ザーゲの旅 2020年

ザーゲの旅    2018年

熊野三山と大和三山<11月6日~11月12日>

熊野は初めて、奈良は久しぶり。果たして熊野古道を歩くことができるか、どれだけ紅葉を愛でることができるかと思いながら出発した旅。

 

11月6日(火)

早い飛行機で関空へ。迎えに来てくれた親戚と大阪へ。まず舞洲(まいしま)ゴミ焼却工場見学とキッズプラザへ。この建物はオーストリア人で日本にも住んでいたフンデルトヴァッサー(1928-2000)の設計である。彼の設計はとても奇抜だが、私は好きだ。彼の設計による建物は世界中にずいぶん建てられている。私はウィーンの記念館、マクデブルクの共同住宅、ユルツェン(Uelzen)の駅舎などを見に行ったことがある。


ここ大阪も同じような外観だが、より圧倒される。工場内は予約すれば無料で見学できる。大量のゴミを休みなく焼却している様子は見ていて面白い。この工場のすぐ前に舞洲スラッジセンターという下水処理場があり、ここもフンデルトヴァッサーの設計である。この日は休日だったので、内部は見られなかったが、エントランスにあるトイレは自由に使用できて、これもフンデルトヴァッサーの設計。ウエルツェンの駅舎のトイレと同じデザインだった。


フンデルトヴァッサーは1961年に日本にやってきて、翌年日本人女性と結婚し、1966年には別れて日本を去っている。このキャリアについてはウィキドイツ版には載っているのになぜか日本版にはない。おまけにこれについて触れているサイトがほとんどないのは不思議である。

 

さて、その後大阪北区にあるキッズプラザ(子どもの遊びの館)に行く。ビルの中にあるので、入場料を払って見るしかない。大の大人が4人、中に入ってあちこち動き回る。

 

その後、折口信夫生誕の地(鴎町公園内)と分骨埋葬されている折口家の墓のある願泉寺に行く。

 

117日(水)

  親戚の家から車で熊野へ。

・串本へ。「ここは串本、向かいは大島」と歌われる串本節だが、本来は大島の民謡で「ここは大島、向かいは串本」と歌ったそう

 だ。マグマの仕業でできた橋杭岩の景観に感嘆。満ち潮のときも見たかった。

 

・那智大社。

 那智大社から那智の滝を見て、その足で青岸渡寺へ。ここにある三重の塔と那智の滝の組み合わせはポスターでよく見ているが、素人では同じようには撮れない。滝はこの時期水量が少ないとかで残念だった。

 

 

・昼食に山菜そばと和歌山名物のめはり寿司を食べる。めはり寿司は高菜の葉で飯を包んだもの。初めて知った。「めはり」とは熊  

 野水軍がこのおにぎりを食べながら見張りしたので、めはりは見張りの訛ったものだそうな。そういえば那智の黒飴というのが  

 あったなあと思いながら店頭に並んでいる飴袋を見るも、買わず。

 

・神武天皇の道案内をした八咫烏は黄泉の国ともつながっていて、熊野は死者の国あるいは浄土への入口だとも言われているという。少しでも 

 霊気が感じ取れるかと思ったが、むしろ辺り一帯に感じられたのは素朴な生者の息吹だった。土産屋には八咫烏饅頭、シールなどあり。    

 

・補陀落寺。西方浄土をめざして多くの僧たちがここから渡海したという。もちろん行き着く先は死の世界である。捨身行という。命をこうして終わらせる行があったということに私は愕然とした。その船の模型がある。これら渡海上人に交じって平維盛がいた。これで平家の血統は絶えた。その供養塔が裏の小高い丘の上にある。

 

・春に予約をしたホテルが火災で全焼というニュースにびっくり。ホテル側で別なホテルを取ってくれる。勝浦浦島というホテルで、ここは離れ小島にあるので、船に乗って行く。部屋はピンからキリまである。私たちは節約して4人部屋。ただしここの岩風呂「忘帰洞」と「玄武洞」は最高によかった。波打ち際にある洞窟が浴場になっていて、すぐそばまで波がドドーンと押し寄せてくる。ここはまた泊まりたい。

11月8日(木)
・花の窟(いわや)へ。イザナミノミコトの墓がある。七里御浜(みはま)に沿ってそびえる巨大な岩である。その向かいに皇子塚(火の神カグツテ)がある。カグツテはイザナミノミコトが最後に産んだ子ども。火の神なので、イザナミノミコトの産道が燃えてイザナミノミコトは死んでしまう。 

 

・2月2日と10月2日にお縄掛け神事という例大祭がある。およそ10メートルの三旒(みながれ)の幡形、下部に種々の季節の花々や扇子等を結びつけたものを、日本一長いともいわれる約170メートルの大綱に吊し、大綱の一端を岩窟上45メートル程の高さの御神体に、もう一端を境内南隅の松の御神木にわたす神事ということだ。見てみたい。


