騒』の舞台を見たいという観光客のほかに、魚釣りの人が多い。ヒラメなど大きな魚も獲れるそうだ。
島一周は港の前の鳥羽神島郵便局の坂から始まる。途中、坂の下に小さな川が流れていて、そこがかつて村人たちの利用したという洗濯場。そのすぐ上に三島が滞在していた家があり、さらに約200段の石段を登ると八代神社に着く。古い素朴な神社だった。
・神社から神島灯台へ。この灯台は日本で一番古く、その姿の美しさでも日本の灯台の5本指に入るとか。
・灯台から十数分ほどで監的哨跡に着く。これは陸軍の建物で大砲の試し打ちの際にどこに飛んだのかを確認する場所だったそうだ。戦時中のころの鉄筋コンクリートの建物が現在も残っている。屋上には金属製の手すりが設置されている。小説では主人公の新治と初江の熱いシーンが描かれている場所。『潮騒』に出てくる場所には必ずその部分を抜き書きした説明板があるので、三島ファンには親切である。
石灰岩のカルスト地形の見えるニワの浜からまたも上りと下りの遊歩道を歩いて、やっと港につく。ヘトヘトだった。それにしても足の衰えた私にとって島を一周するのはとても大変だった。きつい階段、上り下りの急な坂道。それでもなんとか船の出までにはギリギリで港に着くことができた。それにしても自然遊歩道から見る快晴の伊良湖水道はすばらしかった。日程をずらして正解だった。
2時の船で伊良湖崎港に戻り、そこからフェリーで鳥羽まで行き、そこから松阪市に。もちろん目的は松阪牛のすき焼き。数年前に伊勢神宮やその近辺はほとんど歩いた。そのときに食べた「わだ金のすき焼き」が美味しかったので、再び訪れる。今回の旅では食事は二の次だったので、初めて美味しく食べた料理だった。
11月14日(木)
松坂から愛知県犬山市にある明治村へ。一度訪れたいと思っていた。平日のせいか観光客は少なく、のんびり見られた。北門から入ったところが旧帝国ホテルの正面玄関。レンガと大谷石を使った建物は重厚だった。
10月に親しい仲間たちと大谷石採掘場を見学したばかりだったので、なるほどこういう使われ方をしたのかと興味深く見ることができた。またここで使われているレンガについての謎の話が面白かった。レンガは常滑焼きだそうで、初めて焼いたレンガはどちらかというと黄色に近く、復元されたレンガ壁にかろうじて残った2個だけがはめ込まれていた。
明治村は明治時代に建てられて貴重な建造物をのこしたいという志を持った名鉄の会長だった土川元夫と友人の建築家谷口吉郎の二人によって実現された。広い人造湖のそばに作られたもので、名鉄の所有だった。
今も経営は入場料だけであって、どこからも援助を受けていないという。一時は閉鎖かというところまで追い込まれたが、なんとか持ち直しているという。頑張ってほしい。
村内は1丁目から5丁目に区画されていて、シャトルバスの停留所も多く、見て回るのに便利だった。森鴎外、夏目漱石、幸田露伴、石川啄木、小泉八雲などの邸宅を見る。面白かったのは明治時代の床屋。壁に男性の髪型のモデル画がかかっている。役者風、散切り頭風など。この二階に啄木が家族を呼び寄せて住んでいたという。
夕方、名古屋駅に向かい、レンタカーを返し、新幹線で帰京。2泊だったが、それなりに充実した旅だった。
今回の目的地はドイツだけ、それもライン川とモーゼル川に絞った。テーマは「思いっきり川巡り観光を楽しむ」
2日から6日までは私が訪れたいところがあるので、私一人、6日の夕方には日本からやってくる娘とフランクフルト空港で合流。今回の観光ルートについては娘がすべてアレンジ。私はただついていくだけで楽々の旅ができた。娘に感謝。
7月2日(火)
成田を昼に発って夕方フランクフルト空港に。春のドイツ旅行から2か月しか経っていないので、機内の映画はほとんで見たものばかりだった。それでもいくつか見た。
以下往復で見たもの。ディズニー映画「ダンボ」、インド映画「パットマン」、スペイン/アルゼンチン映画「家へ帰ろう」、邦画「翔んで埼玉」←これ思いがけず面白かった。
空港からそのまま電車でウルムへ。ここで3泊する。
(写真)ウルムのミュンスターは世界一高いそうだ。川辺にあるシーフェスハウス(傾いた家)も有名。アインシュタインの生まれた町でもあり、舌を出したユーモラスなアインシュタインの噴水は人気がある。
7月3日(水)
・午前中、ウルム大学植物園に。何度か来たことがあるが、春が多かった。7月も初旬ではまだ夏の薬草はどうだろうかと思ったが、模様替えもしたらしいので、行ってみる。バスで「大学南」か「植物園」下車。入口への道は両停留所の真ん中にあるので、どちらで降りても同じ。
暑いこともあり、薬草コーナー(Arznei Garten)だけでクタクタ。ただし、35のコーナーに整備され、コーナーごとに詳しい説明を書いたパネルがあるのは役に立つ。写真のパネルは慢性の咳や気管支炎を抑える薬草コーナー用のものである。白い花はセイヨウノコギリソウ(ヤロウ)。血液浄化を促すなどいろいろな効果がある。
・ウルム市庁舎:建物4面すべて壁画に覆われている。見ているだけで楽しくなる。中にも入れるが、特にこれと言ったものはなし。
・ウルムはドナウ河畔にあるバーデン・ヴュルテンベルク州の町である。町を流れるドナウ川を渡るとそこはノイウルム市でバイエルン州になる。
写真はノイウルムに行く橋を渡るところ。バスの中から撮ったのでよくわからないかも。私が乗ったバスの終点には広い住宅地が広がっているだけだったので、そのままウルムに戻り、ドナウ河畔でのんびり。なにせ9時半過ぎまで明るいので、散策するには夏がいい。
左の写真は豚の取引をする業者の像。豚は人々の暮らしにとって重要な家畜である。ドイツには豚の像がたくさんある。豚市場があったところに立っている像。
まずい夕食にがっかりしたという話が右の写真。
ラーツケラーといって市庁舎の地下にあるレストランはそれなりの値段だし、外れはないと思っていた。メニュは生野菜付きヴルスト(ソーセージ)の細切り。ウインナー(ソーセージ)を細く切って山ほどお皿に盛ってある。見た目はいいが、とんでもなく塩っぱい。上の乗せた生野菜のドレッシングは酸っぱい。半分もたべられなかった。ビールは例外だったけど。旅先で不味いものに当たるととても損した気持ちになる。
7月4日(木)
ロマンティック街道沿いの町で気になりながら行ったことのないネルドリンゲンへ日帰りで。この町は1500万年前に巨大な隕石が落ちてできた盆地に出来た。そして町を囲む中世の城壁がほぼ完全な形で残っている。どんな感じなのか見てみたかった。ウルムから電車で1時間半ほどで行ける。ネルドリンゲン駅から歩いて5分ほどで城門の一つダイニンガー門Deininger
Tor(地図27) に着く。これをくぐるとすぐに市の中心街。
