今年も年末旅行は水上温泉。水上は谷川岳の登山口にあたるが、観光地としては凋落傾向にあるのか、あるいはマイカー組が多くなったのか、これまで走っていたJR草津・水上特急が昨年から無くなって、年末には1本程度になってしまった。普通列車でもいいのだが、やはり時間はかかって不便だ。
行きは午後の特急があったのでよかったが、帰りは水上からバスで上越新幹線の上毛高原駅からになる。当然、電車賃も高くなる。それでも行きたくなるのはひとえにお湯のせいである。
水上温泉のお湯は、以前よく行っていた草津のお湯と比べると、とても柔らかくて優しい。湯加減もヌル湯好きの私にはちょうどいい。例年泊まる旅館は湯船が全部で11だったかな、それに露天風呂が3つ、サウナもあり、また入ったことはないが、家族風呂も3つほど。ともかく湯治するには本当にいいところ。部屋からは谷川岳が目の前。それで値段もそれほど高くない。
「暮れはどうする?」という話が出て、あれこれ考えるのだが、結局は「水上の湯だね」ということになってしまう。2泊3日の過ごし方もだいたい同じ。行きは旅館について温泉に入って夕食。あとはごろごろして、また温泉。
翌日は近場のどこかを散策する。昨年は天神平までゴンドラとリフトで登っていった。その前は月夜野ビードロ館へ、その前は・・・
今年は利根川の諏訪渓谷沿いにある与謝野晶子公園に。何もないところだが、桜や紅葉の時期はよさそう。宿に戻り、温泉。そして夕食、そしてごろごろ、そして温泉。
帰る日は朝食前に温泉、そしてチェックアウトして、夕方に東京着。家のある駅ビルでおせちの買い物。一休みしておせち作り。お餅と黒豆だけは26日前後に作ってある。あれこれ作っているうちに10時を回る。それからテレビの前に座り、やれやれと年越しそばを食べているうちに「行く年来る年」。
これが我が家の毎年決まった年末の過ごし方。なんと怠惰な?あるいは贅沢?
紅葉もほぼ終わる時期に京都へ行くことになったのは、桂離宮の参観許可が12月10日15時30分と決められてしまったからだ。数か月前からネットで申し込みをしていたのだが、満員ということで許可されなかった。同じグループになった人の話ではハガキでの申し込みなら1回で大大丈夫だったそうな。また、タクシーの運転手の話では外国人なら前日の申し込みでもオーケーだそうな。宮内庁は受付をもう少し透明にしてほしい。 というわけで紅葉は期待せず、寒くなり始めた京都へ。以下は訪ねたところと面白く思ったことを大雑把に記した。もしちょっとでも参考になれば嬉しい。
写真撮影禁止のところが多くて残念。
12月9日(日)
ホテルに荷物預けて、まずは腹ごしらえということで、「権兵衛」に行く。ここのきつねうどんと親子丼は実に美味しい。だが、昼時だけに長い行列ができていて、30分以上待ちということだったので、にしんそばの美味しい「松葉北店」に行く。
・金地院
南禅寺塔頭。小堀遠州作の鶴亀庭園が見所。後ろの木々がけっこうな塩梅だった。特別展として別料金を払って寺の中に入る。長谷川等伯の「猿猴捉月図」の絵あり。この絵がここにあったとは知らなかったので、初日からラッキーだった。