・花の岩屋からすぐのところに産田神社(うぶた)がある。イザナミノミコトはここでカグツテを産み亡くなった。その遺骸を花の岩屋に祀ったとい 

 う。

・熊野速玉大社
  神仏習合によって、速玉神は薬師如来、飛行夜叉は不動明王となったが、本来神社なので、ご本尊のようなものはない。

・瀞峡(どろきょう)。「とろきょう」とも言う。志古乗船所からウオータージェットで熊野川を上る。両岸は巨大な岩が連なる。幸い快晴だったので、川の水の色も鮮やかだった。崖に囲まれた瀞峡で下船し、15分休憩。ここは奈良県・三重県・和歌山県にまたがっている。崖の高さは50メートルもあるが、平成23年9月の紀伊半島大水害のときには上流のダムを放流したこともあったが、崖の上まで水に埋まったという。

あまりに雄大な景観なので私のカメラにはおさまりきれないのが残念。

・熊野本宮大社
 落ち着いた雰囲気の大社。横手に和泉式部の祈願塔がある。式部は「熊野に詣でたりけるに女身のさわりありて奉幣かなわざりければ晴れやらぬ身に浮雲のたなびきて月のさわりとなるぞかなしき」と歌った。すると、その夜、熊野権現の霊が夢に出てきて、「もろともに塵にまじわる神なれば月のさわりのなにかくるしき」と応えたので、式部は身を浄めて詣でることができたという。
熊野権現はスサノオノミコトである。姉のアマテラスオオミカミを困らせた弟だが、この神さまは乱暴者だけではなく聖俗併せ持った人間味あふれる神だった。だからこそこのような返しの歌も歌えるのだろうと感心してしまった。

・道の駅熊野古道中辺路(なかへち)バス停から古道に入る予定だったが、断念。悲しいかな神社の階段上り降りで体力を消耗してしまった。中 

 辺路には牛馬童子の石像があるというのでそれも楽しみだったのに。
 バス停前にとりあえず牛馬童子像はあった。牛馬童子は弁天様の従者の一人だと言われているが、名前の通り牛と馬の両方にまたがってい 

 る。熊野詣でを何度もしていた花山法皇の参詣姿を模したとのことらしいが、なぜ2頭なのかは不明。

 

  ともかくこれで熊野三山(那智大社、速玉大社、本宮大社)の参詣は果たす。
  

11月9日(金)
 朝起きたときは小雨で、どうなるかと心配したが、しばらくすると快晴になる。  
・千畳敷。ずいぶん昔に来ているが、なんか前見たときよりも狭い感じがした。
・三段壁(べき)。東尋坊のように切り立った柱状節理の岸壁に熊野水軍の軍艦を貯蔵する洞窟がある。エレベーターで30メートル降りる。中に 

 は弁財天(弁才天とも)観音とその弟子16童子像を祀ったほこらがある。この弁天様は手に刀を持ち、仏陀座りをしている。その姿は私がイ 

 メージする弁天様とはとても思えないが、こういう弁天様も普通らしい。
 貯蔵庫だった洞窟は海水が押し寄せる恐ろしいところ。こんなところに船を隠していたのかと驚く。

・南方熊楠記念館。平成29年オープンした南方熊楠の記念館。生涯在野の学者に徹した「博物学の巨星」熊楠の能力は私などには想像もつか  

 ず、このような学者がいたことに驚きを覚えるしかない。

 記念館の屋上から見る景色は素晴らしい。遠くに神島が見える。熊楠は昭和天皇の依頼を受けてこの島でご進講をしている。    

 

 

熊野の旅を終え、親戚の家に帰る。そういえば和歌山ラーメンを食べていなかったことを思いだし、帰途「とれとれ市場」という水産物と梅干しを中心にした巨大な市場で食べる。うつぼのひらきは珍しい。

11月10日(土)
親戚と別れて、近鉄奈良へ。駅前でレンタカーを借りる。ホテルは新大宮駅前のビジネスホテル。
・志賀直哉旧居(高畠市大道)。立派な住居。文士というのは貧乏と決まっていたわけではい。裕福な出だからこそ文学に没頭できたのかもしれない。文学サロンのような場所でもあったようだ。家族と一緒に住んでいたので、風呂場や台所もある。

 

・大神神社(おおみわじんじゃ)の大鳥居を通ったところ右側に三柱鳥居があることに気が付く。三本鳥居は確か京都太秦の木嶋神社とそれを摸した東京向島の三囲神社(みめぐり)しかないと読んでいたが、ここにあるのはどういうものか調べなければ。大神教本院の摂社である。

・三輪神社(=大神神社)の奥の拝殿には神官とても入れないという。そこには三鳥居があり、そこを通してご神体の三輪山を拝むそうだ。

・横手に「くすり路」という狭い坂道がある。両側に薬草が植えられていて、すべて表記されているので、役に立つ。途中に三輪神社の摂社「磐座神社」(いわくら)がある。ご神体は少彦名神(すくなひこのかみ)は薬の神さま。

