ザーゲの旅 2015年前半


ドイツ <4月23日~5月4日>

 

 昨年暮れから忙しかったのと、現在かかえている仕事のために、日程は短かくなった。短くてものんびりドイツの春を楽しみ、春にはいつも会うことになっている知人たちと 再会を楽しめたらそれでいい。そんな旅だった。だから、あまり面白い旅の報告は書けそうにない。

 

 機内は3列の通路側に席を取っていたが、2列とも乗客がいなかったので、窓際に移行し、3席自由に使えてラッキーだった。

 

4月23日(木)

 成田11時25分発で16時30分フランクフルト着。そのまま電車でカールスルーエまで。予定の電車が遅れた。ドイツに着いてしょっぱなからこれだもの、 ドイツだなあと思う。ホテルは駅そばのA&O 。A&Oはビジネスホテルよりも安いが、清潔で泊まるだけなら十分。チェーンホテルなので、駅に近いところに あるときは、ときどき利用している。 

 

4月24日(金)

 今回で3度目になるが、カールスルーエのバーデン州立博物館とクンストハレ(美術館)は実にすばらしい。特にクンストハレには魔女の絵で有名なハンス・バルドゥング・グリーンと ダフィート・テニールスの絵がいくつかある。

 本当は、その後、動物園に行くつもりだった。この動物園にはミアキャットがたくさんいるので、私の好きな動物園の一つ。でも、二つハシゴしてクタクタになってしまった。 もはや身体が動かず、今日はこれまで。 

 

4月25日(土)

 フランクフルトで仕事関係の人と会って、ランチをご馳走になる。話が弾む。フランクフルト泊。 

 

4月26日(日)

 ミュンヘンで3泊。ミュンヘンに来れば、どうしても行きたくなるのが、アルテピナコテークとレーンバッハハウス。

 特にレーンバッハはフランツ・マルクとカンジンスキーがたっぷり見られる。ただし、今回は地下鉄駅横の会場で、フランツ・マルクと アウグスト・マッケの二人だけの特別展になっていて、常設会場には入れなかった。カンジンスキーが見られなかったのが残念。 

 

4月27日(月)

 ミュンヘン在住のKさんとランチ。彼女とはなんと大学卒業以来の再会。オーデオンプラッツにあるアウグスティーナーの店でなにはともあれヴァイツェンビーアで乾杯。積る話で時間が立つ。 

 

 初めてブレーツェルのサンドを食べた。バターとアサツキの刻んだものを挟んだだけだが、とても美味しかった。量的にもちょうどいいので、以後、昼食はこれにコーヒーが定番みたいになった。

 

4月28日(火)

 ミュンヘンからバイエルンチケットを使ってランツフートという町へ行く。初めての町である。南ドイツには珍しいギーベルハウス(階段式のファサードのある切り妻屋根の家)の並ぶ中心街はきれい。ウルズラ修道院へ。目的はここで売っているお守りを買うこと。

 現在私が関わっている「魔女の秘密展」にここのお守りが展示されているが、このお守りは飲むお札なのである。実物を手に入れたかった。教会の祭壇中央に聖女ウルズラの肖像画がかかっていて、この絵を銅版画にして印刷したものがお札である。 

 

 教会内にはショップがなかったので、どうしたものかと外に出ると、隣りが修道院の入口になっていたので、入ってみると尼さんが二人いた。

 事情を説明すると、引き出しからお札を出してくれた。小さなお札が印刷されたもので、10ユーロとけっこう高い。

 尼さんが言うには、これは妊産婦に効果のあるお札で、一心に祈って飲んでくださいとのこと。思わず「あなたは飲まれたことありますか」と 聞いてしまった。尼さんは笑いながら「いいえ」。そうよね、尼さんですもの。失礼しました。その他、いろいろ話を伺えたので収穫の多い時間だった。来てよかった。 

 

4月29日(水)

 ミュンヘンからヴェアニゲローデに行く途中、2時間ほどゲッティンゲン近郊に住む知り合いの日本人女性のお宅にお邪魔する。お昼をご馳走になり、あれこれおしゃべりをして いると2時間などあっという間。急いで駅に向かうと電車が30分遅れとのこと。ヴェニゲローデには2回乗り替えなければならない。おそらく乗るべき予定の電車は逃すことになるだろうと思った。その通りで、それぞれ待ち時間が1時間。結局、着いたのが2時間遅れの夜9時。