マルクト広場に建っている聖ゲオルク教会の塔の上に登ると盆地が一望できるというので頑張って登ろうと思っていた。ところが塔は工事中だった。残念。
そこで城壁に沿っていくつかある城門から城壁の上に登ることにした。城壁の上に出ると、狭い廊下が湾曲して続く。地図25から17までと28から27までの城壁の上を歩く。
写真は下から見た城壁と廊下。笑われてしまうが、この廊下が高度恐怖症の私には怖い。怖いけど好奇心のほうが勝って恐る恐る歩く。写真の地図では数字がよく見えないと思うが、私が歩いたのは上三分の一を残した下の部分である。
・マルクト広場にある噴水を見る。これは豚とアヒルを交換する農夫の像。見たかったお目当ての一つ。
・ここにも豚。
・コウノトリ発見!「パンと踊りの家」の屋根の上。
・この町でもかつて魔女迫害があった。処刑されたマリア・ホルという女性の祈念碑がワインマルクトの片隅に立っている(地図24のそば)
ネルドリンゲンはいい町だった。もう一度行ってみたい。
ずいぶん前になるが、ウルムのパン博物館がとても面白かった。世界のパン事情がよくわかる。今回もう一度と思った。建物がホテルの近くだったので場所確認のため昨夜行ってみると、なんと工事中。中にいた人に尋ねると、4日夜8時からオープンするという。夜からというのはどういうことかと思ったが、ウルムに戻ったのが6時頃だったので、訪れる。
なんと夜8時から始まっていたのはオープニングセレモニーだった。リニューアルされた博物館を祝って人々にワインやジュースが配られている。内部見学も無料。以前に見たときよりも充実した展示だった。私が面白かったのは、ともかくパンが描かれている絵なら何でもいいという絵画が壁一面に飾られた展示室(2階)だった。写真の絵は悪魔がキリストを誘惑したときの場面。イエスの言葉「人はパンだけで生きるのではない…」(マタイ福音書4:4)
7月5日(金)
ウルムからシュトゥットガルトへ。ホテルでチェックインしたあと、ホーエンハイム(Hohenheim)植物園へ行く。ドイツのサイトでは広大な植物園と書いてあったので、期待した。市電とバスを乗り継いでホーエンハイム大学下車。広いキャンパス内にホーエンハイム城があり、その前に植物園が広がる。いや、城の敷地に大学や植物園があるのだ。しかし、この植物園は樹木林で、私が期待した薬草園のようなものはなかった。
私は日本の大学の学食は大いに利用したけど、ドイツの大学の学生食堂(メンザ)で食事をしたことはなかった。ドイツの大学を訪れたときには、メンザで食べて見たいと思っていた。ちょうど昼時だし、勇気を出してチケット売り場の人に学外者だが食べられるかと尋ねたところ、どうぞと言われた。
メインはシュニッツェルかパスタ。私はシュニッツェルを選ぶ。スープ、フルーツジュース、生野菜がついて6.75ユーロ(約850円)。味は普通。ともかく念願かなってご機嫌。
再び町へ戻り、ホテルで一休みしたあと、豚博物館へ行く。豚博物館はこれまでハイルブロンに近いバート・ヴィンプフエン(Bad Wimpfen)という町にあって、私は2度訪れたことがあるのだが、数年前にシュトゥットガルトに越したという。おそらく狭くなったのだろうと思い、今回是非とも行ってみようと思った。
下車した駅の名前はシュラハトホーフ(Schlachthof)まさに「屠殺場」!駅に降りると前方にピンクの豚の電車が見える。そのそばが入口。ビアホールも兼ねている。中はもちろんこれでもかの豚、豚、豚グッズ。圧倒される。どの写真を載せようか迷って、とりあえず7枚。この博物館のオーナーは豚グッズが好きで集めたという女性である。
7月6日(土)
ホテルに荷物を預け、電車で15分で行けるエスリンゲン(Esslingen)に行く。あるとき、この町を流れるネッカー川の水路の写真を見て、とても素敵だったので、いつか行ってみたいと思っていた。またこの町の城(ブルク・エスリンゲン)がある頂上からの見晴はすばらしいと。ただ、頂上には狭い木造の階段を300段登って行かなければならないと。300段は無理かもしれないが、写真で見るととても雰囲気のある階段だったので、登り口くらいは見てみようと思った。
エスリンゲン駅から市の中心までそれほどかからない。土曜日とはいえこんなにも人出なのかとびっくりするが、この日は友好国トルコも共催という町をあげての祭りだった。どの路を歩いても出店やコンサートなどで大賑わい。木組みの家が並ぶ美しい町だが、人出の多さで写真がうまく撮れなかったのが残念。
トルコ料理の出店で名前のわからない料理を少しずつ注文してみた。大葉巻のように見えるのはぶどうの葉で米を巻いたもの。右端の写真は野菜を売っている屋台にあったシュタッヘルベーレ(セイヨウスグリ)。これは紫色だが緑色もある。ケーキにいれたりジャムにするが、酢漬けにするとまるでラッキョウのようで私は大好きである。日本ではまり見かけないが、どうなのだろう。
さて、300段の階段だが、下からみたところちょっと無理かと思っていると通りかかった女性が「そばの道から行けば行けますよ」と教えてくれたので、よしと歩き出す。ところがこの道がなんとも急な坂で、フウフウいいながら30分以上かかってしまった。坂道の両側にはびっしり住宅が並んでいる。どんな人たちがここを我が家にしたのか聞いてみたい。この坂の様子を写真では伝えられなくて残念。
それでもやっと頂上に着く。ベンチに座ってしばし休息。やってきてよかったと思った。帰りも坂道を降りることにしたが、むしろ休み休みいけば階段のほうがよかったかもしれないと思った。
写真左が水路のカメラスポットである。もう少しうまく撮りたかったのに。
写真中2枚は空中を歩く人というオブジェ。近くから見たときと遠くから見たときの違いが面白い。
右端の写真だが、これまでこのような箱?を駅のプラットフォームで何度も見かけ、いったいなんだろうと思っていた。粗大ごみ箱かしら、でも駅でしか見かけないし、開けてみようかと思ったが、ちょっと怖いのでそのままになっていた疑問がやっと解けた。駅で電車待ちしている間、中年の女性に尋ねたら「知らない」と言われてしまった。すると隣にいた若い男性が「駅で出た砂利とかコンクリートの塊のようなものを捨てるものだ」と教えてくれた。どうでもいいことなのだが、気になってしかたなかった。すっきり。
エスリンゲンにはもう一度訪れたい。
夕方シュトゥットガルトに戻り、荷物を取って、フランクフルト空港に向かう。娘と合流し、そのまま電車でコブレンツへ行く。ここで6泊なので気が楽。
(続く)
7月7日(日)
エルツ城(Burg Eltz)はモーゼル川沿いのアイフェル山地にある。私は今年5月までWEB「薬プレッソ」に連載記事を書いていたのだが、その記事(8回目)のトップに担当者が選んでくれたのがエルツ城の写真だった。ドイツでもっとも美しい3つの城の一つだという。まだ行ったことがないので今回の旅の楽しみな一つである。
