松山にいる娘に会いに行きがてら、まだ行ったことのない直島、鞆の浦、尾道に寄ってくることにした。都合があって3泊4日しか時間の取れないあわただしい旅だった。
10月13日(火)
羽田発8時17分で松山空港へ。娘夫婦とランチしたあと、道後温泉にある伊佐爾波(いさにわ)神社へ行く。
延喜式(平安時代に編纂)に記載されている古い神社である。現存する八幡造りの社殿は1667年のもの。
ここに算額の実物があったのでびっくり。算額というのは、額や絵馬に数学の問題と解答を記して、神社や仏閣に奉納するものである。これがいつしか難問だけを書いて奉納すると、その問題を解いた人が解答を額に書いて奉納する。こうしたやり合いは日本独自の文化だそうだ。この実物がまだ残っているのは全国で3か所だけとか。
私は、算学者の関孝和とか和算とかについては言葉だけしか知らなかったのだが、映画「天地明察」(2012年)を見て、日本の数学の歴史も面白いと思ったので、ここでこのようなものが見られたのは嬉しかった。
10月14日(水)
JR松山駅から高松駅で下車して高松港まで。宇高連絡船フェリーで直島へ。下船したら、今夜泊まるベネッセハウスの送迎用バスが待っていた。荷物はハウスで下してくれるというので、終点の地中美術館まで。
地中美術館は安藤忠雄の設計である。安藤忠雄については新国立競技場の対応で私の評価は下がってしまったが、この建物はよかった。いかにも安藤忠雄のアートになっている。美術館には全体に美術品としてすごいというものは なかった。モネのスイレンも晩年のものだからからか筆力が弱く、いいとは思わなかった。贅沢な建物を見るという感じ。
ただ、一つだけ面白かったのが、ジェームズ・タレル(アメリカ人)の作品。光そのものをアートとして見せる。光による目の錯覚を利用することによってしかありえない空間を作り出す。面白くて帰り際にもまた見てしまう。
その後、韓国の美術家李ウーハン美術館に。ここの作品はまさに安藤忠雄の設計と不可分になって作られている。どちらが欠けても成り立たない。
それからベネッセハウスミュージアムに行く。贅沢な空間だけは感じ取れたが、アートそのもののよさは私にはわからなかった。どの美術館も館内撮影禁止だった。
ベネッセハウスはドイツでよく泊まったアートホテルのような室内で、私にはあまりいいとは思えなかった。
ベネッセエリアを走るシャトルバスは宿泊者だけしか乗れない。ベネッセハウスミュージアムも無料。
そして、このホテルの部屋にはテレビがない。アートと自然を楽しむようにということらしい。ところが、この日はちょうどプロ野球のクライマックス・ファイナルステージ第一戦が始まる大切な日(笑)
だったので、貸しテレビ(1000円)を頼んでおいた。ところがなんとBSが映らない。がっくりだった。
直島のベネッセエリアは瀬戸内海を借景とした贅沢な空間の心地よさというところか。
10月15日(木)
8時55分の船で宇野港へ。20分ほどで着く。お天気がよかったので、島々が見えてよかった。ここから電車で茶屋町で乗り換え、山陽本線で福山へ。バスで鞆の浦まで約30分。ホテルに荷物を預けて、昼食して、さっそく散策。
安国寺へ行き、小烏神社の前を通り、なだらかな小道を歩く。正法寺、慈徳院、本願寺、妙蓮寺からささやき橋(官吏と官妓が愛し合って恋を囁いたところ、役目おろそかにした咎で海に沈められたという)、山中鹿助首塚、阿弥陀寺(ここの仏像が穏やかな顔をしていて立派だった)、をのんびり散策する。
やがて、太田家住宅(古い酒屋)と「いろは丸事件」の展示館に出る。そこが鞆の浦港。港には雁木と呼ばれる木(今はコンクリート)の階段になった船着き場がある。
鞆港は江戸時代に朝鮮通信使と交流があった港だった。朝鮮通信使やいろは丸事件というのは鞆の浦に行こうと決めて調べて初めて知った。慶応三年、瀬戸内海の備中・六島沖で、坂本龍馬が率いる海援隊の雇船いろは丸と、紀州和歌山藩船・明光丸とが衝突し、いろは丸が沈没した。
これが日本における最初の「蒸気船どうしの衝突事故」と言われている。坂本龍馬がこの海難事故にあたって、紀州藩と賠償交渉をした場所が記念館になっている。
次に千手院福禅寺へ。本堂の脇に珍しいマリア観音像があった。観音開きの厨子があり、そこにはマリア観音像の絵がある。像ではなく絵というのが珍しい。江戸時代のものらしいが、由来は不明だそうな。
本堂に隣接する対潮楼は1690年頃に建てられた客殿で、座席からの眺めがすばらしい。 障子の枠が額縁のようになっていて、座敷に座って見る月は素晴らしいという。中秋の名月には観月会をするそうだ。
海岸通りから階段を登って圓福寺へ。この場所は、かつて島だったところで、大可島城があった。朝鮮通信使が来日した際には上官が宿泊したり、いろは丸沈没事件の談判の際には、紀州藩の宿舎にも使用されたという。
階段を下りた海岸通りに「むろの木歌碑」がある。730年に大伴旅人は大宰府の役人の任期を終えて鞆の浦に立ち寄っている。旅人と妻の郎女は大宰府に赴任するときも、ここに立ち寄って、海路の安全を神木むろの木(ネズ科)に祈ったのだろう。妻は二年前大宰府で亡くなっている。今は旅人一人、鞆の浦でむろの木を見ている。旅人の悲しみがひしひしと伝わってくる。
吾妹子(わぎもこ)が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき
圓福寺へ。ここは、かつて島だったところで、大可島城があった。朝鮮通信使が来日した際には上官が宿泊したり、いろは丸沈没事件の談判の際には、紀州藩の宿舎にも使用されたという。