 さらに登ると三輪神社遥拝所へ。ご神体の三輪山が拝めるようになっている。

・三輪だからもちろん昼食は三輪そうめん。おまけに柿の葉寿司も。

・展望台から。右手奥の山は二上山。 くすり路を登って右は狭井神社。左は大美和の森展望台へ出る。快晴だったので展望台へ。ここから大和三山(耳成、畝傍、天の香具山)が見える。中央の△山が耳成、その左側の△が畝傍(だったと思う)。後ろ右奥の二つ瘤のように見えるのは二上山。
耳成は姿が二等辺三角形なので人工的に作られたのではという説もある。また、ミミナシはなぜ耳成と書くのかというと、この山は自生のクチナシが自生することでも知られていて、そのナシだという説があるが、どうだろう。「成し」はナシと読むからという説のほうが納得いく。

・飛鳥寺へ。二度目。日本で一番古い大仏。止利仏師(鞍作止利)の作。彼は百済からの渡来人とみなされているように、飛鳥大仏は鼻すじが通っていて、細面のいかにも朝鮮風。大仏殿は2度火災にあったが、像だけは残ったという。銅製だからか。

裏手には蘇我入鹿の首塚がある。山城大兄王や藤原鎌足らと蘇我一族の闘争も今は昔。 

   

・飛鳥寺の近くにある飛鳥座神社(あすかにいますじんじゃ)に寄る。折口信夫の祖父がここの宮司の養子となったという神社で、折口はそれを  

 とても自慢していたという。

・橘寺 聖徳太子の誕生の地に建てられた寺。別に厩戸があるわけではない。聖徳太子の愛馬だったという黒駒の像や飛鳥時代の作という二 

 面石(両面に人間の善悪を表わす顔を彫ったもの)などが境内にある。

 日本書記によると、垂仁天皇の勅命を受けて不老不死の薬を求めて中国に渡った田道間守(たじまもり)が10年かけて探しだし、持ち帰った。

 それを蒔いたところ、芽を出したのが橘だったという。それでこの地を橘というようになったそうだ。

・石舞台。2度目。あまりの変わり様にびっくり。石舞台は道路脇にぽつりと置かれていただけだったが、今は入場料を払って中へ入る。
 そもそも石舞台は土を被っていたのが時代とともに姿を現し、その形から舞台だったのではないかと思われていたもの。京都大学がまわりを 

 掘り起こしたところ、濠に囲まれた墳墓(つまり古墳)であることがわかり、地下には石棺も見つかったということだが、昔の言い方にならって今

 も石舞台と言っているとのこと。蘇我馬子の墓だったと言われている。石棺の中には何もなかったそうだ。おそらく盗掘されたのだろう。
 

11月11日(日)
・奈良叡福寺。聖徳太子自ら選定したという磯長廟(しながびょう)がある。横穴式石室になっているそうだ。外から見るとその屋根が三層になっ

 ているのが面白い。これは聖徳太子の死の前日に亡くなった妃と二か月前に亡くなった母親の3人を埋葬した廟で、三骨一廟という。
・近つ飛鳥博物館。(太子町―大阪府になる)この建物は安藤忠雄の最高傑作だというので、見に行く。階段は面白かったが、建物については

 どうだろう。私は直島の美術館のほうが好きだ。ここのショップで来年の干支猪と巫女の埴輪を買う。

・小野妹子の墓。太子町の科長(しなが)神社の脇にある丘の上。急な石段をフウフウいいながら登る。
・推古天皇陵(第33代天皇、日本最初の女帝)。磯長(しなが)山田にある。このあたりに天皇陵はたくさんあるが、一つに絞ったらやはり推古天

 皇陵。特別な思い入れがあるわけではないが、礼拝所の前ではなんとなく神妙に頭を垂れる。

・ロープウェイに乗って葛城山へ。上は9度Cという看板が出ていた。実際は頂上までの坂道を登るのにフーフーだったので、寒いとは感じな

 かった。今はちょうどススキが満開で美しい。


これで大和三山、聖徳太子関連の寺も見られ、奈良を少しばかり享受できた。明日は京都で途中下車してから帰宅。

11月12日(月)

京都といえばとにかく清水寺へ。紅葉は7分か8分というところ。すでにライトアップは始まっているようだ。
清水寺から歩いて八坂神社と円山公園を経由して知恩院に。義理の父母がここの納骨堂に分骨しているので、京都に来たら必ずお参りする。その後、これも京都にやって来たときの定番なのだが、祇園四条の権兵衛で昼食のきつねうどん。