天気があまりよくなかったが、城へ行くのは今日しかない。コブレンツから電車で25分、ハッツェンポルト(Hatzenport)駅まで行き、そこからバスで20分ほどで城の駐車場に着く。このバスが日曜しか運行していないからだ。
もちろんハイキングコースもあるが1時間半ほどかかるのでパス。たいていの観光客はハイキング以外に自家用車かツアーバスを利用するようで、私たちが帰る頃にはすでに駐車場は満杯になっていた。
ハッツェンポルトはワイナリーのある町。バスを待つ間にちょっとだけ歩く。ワイナリーの店がある小道(今日は日曜で休み)ワイン祭りの横断幕があった。7月最終曜日とある。残念。
エルツ城はエルツ家の3つの分家によって共同で建てられたもので、完成は15世紀頃だという。写真で見ると山に囲まれた山奥深いところに建っているように見える。しかしバスは平野を走り、いつまでたっても山奥に入る気配がない。少し森かなあというところがバスの終点。城の姿は見えない。そこからシャトルバスに乗る。ものすごい急な下り坂を走る。とその途中で眼下に城が見える。エルツ城は丘の上に建っているが、その丘を囲む森は平地を下ったところにあるので、上から見下ろすようになる。
城は増築と改修を重ねて複雑になっているので内部を写真に撮るのはとても難しい。テラスでコーヒーを飲みながら来てよかったと思った。
昼過ぎに再びハッツェンポルト駅に戻り、トリーア行きの電車でモーゼル河畔の町コッヘムへ。観光電車に乗ったり、チェアリフトで展望台に上りモーゼル川の景色を楽しむ。コッヘムは特別これというものはなかったが、今日はエルツ城が見られて満足だった。
7月8日(月)
トリーア(Trier)に行く。紀元前に作られたローマの植民地だったトリーアはドイツ一古い町である。私は15年前に一度訪れている。まずは市のシンボルであるポルタ・ニグラ(黒い門)へ。最上階まで階段を登る(リフト無し)。町が良く見える。突き当りがマルクト広場である。
門の横がインフォメーションセンター。その裏手にカール・マルクスの像がある。「カールマルクスの家小道」というバス停前にはマルクスの生家(今は博物館)がある。マルクスはボン大学に行くまでトリーアに住んでいた。
マルクスが19世紀中から20世紀にいたるまで世界史を動かした歴史的人物の一人であることは間違いないだろう。今も中国からの観光客が多いと聞くが、現代社会におけるマルクスの捉え方は20世紀とはかなり違ってしまったように思う。いささか感慨にふけるも博物館には入らず。
古代ローマ人が闘技や浴場を好んだことは周知のこと。ローマを離れてトリーアにやって来たローマ人が闘技場や浴場を作ったのも当然だったろう。トリーアの円形闘技場(Amphitheater)とカイザーテルメンへ行く。
本家ローマのカラカラ浴場やコロッセオを見たことがあるので、それからするといかにも小規模だが、当時のローマ人がこの地でも故郷と同じ楽しみを求めていたのだなあと想像する。
闘技場には闘士の出入口があり、中は地下になっていて、ここで出番を待ったのだろう。ローマの闘技場では犯罪者の公開処刑も行われていたというが、トリーアはどうだったのだろう。見上げればぶどう畑に囲まれて今は平和な闘技場跡。
カイザーテルメンは大規模な改修工事が行われていた。写真にあるような立派なものになるようだ。
トリーアで訪れたかったのがマルクト広場にあるライオン薬局。ドイツで一番古い薬局である(1241年)。店内には昔の薬剤用器具が展示されている。順番待ちする客がいて繁盛しているようだ。
トリーア大聖堂と隣りの聖母教会を訪れる。立派な建物である。ここで私はキリスト教のシンボルマークである魚のシールを見つけた。かつては隠れクリスチャンのマークでもあった。教会で見たのは初めてだったので、買う。
昼はジャガイモ料理で有名だというレストラン「Kartoffel Kiste」で昼食。あまりお腹が空いていなかったのでベイクドポテト1個とスープ、これで満腹。
7月9日(火)
旅のハイライト2つを一挙に成し遂げて(大袈裟!)満足の一日だった。
①ローレライの岩の頂上に行き、ローレライ像のある中洲の先端にも行ったこと
予定では、ザンクトゴアールスハオゼン駅からバスでローレライセンター下車。センターから岩の突端まで行き、再びバスでザンクトゴアールスハオゼン駅に戻り、ここでタクシーを利用し、中洲に入口にある駐車場まで行ってもらう。中洲の突端まで歩いてローレライの銅像を見たら引き返し、タクシー(待ってもらうか、1時間後にきてもらうか)でザンクトゴアールスハオゼン駅そばのフェリー乗場から対岸のザンクトゴアールに渡り、ザンクトゴアール駅から電車で出てボッパルトに行く。地図参照。
ずいぶん前に一度頂上まで来たことがあったが、ずいぶん変わった。岩の先端に行く道が舗装されていて、途中に何か所か展望台が出来ていた。いづれも眼下に蛇行するライン川がよく見える。
昔来たときセンターの前にあったローレライの白い像がなくなっていた。センターの人に聞くと、そばにあるビアガーデンの中庭に越したという。ビアガーデンの開店時間ではなかったので、格子越しにちらりと見えただけ。ここに載せた写真は以前来たときのもの。
これまで私は考えたことがなかった。岩山の向こうはどうなっているのだろうなんて。今回、ローレライの岩へ行くバスがビジターセンターに近づくにつれ、辺り一面畑の広がる平地だったのには驚いた。ずっと岩が果てしなく続いているわけはないのにである。山から直接流れ出していないかぎり巨大な瀑布だって上に行けば平野を流れる穏やかな川ではないかと知っていたはずなのに。
ローレライといえばハイネ。ザンクトゴアールスハオゼンのフェリー乗場そばにハイネの胸像がある。
絵葉書などでよく見る有名なローレライ像は中洲の突端にある。岩の頂上から急斜面の道を降りていけば中洲の入口まで行くが、これはいかにも急な斜面でかなり厳しい。それでタクシー利用という予定にしたのだが、これが誤算。インフォメーションセンターで頼んでもらおうとしたら、なんとこの町にはタクシーは一台もないとのこと。歩くしかないと言われてしまった。
ライン川に沿って自動車道をテクテク歩く。途中で中洲の先端が見える。ほんの数メートルのところ。でも橋がないので仕方ない。ひたすらテクテク歩く。中洲の入口まで辿りつくのに40分かかってしまった。
入口から中洲の先端まで細い道を約800m歩く。やっと先端のローレライ像にたどり着く。この像はどうなのだろう。ローレライのイメージの違いかもしれないが、私はあまり良いとは思えない。こうして再び中洲入口の戻り、同じ道を通ってザンクトゴアールスハオゼン駅に戻ってくる。往復3時間半。フー!