夕方、ホテルに戻る。部屋から弁天島が目の前に見える。一風呂浴びて、夕食。なかなか美味しかった。特に海鮮フォンデュは素晴らしかった。鯛、海老、烏賊、芽キャベツ、ペコロスを煮込んで食べる。最後の一滴まで掬い取って食べてしまった。
峠下(これでナオシタと読む)牛のトマト煮込み。グラスの中身はアスパラムース。これも美味だった。
10月16日(金)
7時起床。展望台露天風呂へ行く。景色よし。朝食もよし。ホテルのバスで福山駅まで。福山から山陽本線で尾道へ。
駅前からバスで千光寺のある山頂(千光寺公園)ロープウェー駅まで。全長365m、千光寺公園まで一気に登ることができるロープウェイ。尾道水道や向島の街並が見下ろせる。3分間の空中散歩。
展望台から見える瀬戸内は重なる島々がくっきり見える。陸続きの山ではない。瀬戸内海に囲まれているのだ。
東京では見られない独特な景色。対岸にはドッグや工場が建っていて、風情がないという人もいるが、これが尾道なのだと私は思った。
中腹の千光寺まで文学の小道を歩いて降りる。ずいぶん多くの文人が尾道と関係あるのだと思った。
志賀直哉や林芙美子は当然、吉井勇、中村健吉もよしとしても、十辺舎一九(1765-1831)の句碑まであったのには驚き。
千光寺は大きなお寺だった。弘法大師による開基、真言宗のお寺。本尊は観世音菩薩。33年に一度の御開帳は2年前にあったので、もう無理。とはいえ、なにか祝い事があると開帳するらしい。住職が決めるそうだ。
ネットを見ていてくださいと言われた。
帰りはロープウェーに乗らずに階段を降りていく。途中にある志賀直哉の家に寄る。志賀直哉は父親とうまくいかず、仕事のことでもいろいろ鬱屈することがあり、よいところだと人から聞いた尾道に向かう。1912年(大正元年)27歳のときである。この家に7か月いて、『暗夜行路』の案を練ったという。3家族が住む棟割長屋である。
尾道は石段と坂の町と聞いていたが、まさにその通り。下の道路に出るのに上に通しの道がないので、ともかく階段を下りて、下の道路に出て、また別の階段をあがるというまるで櫛みたいな町並みである。
小学校も階段の上にある。足腰鍛えられるだろうな。
「志賀直哉の家」の人に、これでは車椅子生活の人には無理ですねと尋ねたら、「そうなんです。年をとったら、たいていは下の町に越していかれますね」ということだった。
昼食は本当は尾道ラーメンを食べるつもりだったが、暑くてちょっとねということで、商店街の「大和湯」という元銭湯だったところを利用しているレストランでカレーライス(!)を食べる。
このあと、大草鞋で有名な西国寺に行きたかったが、100段の階段を登るということだったので、諦める。
浄土寺までバスで。浄土寺は616年、聖徳太子の創建と伝えられている。足利尊氏が九州平定や湊川の戦の際、戦勝祈願をした寺としても有名。
またまた階段と坂道を歩いて持光寺へ。この寺では自分で粘土を握って仏様を作る「にぎり仏」が体験できる。面白そうだったが時間がなかった。
持光寺から坂を下りて駅前通りに出ると、そこに着物姿でしゃがんでいる林芙美子の像がある。傍らにトランクがある。「放浪」の芙美子である。私は今回の旅行を決めてから、東京新宿区落合にある「林芙美子記念館」に行った。
芙美子が1941年から亡くなる1951年まで住んでいた家を一部改修したものである。 林芙美子という女性作家の生き方について少しは知っていたが、この家を見たとき、そしてガイドの説明を聞いているうちに、芙美子に対する気持ちが萎えてしまった。それについて語ろうとすれば、林芙美子論になってしまうので、ここでは控えるが、尾道にもある芙美子記念館にまで足を伸ばす気持ちはなかった。駅前のこの像だけでじゅうぶんだった。
尾道駅から岡山へ出て、岡山空港から夜の便で羽田へ。ここ数年、瀬戸内海周辺の旅が重なった。次は村上海賊の活躍した因島あたりにも行きたいと思っている。
アイルランドは初めてである。アイルランドといえば、なんといっても妖精の国、ケルト文化の国。そして、首都ダブリンはジェイムス・ジョイスやオスカー・ワイルド、イェイツの町。
ジョイスの作品はどれもこれも読み切れずに終わったが、ダブリンという町の名前にあこがれがあった。ケルト文化については、出来るなら、島のケルトの跡が見たい。それなら、欲張って、陸のケルトの跡もたどってみたい。ということで、日帰りツアーをつ組み入れて、ダブリン滞在5日間、後半はオーストリアとドイツに行き先を決めた。
ケルトの旅めぐりなどと大げさな目標を立てたものの、にわか勉強ではこれまでの無知を越えることは できず、なんとも中途半端に終わってしまった。しかも、今年は日本ばかりかヨーロッパでもおかしな陽気で、大雨もあり、36度を越す猛暑日の連続だった。しかし、旅することは楽しいから、なんでも許す。そんな旅の報告を、簡単に。
8月22日(土)
羽田11時20分に出発し、ヒースロー乗り換えで同日18時40分にはダブリンに着いてしまう。何本か映画を観る。
映画「ヴェルサイユの宮廷庭師」(ア・リットル・カオス)がけっこう楽しめた。もうヴェルサイユに行くことはないと思うが、チャンスがあったらまた行ってみたい。
また、帰りに観た「ウーマン・イン・ゴールド」(クリムトによるアデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像にまつわる実話をもとにした映画)は実に面白かった。そのうち日本でも上映されると思う。お勧めです。
8月23日(日)