 

4月30日(木)

 ヴェアニゲローデに住む長年の友人ゲルディと会い、realという大きなスーパーに連れていってもらう。ここで家や友人へのお土産をすべて買ってしまう。車だったので、とても助かった。じゃがいも専門のレストラ「カルトーフェルハウス」でランチをしたあと、 ゲルディと別れて、私は駅前からバスでオスターヴィークという町へ行く。

 東西の壁が崩壊して数年後だったか、この町を一度訪れている。その頃は廃屋が多かった。それでも、やっと修復された教会と何軒かの木組みの家がとても素晴らしく、数年後に来たらもっと素敵な町並みになっているだろうと思ったが、そのままだったので、今回行ってみることにした。

 

 朝から雲行きが怪しかったのだが、オスターヴィークに着くころには本格的な雨になる。今日は私が毎年そのためにハルツへ行く「ヴァルプルギスの夜」の日である。雨が夜までに上がらなかったら、私が予定していた野外会場はおそらく泥んこのはず。屋台で食べ物、飲み物を買っても、落ち着いて食べることもできないだろう。ライブも屋根のある舞台はいいけど、見物客は傘をさして立ちづくめになるだろう。

 今回はなんとか見られる写真をたくさん撮ろうと思っていたのだが、それも無理だろう、などとあれこれ考えると、これまでこんなこと一度もなかったのに、今回は会場へ行くのはやめようと思ってしまった。ゲルディも雨だったら今年は行かないと言っていた。

 

 オスターヴィーク行きのバスは2時間に1本だから最終バスになるけど、9時には戻れる。そのときまでに雨が上がっていたら、ヴェアニゲローデ城の祭りには行ってみようと考えた。結局雨は上がらず、ハルツに来て30年数年以来、私は初めて祭りの会場に行かなかった。正直、ちょっと飽きてしまったのかもしれない。どうも新鮮味がなくなってしまったようだ。来年はハルツではない地域の祭りに行ってみようと思った。

 

 オスターヴィークの町は、想像通り、素敵な町並みに変貌していた。それでもまだ手つかずの廃屋も残っていた。

 

5月1日(金)

 ゴスラーへ。ずいぶん以前に一度訪れただけのツヴィンガー(市壁にある昔の武器や農具を入れておいた塔)博物館へ行く。昔の拷問道具を展示している博物館である。当時は、あまり広くないワンフロア―で大した道具もなかったように記憶しているが、どうであったかもう一度見直してみようと思ったのである。

 新しいものでは「噛みつき猫」という見せしめの道具があって、これは面白かった。喧嘩や酔っ払い、他人に迷惑をかけた者をこの中に入れて、町中に置く。通りかかった人は格子の間から玉子や水など投げ入れて懲らしめることができたとか。

 騎士の鎖かたびらを試着できたり、大砲の使い方を軽いボールを使って試させたり、それなりのサービスをするようになった。屋上に展望台も出来ていた。

 

 博物館を出て、池にそって遊歩道を歩いていくと、皇帝居城に出る。今日は快晴だが、風が冷たい。居城の中に入って、大広間の壁画ドイツ歴史絵巻をじっくり見る。かつては写真オーケーだったが最近は禁止になってしまった。

 

 ゴスラー在住のY子さんと6時にアレックスの家に。毎年、5月1日の夜は私を待っていてくれる。今日は寒いので家の中。美味しいご馳走にワインをたくさんいただく。「また来年待ってますよ」と嬉しい言葉。来れるといいな。11時頃にY子さんの車でホテルまで送ってもらう。

 

5月2日(土)

 ゴスラーから日帰りでブラウンシュヴァイクへ行く。フェルメールの「ワイングラスを持つ少女」をもう一度見たかった。フェルメールの絵はそれなりに見ていて、さすが!といういい作品もあるのだが、この作品を初めて見たときは、それほどいい絵とは思えなかったので、今見たらまた違った印象を持つだろうかと思って行ってみた。この絵がフェルメールの傑作かどうかはわからないが、私にはそれほどいいとは思えなかった。

 

5月3日(日)

 今日は帰国日である。ゴスラーからカッセルで途中下車して、メルヘン街道観光局のブリギッテと彼女のお嬢さんと会う。2時間半ほど時間があるので、ヴィルヘルムヘーエ公園内を散歩する。とても新緑が美しくて心が和む。帰国直前の贅沢な時間。 

 