・永観堂。紅葉が素晴らしかった。それでもあと2週間すればもっと見事な景色になるそうだ。ここは紅葉もそうだが、なにより私の好きな「みか

 えり阿弥陀」がある。1082年のこと、僧永観が念仏行に励んでいると、「須弥壇に安置してある阿弥陀像が壇を下りて永観を先導し行道をは

 じめられ」、後ろを振り向き「永観遅し」と言ったという。

 この阿弥陀仏はなにを「遅し」と言ったのか、いろいろな解釈がある。私の勝手な解釈は、阿弥陀仏には永観が修行を熱心に積んでいること

 がわかっているから、「さあもういいから早くおいで」、「もう逡巡するな」という語りかけたのかなあと。
・京都駅に出て、新幹線で帰京。日本でも行ってないところがたくさんある。来年はもう少し国内探索をしよう。
             

ヨーロッパ(デンマーク・ドイツ・スイス)<7月7日~7月23日>

 

 今年の夏は日本ばかりでなく世界的に異常気象だったようだ。ドイツも北から南まで 暑かった。汗をかきながら歩いた17日間。心に残ったことをテーマ(大げさ)ごとに報告。 

 

◇ワクワクしたこと

 

・渡り鳥ライン

 今回の旅の大きな目的の一つ。コペンハーゲンとハンブルクをむすぶ列車。私たちはコペンハーゲンから乗る。列車がフェリーに乗り入れると、乗客はフェリー船に移る。

 バルト海を渡ってドイツに入り、そこで再び列車に乗る。約4時間半、乗船時間は約1時間。 

 

 車でフェリーに乗り込み、車を降りて船に乗るのは日本でもよくあるフェリーだが、列車ごとというのが珍しくぜひとも乗ってみたかった。期待通りの楽しさで興奮した。(7月9日)

 

◇予想以上の面白さ

・ミニチュアーワンダーランド(Miniatur Wunderland)

 ハンブルク倉庫街の一画にあるビルの中。模型の電車が世界の有名な観光地(もちろんこれも模型)を次々と走る。空港では飛行機が飛び上がる。ミニにして巨大なワンダーランド。

 人物も土地も建物もすべて精巧にできたミニチュア。

 

 予約が必要なほど混むというが、そうたいしたことないだろうと思っていたが、どうしてどうして、子どももそうだが、大人も大興奮。これほど大量に精密な人形を制作するドイツ人の情熱に頭が下がる。再訪したい。(7月12日)

 

・ブレーマーハーフェンのクリマハウス

 ハンブルクから日帰り。ブレーメンからローカル線でブレーマーハーフェンに。

 港のそばにある巨大な世界の気候を観察する館。ブレーマーハーフェンは3度目だが、ここは初めて。南極の氷の世界からアフリカの熱帯地方を部屋ごとに歩き回る。

 けっこう面白くて2時間以上かかった。(7月11日)

 

・ハンブルクのアルスター湖遊覧

 アルスター湖は人造湖で、ケネディ橋を境に内と外の二つの湖になっている。これまでは内アルスター湖を見るだけだったが、外アルスター湖までまわる遊覧船があったので、乗る。

 こんなにも広いのかとびっくり。湖のけっこう強い風も心地よく1時間楽しめた。(7月12日) 

 

◇取材と称して、でも楽しむ

・船員未亡人住宅

 ハンブルク港近くの一画に建てられた集合住宅。今は一軒だけ見学ができる。(7月14日) 

 

・ザンクト・ガレンSt.Gallen(スイス)

 8世紀に作られたザンクト・ガレン修道院はベネディクト会の中心的存在だった。この修道院は薬草園にとっても見逃すことができない重要な修道院である。ここに残っている園庭の見取り図は その後の修道院付属薬草園にとって欠かせない手本となった。同じく薬草園に大きな影響を与えた ライヒェナオ(ボーデン湖にある島)の修道院長ストラボもこの修道院と縁が深い。私は数年前ライヒェナオには行っているので、今回はどうしてもザンクト・ガレンに行こうと思った。

 

 この修道院と付属図書館はユネスコ文化遺産になっている。図書館は確かに素晴らしかったし、ここにしか置いてない貴重な蔵書もあるそうだ。しかし、中世の修道院が持っていた図書館を私はこれまでいくつか見てきたが、蔵書数や図書室の豪華さなどもっとすごい図書館があったので、思ったほど感銘は受けなかった。(7月18日) 

 

・クナイプ

 クナイプといえば入浴剤でお馴染みだが、クナイプはバート・ヴェリスホーフェン(Bad Wörishofen)という町の教会で活躍した神父だった。彼は結核に罹るが、独自の治療法を考えだし、それで病気を克服したそうだ。その方法というのは家から走って近くの川に行き、水に飛び込む。また川から 出て、家まで走って帰る。この繰り返しで治癒したそうだ。そこで彼が考え出したのが水浴療法だった。ホースから勢いよく水を出して患者の身体に当てる。それを繰り返す。クナイプ記念館には水をかけられて気持ちよさそうにしている患者の写真や身体にかける水を入れた当時のジョウロなどが展示

されている。何となく笑ってしまいそうだが、この水療法はドイツでは今も人気があるそうだ。

 