朝から雨模様の気になる天気。今日はぜひにもお天気になってくれなくては困る。大西洋に面して連なる断崖絶壁の岬モハーに行くからだ。朝6時40分集合で、ダブリン着19時という丸一日のバスツアーである。
アイルランド第三の都市リムリックという町でカメラタイム。対象は、シャノン川の向こう岸に見える王宮(1210年ジョン王建設)と手前の岸辺に立つリムリック条約のシンボルである「条約の石」。リムリック条約とは、1691年、カトリック信仰の自由を保証するために結ばれた条約である。アイルランドにおける宗教の歴史は複雑で悲劇的要素が強い。
現在、アイルランドは8割がカトリックである。
リムリックを出る頃から青空が広がってきた。ラッキー!緑の野原が広がる道を走り、やがてモハーに着く。ここで1時間半の自由行動。駐車場から少しばかり坂を登って行くと、左手に断崖へ行く道、右手には断崖を見はるかす高台。
カタログに載っている写真通りだ。
大西洋にそびえたつ崖の高さはほぼ120メートル。岬の先端まではかなり遠い。半分ほどのところまで行く。柵があるが、それを越えて絶壁のそばまで行って下を覗く人がたくさんいる。私は高所恐怖症だから近寄らない。
お天気になったのはいいのだが、逆光で写真がうまく写らなかった。アラン島が遠くかすかに見える。アラン島にはぜひ行ってみたかったが、日程的に無理だった。モハーの美しい風景を目にすることはできたので、それでよし。
その後、再びバスでバレン公園へ。バレンとは不毛の地という意味だという。石灰岩でできたカースト台地のひろがる一帯を見れば、確かにその通りだとわかる。
8月24日(月)
今日は一日ダブリン市内を散策する。ダブリンの町は、個人的な感想だが、ごたごたした印象のない「清潔な」町に思えた。
建物は直線的で、間口の狭い戸口の扉が緑、赤、青などで塗られている。こういう色付きの扉は アイルランドだけではないが、ダブリンの土産物屋で絵葉書にもなって売られているように、この町の美しさを際立させている。
また、屋根の上の煙突が印象深い。一つの煙突からさらにいくつもの排気口をもった煙突が突き出ている。部屋の数だけあるのだろうか。どうなっているのか内部を見てみたい。建築のことはわからないが、ドイツでも日本でもあまり見たことがない。
アイルランド国立美術館でフェルメールの絵「手紙を書く女」を見る。その後、アイルランドの歴史、主にバイキングの歴史をビジュアルに見せる子ども向けの博物館ダブリニアとクライストチャーチに行く。
クライストチャーチはダブリンで最も古い聖堂でダブリニアの建物と石橋でつながっている。教会内に「ネズミとネコのミイラ」がある。昔、ネズミを追いかけていたネコと逃げるネズミが教会のパイプオルガンの下に入ったまま出られなくなって、ミイラになってしまったのだとか。
ジョイスの『フィネガンズウェイク』に「あのネコとネズミのように閉じこめられて」という一節があるそうだ。
ギネス博物館。たかがビール、されどビール。想像していたのとはまったく違って、思っていた以上に 楽しく過ごしてしまった。試飲コーナーでは説明役の英語がまったくわからなかったが、まずはギネスを一杯。
ついで、ギネスの上手な注ぎ方を学ぶアカデミアコーナー。一人一人担当の人から注ぎ方を教えていただき、最後は認定書をいただき、記念撮影まである。これはメールアドレスを登録すると送ってくれる。そういえばモハーでも同じようなシステムで、断崖に立つ姿を撮ってくれて、送ってくれる。帰国したらすでに送られていた。
ギネスビールのこれまでの宣伝キャラを並べたコーナーも楽しくて、子どもみたいにはしゃいでしまった。ランチのシチューも、1階のショップで買ったギネスチョコも、ちゃんとギネスの味がする。
ダブリンならアイリッシュパブだろう。あまりお腹はすいてなかったが、夕食はパブが並ぶ通りで店を探す。飲むより料理中心の店に入る。手羽先とクラムチャウダーを頼む。これで13ユーロ。すると、一人15ユーロ以上 注文してくださいというので、デザートとコーヒーを頼んだが、こちらのほうが高くついた。手羽先は美味しかった。
8月25日(日)
午前中市内観光。午後からグレンダロッホ半日バスツアー。
・トリニティー・カレッジ
図書館と「ケルズの書」が見もの。図書館についてはこれまでほかの国で同じような立派な図書館をけっこう見たことがあるので、それほどすごいとは思わなかった。ただ、ケルズの書のオリジナルはここだけでしか見られない。
ケルズの書というのは西暦800年頃に書かれた手書きの福音書で、彩色された挿絵が素晴らしい。著者も画家の名も不明だが、複数の修道士と推定される。ケルズというのはこの写本がそこで作られたと推定される修道院二つのうちの一つの名前である。
1661年にダブリンのトリニティ・カレッジに保管され、一般人にも展示されている。入口でチケットを買い、図書館に入る手前の部屋にケルズの書のオリジナルやいくつかの頁を拡大コピーしたものが展示されている。ここは撮影禁止。
この書についての解説本は日本でもたくさん書かれているので、その見事な彩色画も見ることができる。細かい画の部分についても解説されていて、大変面白い。そのオリジナルを見ることができてうれしかった。
・グレンダロッホ・バスツアー
マイクロバスには私たち二人とアメリカ人青年二人の4人。モハーと同じく天気になることを期待したが、午後から雨が激しくなり、見事なほどの雨足。何も見えない。かすんで見える景色に精いっぱい想像力を働かせるばかり。
それでも全く見えなかったわけではない。時折雨足が衰える。今がちょうど真っ盛りのヒースの赤紫と黄色のハリエニシダが車窓から見える。やがて、ツアーの名前となっているグレンダロッホに着いた。