小堀遠州作の茶室「八窓席」もある。外縁からにじり口があるのが特徴。面白い。
・天授庵
見るべきものなし。
・南禅寺インクライン
蹴上駅から疎水つたに歩いて南禅寺へ。ここにあるインクラインは赤レンガのローマ風水路。南禅寺に来るたびに見ているが、上まで登るは初めて。疎水の流れるのを見る。
・南禅院
夢窓国師作 鎌倉時代末期の代表的池泉廻遊式庭園を見る。
・南禅寺方丈
小堀遠州作「虎の子渡し」江戸初期の枯山水。
そろそろ夕日が沈む頃になったので、清水寺に行く。夕日を写真に撮るのはむずかしい。夕日がすっかり見えなくなるまでボーとする。
・円徳院
秀吉の妻北政所(ねね)の終焉の地。
・高台寺
秀吉の菩提を弔うために妻北政所(ねね)によって開創された寺。ライトアップされた庭を歩く。遠州作と言われている庭。竜の飾りを配した庭に照明が消えたり、ついたりのショーはちょっと子どもだまし。庭の池に映る木々がきれい。夏に見たザールフェルトの鍾乳洞「童話の森」を思い出す。
傘亭と時雨亭は利休の意匠による茶席。傘亭の名は竹が放射状に組まれてカラカサを広げたように見えるから。でも道からでは天井がよく見えなくて、残念。
12月10日(月)
朝からチラホラ雪。黒谷(金戒光明寺)さんに着くころにはかなり降りだす。山門は大修理中。雪の風情を楽しむ。
・真如堂
延暦寺を本山とする天台宗の寺院。始まりは984年と古い。様々な変遷を経て、現在の地に落ち着いたのは1693年。
不動明王の像は安倍晴明の念持仏。晴明が突然死し、閻魔大王の前に引き出されたとき、この不動明王が大王に懇願して晴明は生き返った。そのとき閻魔大王は「これは我が秘印にして、現世には横死の難を救い、未来にはこの印鑑を持ち来る亡者決定往生の秘印なり」と言って、晴明に印を与えたという。この印は晴明亡き後真如堂に納められ、印紋は今も参拝者に授与されるそうだ。その印の中央には晴明のシンボル五芒星が描かれている。この場面を描いた絵もあって面白かった。
釈迦入寂を石で作った「涅槃の庭」は1988年と新しい。「隨縁の庭」は2010年に作られたということで、どことなく現代的だ。
紅葉はすでに終わっていたが、散った紅葉で赤い絨毯のように見える庭を見ると、紅葉のときにまた来てもいい候補地の一つになった。
・永観堂
ずいぶん久しぶりだった。見返り阿弥陀像が記憶していたより小さかったのにびっくりする。私はこの仏像が大好きだ。
鎌倉時代、ここの住職だった律師永観は阿弥陀の救いを信じ、貧しい人々のために身を粉にして救済活動を続けていた。あるとき、念仏を唱えながら阿弥陀像のまわりを回っていると、阿弥陀が檀から降りてきて、永観を先導し始めた。驚き、立ち尽くす永観に阿弥陀が後ろを振り向き、「永観、遅し」と言われたという。
この言葉はどういう意味なのだろう。「そんなにびっくりしないで、早くおいで」ということなのか。阿弥陀さま、ちょっとお茶目?