フェリーで左岸のザンクトゴアール駅まで。タクシーが使えなかったので、予定の時間が少なくなり、この町はほんの少しだけ見て、電車でライン河畔のボッパルト(Boppard)へ。
ボッパルト駅前にオペラ「ヘンゼルとグレーテル」の作曲家フンパーディンクの像がある。二人の子どもたちはヘンゼルとグレーテル。フンパーディンクはボッパルトにフンパーディンク御殿と呼ばれる大きな家を買って、そこで作曲の仕事をしていたという。
②究極のライン川蛇行をボッパルトのリフトから見たこと
ボッパルトの町外れにあるチェアリフトに乗ってライン川を見下ろす丘の上に。このリフトの怖いのなんのって私はほとんど目をつむっていた。まさに空中浮遊だった。恐る恐る下を見ると、ライン川の中に島が見える、と思ったが、そうではなくてライン川が蛇行してボッパルトの町の一部を取り囲んで島のように見えたのだ。地図で斜線を引いた部分だけが島のように見える。カメラスポットは丘の上のレストラン。まだ行かれていない人には絶対にお勧めのスポット。
7月10日(水)
モーゼル河畔の町ベルンカステル・クース(Bernkastel-kues)とトラーベン・トラーバッハ(Traben-Trarbach)で一日のんびり遊ぶ。
ベルンカステルクースはモーゼル川を挟んだベルンカステルとクースとが合体した町。土産店や美しい木組みの家はベルンカステル側にあり名産モーゼルワインの店が軒並み。
クース側にはブドウ畑が広がる。この畑を回る観光電車に乗る。収穫にはまだまだ早いが畑の上まで走るミニ電車45分は楽しかった。
町の肉屋で見かけた手製レバーケーゼサンドイッチがとても美味しそうだったので、買う。キャベツサラダもカップで買い、モーゼル河畔のベンチに座って食べる。次いでモーゼル川遊覧船でトラーベン・トラーバッハまで1時間40分の船旅を楽しむ。
日差しが熱い中、ぶどう畑を見ながら、船上でモーゼルワインを一杯。
トラーベン・トラーバッハもモーゼル川を挟んだトラーベンとトラーバッハが合体した町。特別見たいものがあったわけではない。遊覧船クルーズで一番長い路線の終着地だったからである。駅に向かう途中で私の大好きなミアキャットの置物を飾ってある家を見つける。嬉しくなる。
コブレンツに戻る。私たちが泊まったホテルは特急が停まるコブレンツ駅前にあるが、繁華街から離れている。8時過ぎに開いているレストランはアジアン料理の店だけだった。客は私たちだけ。焼きそばとワンタンスープを注文。明日は美味しい店に行けるかな。
7月11日(木)
コブレンツ市内見物。コブレンツといえばライン川とモーゼル川が合流する「ドイチェスエッケ」で有名。広場に立つ大きな銅像はヴィルヘルム一世。1871年のドイツ帝国成立を記念してさまざまな場所に記念碑が立てられたが、これもその一つ。
ゴンドラでエーレンブライトシュタイン要塞に上がる。あまり天気はよくなかったが、二つの川の合流している様子がよく見える。
7月12日(金)
6泊したコブレンツからフランクフルトへ。途中、マインツのコインロッカーにトランクを預けて、ナーエ川(ライン川の支流)沿いの町イーダー・オーバーシュタイン(Idar-Oberstein)に行く。ここもイーダーとオーバーシュタインという町が合併した町。かつてはここで産出されたメノウの細工が特産だったが、メノウの産出が減ってきた今は世界中から集められた質の高い原石の研磨作業で栄えている。今も世界中からバイヤーたちが集まってくる「宝石研磨の町」だという。
宝石には縁のない私だが目の保養にしようと旅のスケジュールに入れた。
まずイーダー側にあるドイツ貴石博物館に。宝石彫刻の素晴らしさに目を奪われる。ここでヒルデガルト・フォン・ビンゲン展が開催されていたのはラッキーだった。12世紀初頭の尼僧ヒルデガルトはライン河畔の町ビンゲンで生まれたが、8歳のときナーエ河畔のレジボーデンベルク修道院に入る。その後目覚ましい宗教活動に一生を捧げた。植物や石のもつ薬効についての著書もある。展覧会には彼女が推奨した24種の石を中心に展示されている。石の町ならではの企画。
その後、オーバーシュタイン側にあるドイツ鉱石博物館に行く。これほどたくさんの種類が並べられているのを見たのは初めてだ。暗闇で光る夜光石というのも初めて見た。宝石の知識のない私には「豚に真珠」。同じ石でも色によって呼び名がちがったり、メノウにもいろいろな色があるし、どんな石が石として貴重なのかもわからない。しかも、これらの石の素晴らしさだけでも伝えたいと思っても私の撮影技術(!)では伝えられないのが残念。宝石の好きな人にはたまらないだろう。
街の中心地には土産物用の宝石を売っている店がいくつも並んでいる。桁違いのものもあるが、手ごろなものもある。記念に安物のネックレスを買う。ランチは博物館そばのレストランで。注文は定番のシュニッツェルだったが、たっぷり目の保養をしたせいか美味しかった。岩山の洞窟に教会があり、行ってみたかったが工事中で通行止め。車窓から眺めるだけ。マインツへ戻り荷物を取り、フランクフルトへ向かう。そこで2泊すればもう旅も終わり。