グレンダロッホとは2つの湖の間という意味だそうで、そこに古いケルトの教会や塔があり、教会墓地にはケルトとキリスト教の融合した(ハイ)クロスという円環付き十字架が立っている。この十字架が見たかった。着いたときも、残念ながら雨は上がらなかった。
ポンチョをまとって外へ。たくさんの円環付き十字架と細長い塔。ほぼ廃墟と化した教会。本当はここで1時間半の自由時間があり、下のほうにあるアンダーレイク(下の湖)まで行けるのだが、この雨ではどうにもならない。
ガイド兼運転手は気の毒がって、ここは30分にして、代わりにアンダーレイクやアッパーレイクのそばまで連れていってくれると言う。それで、歩かずにアッパーレイクとアンダーレイクを見ることができた。
こうしてダブリンに8時半頃戻る。ともかく本物の(ハイ)クロスが見られたことを喜びとする。キリスト教化されても、なお屋根の上に円環付き十字架が飾られている教会は興味深い。
8月26日(水)
『ユリシーズ』の主人公ブルームがよく立ち寄ったことになっているディヴィ・バーンというパブの入口前にブルームの姿を彫った真鍮のプレートが埋め込まれている。私は学生時代に『ユリシーズ』を数ページ読んだだけで挫折した人間なので、ジョイスに対する思い入れはまったくない。単なるミーハー的興味だけである。
このプレートは全部で15枚あるそうだが、ともかく1枚だけは見ておこうと朝早く出かける。これがラッキーで、店が完全に営業していたら、店の前のプレートはテーブルと椅子で隠されて見つけることはできなかったろう。同じ通りを歩いていくと、別なプレートが見つかり、全部で3つ見た。
公園や通りにはダブリンゆかりの著名人の銅像がいくつもある。そのいくつかを。
・アイルランド国立博物館
大変面白かった。ケルト文化の代表である渦巻模様の器具や、黄金のブローチなど目を奪われるものがたくさんあった。ついつい足を止めてしまい、2時間近く過ごした。
・聖パトリック大聖堂
1191年建立。聖パトリックはアイルランドにキリスト教を広めた司祭(4世紀~5世紀)。
ここは大聖堂だが、主教座はクライストチャーチにある。もっとも有名な首席司祭は『ガリバー旅行記』の作者スイフトで、彼の墓もここにある。
なんとなく名前に惹かれて行ったダブリン、ケルトとキリスト教の合体したハイクロス、ギネスなど、とおり一遍の観光の旅だったし、妖精にも会えなかったが、それなりに楽しむことはできた。夕刻、飛行機でミュンヘンへ。
8月27日(木)
今年の春に来たばかりのミュンヘンだが、娘は10年ぶり。娘の希望を聞き、アルテピナコテークとレーンバッハギャラリーへ。
午後はミュンヘン近郊のプラネッグにあるマリア・アイヒ教会へ。
8月28日(金)
バンベルクへ日帰り。 曇天と時折の雨で暑さが凌げて幸い。ガイドによる旧宮殿見学。昼食は、娘がネットで調べたマックス・リーボルトという肉屋のレバーケーゼ・サンドイッチ。確かに美味しい。
その後、何回かレバーケーゼを食べたが、ここが一番だった。こういう情報がネットによって手に入るのは本当に便利だ。
ドナウ運河観光船(80分コース)に乗ったあと、バンベルクならラオホビアということで、シュレンケルラー醸造所直営のレストランで食事とビール。ラオホビーアは日本でも飲めるが、本場と思うからかとても美味しかった。
8月29日(土)
フラオエン教会やペーター教会、新市庁舎の塔に上ったり、ヴィクトアーリエンマルクトでぶらぶら店を見て、夕方、早めの夕食をラーツケラーで。娘の誕生日が9月1日なので、私はまだ帰国できないから、お祝い。
ミュンヘン中央駅で娘と別れる。娘はバスで空港に行き、帰国。私は電車でウィーンに。
8月30日(日)
・ウィーン自然史博物館
ここで初期ケルト時代のハルシュタットに関する展示を見ることにしていた。ところが残念、ハルシュタットのコーナーだけ修復中ということで閉まっていた。そこまでは調べていなかったので、私のミス。それでもほかの展示はけっこう面白くて、ゆうに2時間経ってしまった。
・犯罪博物館
19世紀から20世紀にウィーンで起きた陰惨な殺人事件について、その現場や犯人の処刑の写真などを大量に展示している博物館だった。気分が悪くなるようなものばかりだった。しかし、猟奇目当ての博物館というわけでもなく、ちゃんとしたパンフレットもあるウイーン警察の管理による博物館である。
・フンデルトヴァッサークンストハウス
フンデルトヴァッサーの絵がたくさん展示されている。それを見ると彼の建造物の形や色彩はこれらの絵と一体になっているのがわかる。私には彼の建築物より絵のほうが面白かった。館内は撮影禁止。
8月31日(月)
ノイブルク修道院。ウィーンの森にあるハイリゲンシュタットからバスで15分ほどのところにある。ハイリゲンシュタットといえばホイリゲというワインを飲ませる店が集まっていることで有名な町である。またベートーヴェンが遺言を書いた家が残っているということでも知られている。
私は、今年の3月から1年かけて全国を巡回する「魔女の秘密展」の監修の仕事をさせていただいているが、名古屋会場のオープニングセレモニーにこの修道院博物館の司祭であり学芸員であるブールマン博士が列席したことから、彼の勤めるノイブルク修道院に行ってみようと思ったのである。
想像以上に大きな修道院でびっくりしてしまった。ガイド付きでいろいろな祭壇や記念の部屋などを見てまわった。