今日こそはと「権兵衛」で昼食。二組ほど待って中へ。やはり美味しい。特に親子丼が。
・桂離宮
桂離宮については、ブルーノ・タウトの『ニッポン』と何冊かの紹介本+井上章一『つくられた桂離宮神話』を読む。私なりに見たいところを挙げて準備しておいた。はたしてどう感じるだろうかというのが一番の興味だった。
入口で申し込み許可書を見せ、代表者は身分を証明するものを見せる。待合室でビデオを見る。そこに案内人がやってきて、やっと出発。グループの後ろに職員が一人ついてくる。見張り役のようだ。
で、時間は1時間。これでは時間があまりにも少なかった。ガイドさんについていくのが精いっぱい。考えたり、じっくり見たりする時間がまったくなかった。もう一度来ても同じだろうと思う。というのは参観中はグループから離れてはいけないと注意されるからだ。で、終わればそのまま出口へ。せめて見所での時間をもう少し増やしてほしい。
で、どう感じたかというと、手入れが隅々まで行き届いているので、確かに素晴らしい建造物であり庭園だとは思った。だが、見足りないので、細かい感想は言えないというところ。
12月11日(火)
・赤山禅院
京都表鬼門にあたる。拝殿屋根に瓦彫りの神猿が京都御所を見守っている。方除けの神である。
また毎月5日にお参りしてから出かけると、よく集金ができると言われ、商人たちの信仰の対象となっている。俗に「五日払い」というそうだ。そのせいかどうかここはかなり俗っぽい。
・金福寺(こんぷくじ)
ここに芭蕉堂があるのだが、芭蕉がここに来たという確証はないそうだ。この寺を再興した鉄舟和尚が、親交のあった芭蕉のある文に「かの寺」と書いてあるが、それはここだと言ったとか。それを芭蕉ファンだった与謝蕪村がここに芭蕉堂を建てた。蕪村の墓もここにある。庭のあちこちに多くの俳人の碑がある。素朴でいいところ。蕪村のイマジネーションが作り出した芭蕉の世界という感じ。
また、この寺には村山たか女の遺品がある。彼女は井伊直助の愛人で彼のために密偵となり、安政の大獄で捕えられ、勤王の志士によって三条河原でさらし者になる。3日後、助けられ、この寺で尼僧になって14年。明治9年この地で亡くなる。
飾られている遺品が面白い。彼女は巳年だったので、観音像も蛇が本尊だった! 彼女の墓はなぜか近くの圓光寺にある。船橋聖一の「花の生涯」のモデルだというので、図書館で借りて今読んでいる。
・曼殊院
左京区一乗寺にある天台宗の仏教寺院。皇族や貴族の子弟が代々住持となる別格門跡寺院。そこで皇族がよく訪れる。12月3日には今上天皇、皇后両陛下が見えたそうだ。
ここにある黄不動尊画は国宝なのだが、普通は模写が飾ってある。しかし、天皇が見えたときは寄贈先の京都国立博物館から借り出して、本物を飾っていたそうだ。その他、展示品が素晴らしい。特に優美な和様書体の古今和歌集の写本には目が吸い寄せられる。ふすまの引き戸が瓢箪だったり扇子だったりと面白い。
庭は小堀遠州風の枯山水である。紅葉がすっかり落ちて、庭に降り積もっていた。庭師がいたので聞いたところ、今年は紅葉の時期が早かったそうで、落ち葉をどうしたものかと考えているところだと言うので、もう少し置いておいたらと言うと、そうしますとのこと。
建造物は江戸時代初期の代表的書院建築である。入口近くにある貴族用の台所が面白い。ここにも八窓軒の茶室があるが入れない。大書院にある違い棚と桂離宮の違い棚と比較すると面白い。ここの違い棚は曼殊院棚と呼ばれて、約10種の寄木で作られている。ちょっとごちゃごちゃした感じがしないでもない。
次の寺に行く前にお腹がすいたので、近くに一軒だけあった食事処に入る。そこの女<主人が言うには、天皇が見えたとき、このあたり一帯、前日から警備がすごく、階段脇の民家は窓を開けないようにと言われたとか。
・圓光寺