 新緑が美しい公園には、忘れ名草がいっぱい。そして、真っ盛りのシャクナゲ、スズランも。

 

 帰りの飛行機もなぜか私の席だけ2席空いていて、窓際で外の景色を楽しむ。機内映画も「ビッグ・アイズ」と「アリスのままで」という面白い映画が見られて満足。

 

 空に満月がくっきりと見え、ああ夜だと思うと、だんだん空が明けてくる。西から東へ時間を飛んでいるのがわかる。

 

 

5月4日

 13時40分成田着。


九州神話の旅 <3月23日~3月29日>

 

 神話めぐりの旅は単純に面白かった。私はその道の専門家ではないので、素人の好奇心が満たされればそれで満足だった。日本神話は大きく括って高天原神話、出雲神話、日向神話になる。今回の旅は、出雲はさておき、天上の高天原神話と地上の天孫降臨の伝説を中心とした九州である。 

 

 天孫(アマテラスオオミカミの孫であり神武天皇の曽祖父ニニギノミコト)降臨の地が地上にあるのは不思議ではない。問題はそれが日向高千穂の二上山か霧島の高千穂峰かということである。これには諸説あり、あの本居宣長でさえどちらとも決めかねると『古事記伝』に書いている。

 

 高天原はそもそも天上の世界なのだから、天岩戸が高千穂にあるのはおかしな話なのだが、それがあるのだから面白い。なにを見てもヘーと思って騙されながら歩き廻るのが楽しい。 

 

 訪れた神社について説明するのは煩瑣になるし、写真も同じようなものが多く、一般のガイドブックやネットで見たほうがはるかに役立つので、省略した。私が面白かったと思ったことだけを報告することにした。

 今回の旅行のために読んだ本でとても役に立った本2冊。

 ・梅原猛『天皇家の“ふるさと”日向を行く』新潮文庫

 ・長部日出雄『天皇はどこからきたか 』新潮文庫

 

3月23日(月)

 高千穂に入るには熊本空港からが近いので羽田から熊本へ。今回のルートはすべて車で移動することにしたので、熊本空港でレンタカーを借りる。 

 

 夕食の終わったあと、ホテル手配のバスで高千穂神社で行われる夜神楽(高千穂神楽)を見に行く。観光用の上演だが、とても面白かった。本来は11月から2月にかけて22の集落で演じる行事。1晩かけて33番舞うが、観光用にはそのうちの4番だけピックアップ。神殿の舞台の前に座って見る。平日だが観光客は大勢だった

 

 手力雄(たぢからお)の舞と鈿女(うずめ)の舞に続き、手力雄が天岩戸の戸を投げる戸取(ととり)の舞、最後はイザナミとイザナギが一緒に酒を造って飲む御神体の舞。それぞれ約10分。

 天岩戸伝説は、『古事記』では天照がそっと外を覗くとタジカラオが戸を引き開けて天照を外に連れ出すのだが、夜神楽ではタジカラオが岩戸を持ち上げて投げるということになっている。

 しかも戸は2枚あって、1枚は長野の戸隠へ、もう一枚はどこか(聞き取れなかった)に投げたということになっている。天岩戸が2枚あったというのにはびっくり。ひょっとして観音扉だったのかな。

 舞いはすべて村の人々のボランティアとのこと。ウズメやイザナミも男。最後の舞はいわゆる神産みの場面で、男神と女神がちょっと卑猥な踊りをするが、観客は大笑い。 

 

3月24日(月)

 高千穂峡のガイドに必ず載っている真名井の滝はなんとしても見たかった。それには小さな手漕ぎボートに乗るしかない。ボート漕ぎに自信がなかったので、高千穂観光案内所に問い合わせると、高千穂の案内をするガイドでボートを漕いでくれる人を頼めば大丈夫と知り、申込みする。ボート漕ぎ付き基本コース3時間で4000円、ボート代(3人まで) 2000円。1時間延長したので、5000円+2000円。

 9時半に案内所の前でガイドさんと待ち合わせ。大変有能なガイドさんで大助かりだった。

 

・真名井の滝

 柱状節理(簡単にいうと、固まったマグマが岩になって冷える過程で堆積が収縮してできる柱状の岩)と上部から落ちる滝の組み合わせが何ともいえず神秘的である。手漕ぎボートで30分ほどゆっくり眺める。途中に監視員の乗った救命ボートがある。ときに転覆するボートもあるという。ガイドさんに頼んでよかった。 