 入浴剤はクナイプの知人の薬剤師が研究を重ねて、身体によい入浴剤を作り、クナイプの名前を使う

許可をもらって売り出したもの。(7月21日)

 

◇植物園めぐり

 ・ブレーメン聖書植物園(7月11日)

 

・ハンブルク大学付属植物園(7月12日)

 ちょうど猛毒ベラドンナの花と青い実と熟した実が一緒の写真が撮れてよかった。 

 

・ザンクト・ガレン植物園(7月18日)

 目的だった薬草園だが、修道院内にはなかったので、町外れにある植物園に行ってみる。

 薬草コーナーはあったが、見取図に合わせたものではなくて少々がっかりした。(7月18日)

 

・ヴュルツブルク植物園(7月16日)

 

◇こんなもの、こんなこと

・船の教会

 ドイツで唯一船がそのまま教会というのがハンブルクの運河にある。以前橋の上から見たことはあったが、今回は中に入ってみたかった。ところが、なぜか受付が閉まっていて、中には入れなかった。

 祭壇を見たかったのに。(7月12日)

 

・ビートルズ広場

 ビートルズが初めて音楽活動を始めたのはハンブルクのレーパーバーンにある店だった。

 この歓楽街の一画にビートルズ広場があり、彼らが活動した店をめぐるコースがある。(7月12日) 

 

・ブレゲンツ(Bregenz)はオーストリア

 ドイツから一泊だけザンクト・ガレン(スイス)に行くことにしたので、「ユーレイルパス2か国」を購入した。その帰り、行きとは違う路線にした。リンダウで途中下車してボーデン湖を見ようと思ったからだ。ボーデン湖はリンダウ駅から出るとすぐ目の前。暑い日だったがボーデン湖の青い湖面は

すばらしい。

 

 で、何が「こんなこと」なのかというと、ザンクト・ガレンからリンダウへ行く途中ブレゲンツという駅を通過するのだが、ここはオーストリアなので、2か国パスではダメなのだ。通過料金8ユーロを払う。

 思いもかけず、今回の旅行国はデンマーク、スイス、ドイツ、オーストリア(!)の4か国になったという話。(7月19日)

 

・「訪れる人に安らぎを、去りゆく人にしあわせを」

 ローテンブルクのシュピタール門に刻まれたラテン語の碑文を東山魁夷が日本に紹介した。

 この碑文を書いたプレートが羽田国内線第2ターミナル中央エレベータ上がったところにある。

 第一ターミナルにもあるという。この碑文は日本空港ビルディング株式会社のモットーということで

会社が作ったもの。東山魁夷のことに触れていないのは残念。(7月7日)

 

・鬘の木

 ハイデルベルク薬事博物館の入口に面白い樹があったので、受付で尋ねたら、ドイツ語で「Perückenstrauch」だと教えてくれた。訳せば「鬘(かつら)の木」。貴族や音楽家などがかぶっているあの鬘(かつら)である。

 

 和名ではハグマノキ。白熊のシッポの毛を束ねた仏具の払子(刷毛みたいなもの)に似ているから

だそうだ。ドイツではよく見かけるが、名前を知ったのは初めて。(7月17日)

 

・黒いマリア像(ヴェリスホーフェン)

 クナイプ博物館が午後からだったので、辺りを散策。立派な聖母教会の横に小さな礼拝堂がある。

そこに祀られていたのは何と黒いマリア像。どこかで見たような気がした。尼さんに聞いたらアイン

 ジーデルン(スイス)のレプリカだと。それで見た覚えがあったのだ。(7月21日)

 

・映画「犬が島」

 機内で見たこの映画今年の5月に日本で上映されたらしい。なんとも奇妙で、めちゃくちゃ面白い。お勧め。

 

 

◇いかにも観光

コペンハーゲン(7月9日)

・人魚姫像

 45年も前と今が違うのは当たり前だが、海岸が整備されていて、観光客の多さにもびっくり。

 

・チボリ公園

 昔よりも乗り物やレストランなど増えて今風になっているし、駅前すぐのところだからコペンハーゲンに来たら訪れてもいいが、私の評価では絶対のお勧めとは言えない。

 

・アンデルセン像とアンデルセンの家巡り

 市庁舎そばのアンデルセン像は本などでよく知られているので、なるほどと思って見た。

 アンデルセンが住んでいた家が何軒か川に沿って残っている。

 この川沿いの家並みも観光名所。

 

ドイツ

・シュヴェリーン城 Schwerin

 観光名所と言えかどうかわからないが、北ドイツではけっこう人気がある。城内は広く、地下には牢獄もある。

 お天気だったら行ってみてもいい。(7月10日) 

 

◇こんなものを食べた

・コペンハーゲン名物スモーブロー(オープンサンド) 

 

・サバ(Makrele)サンド

 燻製サバを焼いてパンに挟んだもの。ハンブルク港にある店で。

 なかなか評判がよく行列ができるほど。確かに美味しかった。(7月12日)

 

・豚のひき肉を乗せたオープンサンド(Mett)