一乗寺にある臨済宗南禅寺派の寺院。創立者(開基)は徳川家康。最初は伏見に足利学校の禅師を招いて圓光寺を建立、学校とした。1667年にここに移転。儒学や兵法の本を刊行した。その際の印刷には家康が持ってきたという木活字が使われた。これは「伏見版」と言われ、日本最古の活字だそうだ。この活字の数は5万個を越え、それが展示されている。
昭和の中ごろまでは印刷所といえば、植字工と文選工がこうした個々の活字を原稿を見ながら一つ一つ拾って組箱に入れる作業をし、それを印刷していた。今では考えられない労力だ。山本有三の『路傍の石』の主人公が文選工だったのを思い出した。昔、新聞社だったか印刷所だったかの見学で私も見たことがある。
明治以降最近1960年代まで臨済宗南禅寺派の尼寺であり、尼僧修学道場だった。ヘーと思う。今は男女別なく修行できる。
散った紅葉の葉が庭を敷き詰め、きれいだった。水琴窟もある。私はこの音を松山城二の丸で初めて聞いた。大げさではなく、この世のものとは思えない音色にうっとりした。ここも同じくらい美しい音色だった。
裏手の墓地に村山たか女の墓がある。
・一条下り(さがり)松
一条という地名は平安中期の一乗寺という天台宗の寺に由来する。この寺は南北朝の動乱以後廃絶になったが、地名として残っている。この寺にあった松の木の下で宮本武蔵が吉岡一門数十人と決闘したという。この松は4代目。近くの八大神社には当時の古株が保存されているらしいが、そこはパスした。
・知恩院
知恩院前の花屋で花束を買って、納骨堂に。ここには義理の両親のお骨(分骨)が納められているので、京都に来たら必ず訪れる。
12月12日(水)
・晴明神社
平安時代の有名な陰陽師安倍晴明を祀った神社。晴明の屋敷跡に作られ、平成15年まで改築があったので、新しくきれい。鳥居だけではなく、いたるところに晴明のシンボルである五芒星のマークがついている。この五芒星は桔梗の花を図案化した桔梗紋の変形として「晴明桔梗(せいめいききょう)」とも言う。
「五芒星は、陰陽道では魔除けの呪符として伝えられている。印にこめられたその意味は、陰陽道の基本概念となった陰陽五行説、木・火・土・金・水の5つの元素の働きの相克を表したものであり、五芒星はあらゆる魔除けの呪符として重宝された。(ウィキぺディア)」
ちなみに、五芒星と似たものに六芒星(ヘキサグラム)がある。ユダヤ教では神聖なマークであり、ダビデの星と言われる。イスラエルの国旗のマークにもなっている。陰陽師安倍晴明は小説や映画として現代の人にも知られているからか、けっこう若い人で賑わっていた。
・芭蕉聚楽屋敷跡
晴明神社の隣にある。芭蕉が切腹を余儀なくされた終焉の地で、今は石の碑があるだけ。
・一条戻り橋
晴明神社は堀川に沿った一条通りに面している。堀川は川幅が狭い。平成7年に川岸を広げて、長い橋をかけた。昔の短い石橋はそのまま晴明神社の境内に置いてある。戻り橋にはいくつか言い伝えがあるが、もっとも有名なのは渡辺綱がこの橋の上で鬼女と格闘し、鬼女の腕を切り落としたという話。
・樂美術館
晴明神社から一条戻り橋を渡って少し歩いたところにある。桃山時代からこの地にある樂焼窯元・樂家に隣接して建てられている。1978年樂家十四代吉左衞門・覚入によって設立、収蔵作品は樂歴代作品を中心に、茶道工芸美術品、関係古文書など樂家に伝わった作品を中心に構成されている。
昨年、当代(15代)によって作られた佐川美術館を見て、茶を知らぬ私でも深い感銘を受けた。茶器についても無知な私だが、こういうものに接すると心が安らぐ。
・山田松香木店
香木はアロマとまったく違った香りで、これはこれで心安らぐ。沈香(スティック40本入り)を買う。
・夕顔の碑
夕顔町の旧家富江さんという人のお宅の中庭に江戸時代に作られた小さな宝筐印塔の夕顔の墓があるという。おそらく江戸期の『源氏物語』ファンが作り、そのとき町名も夕顔町にしたのだろうと推測されている。一般の家なので、公開されていない。ただ、玄関横に「夕顔之墳」と刻んだ石碑が建っているだけ。