7月14日(土)
午前中2時間ほどシュテーデル美術館でのんびり過ごす。その後、レーマー広場近くの室内にあるクラインマルクト(小マーケット)に行く。この中にある肉屋(Metzgerei Schreiber)が作るヴルスト(ソーセージ)は絶品という評判で行列が出来るとガイドブックで知った。昼時だったからか、長い行列ができていて、私たちも並ぶ。小一時間待ってやっと購入。確かに美味しかった。
最近必要があってゲーテのことを調べていたのだが、『ファウスト』に登場するマルガレーテの嬰児殺しについてゲーテにヒントを与えたと言われるスザンナ・マルガレーテ・ブラントの処刑(1772年)はフランクフルトの中心地ハウプトヴァッヘ前の広場で行われたと知った。彼女を監禁していた牢獄もその近くの旧カタリーネン門の塔だったという。これも知らなかった。この春にゲーテの両親の墓を訪れたが、そのとき母の実家を示すプレートを見つけることができなかったので、これも併せて今回は確認できた。
写真はハウプトヴァッヘ(今はカフェ)正面。このすぐそばにゲーテの母の実家があった。その建物今は貯蓄銀行(Sparkasse)。プレートは隣りの靴屋との間に。旧カタリーネン門と塔は今はなく、通りの名前(Katharinen Pforte)だけが残っている。
7月14日(日)
帰国日。ホテルに荷物を預けて、ミュールベルク(Mühlberg)にあるヴィレマーハウス(Willemer-Haeuschen)に行く。ここには当時66歳だったゲーテが愛した人妻マリアンネ・フォン・ヴィレマーの家がある。彼女の家がフランクフルト市内からバスあるいは市電で20分もしないところにあるとは知らなかった。開館は日曜だけ11時から16時までということだったので、帰国日になるがぜひにとスケジュールに組み入れた。
マリアンネが散歩している当時の絵がある。今は小さな3階建ての塔のようなものだけが残っていて、周りは庭園になっていた。そして塔の中に入るドアは日曜だけ開いているので自由に入ってもよしということだった。受付があるわけではない。
ゲーテは自分の詩を書いた紙に銀杏の葉を貼り付けてマリアンネに贈った。その詩のなんとロマンチックなことか。「・・・もともと一枚の葉だったものが裂かれて二枚になったのか、あるいは二枚の葉が相手を見つけて一枚になったのか・・・」
この手紙がここで見られるという。狭い階段を登ると小さな部屋がある。マリアンネやゲーテの肖像画がかかっている。お目当ての手紙も額に入って飾ってあった。
庭に出ると銀杏の木があった。ゲーテが贈った銀杏の葉は自分の家のものだったというが、とりあえず葉と実を拾って写真に撮る。このあたり一帯はゲーテの小路と言われていて、散歩するのにとてもいい。
フランクフルトは通過するだけという人も多いようだが、私にとってはいつでも何かが発見できる町だ。ハウプトヴァッヘのある広場に「Struwwelpeter(シュトルヴェルペーター)薬局」を発見。シュトルヴェルペーターは日本では『もじゃもじゃペーター』というタイトルで翻訳出版されている児童絵本の主人公の名前。ドイツでは大変人気があり、作者のホフマンはフランクフルトの精神科医で、フランクフルトにはシュトルヴェルペーター博物館もある。
ドームそばにラプンツェル横丁という狭い路地発見。謂れはわからない。
そういえば今回はカリーヴルストを食べてなかった。そこでフランクフルト駅構内で食べてから、空港に向かう。やはりドイツに来たら一回は食べておきたい。
来年もドイツの地を踏むことができるだろうか。そろそろ成田だ。
◆ドイツ鉄道のチケットについて知っていれば役に立つという話
・ドイツ鉄道の公式サイトで運賃を見ると、正規運賃のほかに特別価格というサービスがある。日にちや時間帯によって違うが、たとえば今回私がシュトゥットガルトからフランクフルト空港まで乗った電車は特急で67ユーロ約8300円だが、19.90ユーロ約2480円で買える。予約してクレジット決済すればいい。プリントしてそれを持っていけばいい。
ただし、予約した電車に乗らないとダメ。時間がはっきりわかっている場合、私はこれを利用している。すごいお得だ。
・ドイツに着いてそこから移動する場合は飛行機の到着がわからないこともあるので、しかたないので正規料金でチケットを買う。今回ウルムまで74ユーロ約9200円と高いが仕方ない。ところがこれまでまったく知らなかったのだが、JALで予約した場合、その日のうちに移動するならドイツ国内どこまでも無料というサービスがあったのだ。ただし航空券予約時限定。
・また、今回のライン・モーゼル川観光のためにジャーマンレイルパスを買ったのだが、このパスで今回訪れるトリーアやコブレンツの市内交通乗り放題のサービスがあった。これも知らなかった。貧乏旅行しかできない私としたことがなんとも迂闊!