 昔知人の家でご馳走になってとても美味しかったが、旅行中の生肉は禁止にしていた。

 でもつい手を出してしまった。美味しい。(7月8日)

 

・チョコレート

 ハンブルクにハッシェのチョコ博物館がある。予約したほうがいいほどの人気。

 グループになってチョコレート職人のガイドに従い、それぞれの行程で出来るチョコを食べさせてくれる。また、大きな生の板チョコをもらい、トッピング用の棚から自分で好きなものを選んでトッピングし、固まったものを袋に入れて持ち帰ることができる。(7月14日)

 

・バウムクーヘン

 ヴェアニゲローデ(ハルツ地方)にもバウムクーヘンの製造現場を見せてくれる店がある。

 今回は元祖バウムクーヘンの町だというザルツヴェーデル(Salzwedel)へ。製造現場を見せてくれる店が2軒。

 町外れの店は職人さんがクーヘンを焼きながら質問に答えてくれてとても親切だった。(7月13日)

 

◇美術館・博物館一口メモ

・ハンブルク・クンストハレ

 何回訪れても新しい発見がある。(7月14日)

 

・ハイデルベルク薬事博物館

 ドイツ初の女性薬剤師(ネフ)についてのパネルがみられたのが成果。(7月17日)

 

・ドイツ医療史博物館(インゴルシュタット)

 今年いっぱいで閉館とは残念。(7月20日)

 

・アルテピナコテーク

 フェルメールの「青い服の女」の特別展があった。大雨だったが行列。しかもこの日は日曜なので入場料1ユーロ。(7月22日)

 

 

 雨のミュンヘンも情緒あり。次のヨーロッパ旅行はいつかな?


ドイツ<4月24日~5月9日>

 

 今回の目的は、以前訪れたことのあるカール大帝ゆかりの地を再び訪れること、そしてもちろん4月30日のヴァルプルギスの夜を見にハルツへ行くことである。

 特に心に残ったことや面白かったことに絞って簡単に伝えたいと思ったが、やっぱり長くなってしまった。 

 

4月24日(火)

 成田からJALでフランクフルトへ。旅行前に観たい映画が何本かあってどうしようかと思っていたが、 機内サービスの映画でそれらがすべて観られるということが分かり楽しみにしていた。

 

 以下、「はじめてのおもてなし」(独)、「ウィンストン・チャーチル」(英)、「オリエント急行殺人事件」(米)、「ペンタゴンペーパーズ」(米)、予定になかった「グレイテストショーマン」(米)、「祈りの幕が降りる時」(日)、「火花」(日)も見てしまった。これで往復の飛行時間は少しも退屈することはなかった。

 

4月25日(水)

 アーヘンの観光バスでドリーランデンプンクト(三か国国境のある地点。ドリーはオランダ語でドイツ語のドライ=3)に行く。これはけっこう楽しみにしていた。オランダ、ドイツ、ベルギーの国境が一点に集まっている地点だ。

 

 日本で調べた行き方によると、アーヘンからオランダのヴァールス(Vaals)までバスで。そこから約30分軽い坂道を登る。

 私には30分はきついかなと思った。そこでアーヘンのインフォメーションで尋ねたところ、アーヘン市内を回ってドリーランデンプンクトで20分休憩があるので、そこで下車して観光、それからまたアーヘンに戻ってくる観光バスがあるという。

 20分でじゅうぶんだというのでチケットを求める。

 

 バスはアーヘンの町を過ぎるとすぐにオランダに入り、しばらく坂道を走るとドリーランデンプンクトのバス停に着く。公園の一画に三か国の表示を示す石碑が立っている。観光客が嬉しそうに写真を撮っている。

 ところで、ここはお勧めかと聞かれたら、どうだろう。私はもっと山奥の頂上にあって、もう少し雰囲気のあるところかと思っていたが、全然違った。そういう意味では、「ウーン、なんだかなあ」という意味で面白かったかも。

 

4月26日(木)

 カール大帝が首都と定めたアーヘンの大聖堂、宝物館を見た後、ズールモント・ルートヴィヒ博物館を見る。なかなか面白い絵画や彫刻があり、特に「死の舞踏」の木彫り人形を飾った棚がよかった。撮影禁止は辛い。

 

4月27日(金)

 カール大帝は目の上のたんこぶだったザクセン族をなんとか征服しようと30年の年月をかけて遠征を繰り返していた。

 722年、ザクセン族は彼らのシンボルであるイルミンの柱を倒されて戦意消失し、大帝に屈した。その地がオーバーマルスベルク(Obermarsberg)かつてのエーレスベルク)だと推定されている。ずいぶん昔に一度訪れているのだが、もう一度訪れてみようと思った。

 

 オーバーマルスベルクはマルスベルクからバスで10分ほど。市庁舎前に罪人を入れて人目にさらす「さらし台」がある。

 その横の坂道を登っていくと「ベネディクト修道院および司教座教会」がある。入口の内扉横に、イルミンの柱を真中にしてカール大帝と従者のシュトルミウス司教が立っている像のプレートがある。