この碑は京都史蹟会が昭和4年に建てたものらしい。富江さん宅では毎年9月16日に「夕顔忌」が営まれているという。どんなことをするのだろう。富江さんと知り合いになりたいものだ。
確かにお墓はここにあるが、夕顔が亡くなった地は別なところだと考えられている。夕顔が源氏と出会った家のそばに源氏の別邸があり、源氏はそこに夕顔を引き取った。その夜、六条御息所の生霊によって夕顔は息絶える。その場所は下京区の永養寺町に「道元禅師遺跡之地」という碑が立っているあたりだと推定されている。「夕顔の宿(やどり)」と言われているらしいが、なにか碑のようなものがあるのかどうかわからない。いつかそこにも行ってみたいと思う。
昼食は「十二段家」へ。ここのだし巻を主とした定食は量もちょうどいいし、味も美味しく満足できる。
・随心院門跡
なかなか立派。991年頃建立。梅が咲いたら見事かもと思われる梅園がある。玄関横に石の碑。小野小町のあの有名な歌が書かれている。
「はなのいろは うつりにけりな いたずらに わがみよにふる ながめせしまに」
ここは小野小町ゆかりの寺である。私はそれを楽しみにやってきた。この地は小野一族の栄えた地。小町は小野篁の孫にあたる。小野道風は小町のいとこ。絶世の美女にして歌の名手。数々の伝説があるが、その中でこの地に関係するものを二つ。
深草少将の「百夜通い」
小町に恋をした少将に100夜通ったら想いをとげてもいいと言われ、毎夜通い詰めるが、寒さと発病で99日目の夜息絶えたという。室町時代の世阿弥の創作らしい。小町は近くにあったカヤの木の実を一夜毎に拾って待っていたとか。少将が亡くなって、小町は99個のカヤの実を植えたとか。そのカヤの木や少将が通ったという小道というのもあるのだが、あまり風情はない。
卒塔婆小町坐像
小町はさだかではないが70歳を過ぎて亡くなったそうだ。晩年の小町の姿を写したという小さな卒塔婆小町像がある。座法と言って片膝立てた姿の像は古代の風習を伝えて珍しいそうだが、絶世の美女の面影なしなのは悲しいものだ。
世阿弥の作で小野小町を主人公にした「卒塔婆小町」という能楽ある。老女が卒塔婆に腰かけているのを高野山の僧が見咎め、説教するが、逆にやりこめられてしまう。僧が名を聞けば、小野小町だという。わが身について語り始めるが、通いつめても願いを果たせなかった四位(深草)の少将の霊に取りつかれて苦しめられるという筋。
庭の一角に「化粧の井戸」というのがあり、小町が顔を洗った井戸と言われている。なんのことはない無粋な水たまりみたいなものだった。
・霊石不動堂明王院
京都駅の裏手をしばらく歩いたところ、ビルの谷間に挟まれて霊石不動堂明王院と道祖神社が並んで建っている。
823年、空海がこの地で霊験あらたかな霊石を発見し、その石にみずから不動明王を彫刻し、石棺におさめ、それを地中の井戸深くに安置したという。
この井戸は899年に宇多天皇が作った広大な離宮「亭子院(ていじのいん)」の一角にあった。室町時代にこの離宮は焼失したが、この井戸のあるところにお堂を建て、現在に至っているという。今も石は井戸の底にあって封じられているので、見ることはできない。お堂に安置されている不動尊像を拝するだけである。
ということで私もその見える立像を拝しただけである。井戸の底の霊石を見たい。
19時53分発のぞみで東京へ。今度はいつ京都へ行けるかな。
7年前に一人で行ったアイスランドのあの雄大な自然を娘と一緒にもう一度見たいと思った。アイスランドには最低5日は滞在したい。そして旅の最後はドイツで〆たいという希望でスケジュールを立て、8月17日に出発した。8月28日にドイツで娘と別れて、9月10日まで私は一人でドイツを歩き回ってきた。その記録を簡単にここに記しておきたい。