 

・天照像と天岩戸神社

 天照大神を祀る東宮と、天岩戸を祀る西宮。裏手の樹木が繁るところに天岩戸があったという。言われてみれば繁みがわずかに薄くなったところになにやら岩穴のようなものが見える。ここは撮影禁止。

 

・天安河原(あまのやすがわら)

 八百万(やおよろず)の神がこの河原に集まり岩屋に隠れてしまった天照対策を協議したと伝えられる。大洞窟、別名仰慕ヶ窟(ぎょうぼがいわや)がある。天岩戸神社から歩いてすぐのところ。この岩屋はとてもよかった。今回の旅のベスト5に入る。 

 

・高千穂神社

 ニニギノミコト以下3代の神々を祀る。高千穂郷八十八社の総社。昨夜、夜神楽を見たところ。神武天皇との相続争いに敗れて高千穂に戻ってきたミケヌノミコトが、留守中大暴れしていた荒ぶる神「鬼八(きはち)」を退治したという伝説があり、その木像がある。

 

・秋元神社

 カーブの多い細道を登っていくと、あと1キロというところで橋が工事中。車ではその橋を渡ることができないので、歩いて橋を渡り、そこに置いてある代わりの小型車に乗っていくようにと工事監督の人から言われる。恐ろしいほど狭い山道で、運転者には気の毒だった。

 神社横には日本一の御神水と言われる手水所がある。神社は裏手にそびえる巨岩に挟まれている。人ひとりいないので恐ろしい。

 帰り道、常光寺の滝を見る。突然風花が舞う。

 

・天眞名井(あまのまない)

 天孫降臨の時、この地に水がなかったため、天村雲命(アメノムラクモノミコト)が再び天上に上がって、水種を移されたという井戸。今も天然水が湧き出ている。上部は欅の根。よく見ると底石が見える。写真ではほとんど見えなかったので載せるのはやめた。 

 

 この日の昼食は「がまだせ市場」の横にあるステーキハウスで。ウエルダンの場合はサイコロ焼きになりますとのこと。ところで隣の市場「がまだせ」はこの地の方言で「がんばろう」ということだと。私は「がまぐち、出せ」かと思った(笑)。ランチは3800円だった。

 ホテルの夕食のデザートに白い内皮がついたまま出てきた果物は「日向夏」、初めて食べた。白い皮そのままで食べる。美味。  

 

3月25日(水)

 高千穂市から日向市を経て宮崎市へ。

 

・美々津港と立磐(たていわ)神社

 神武天皇が大和を征伐するためにこの美々津港から船出する際に、航海の安全を祈念したと言われているところ。境内に神武天皇腰掛岩もあったりするから可笑しい。この故事にあやかって、 湾岸に「日本海軍発祥の地」という大きな碑が立っている。また、ここが高瀬舟の終着地だそうな。

 境内の大樹の洞に鳥居を祀っているのが面白い。ドイツでも樹木の洞に聖母マリア像を祀っている教会がある。考えることは同じ。

 

・美々津歴史民俗資料館

 1855年当時の廻船問屋「河内屋」を復元したもの。問屋の家屋の様子がわかる。中二階と二階が複雑な構造になっている。 

 

 西都(さいと)市にある都農(つの)神社を訪れた後、都萬(つま)神社へ。ここは。ニニギノミコトの妻(コノハナサクヤヒメ)を祀った式内社。式内社とは「延喜式神明帳」(官社に指定されていた全国神社の一覧927年)に記載されていた神社である。

 本殿の右側に小さな三つの摂社(大山祇神社、霧島神社、四所神社)がある。樹齢1200年、高さ40mの「妻の楠」もある。参拝者は私たちだけという静かな境内をのんびり歩く。

 

 石貫神社―鬼がコノハナサクヤヒメに結婚を申し込んだところ、父神は「一夜で石造りの館を建てたら嫁にあげる」と約束した。鬼は頑張った。もう少しで完成というとき、うたたねをしてしまったら、父神が天井の岩を一つ引き抜き、投げ飛ばした。鬼は恨んで祟りをなしたので、岩が落ちたその地に神社を建てた。それが石貫神社の由来だそうだ。

 静かな木立に囲まれたいい感じの神社だった。入口にある鬼の横にあるのが抜いた石だとか。 

 