 マルスベルクの教会の前にもカール大帝の噴水がある。

 

 教会の墓地から坂道を降りたところで、上を見上げると大きな花崗岩の塊が連らなり、落石注意という看板がたっている。

 それらの重なる岩と岩の間には、ところどころ裂け目があり、その一つは北欧神話の龍が潜んで財宝を護っている穴だとか。

 その他いろいろな言い伝えを書いた看板が立っている。

 

4月28日(土)

 フルダには魔女の塔があるが、それが本当に魔女を収監していたのか資料が探し出せないでいたところ、旅行前にフルダの旧墓地に市民女性グループが建てた鎮魂の碑があるということがわかった。1600年から1604年までにフルダだけで270人の犠牲者がいたということだ。大聖堂から歩いて10分ほどのところにある。

4月29日(日)

 今日はヴァルプルギスの夜。フランクフルトからハルツに向かう途中、ユルツェン(Uelzen)という駅で途中下車する。

 ここの駅舎はオーストリアの画家にして建築家フンデルトヴァッサーが建てたということで有名。フンデルトヴァッサーの建物はマクデブルクやウィーンでいくつか見て、私はけっこうファンだ。

 

 彼は1960年代に日本にいて日本人女性と結婚もしていた。彼の日本での建築作品は写真でしか見たことがないが、大阪の舞洲ゴミ処理場は写真を見ただけで口あんぐり。

 ウェルツェンで一電車遅らせてじっくり駅舎を歩き回って楽しむ。

 

 友人ゲルディがヴェアニゲローデ駅まで迎えに来てくれる。夕食を一緒する。鹿肉のソティーを注文。ソースは美味しかったが、鹿肉はドイツ(特にハルツ)ではかなり普通の肉らしいが、これはパサパサした鶏肉のようで、特別美味とは言えなかった。

 春のドイツといえばやはりアスパラ料理。また、この時期は主に肉にかけるフランクフルターグリューネゾーセ(8種類ほどの薬草から作るソース)だろう。フランクフルトで会った知人とシェアーして堪能する。

 

4月30日(月)

 今年はどこでヴァルプルギスの夜をむかえようかと思案しているうちに時間がなくなって、やっぱりヴェアニゲローデにしようと思ったときにはすでに市内のホテルはほぼ満室。29日だけ空いていたホテルに泊まる。夜遅い電車でゴスラーに行くことにした。それまでは最近特に人気の高いヴェアニゲローデ城での祭りを見る。

 

 今回のホテルはいい部屋に当たった。窓からライトアップされたヴェアニゲローデ城がしっかり見える。 しかも、スーパーフルムーンのような月が城の横手から昇ってきた。「魔女の宴」にとってグッドタイミングか。夜景を上手に撮れないのがとても残念だった。

 

 ゴスラーに移動する前に、ヴェアニゲローデの「ヘクセンケッセル(魔女の大鍋)」というレストランで食事。「魔女の大鍋」を注文。

 普通のグーラシュ(シチューのようなもの)だったが、いまどきドイツでも珍しく塩辛い。持っていたペットボトルの水をジャボジャボという感じで注ぐ。ぬるくなったけど、これなら食べられた。ハルツの古い言い伝えによれば魔女の料理は塩なしだというのに・・・。

 

5月1日(火)

 ゴスラーの皇帝居城へ。広間を飾る壁画はドイツ歴史絵巻のようで、何度見ても飽きないし、勉強になる。今回は久しぶりにガイドの説明を聞けたので、とても勉強になった。

 居城に付随してウルリヒ礼拝堂がある。そこにハインリヒ3世の棺が安置されている。歴代皇帝はシュパイヤー(南ドイツ)の大聖堂に祀られるのだが、皇帝居城を建ててゴスラーをこよなく愛していた三世は心臓だけはここに残してくれと言い置いたそうだ。

 

 この棺には本当に彼の心臓がおさまっているのだろうかと前から気になっていたので、ガイドさんに尋ねた。本当ですよという答え。

 あなたは見たことがありますかと問うと、残念ながらという答え。

 日本のお寺の秘仏ように御開帳ということはないようだ。

 

5月2日(水)

 ハンブルクへ移動。大学付属植物園へ行く。数日前から鼻水とくしゃみ、目がくしゃくしゃしてたまらない。風邪でも引いたかと気になっていたが、ひょっとして花粉アレルギーではないかと疑う。ドイツに来てから特に満開のトチノ木(マロニエ)の花から半端じゃない花粉が飛び舞っていた。車の屋根やガラスに花粉がびっしりついている。知人は「拭いても拭いてもすぐにこうなるんだ」とぼやいていた。毎年同じ時期に来ているのに、今年はどうしたというのだろう。薬局でアレルギー用目薬を買う。数日後に眼はだいぶ楽になったが、くしゃみは相変わらずだった。