8月17日(金)
できるだけ時間を無駄にしないよう考えた結果、17日夜中(25時)の便で羽田を発ち、早朝フランクフルトに着き、そのままハンブルクに飛べば、午前のLHでアイスラン ドへ行ける。これなら18日昼にはレイキャビク空港に着ける。ということで、羽田から出発。
8月18日(土)
ハンブルク空港で知人のAさんに会う。彼女は目下ルフトハンザでアルバイトをしていて、この日は出勤日ではないけれど、私たちの乗る搭乗ゲートまで顔を出すことができる。つかの間の時間だったが、あれこれ話をする。
レイキャビク空港からバスでホテルまで。このバスは市内のほぼすべてのホテルまで運んでいってくれる。この日は町をあげてのコンサートフェスティバルにあたり、ものすごい人出。私たちの予約していたホテルはどうやらダブルブッキングだったらしく、同じ系列のワンランク上というホテルに代わってくれないかと頼まれる。
ワンランク上というこのホテル、どうにも気になったのが戸棚や引きだしがまったくないということ。これはとても不自由だった。それはともかく、この新しいホテルは静かで、見晴らしもよく、場所も便利だったので、それでよしとした。朝食を摂る8階の展望レストランからは海が見えてよかった。
チェックインして町を散策する。ハットルグリムス教会では市民によるコンサートが開かれていた。塔に登る。教会の前を一直線に走る大通りは人、人、人の海。
7年前泊まったホテルはこの教会の前。今も健在で営業していた。ここのシャワーが温泉だったのがとてもよかったので、今回も期待していたのだが、普通のお湯だったので残念だった。
8月19日(日)
アイスランドは車がなければ、すべてツアーで動くことになる。鉄道も路線バスもない。申込んでおけば、バスがホテルに迎えにきてくれて、市内のバスセンターまで連れていってくれる。ここでお目当てのツアーバスに乗ることになる。センターは観光客でいっぱい。満員になることもあるので、私たちは日本で予約しておいた。ネットはまったく楽だ。前回は勝手がわからないこともあって、アイスランド航空の日本支社で予約した。窓口に予約票を見せると、乗るバスの番号を教えてくれる。
南部方面氷河湖ツアー
このツアーは滝と氷河湖のボート遊覧が目玉である。アイスランド語は馴染みがないので、地名も滝の名前もなかなか覚えられない。それでもいくつも滝を見てまわると、フォスというのが滝だということくらいはわかってくる。
平野を流れる川が突然どうしてこんなに落差が生じるのかというような断崖となって川が滝に変じる。すばらしい光景である。
ヨゥクルスアゥルロゥン氷河湖で小さな遊覧船に乗った。しばらくするとボートが横付けされ、氷の塊が運ばれてきて、それを砕いて食べさせてくれる。もちろんだが、氷河の氷である。日本では真夏日だろうが、ここでは日中で13度。風が強くて体感温度はもっともっと下る。氷で暑さを凌ぐ必要はない。珍しいものを口にということである。
このツアーのガイドは英語とドイツ語の両方で行われた。とてもきれいなドイツ語だったので、話しかけてみたら、現地の男性と結婚しているドイツ人女性だった。説明がとても上手だった。
広い牧草地帯には草を食む羊や馬がたくさんいる。これらを朝晩引き連れる牧人の仕事はさぞ大変だろうな、車で移動させるのだろうかと気になったので、ガイドさんに尋ねたところ、羊は夏の間は牧舎に帰ることなく、そのままここで寝起きするそうだ。なんと馬にいたっては一年中ここで暮らすのだそうだ。つまりホームレス。
道の両側に広がる大地は平らではない。土饅頭のような塊が無数に並んでいて、白緑色のコケに覆われている。まるでスキーのモーグル(雪の瘤)のようだ。溶岩でできたこの瘤が延々と連なる景色には圧倒される。