・西都原(さいとばる)古墳群

 今回の旅ベスト5に入る。広大な敷地に数え切れぬほど多くの古墳(現在311基現存)が群れなすさまに目を奪われる。新緑の木々と歩道に並ぶ満開の桜に黄色の菜の花、巨大な墳墓と小さな、小さな塚の連なり、しばし夢実心地で立ち尽くす。古代の豪族の力を目の当たりにして思うこと多い。

 

・ニニギノミコトの陵墓と言われる男狭穂塚(おさほづか)

 日本最大の帆立貝形古墳(全長約175m)

・コノハナサクヤヒメの陵墓女狭穂塚(めさほづか)

 九州最大の前方後円墳(全長180m)

 

 この二つは宮内庁管轄のため立ち入り禁止。ということは、この墳墓が天皇家筋であることを認めているのだろうか。

 

・古墳内部

 いくつかの古墳は内部を見ることもできる。私は鬼の窟(いわや)古墳ともう一つ大きな前方後円墳の二つに入ってみた。前方後円墳の後円部が実際の墓所であったことは確からしいが、前方部については、死者を祀る祭壇だったという説や後円部に行く墓内の道だったとか、はっきりしないらしい。この部分も見られるとよかったのだが。

 

・西都原考古博物館(サイトバル)

 敷地内にある無料の施設。多くの資料を見るも悔しいながら私には猫に小判。しかし、館内の展示はビジュアル効果を狙っているのはわかるが、説明不足で、素人にはまったく役に立たないもので、これはもう少し工夫してほしいと思った。 

 

3月26日(木)

・青島神社

 宮崎市内から日南方面にヤシの並木を車で走ること20分ほどで日向灘が見えてくる。青島は(JR青島駅から海岸に向かって歩いていったところにある)橋を渡った小さな島である。

 山幸彦と海幸彦の神話に基づいた伝承の地。山幸彦が「海積宮」(竜宮のような海底の宮」から帰ってきた地と言われている。 

 

 島の突端にはビロウ(ヤシ科―同じヤシ科のビンロウとは違う)の林がある。北半球最北の亜熱帯植物群落である。このような高経度の場所に熱帯性及び亜熱帯性の植物が生育する理由に二つの説がある。一つは海着帰化植物説といい、島の沖を流れる黒潮によりフィリピンや沖縄方面から南方系の植物の種子や生木が漂着し繁栄したという説。もう一つは遺存説といい、第三紀前に日本で繁栄した高温に適する植物が気候、風土、環境に恵まれたこの場所に取り残され、今日まで繁栄したという説。現在では後者の遺存説が有力視されている。

 橋の両側は「鬼の洗濯岩」という岩盤で固められている。新第三紀(2400万年から200万年前迄)に海床に堆積した砂岩と泥岩が規則的にお互いに傾いて、海上に露出し、波浪の浸蝕を受けて凹凸となった岩盤。いわゆる白浜の千畳敷などとはまったく違う。これも目を見張る光景だった。 

 

・鵜戸(うど)神宮

 日南市。太平洋に突きだした鵜戸岬の突端にある。山幸彦の妻の豊玉姫が海中でお産は出来ないと言って、ここにやってきてウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)を産んだところ。大きな岩窟の中に建てられた神社。神社の目の前の海にはいくつもの奇岩がそびえ、そこに押し寄せる波。実に壮大な景色だった。

 最初の駐車場で車を止めると、急な階段を登って、また降りるという余計な労をとらねばならないので、海岸線を回って、社務所そばの駐車場に止めるのがいい。 

 

・江田神社と阿波岐原(あわきがはら)の禊(みそぎ)が池

 江田神社は日向式内四座の一つなのに、とてもさびれている。このそばにある禊が池に行く。黄泉の国から逃げ帰ってきたイザナギがこの池で禊をし、多くの神を生み、最後に左目を洗うと天照、右目を洗うと月読、鼻を洗うと素戔嗚が生まれたという。

 あまりにも有名な話なので、現場(?)をぜひ見てみたいと思った。今は市民公園の一画にある。もう少し神秘的な雰囲気があるかと思ったが・・・

 その後、宮崎神宮から、大淀川そばの小戸(おど)神社に寄る。九州の春は早い。土手には土筆が頭をだし、スミレの花も見える。 

 

3月27日(金)

 霧島六社権現を廻る。この六社は平安中期の天台宗の僧性空(しょうくう)が整備した神宮(社)だが、今は夷守神社が霧島岑神社に統合されて五社になっている。

 