ハイリゲンシュタットの町に戻ってきて、ベートーヴェンの家に行く。今日が月曜日なので休館日だということは知っていたので、外からだけでも見てみようと思ったのだ。その後ベートーヴェンが散策したというウィーンの森の小道を歩いてみたいと思ったが、この日も35度を越す猛暑日だったので、疲れてしまい、そのままウィーン市内に戻る。
・中央公園墓地
昨年の春に来たとき、次に来ることがあったら、映画「第三の男」のラストシーンの墓地の道を歩いてみたいと思っていた。
また、ここには葬儀博物館があると知ったので、それも見ようと思った。
葬儀博物館は第2門から入ったところにある。ここは人の死を尊厳を持って埋葬するための様々な形、たとえば葬儀車とか礼服などが展示されている。
また、オーストリアの著名な政治家たちの告別式や埋葬の写真やDVDなどが展示されている。ここが日向の博物館だとすれば、昨日見た犯罪博物館は日影の博物館かなと思った。
・プラター公園
夕刻になっても日差しの強さは衰えず、第一門まで戻って歩く気力がなくなってしまい、またもや中止。代わりに、同じく「第三の男」で有名な観覧車のあるプラター公園に初めて行くことにした。
昔、映画で見たときは、ウィーンにはこんな大きな観覧車があるのだと感嘆したものだが、今はこれをはるかに越える大観覧車が日本にもたくさんあるので、こんなものかと思ってしまった。
家族連れや海外からの客が多くて、賑わっていた。絶叫マシーンのような大掛かりなものもあり、見ているだけで楽しかった。
9月1日(火)
ウィーンからリンツに移動する。リンツはオーストリアの3大都市の一つ。リンツカードを購入すると、交通機関だけでなく市内の主だった博物館(美術館)も無料になる。ネットで調べたときは15ユーロだったのが、値下げして10ユーロだった。明日のハルシュタット行きも一日券を買うと、13,6ユーロも安くなり、とても得した気持ち。リンツは落ち着いたきれいな町だった。
・城博物館
フリードリヒ3世の居城だったところ。基本的には郷土博物館だが、展示物が半端じゃない。「神話の美」という特別展が開催されていた。古今東西の美について、絵画だけでなく、自然界の動植物、日常生活品の機能美、体型の相違や整形美容まで取り上げている。日本の浮世絵なども美の証として展示されていた。しかし、美の多様性がどこまで受け入れられるものになっていたかというと、やはり西洋中心のように思えた。
・レントス美術館
クリムトや現代画家の絵など、それなりに楽しめた。
・ペストリングベルク
市内のどこからでも見える標高400メートルの山。頂上には教会と内部を見学できる洞窟がある。博物館で時間をとってしまったが、この山頂からの夕日を見たいと思った。
町の中心部から電車で行く。30分に1本の電車が出たばかり。乗った電車は山道に入ると時速20キロで走る。だんだん日が沈み始める。
やっと着いて走るようにして展望台まで。リンツの町に夕闇が襲う。ドナウ川が滔々と流れる。
ヨーロッパではヴォルガに次いで長いドナウ川は、源泉こそドイツだが、東欧各国を含む10ヶ国を通って黒海に注ぐ大河である。
山頂の教会は静まり返っていて、誰もいない。洞窟へ入るミニ電車は5時で終わっていた。もうすっかり暗くなってしまったので、電車で市内まで降りる。充実した一日だった。
9月2日(水)
リンツに泊まることにした理由は今日のハルシュタット行きのためである。ハルシュタットはケルト人が紀元前800年頃から定住していたという町である。初期ケルトの、いわゆるハルシュタット文明を作り上げた地である。
逆コースになるが、アイルランドから時代を遡ってハルシュタットに行くことにした。ガイドブックを見ると、ザルツブルクからのルート紹介が一番多い。でも乗り換えがある。リンツだったら直通で行ける。
ハルシュタットは世界最古と言われる岩塩坑で有名な町である。また、初期ケルト人の墓が発掘され、数多くの素晴らしい発掘品によって高度な文明があったことがわかっている。これをハルシュタット文明と呼んでいる。標高600メートルの高地にあり、夏は避暑、冬はウィンター スポーツとして賑わう。
私が訪れた日はお天気が思わしくない。曇天で時折雨。アイルランドのグレンダロッホほどではないが、自然を楽しむには天気次第だなあと思う。ハルシュタット駅を降り、目の前の坂を下るとハルシュタット湖船着き場へ。船は電車に合わせているようだ。町は湖の向かい側にある。
町は湖に沿って伸びている。博物館や広場、土産物屋を通り過ぎると、湖の観光船船着き場に出る。本当はガイドブックに出ていた岩塩坑ツアーのためのケーブルカー乗り場に行くつもりだったのが、間違って、この船着き場から出ているダッハシュタイン・ケーブルカー駅へ行くバスに乗ってしまった。おかしいと気付いたが、引き返すにはバスの本数の関係で、無理だと判断。そのままダッハシュタインまで行く。
ダッハシュタインはザルツカンマーグートの南にある山塊の一つ。ケーブルカーから降りると、いくつかコースがあり、標高2301メートルの山まで登るコースもある。この山塊の一番高い山は2996メートルでもちろん上級登山者でなければ無理。
私が着いたケーブル駅は標高1350メートル。ここから氷穴コースとマンモスコースのどちらかを選ぶ。このコースについては何も調べていなかったので、マンモスよりは氷のほうがいいかと思い、このコースを選ぶ。
ところが氷穴入口まで延々と山道を登る。入口からはガイドに導かれて、今度は延々と階段を下り、また登る。暗い中で氷の世界を歩きまわる。最後はヘトヘトになって外にでる。眼下にハルシュタット湖が見える。
再びケーブルカーとバスに乗り継いでハルシュタットの町まで戻る。町は観光客でいっぱいである。塩を中心にした土産物屋が連なる。