今年のゴールデンウィークは5月1日の新天皇即位を中心に異例の10連休。今年のイースター休暇が4月19日から22日。イースターがどんな雰囲気なのか直接見てみたいと思った。それで18日に出発して5月3日帰国ということにした。
4月18日(木)
成田からフランクフルトへ。朝出かける前にメールチェックしたらJALから出発が1時間半遅れるとの知らせ。でも成田までのバスは予約してしまったので、今更だ。
機内で4本映画を観るうちにあっという間にドイツ。「ある女流作家の罪と罰」、「ボヘミアンラプソディ」、「人魚の眠る家」、「こんな夜更けにバナナかよ」。見ようと思いながら見られなかったものも見られてよかったが、邦画「こんな夜更けに・・・」はとてもよかった。こういう映画もあるのだ。帰りも2本見た。機内の過ごし方は映画漬けに限る。
フランクフルトで1泊。今回は日本でよく利用するホテルTが何年か前にフランクフルトにホテルを作ったというので、予約した。スタッフの多くが日本人だったが日本語のできるドイツ人もいて、安心できるのだろう、日本人客が多かった。値段は日本とあまり変わりなく、朝食は日本より品数多くて、かつウオッシュレットなのが嬉しいホテルだった。
4月19日(金) フランクフルトからミュンヘンへ
昼前にはミュンヘンに着いたのでホテルでチェックインして荷物を置き、オーバーアマウガウへ。10年に一度の受難劇を上演する劇場、グリム童話を題材にしたフレスコ画が描かれている家々を見る。大昔一度来たことがあるのだが、その翌年が上演の年だった。今年も来年が上演年。チケットを取るのが難しいらしい。
劇場は中に展示しているパネルを見るだけのようで、それでも入場料を取られる。時間があまったら入ろうと思って、まずは目的のフレスコ画の家々を見ることにする。町中の家の壁もずいぶん豪華な絵だったが、ほとんど宗教画。
町中から外へ延びるエッテラー通り(Ettelerstr.)に「ヘングレ」、「7匹の子ヤギ」、「赤ずきん」などのフレスコ画が描かれた家が並ぶ。時間が無くなったので劇場はやめてミュンヘンに戻る。オーバーアマウガウは数時間の滞在でじゅうぶん楽しめる町。
4月20日(土) ミュンヘン市内散策
中央駅からU-バーンで20分ちょっと、シュヴァンゼー通り(Schwanseestr.)で下車。
目の前がペルラッハー・フォルスト墓地(Perlacher Forst Friedhof)である。
ここには反ナチ運動をして捕えられ処刑されたミュンヘン大学の学生ハンス・ショルと妹のゾフィーの墓がある。広い墓地で入口に区画を示す看板がある。ショル兄妹の墓は73-1-18/19とある。ところが区画を示す石の道標がすっかりすり減っていて、捜すのにとても苦労した。最後は墓地散歩を楽しもうなんて諦めかけた頃にやっと見つかった。
ショル兄弟の碑はミュンヘン大学や王宮庭園などでいくつか見たし、ゾフィーが住んでいた家も見たが、墓地はまだだった。
昨年「ゲッペルスと私」という映画を観た。ゲッペルスの秘書をしていた女性のインタビューで構成されたドキュメント映画。当時彼女は103歳。その後まもなく亡くなった。映画の評価についてはここでは書かないが、その中で彼女はショル兄妹について「あんなことをしなければ殺されなかったのに」と淡々と語っている。何を言いたかったのかなあと私にはショッキングな発言だった。ということもあって、ショル兄妹のお墓詣りである。
店も観光用なら開いている。イースターグッズを探そう。友人からイースターにはイースターパン(オスターフラーデン)を食べると聞いていたので、探す。旧約聖書によればイスラエル人がエジプト脱出する夜(過ぎ越しの夜)に食べた種無しパンに由来する。ただ、種なしパンは美味しくないだろうから、今の人々の口に合うものになっているようだ。オースターフラーデンと書かれたパンを見つける。見つけると言うよりもパン屋の店先に山と積まれている。ところが赤ん坊の頭くらいの大きさで賞味期限も2日程。
それに値段も1000円近い。どうしようと思い、結局買わず。代わりにウサギ型のパン(それでも大きい)とイースターエッグ(ちゃんと茹でてあるが、日持ちはしないだろう)を買ってホテルで食べる。
「ミュンヘンオリンピック事件」の現場に。
1972年ミュンヘンオリンピック開催中の9月、パレスチナ武装集団「黒い9月」が選手村にあるイスラエルの宿泊を襲撃したテロ事件。イスラエルのアスリート11人が殺される。現場が今どうなっているか見たかった。
地下鉄でオリンピアツェントルム駅で降りると、「1972年オリンピック村」出口という表示がある。歩いていくが、なにか色鮮やかな建物が建っているところに出たものの、よく分からない。ウロウロしていると若い男の子が通りかかったので、尋ねる。この建物がかつての選手村だったところで、今は学生寮になっているという。寮といっても学生一人に1室。彼はこの寮に住む学生だった。とても親切で、いろいろ説明してくれ、記念碑のあるところへも案内してくれた。感謝。
記念碑はいくつかあるのだが、この寮の前にある小高い丘の上に記念堂(ErinnerungsortOlympia-Attentat)が建っている。2017年にオープンした。事件についてのパネルが展示されていて、当時の映像も流している。この丘を越えたところが現在も使用のオリンピックスタジアム。
4月21日(日) バイエルン州立民族博物館(Bayerisches
Nationalmuseum)
私の誤解は無知からくるのだとよくわかっているが、またも無知を知らされた。クリスマスになると目にするキリスト生誕の場面を人形で作った小さな模型。それをクリッペ(Krippe)という。
辞書では飼い葉桶あるいは託児所、特にキリスト生誕の場(馬小屋)を表わす模型とある。私はずっとそう思ってきた。このクリッペに興味のある私はこの博物館にはたくさんのクリッペを集めたコーナーがあるということを知って出かけた。
ところがクリッペというのはキリスト生誕の場面だけでなく、主に聖書ではあるが、ベツレヘムの幼児殺しやカナの結婚式の場面などもあり、大きさも畳2畳もあるような大きなものから人形だけを集めたものなどがある。これらすべてをクリッペというのだと知った。個人の収集だというが見るのに2時間はかかったほど見応えがあった。そのほかの階も見て面白いコレクションがたくさんあり、滞在時間3時間。
英国庭園の南側にイーザル川が流れているのだが、その一部を堰き止めてサーフィン遊びが出来るようになっているのにはびっくりした。
今日は日曜日。アルテピナコテークの入場料は1ユーロ。何度見ても新しい発見あり。
4月22日(月) ミュンヘンからライプチヒに
市内を散策。ライプチヒの案内にホロコースト記念碑があるというのを知り、探す。ホテルの近くにある動物園のそばにひっそりと立っていた。
4月23日(火)ライプチヒからドレースデンへ(日帰り)