・東(つま)霧島神社

 これを「つま」と読むのは、東の外れにあるので、着物の端、つまり「つま」から来ているらしい。

 

・鬼の岩段

 本殿には乱雑に積み重ねられた石の階段を登っていくのだが、この階段を「鬼の岩段」という。

 昔、この村に可愛い娘がいた。鬼はその娘を嫁にしたくて、娘の父親に頼んだが、断られてしまった。鬼は怒って暴れまくった。村人が神に訴えたところ、神は鬼にこう言った。「100個の石を使って一番鶏が鳴くまでに階段を作ったら娘を嫁にやろうと」。

 鬼は必死で作りだし、完成寸前となったので、困った神はそこで空を明るくしてしまったので、一番鶏が鳴き出した。鬼はがっかりして姿を消した。石段は99段まで出来上がっていたという。石貫神社の由来と似ている。

 実際は170段以上ある急な階段だが、石の幅が広いので登りやすい。

 

・神石

 イザナミを失ったイザナギが悲しみのあまり流した涙が固まったもの!イザナギは世の人々が今後、このような悲しみにあわないよう、剣でバッサリ三段に切ったという。

 切り口は確かに見事だが、注連縄は2つの石だけにかけられているのが解せない。もう一つは小さな石が見えるので、それか? 

 

・狭野(さの)神社

 神武の生誕地とされる。神武の若いころの名前がサノノミコトということでつけられた。境内でマムシグサの群生を見つける。サトイモ科で仏炎苞をもつ 花穂をつける。秋には真っ赤なトウモロコシに似た長い棒状の実をつける。同じ種類のアーロンシュタープはドイツでよく見かけるが、実のなる前のマムシグサは写真でしか見 たことがなかったので、興奮して写真をたくさん撮ったのに、どれも見られたものではなかったので、残念。

 

・皇子原(おうじばる)神社

 六社の中にはないが、ここも神武生誕の地と言われていて、神社の裏側に産場石(ウベシ)がある。可愛い像は皇子たち?

 

・霧島岑(みね)神社

 パスした。 

 

・霧島東神社

 火口湖のひとつ御池(みいけ)を見下ろす大自然の中に鎮座する神社。見晴がいい。高千穂峰の山頂部分はこの神社の飛び地境内になる。ニニギノミコトが天から 降りてきたとき、山の頂に鉾を逆さにして立てたという「天逆鉾(あまのさかほこ)」もこの神社の宝物だそうな。「天逆鉾」のある霧島峰に登るのは無理だったので、この神社で見られないかと思ったが、それも無理なようだ。ガイドマップに描かれた山頂の逆鉾は江戸時代頃に立てられたものだとか。

 

・霧島神宮

 創建が6世紀と大変古い。主神はニニギノミコト。

 参道そばのおがたまの木に花がいくつか見えた。おがたまは、 もくれん科で唯一の常緑樹。「招霊木」と書く。「招霊」(おぎたま)から転化したもの。 天岩戸の前で踊ったアメノウズメノミコトが手にしていたものと言う説があり、房が連なったような形の果実は、神官や巫女さんが持つ「神楽鈴」の基になったともいう。高千穂の天岩戸でこの木が植わっていたが、ここで花が見られてよかった。 

 

 今日から2泊する霧島のホテルはところどころ噴煙を噴きあげる道を登った海抜810mのところにある。バルコニーから桜島が見える。朝早く見たらキノコ雲のような噴煙をあげるところが見えたので、写真に撮ったが、よく写ってなかった。 

 

3月28日(土)

 週間天気予報では今日から雨だった。朝起きたら雨がかなり降っていたので、予想通りと思い、傘の用意をしたところ、9時頃から日がさしてきた。そこで、半ばあきらめていた知覧と開聞岳を目指してでかける。

 今回の旅行中一度も傘を開くことがなかったのはラッキーなことだった。

 ラッキーといえば、もう一つ。 霧島のホテルで夕食に真鯛の煮つけがでた。お皿を片付けていた仲居さんが、「あら!こんなにきれいな鯛の鯛!大切に持っていたらいいわよ」と言った。「鯛の鯛」なんて初めて知った。鯛の肩甲骨と烏口の骨がつながったもので、鯛の形に見えることから「鯛中鯛」とも言うそうで、縁起物だそうな。嬉しいな。 

 