ケルト博物館に入る。この地で発掘された主要な物はウィーンの自然史博物館に保管されているが、ケルト模様のアクセサリーなどは本物。
数は少ないが、それなりに充実した展示だった。
9月3日(木)
リンツからウルムに移動する。まずは明日のことでミュンスタープラッツにあるインフォメーションを訪れる。
ドイツの路線バスの時刻表を見ると、場所や時間によってRufbusと注記しているものがあり、少なくとも2時間前までに電話で予約することとある。予定通りに行けるか不明だし、初めて行くところではバス停がどこにあるかもわからない。
しかし、明日はこれを使うしか目的地に行けない。うまくタクシーを呼べるかどうかもわからない。それでインフォメーションで尋ねてみた。
結果、駅に着く時間さえわかれば、電話してあげますという。明日乗る電車は本数も限られていたので、決めて、お願いした。駅で待っていれば来ますよという親切な応対。ホッとして市内を散策。
・ヴィブリンゲン修道院
たまたまウルムのサイトを見て知ったのだが、ここにはアインジーデルン修道院由来の聖母子像があるという。
アインジーデルンといえば黒い聖母子像である。いつだったか行ったことがあるので、どんなものなのかと行ってみた。
立派な修道院だったのでびっくりした。夕刻ということもあってか、誰もいない。さて、黒い聖母子像はどこかと探すが見つからない。
そのときちょうど尼さんが入ってきたので尋ねてみると、親切に案内してくれた。しかし、黒くない。黒いのではないのですかと再度尋ねたが、いいえ、これですという。おまけに絵葉書までくださった。アインジーデルンは大きな巡礼教会だから、黒い聖母子像だけではないのだ。
お礼を言って、外へ出る。
・アインシュタインの記念碑
ウルムにはこの町生まれのアインシュタインの記念碑がいくつもある。よく写真で見る舌をだしたアインシュタインの噴水は有名。
町の東はずれの兵器庫脇にある。
大聖堂へ行く広場にモニュメント。大聖堂のステンドグラスにもあるということだったが、見つからず。広場に面したスイーツの店(カフェー・トレーグレン)にアインシュタインのチョコレートがあるという。すでに閉店になっていたが、アインシュタインの顔を刻印したチョコがショーウィンドーに飾られていた。
9月4日(金)
正直なところ、アイルランドでもハルシュタットでもケルトについて何もわからないままだった。私の勉強不足が主な原因である。
しかし、現代においてケルトというのは研究者の対象として大変魅力的なものなのだと思うが、今回私が訪れたところは、ケルトだけではなく、ほかにたくさんの見どころがあり、それを目指して観光客はやってくる。
ダブリンではケルトは土産物屋だけにあると言ってもいいくらいだった。ハルシュタットにおいては土産物すらない。それでも今日行くところはまさにケルトを謳った地なので、少しはケルトに触れることができるかなと思った。
ウルムから約1時間。ヘルベルティンゲンという小さな駅で降りる。駅で降りたのは数人。バス停には私一人。昨日、ウルムのインフォメーションで頼んでもらったルーフバスが本当に来るのだろうかとドキドキ。でも、バスは時間通りにやってきた。大型バスではないけど、マイクロバスのように小さくはないバス。乗客は私一人。ホイネブルクにあるケルト博物館まで行ってもらい、帰りの予約もする。滞在時間は3時間、その後は5時間後になるので、そこまで時間はかかるまいと思い、3時間後の迎えを予約する。
博物館に入り、一通り見る。そこで、北のほうにあるケルトの城砦跡というところに別な博物館があるということがわかる。受付の人は徒歩30分という。おそらく私の足なら1時間はかかるだろうと思い、テクテク歩き出す。途中に中世の豪族のものかと推測される小さな城砦がある。トウモロコシの生える畑の間を延々と歩き、着いたときはやっぱり1時間かかってしまった。
着けばその博物館はケルト人の住居を再現した野外博物館とわかる。かなり広い。それで、帰りのバスのことを考えると、中に入るのは無理と判断。また来た道をのんびり歩いて最初の博物館に戻る。近くの公園で20分ほどぼんやり過ごす。
時間通り、バスが迎えに来てくれる。後になって、この野外博物館のことや、そこまでバスの迎えも可能だったことがわかる。私の調査不足だった。
9月5日(土)
ウルムからシュトゥットガルトに移動する。ヴュルテンベルク州立博物館と国立絵画館を訪れる。どちらも見応えがあった。
9月6日(日)
シュトゥットガルトから市電でフォイアーバッハまで行き、そこからバスでホーホドルフに。ケルト博物館の前で降りる。降りたのは私一人。この路線バスは日に3本だけ。こういうところには車で来るというのが普通なのだろう。
受付の人にケルトの墳墓までに距離を尋ねると、すぐ裏です。歩いて10分もかかりませんよという。先日のように30分もかかったりしたら困ると思い、まず最初に墳墓を見に行く。確かに10分もかからずに目の前に丸い墳墓が見えてくる。正直、エッ、こんな小さいの?と思った。簡単に一周できる。頂上まで段がついているので、登る。今は昔、ケルト人の夢の跡かという感じ。
博物館に戻って中に入る。陸のケルトに関する博物館としてはここが一番見応えがあった。中でも墳墓の内部がどうなっていたのかを再現したコーナーは面白かった。
昨年、九州旅行で西都原古墳群を見たとき、内部も見学できる墳墓もあったが、石の壁だけで想像するしかなかった。
しかし、ここでは内部が再現されていた。王は長椅子に寝かされるのである。この長椅子のオリジナルをウィーンで見るはずだった!