ケストナー博物館へ。2度目。この博物館は来訪者の積極的な関わりが必要。それほど広くもない部屋に引出のある棚がたくさんある。その引出の中に膨大な索引リストが入っている。それを基にケストナーの資料がわかる仕組みになっている。調べたいことがなければ引出だけ見て終わりということになる。内部は撮影禁止。 その後、ケストナーの生まれた家、一時期住んでいた家を見つけて歩く。
ツヴィンガー宮殿のアルテマイスターに。ここにはフェルメールが2点あるはずなのに見当たらないので係の人に聞いたところ、1点(取り持ち女)は日本に行っていて、もう1点(窓辺で手紙を読む女)は修復中とのことだった。帰国して数日後、この修復についてテレビのニュースが取り上げていた。実は背後の壁に天使が描かれていて、誰かがそれを塗りつぶしたということがわかったそうだ。誰が塗りつぶしたのかはまだわかっていないという。
4月24日(水) ワイマル(Weimar)へ(日帰り)
・ゲーテの家:実に丁寧なガイドで、コースもわかりやすい。正面建物の外観と中庭に面した建物とがずいぶん違っているのが面白かった。
・ゲーテとシラーの墓(大公家の墓所)
・マルクトプラッツのクラーナハの家。以前はクラーナハの美術館だったのに今は劇場になっている。なぜかはわからない。
・ヘルダー教会(市教会Stadtkirche)にクラーナハの墓碑銘がある。実際の墓はちょっと離れたヤーコプ教会にあるというので、行ってみる。なんとシラーやゲーテの奥さんの墓もあった。
以上のほかに行ったところもあるが、省略。行きたくて行けなかったところもあったが、それはいつか。
4月25日(木)
ベルリンへ(日帰り)
・ベルリンに行ったら中央駅の隣にあるカリーヴルストの店に行くのが私の定番。実に美味しい。満足して、次は絵画館へ。去年の夏に見忘れて「しまった」と思った絵を見に行く。
ジーモン・マルミオン(Simon Marmion)の聖オマール祭壇(Alter von St-Omer1459)。この絵の中の教会の壁画に死の舞踏Totentanzが描かれている。つまり絵の中の絵である。見つけた!確かに絵の教会の回廊に描かれている。来てよかった。
・フリードリヒシュトラーセ駅を降りてシュプレー川を越えたところにブレヒトが創ったベルリーナーアンサンブル劇場がある。昨年うまく写真が撮れなかったので、再び行くことにした。
・ベルリンのケペニッカー通りに「退廃芸術」の作品を納めていた倉庫の跡地があり、そこに解説板があるというので行ってみたが見つからなかった。残念。
4月26日(金) エアフルトからカールスルーエへ
・アウグスティーナー修道院。ルターが滞在したというので行ったのだが、特にこれという印象は受けなかった。
・エアフルト訪問の目的は市庁舎の廊下と祝祭の間に架っている絵。特にボニファーティウスがゲルマンの神木を切り倒した場面を描いた絵。この事件によってドイツは続々キリスト教に改宗していく。またタンホイザーの言い伝えを描いた絵もある。
建物内部が薄暗く残念ながら写真はうまく撮れなかった。
・ダッへレーデン邸(das Haus Dacheröden am Anger 37/38)
ゲーテやシラー、フンボルト兄弟らが集ったサロンのあった建物。外から見るだけ。
・その近くの州首相官邸(an der Ecke Regierungs- und Meister-Eckhart-Straße)
1808年、ゲーテがナポレオンに謁見した場所。ここも外観だけ。
エアフルトから電車で3時間半ほどのカールスルーエに。本当はエアフルトから北ドイツのリューベックに出て、3泊する予定で、ホテルも予約していた。ところが出発2週間ほど前に、薬草魔女のガブリエレ・ビッケルさんが薬草ツアーをするということを知った。もう17年も(!)前に彼女の薬草ツアーに参加したことがある。もう一度参加してみたいと思った。年数回ほどのツアーだ。私がドイツにいるときにぶつかるチャンスはそうない。
ということから急きょコースを変更した。集合場所はマウルブロン修道院の敷地内にある彼女の店の前。マウルブロンは交通の便が悪いので、カールスルーエに宿を取る。翌日ツアーは午前中に終わるが、そのままリューベックに行くには遠すぎるので、ハノーファーでもう1泊することにした。その結果、リューベックの3泊が1泊になった。これはスケジュールとしてきつい。しかし、チャンスは逃すな!で薬草ツアーに参加。
4月27日(土)
・ビッケルさんは私たちを近くの小高い丘まで連れて行き、途中で道端に生えている草を摘んで、それがどのように人間の身体に有効な成分を持っているかなど説明してくれる。参加者は私を含めて14名。そのうち2名が男性。ずいぶん熱心にメモを取っている女性が多い。春とはいえ時期が少し早かったか、まだ生えきらない薬草が多い。前回は秋だったので、花も実ももっと豊富だった。
・ハノファーのホテルにチェックイン。けっこう疲れていたし、明日が早いこともあって、町には出ない。まったくのトランジット。
4月28日(日)
11時ちょっと過ぎにリューベック到着。ホテルに荷物を預けて市内へ行く予定。ところがここでハプニング。ホテルの入口ドアが閉まっていて受付時間は午前中は11時まで。午後は2時からという張り紙が貼ってあり、最後に電話番号が書いてある。仕方ないので駅に戻りコインロッカーにトランクを預けて町へ。一通り歩いたところで、3時半になったので、ホテルに行く。ところがドアは閉まったまま。どうしたものかちょっとばかりうろたえていると、ラッキーなことに宿泊客(夫婦)がやって来た。彼らはすでにチャックインしているのでドアを開けるカードを持っているのだ。私は思わず声をかけて事情を説明すると、奥さんがとても親切で、ご主人に張り紙の電話番号を示して電話をかけてあげたらと言う。お蔭で別な住居に住むホテルの主人が駆けつけてきた。どうしてこういうことになったか話しているうちにわかった。私はこのホテルを3泊予約し、その後1泊に変更した。主人はそれを感違いして泊るのは昨日だったと思い、無断キャンセルだと思ったらしい。お互い納得し、事なきを得た。ご夫婦には感謝でした。
定番の観光コースを歩く。リューベックには4,5回は来ているが、なんとなく見過ごしていたものや、しっかり見ておく必要のあるものを中心に歩く。生憎の雨。
・ホルステン門 ・市庁舎 ・マルクトプラッツ
・マリーエン教会:ここにはかつて「死の舞踏」の壁画があったが、第二次大戦によって建物も絵も焼失し、今はステンドグラスで復元されているのを見るのみ。
・かつての船員協会の建物(Schiffergesellschaft Breite Str.2):今はレストランに。
・カタリーネン教会:入口上部にバルラッハの彫刻がある。内部には入れない。
・聖ペトリ教会:今は多目的ホールとして使われている。私が行ったときはブックフェア―が開催されていた。