 豊玉姫神社を見て、知覧特攻平和館へ。バスツアーで来ている人も多く、観光客でごったがえしている。桜が満開。ここから飛び立って帰ることのなかった特攻隊員の顔写真と遺言、遺品、関係資料がずらりと展示されている。やはり厳粛な気持ちになる。館内撮影禁止。

 

・三角兵舎

 特攻隊が飛び立つ前に数日過ごす兵舎。敵の目から守るために地面に埋もれている。 

 

・開聞岳(かいもんだけ)と枚聞(ひらきき)神社

 開聞神社(指宿市)の創始はかなり古いらしいが、不明だそうだ。おそらく開聞岳を神体とする山岳信仰に根差した神社であろうということだった。

 車で走っていると、前方に美しい形の開聞岳が見える。わー、きれいと思わず声をあげる。 

 

3月29日(日)

・鹿児島神宮

 南九州随一の古い由緒を持った神社。創建したのは神武天皇。特別、感銘を受けるような神社でなかった。最初、さい銭箱も鈴も見当たらなかった。聞けば、高い神殿の上のほうに置いてあるので、見えないのだ。鈴のないこのような神社は普通にあるのだろうか。天井の格子に野菜の絵が描かれているのも珍しい。今日は金曜だが、結婚式やお宮参りの人々が多かった。

 

・韓国宇豆峯神社(カラクニウヅミネ)神社

 大和政権に反抗するもやがてその支配に屈した隼人を教導するため、約500人を豊前国(ぶぜんのくに)からこの地に派遣した。そのとき、彼らの信仰する韓国の神社も一緒に持ってきたと由緒に記されているが、よくわからない。高千穂にも韓国岳(からくにだけ)という高い山があり、韓国と九州の往来を証拠づけるものであろうか。 

 

・国分市城山公園と止上(とがみ)神社

 城山公園は日曜とあって、お花見の人でいっぱい。国分市主催の出店が並び、家族連れやカップルが楽しんでいる。展望台や丘の上からも桜島がよく見える。その後、公園そばの小さな止上神社へ行ってから、鹿児島空港でレンタカーを返却し、空港へ。旅は終わり。 


バンコク、アユタヤ <2月4日~2月8日>

 

 今回のタイ旅行はひょんなことから決まった。昨年、義兄が亡くなって、その通夜のことだった。義兄の娘夫婦が長いことタイに住んでいるのは知っていたが、ご主人のO氏に会ったのは初めて。彼はバンコクで自動車の部品を造る工場を経営している。その話を聞いているうちに、どうしてもその工場を見に行きたくなった。行ってもいいかという厚かましい要望を彼が喜んで承諾してくれたので、実現した旅だった。

 

2月4日(水)

 羽田発夜の便(タイ航空)でバンコクへ。最近、ヨーロッパへ行くのに、羽田発の夜行便を重宝しているが、タイまで6時間というのは中途半端だった。うとうとするかしないかで到着。JTBのツアーを利用する。航空券+ホテル+空港とホテルの往復バス+一日アユタヤツアーというコースにした。 

 

2月5日(木)

 この日は午前中4時間の半日チャーターを頼む。スワンナブーム国際空港で待っていたタイ人の女性ガイドとともにホテルに行き、その後、彼女のガイドでタイ観光の定番であるワット・プラケオ(王宮、エメラルド寺院、ワット・ポー涅槃寺院)へ。建物すべてが実に豊かな色彩で、装飾は細密。目を奪われる。

 王宮の見取り図を見ると、寺院やお堂、博物館など34も挙がっている。もちろん全部は廻れない。 

 

 渡し船でワット・アルン(暁の寺)へ。日本では三島由紀夫の小説のタイトル『暁の寺』で知られている。出発前に読み直してみる。特別、ここが舞台というのではなく、主人公本田がタイのシンボルとして暁の光に輝くワット・アルンを見たという導入部に出てくるだけである。仏塔は75メートルで、上まで急な階段がそびえている。登るのはなんとかなりそうだが、降りるときはかなり危険に思えて、私は途中で引き返した。

 でも、昔、三島ファンだった私としてはこれで満足。 

 

2月6日(金)

 親戚O氏の工場見学。工場のお抱え運転手さんの運転で、O氏と奥さん(姪)には一日付き合わせてしまった。工場はバンコク市内の外れにある。3階建ての大きな工場。タイ人の職人が製品を作っているところを何か所か廻る。