外庭にはケルト人の住居を摸した建物が2棟ほど建っている。小さい薬草コーナーまであり、ホイネブルクでは見られなかったが、じゅうぶん代わりになるかと思ったので、満足。
9月7日(月)
シュトゥットガルトからフランクフルトに移動。ホテルにチェックインしたあと、ケルンに向かう。新しい情報を知ったからである。
17世紀にケルンでも激しい魔女迫害があり、多くの女性が処刑された。そのうちの一人カタリーナ・へノートの子孫が1988年に名誉回復を求めて市に提訴した。それだけでもすごいと思うが、市もそれを受けて、2012年、へノートを含む37名の女性の名誉回復を認める議決を採択した。このことは日本の新聞にも載った。
2015年の「魔女の秘密展」開催にあたり、大阪のテレビ局が特番を作ることになり、この情報を伝えたところ、訴えた子孫を探しだして、特番に取り上げることになった。番組担当者から、ケルン市庁舎の外壁にカタリーナと当時魔女迫害に批判的だった神学者シュペアーのペアーになった像があるということを教えてもらった。
市庁舎は空襲を受けて壊滅し、その後、再建されたが、当初あった像をいくつか入れ替えて、1989年にへノートとシュペアーの像が作られた。それが見られて満足し、ケルン名物ケルシュビールを飲み、大聖堂も見て、そのままフランクフルトに戻る。夜には知り合いと会って夕食を一緒する。
9月8日(火)
あっという間の帰国日。午前中は久しぶりにシュテーデル美術館で過ごす。数年前に建物を改修し、展示の部屋も変わった。
私の好きなハンス・バルドゥング・グリーンの「二人の魔女」は前は廊下に展示されていたので、光の加減で写真が撮りづらかった。
今は部屋の中にかかっているので苦労しなかった。
フェルメールやボッティチェリーも懐かしかったが、1980年代の作家展という企画ものがとても面白かった。どれも素晴らしいものばかりだったが、これらの中で後々残っていくものはどのくらいあるのかなあなどと思いながら見る。
食べ物のことで書き忘れたこと2つ。
今回はこれという美味しい料理には出会わなかった。というより、その機会がなかったということ。その中で私が初めて食べてとても感心してしまった食べ物が二つあった。B級どころかC級グルメの話である。
・フィッシュアンドチップス
名前はもちろん知っていたが、なぜかこれまで避けてきて、一度も食べたことがなかった。ところが、ダブリンで初めて食べて美味しいと思った。フィッシュの揚げ具合が絶妙なお店だった。食べず嫌いだったとわかった。
・ブレーツェル
ビールと言えば、ブレーツェルというほど親しみのあるパンだが、私はあまり好きではなかった。ところが今回初めて刻みワケギを挟んだブレーツェルを食べてあまりの美味しさにびっくりしてしまった。バターの味とワケギが微妙に味わい深い。
キヨスクやパン屋で1ユーロ10セントほど。これにコーヒーで朝食はちょうどいい。朝食つきでないホテルに泊まったときは、こればかり食べていた。日本でも自分で試してみたが、けっこういけた。
ミュンヘンのホテルでのこと。チップを枕もとに置いて外へ。帰ってきたら、こんなメモが置いてあった。初めてのことだったので、なんか嬉しくなった。次にミュンヘンに行ったら、このホテルに泊まるね。
9月9日(水)
午後14時10分に成田着。
テーマを立てた旅ならもう少し調べて行かなければもったいないないと思った今回の旅でした。
5月30日(土)
親戚の法事のため大阪へ。ついでに京都にも寄ることにした。夕方の便で羽田から関空に。親戚の家に泊めてもらう。
5月31日(日)
堺市で法事を終えたあと、近くの「さかい利晶の杜」という利休と与謝野晶子の記念館を見る。数年前にここへ来たときは工事中だった。
夕方京都へ。
6月1日(月)
この間は桂離宮を参観したので、今回は修学院離宮に申し込み、今日の午後の許可をもらう。ここは上、中、下3つの離宮からなり、上離宮と下離宮の高低差は40メートル近くあり、全部回って約3キロ。5月の猛暑は6月になっていっそう強まり、足に自信を無くしている私は歩き切れるだろうかと心配だったが、思っていたほどきつくなかった。
修学院離宮は、建築史に取りあげられる桂離宮のような美しさとは違って、風光明媚を愛でる散策といった趣。離宮から離宮への道はかつてあぜ道だったところ。今も田園風景が広がる。上離宮から見下ろした風景は快晴もあって素晴らしかった。