翌20日から申込んだツアーは今日のツアーと合わせて、前回とほぼ同じコースのツアーなので、そのときの旅行記を読んでいただきたい。ここでは新しい発見や面白かったことなどを記すに留める。
8月20日(月)
アイスランドで一番人気の「ゴールデンサークルツアー」
間欠泉は一定のきまりがあるわけではないので、いつ吹き出すか、じっとみつめているしかない。一回見ただけでは満足しない。集合時間を気にしながらも、ひたすら見続ける。何回目かにかなり大きなお湯が吹き上げ、上空で風向きが変わり、逃げるまもなくドバッと頭から湯をかぶってしまった。吹き上がると同時に大気に触れて温度が下がるのか、かぶったお湯は32、3度くらいか。やけどをするような熱さではない。
8月21日(火)
北部「アークレイルツアー」
国内航空でアークレイル空港に行き、北部をまわるツアー。馬蹄形の渓谷アウスビルギは初めて。岩の形が巨大な馬蹄形をしているのだそうな。「そうな」というのは上空から見ないとわからない。地上からはただ巨大な岩の壁が辛うじて湾曲しているかなという感じ。面白かったのは、この馬蹄は北欧神話の主神オーディンの愛馬の馬蹄なのだそうな。
8月22日(水)
スナイフェルス半島+バードウォッチングツアー
このツアー、船でバードウォッチングするのだが、途中で船から揚げた貝(主にホタテとウニ)を試食させてくれる。前回も今回も旅の身ながら、たくさん食べてしまった。
でも、このコース、あまり人気がないのか、この日ツアーバスに乗ったのは私と娘の二人だけ。運転手兼ガイドの男性とは当然仲良しになる。時間の融通も少しはきく。でも、こんなときはやっぱりチップが必要。
スケジュール表に「スプリングウォーター」と書いてある。どんなところなんだろう。初めてである。バスは平野の真ん中、小さな家のあるところで停まる。そのそばに井戸がある。蛇口のついた赤錆びた細い鉄管の井戸で、まわりの地面からも水がブクブクと噴出している。地面も赤茶けて見える。ガイドさんが渡してくれた紙コップに水を入れてもらい飲む。フーン、なんとこれはスパークリングウォーターだ。いわゆる発泡水である。自然のスプリングウォーターがそのままスパークリングとなっている。味はいまひとつだったが、とても面白かった。
早いもので、今日の夕方の便でフランクフルトに戻る。レイキャビクに着いた日はじゅうぶん市内を見ることができなかったので、午前中2時間だけの市内観光ツアーを申込む。
来るときはルフトハンザだったが、帰りはアイスランド航空。これが値段はほとんど変わりないのに、いわゆる格安航空券並み。ルフトハンザではそれなりの夕食が出たので、時間帯も同じくらいだからと、夕食を食べずに乗ったところ、コーヒーすらサービスではなくお金を払わなければならない。アイスランド航空には注意!
フランクフルト空港に着くのが21時45分。それから市内に出るのはそう遠くないとはいえ、翌日は朝早い電車に乗るので、空港駅のホテルに泊まることにした。
8月24日(金)
シュヴァルツヴァルト(黒い森)地方はフライブルク、バーデンバーデン、ドーナウエッシンゲンのような周辺土地を歩いたくらいなので、今年はばっちり黒い森を探索してみることにした。拠点は交通の便を考えてフライブルク4泊とした。
フランクフルトからフライブルクに南下する途中にギューグリンゲンという小さな町がある。たまたまこの時期、魔女展が開催されるということを知り、途中下車する。ギューグリンゲンなんて町はまったく知らなかったが、小さいけれど、いかにもドイツ風のいい町だった。
魔女展は市の中心にあるレーマー博物館で行われている。魔女迫害の歴史を紹介しつつ、この地域で魔女迫害にあった犠牲者カタリーナ・ケプラーなどを中心にしたものだった。