 自動車の部品がいかに精巧に作られているかなど、O氏の説明にすっかり感心してしまう。午前中いっぱい見学。とても貴重な体験ができてよかった。 

 

 ワット・ソーン寺院は、年間参拝者数第2位だそうだ。第1位はもちろん王宮(ワット・プラケオ)。2位にしては面白味のない寺だった。

 ただ、金ぴかと極彩色の建物ばかり見たあとでは、外観の落ち着いた色にはホッとする。

 

 

 O氏にお願いしていたワット・サマーンラッタナーラームという寺院に連れて行ってもらう。タイのガイドブックに載っていたのだが、市内から数時間もかかり、周りにも途中にもとりたてて見るものはないし、交通渋滞に巻き込まれたら、大変なのだろう。それでも近年ツアーが出来ているようだ。

 

 バンコクの交通渋滞は有名だと聞いていたが、実際にその通りだと思った。時間にもよるが、出かけるときは渋滞を見越して動くのだそうだ。そこで登場するのがバイクタクシーというもの。タクシーもバスも当てにならない。渋滞する車やバスの間を泳ぐようにして、動く。乗客はヘルメットもつけず、女性の場合は横座り。見ていてハラハラ。

 今回の短い滞在で、車に当たって倒れたバイク事故を2件目撃した。なんの怪我もなかったのが幸い。それでもバイクタクシー乗り場は行列。私がタイで見たびっくり1位。

 バンコクでのびっくり2位は王家にたいするタイ人の崇拝心。どの道路も真中に緑地帯があり、そのところどころ祭壇(?)が設置されていて、そこに額縁入りの王さまや皇太子の写真が飾られている。市内のいたるところに、建物や歩道橋の橋げたなどにも、王族の写真が飾られている。ややこしくてわからないかったが、王家の人々はそれぞれの色を持っていて、それが曜日と連動していて、たとえば建物やら額縁にその日の色の旗が取り付けられるという。これらの様子を写真に撮れなかったことは残念だった。

 

 さて、私たちは無事ワット・サマーンラッタナーラームに着いた。ここの守護神はヒンズー教の神ガネーシャ。巨大な半身象で、全身ピンク色をしている。

 これを中心に、池には真っ赤なハスでかたどられた極楽浄土が浮かんでいる。もちろん作り物である。修道僧の像やら観音像など、なんと表現していいかわからない奇妙な寺院である。何かテーマパークみたいで、キッチュの最たるものと言ったら失礼なのだろう、信者たちがたくさんお参りに来ている。言葉よりは写真で見るのがなにより。 

 

 数時間かけて市内に戻り、チャオプラヤー河畔のレストランで夕食。これは大変美味しかった。タイ産のビールをけっこうたくさん飲んでしまった。

 タイシルクで有名なジム・トンプソンに入るも、特別買いたいものはなし。その後、親戚の家に寄ってからホテルへ。 

 

2月7日(土)

 アユタヤ一日観光。7時半にホテル集合。バスでチャオプラヤー川まで行き、そこから船で3時間。10時半には船内のレストランでバイキング式の昼食。

 デッキのベンチでのんびり過ごす。川辺に建つ高床式の家がいかにも東南アジアの雰囲気があって面白く写真をたくさん撮った。

 アユタヤで下船してから、バスで日本人村とバーン・パイン離宮に。どちらもほとんど、何の感想もなし。 

 

 アユタヤは実によかった。1767年、ビルマに滅ぼされてしまったアユタヤ王朝の廃墟が延々と続く。戦闘で、仏像の頭はすべて破壊されて、頭のない像が並ぶ。そうして落とされた頭部の一つが木の根元に転がったか、置かれたか、根がそれを取り囲んでいる。これはアユタヤのガイドには必ず紹介されている。今回ぜひとも見たかったものである。

 

2月8日(日)

 12時半に迎えのバスがやってきて、空港に。免税店でお土産を買って、搭乗。羽田に23時10分着。最終バスに乗り遅れて、電車で。帰宅は12時過ぎた。

 今回の旅行はあれこれ見るのに精いっぱいで写真をあまり撮れなかった。工場見学が第一だったので、タイの歴史もほとんど調べなかったので、旅行記としてはいかにも大雑把である。

 しかし、バンコクの王宮は1784年以降だから新しい。そのきらびやかさとアユタヤの廃墟の対比を見ることができて、とても感慨深かった。

 それにしてもタイ語は一文字といえども読めなかった!!