修学院が午後3時からだったので、午前中は大徳寺の塔頭の一つ「興臨院」が期間限定で公開されるというので、行ってみる。
次いで、隣にある瑞峯院も見る。キリシタン大名の大友宗麟由来の寺で、庭にキリシタン灯籠(柱下部にマリア観音が彫られていて、地中に埋められている)と7個の石を巧妙に配置して十字架のように見せている庭などが面白かった。
二つの塔頭のそれぞれ茶室に興味があったので、受付のお坊さんに説明をしてもらう。お茶をしている人なら常識だろうが、私は台目という畳の数え方がよくわからなかったので、説明を聞いてよくわかった。
6月2日(火)
今回の旅行の目的だった嵐電(らんでん)めぐりをする。1両編成の可愛い電車で四条大宮から嵐山まで11の駅のうち10の駅で降りて、寺社めぐりをするつもりだったが、5つの駅、9か所だけで終わった。
【四条大宮駅】
・壬生寺
壬生狂言で有名な壬生寺は新撰組の屯所でもあった。阿弥陀堂の歴史資料室と裏手の庭にある新撰組の慰霊塔など。
・元祇園神社
祇園神社というのは牛頭(ごず)大王とスサノオを祀る祇園信仰の神社。牛頭大王は天竺にある祇園精舎の守護神で疫病除けの神である。この大王が日本では播磨の明石浦に垂迹したが、その後、貞観18年(876年)に京で悪疫が流行したので、この播磨の厄除けの祭神を東山八坂に呼び寄せた。そのとき、ここ梛(なぎ)神社で仮の祭祀をしたので、元祇園神社というそうだ。梛はマキ科ナギ属の常緑高木であり、これが神木になっている。
【蚕の杜駅】
・木島(このしま)神社
ぜひにも訪れたかった神社である。古い風格ある建物で、とても印象深かった。本殿東側に養蚕(こかい)神社もあるので、蚕の社(かいこのやしろ)とも言われている。
私は特に本殿脇にある三柱(みはしら)鳥居を見たかった。普通の鳥居とはまったく異なっている。柱が3本あり、元糺すの池の真ん中に立っている。
なぜこのような柱があるのかというと、秦氏の素性と深い関係がある。「秦氏の謎」については多くの著書があり、中でも秦氏はユダヤ人だったという説もあり、それなりにありうるかなと思わせる証拠がたくさんある。
この三柱もそうだ。三柱鳥居は全国で8基あるが、すべて原点はここである。東京向島の三囲(みめぐり)神社にもあるという。何年か前に行ったことがあるのだが、夜だったので、境内しか見られなかった。そのうち昼間に行こう。
【太秦駅】
・太秦といえば広隆寺
広隆寺といえば弥勒菩薩半跏思惟像。よく奈良中宮寺の半跏思惟像と比較されるが、私はおだやかな顔の中宮寺のものより、なんとなく異国風顔つきの広隆寺のほうが好きだ。この広隆寺も秦氏の力で作られた寺。
木島神社も太秦にあるし、次に行った大酒(おおさけ)神社も秦氏の守護社だというし、しかも大酒は大避(シンニュウなし)ともいい、これは漢和辞典によれば、「死刑」という意味がある。死刑神社?つまり磔刑のキリストを祀る?三柱は上から見ると、ヘキサグラム(六芒星)?ユダヤの星?・・・という具合に、太秦を歩けば、いやでも秦氏の謎にぶつかる。
何としても勉強不足。というわけで、嵐電めぐりは秦氏謎めぐりと一緒でないと面白さがわからないという結論に達し、もうこれ以上書けなくなってしまった。
【有栖川駅】
斎王が伊勢神宮に入る前に一定期間留まって禊をしたという神社はけっこうあって、その一つがこの駅から歩いて7分のところにある斎宮神社。小さくて、特別なものは何もなかったが、雰囲気はよかった。
有栖川駅から斎宮神社とは反対のほうへ10分ほど歩くと、有栖川に突き当たる。その手前の細道に小さなお堂がある。それが油かけ地蔵だ。
お地蔵さんは油まみれになっている。油もちゃんと用意されているので、私もかけてみる。まわりはかなり油臭い。消火器も置いてある。
謂れを書いた額がかかっている。300年ほど前になるが、ある油商人がここを通るたびにお地蔵さんに油をかけていたところ、商売繁盛したという。
たまたま、キリスト教系の日本人が神社仏閣に油を撒くという事件があったばかりだったので、油と宗教の組み合わせに興味を持った。
【鹿王院】
足利義満が建立させた臨済宗のお寺。ここの舎利殿には仏の骨ではなく仏の歯を納める仏牙(ぶっげ)舎利が納められているそうだ。ヘー。
その他、車折神社にも立ち寄ったが、俗ぽくて勘弁してという神社だった。
6月3日(水)
朝から雨だったし、夕方早い電車で帰るつもりだったので、京都国立博物館と京都水族館を見て、夕方の早い電車で東京へ戻る。
やはり京都は面白い。今回は疑問ばかり抱えて帰ってきたけど。