 

5月3日(木)

 ハンブルクから日帰りでツェレ(Celle)へ。町はずれを流れるアラー川を渡ったところにある薬草園が目的。

 ツェレはそれなりに観光客の多い町だが、ここまでは来ないのかほとんど人のいない薬草園でのんびりできた。

 

 入口を入ってすぐの左側にキングサリ(Goldregen)、右側にフジ(Blauregen)のトンネルがある。キングサリはドイツ語で「黄金の雨」、藤は「青い雨」。どちらもまだ咲ききっていない。

 

5月4日(金)

 ハンブルクから日帰りで港町フレンスブルク(Flensburg)へ。ここからバスでグリュックスブルク(Glücksburg)という水城を見に行く。すぐ先はデンマーク。国境の町は絶えず領土争いに明け暮れて大変だっただろう。この城にもデンマーク王とドイツ王との争いに巻き込まれてきた歴史がある。内部は自由に見学できる。ちょうど結婚式があったようで、大広間には披露宴の準備が出来ていた。城の地下には薄暗い牢獄があり、魔女も収監されていたという。

 

 暗い時代とは別に、外へ出れば快晴もあってか湖に映る外観は美しく、本当に気が安すまるひと時を過ごせた。 

 

5月5日(土)

 ハンブルクからベルリンへ。

 アレクサンダー広場にあるマリーエン教会は森鴎外の『舞姫』の舞台として知られているが、私の目的は教会内部にある「死の舞踏」の壁画。ずいぶん前から剥げてしまった壁画の修復工事が行われていて、数年前もまだ工事中だった。今年はどうだろうと期待していたが、まったく変わらず、修復の進みなど見られなかった。受付の人に完成はいつですかと尋ねたが、さあという返事にがっかりした。

 

 いつかベルリーナーアンサンブル(ブレヒトの作った劇場)でブレヒトの劇を見たいと思っていた。それで今回の公演スケジュールを調べたら、私のまったく知らない作品だったので、芝居はともかく建物だけでも見ようと思った(これまで見たことがなかった)。

 うまく行けばホールだけでも見せてくれるかなと思ったが、受付で「だめです」と言われてしまった。

 

5月6日(日)

 久しぶりで友人のグランツォーと会う。彼に案内してもらったのは、ベルリン市内を流れるシュプレー川が旧東ベルリンに入ったところに広がる広大な公園とその一角にそびえるソビエトユニオン記念公園である。第二次大戦でナチスと闘って犠牲になったソ連軍兵士の記念碑である。これほど広い敷地に巨大な塔を建てる。政府が資金援助をし、市が管理しているのだという。

 

 ソ連軍戦勝記念碑はベルリン市内にいくつかあるが、これはまったく知らなかった。東西分断の悲劇やユダヤ人迫害の歴史は、ブランデンブルク門そばのホロコースト記念館、ユダヤ人記念石、チェックポイントチャーリーなど数多く目にする。日本では考えられない戦後処理の一つと言える。

 

 そして、今回フリードリヒシュトラーセ駅そばにトレーネンパラスト(涙の館?)という記念館ができているのを知った。チェックポイントチャーリーは自動車用道路の東西の境だったが、ここは電車用の東西の境だった。私が初めてベルリンに入ったときはまだ東西の壁があった。ワイマールに行くため、ベルリンでビザをとり、この駅で厳しい検問を受けて電車で東に入った。当時の写真が展示されていて、実に感慨無量だった。DDR(東ドイツ)の印が押してあるパスポートは今も大切に持っている。その電車の中で知り合ったのがグランツォーだった。

 

5月7日(月)

 ベルリンから日帰りでゲルリッツ(Görlitz)に行く。昨年、フランクフルト・アン・デア・オーダーに行き、オーダー川を渡ってポーランドに入った。ゲルリッツからも橋を渡ってポーランドに入るのだが、その川はナイセ川。オーダー・ナイセ川は第二次大戦後、正式にドイツとポーランドの国境になった。

 

 この二つの川に囲まれたところがポーランド領シュレージエン。私が長年親しく付き合ってきたシャルロッテはそこから追われ、難民としてドイツへ移住してリューネブルクに住みついた。彼女は涙ながらに失われた故郷の話をよくしたものだ。

 私はナイセ川の橋を渡り、ポーランド川からドイツを見、再びドイツへ戻って河畔でしばしシャルロッテのことなど思いだしながら、ときを過ごす。昨日のベルリンといい、かなりセンチメンタルジャーニーの気分。

5月8日(火)

 帰国便をフランクフルトにしたので、ベルリンから電車でフランクフルトまで。市内で最後の買物をして空港へ。

 日本からの到着便が2時間遅れなので、出発も2時間遅れるとのこと。お詫びに10ユーロの食事券を渡される。空港内で食事をし、本を読み、時間を過ごす。明日は日本。

 

 最後に写真を数枚追加。

 次の旅行の課題は「もう少し上手に撮る」で決まり。