リューベックにはノーベル賞受賞者が3人いる。文学者トーマス・マン、芸術家ギュンター・グラス、政治家ヴィリー・ブラント
・トーマス・マンの生家(Buddenbrookhaus):マンの講演を録音したものをヘッドフォンで聞ける。しかし、資料はマンの兄クラウス・マンのほうが多いように思った。
・ギュンター・グラスハウスへ。グラスはポーランド出身だが、リューベックに長く住んでいたので、リューベックの人とみなされている。彼は小説家であるが、造形芸術家としての活躍のほうが多かったようだ。中庭に彼の作品が飾られている。グラス協会が運営している家でグラスの家ではない。
・ヴィリー・ブラントの家(Willy Brandt Haus Königstr.21):グラスの家の隣。外から建物だけを見る。
・ドゥルヒガング(Durchgang):何と訳したらいいのか、辞書によれば「通り抜け」とある。リューベックには本通とは別に細い路地がたくさんある。しかしドゥルヒガングはそれとは違う。本通りに面して細い路地があり、そこを通ると広い中庭に出る。そこには家が何軒か建っている。公道だから入っていける。このドゥルヒガングは通り抜け出来なかった。
4月29日(月)
・市庁舎内のガイドツアー(月~金11:00,12:00,15:00)があるので、それに参加しようと今日行ってみたら15時の1回だけになっていた。古いガイドブックに頼らず、最新の情報を調べていかないとダメという反省。
・ニーダ―エッガー社(土9:00~14:00、月~金 8:30~16:30)
私の好きなニーダ―エッガー社のマルチパンの本店。チョコレートでカバーしたもののほかに、なんというのか日本の「新粉(しんこ)細工」に似た菓子。植物や動物、建物の形に細工したものがある。これは美味しい。私はジャガイモを模ったものを買う。
午後の電車でハノーファーとゴスラーで乗換してヴェアニゲローデに。ここでもちょっとしたハプニング。ドイツ鉄道のいい加減さは鉄道の旅をしているとよく経験することだが今回はちょっとひどい。ハノーファーからゴスラー行きの電車が途中の駅でバスに振り替え輸送となる。これは一応鉄道工事のためというアナウンスはあった。だが、ゴスラーに着いたら乗る予定の電車がほんのわずかの時間差で出発してしまった。この路線は1時間に1本である。ホームで待つしかない。30分くらい待ったところでホームの電光掲示板に「次の電車は運行中止」と出てきた。なんの説明もない。またも1時間あとの電車を待つ。結局ゴスラーのホームで2時間待つことになった。理由の説明やお詫びの一言もない。これがドイツ鉄道の怖さ!
4月30日(火)
今年のヴァルプルギスの夜はどこで過ごすか出発前に考えていたが、最近さすがに興味が薄れてしまったかなと思う。しかし、毎年ここで私を待っている人がいるので、それが嬉しくて、つい30日と1日はハルツに来てしまう。今日は新しく知った情報だが、ヴェアニゲローデの町はずれの壁に魔女迫害の記念碑があるということで、それを見に行く(am alten Amthaus in die historische
Stadtmauer)。
魔女の山ブロッケンのふもとであるだけにかつてこの町でも多くの人々が魔女として処刑されている。
そのあとバスで久しぶりにドュルベック(Drübeck)修道院に行く。何年か前に改修工事をしていたが、それも終わり、立派になっていた。中に入ると帰りのバスに間に合わないので庭を見るだけにする。
というのは今回の旅の目的の一つでもあるドイツの菜園(Schrebergarten)を見たくて、ヴェアニゲローデに住む友人のゲルディが所有している菜園を見せてもらったことを思いだし、また連れて行ってもらうよう頼んでいて、待ち合わせしていたのだ。
とても勉強になった。ドイツの菜園と日本の菜園についてまとめているところなので今は省略。
夕方、ヴェアニゲローデ城の祭りに行く。屋台でドイツの一般的な冬野菜グリューンコール(Grünkohl)をウィンナーと一緒に鍋でグツグツ煮込んだものを一皿買う。以前ゴスラーのYさんの家で御馳走になったことがあり、再度食べてみようと思ったのだ。ところがなんとも濃い味付けで半分も食べられなかった。Yさんのところでは薄味で、そう美味しいということはなかったが、珍しさもあってたくさん頂いた。
グリューンコールは日本で売られているケールと同じらしい。青汁かサラダにして食べるようで、煮るというレシピはなかった。ドイツ人は野菜をグツグツ煮るのが好きだと言う話を聞いて納得した。
5月1日(水) ゴスラーへ
今回泊まったヴェニゲローデのホテルは初めて。3階なのだが、エレベーターがない。一緒にやってきたゲルディが帰りが大変だろうとトランクを下までおろしてやってほしいとホテルの人に電話してくたようだ。チェックアウトに合わせてホテルの係員がやってきてトランクを下までおろしてくれた。ゲルデイの親切に感謝。
ゲルデイのお孫さんティムも駅まで一緒に来てくれた。小さいときから毎年会っていたが、仕事についてからは久しぶり。大きくなった。彼は私を「オーマ東京」(東京のおばあちゃん)と呼んでいた。できるなら「タンテ東京」(東京のおばさん)にしてほしかったが、ゲルディより年上の私はやはりオーママなのだ。彼はお土産にチョコレートと庭で摘んだというクルマバソウを何本か持ってきてくれた。クルマバソウは日本では寒い地域でしか生えない薬草。とても嬉しかった。
ゲルディの車で駅まで連れていってもらい、そこでサヨナラする。また来年会えるだろうか。
ゴスラーのホテルに荷物を預け、駅前のバスでハーネンクレー(Hahnenklee)に行く。
ここは保養所の町、公園にはきれいな池があって、変わった形の教会もある。昨日の祭りの会場だったところで、ポスターや木に飾った魔女人形がまだ残っている。
夕方、Yさんがホテルに迎えに来てくれ、アレックスの家に行く。毎年の歓待、心から感謝。
御馳走の最後のデザートは(イースターの)羊を模ったパウンドケーキ。これにナイフを入れる。皆、なんか可哀そうと言いながら、でも美味しく食べる。
5月2日(木)
帰国日。フランクフルト駅で荷物を預けて市内へ。
・ゲーテの家:ワイマールの「ゲーテの家」と比べると格段に落ちるというのが私の感想。
ゲーテに関係する展示品が少なく、何の説明もない。オーデオガイドを借りればいいのかもしれないが、不親切な博物館。ゲーテに関心のある人はワイマールを選んでほしいと思った。
・ツァイル通りの近くのシュテファン通りにペーター教会があり、そこにゲーテの父の墓がある。教会の隣は小学校(Liebfrauenschule)。
その中庭の壁にゲーテの母のお墓がある。なぜこんなふうに分かれているのかわからない。
夜の便で成田に向かう。5月3日、午後に成田着。
さて、春のドイツ旅行は終わった。後半はかなりきついスケジュールだったので、少しばかり疲れたが、それなりに収穫はあったので、よしとする。