カタリーナがドイツの天文学者ケプラーの母親で、魔女として裁判にかけられたことは知っていたのだが、ギューグリンゲンで彼女を中心にした魔女展が行われるというのが、同じ地域だったからなのかとわかった。展示室は狭かったが、密度の濃いもので面白かった。常設展では古代ローマで信仰されていたミトラス教の祭壇が展示されていて、これも興味深かった。
また、この町にヴァインブルネンという噴水がある。まるでエフェソスのアルテミス像みたいにたくさんの乳房様の、実は丸いブドウの実を胸につけた二人の女性の胸像が水盤の中央にある。その一人の女性の口から水が吹きだしているのだが、なんと、ワイン祭りのときは水の代わりにワインが流れ出すそうだ。時期的にはちょっと早かったので、残念。
フライブルクのホテルは駅のそばでとても便利だったし、部屋も清潔でインテリアも斬新。しかし、トイレのドアがガラスだったのはどういうことか。ガラスには不透明の縦縞が一部入っているので、丸見えにはならないが、中にいる人もそばを通る人も気になるというしろもの。これは残念だった。
8月25日(土)
ドイツにヘクセンブルンネン(魔女の井戸/噴水)というのがどのくらいあるものかネットで調べたところ、シュヴァルツヴァルト地方のレッフィンゲンという町にドイツの典型的な魔女の人形を飾ったブルンネンがあるのを見つけた。いつか行ってみたいと思っていたので、今回がそのチャンスということで行ってきた。ローカル電車とバスを乗り継いで着いたところは小一時間もあれば隅々まで見て回れる小さな町だった。
魔女の噴水はすぐ見つかった。インフォメーションセンターでこのブルンネンの謂れを尋ねたところ、魔女迫害とはまったく関係なく、カーニバル用に近隣一帯が協力して作ったものだという。この地方のロットヴァイルという町がカーニバルで有名だとは知っていたが、そこと並んで盛大なカーニバルの行われる町なのだそうだ。ネットで見たときも感じたが、悲惨な魔女迫害の歴史とは無縁な形をした、いかにも祭り用だと思わせるブルネンだった。でも、面白いでしょう?写真を見てください。
フライブルクに戻って、町外れにあるシュロスバーンというケーブルカーに乗って、山の上まで行く。ケーブルカーといっても、4分くらいで着いてしまう短いもの。いちおう往復切符を売っているが下りはほとんどの人が歩いて降りる。上からフライブルクの町を見下ろすと、今日の疲れも吹き飛ぶ。また新たに疲れたくないので、私たちは往復切符を利用した。
8月26日(日)
今日はドーナウ川の源泉の一つがあるドーナウエッシンゲンの町とシュヴァルツヴァルト観光地の一つトリベルクを回る。
ドーナウエッシンゲンについては2009年の旅行記に詳しいので、ご覧ください。今回はブリガッハ川の右岸からドーナウ川の起点まで歩いた。その道は「斉藤茂吉の道」と呼ばれ、道の突き当りには2012年に上山町(カミノヤマ)と姉妹都市になった際の記念樹ナナカマドが植えられていた。
昔、上山温泉に行ったとき、斉藤茂吉記念館を見たのだが、茂吉のヨーロッパ旅行のことが紹介されていたかどうか覚えがない。帰国してから調べてみたら、茂吉は1921年11月から1925年1月まで約3年間ウィーンとミュンヘンに留学している。その際、ドーナウ川の源泉に興味を持ち、ここを訪れている。そのときのエッセイ「ドナウ源流行」が『斉藤茂吉全集』第五巻(1973年刊)に載っている。
少し紹介する。
「僕は「ドナウ源泉」(Donauquelle)を見に行った。清冽な泉で、昔は寺の礼讃を終えてこの泉を掬んだということである。又公爵が家来を連れてここで酒宴をしたということである。この泉は、海抜六七八米。海洋に至るまで二八四〇基米と註され、大理石の群像は、バアル神が童子と娘とを連れて、行手の道を示すところを刻したものである。泉の水は、直ぐ下をくぐってブリガッハに灑いでいる。その灑ぐところに、ウィルヘルム二世が小さい堂を建てて(西暦一九一〇年)…(略)、泉の水を飲んでそこを出た。公の居城は直ぐ隣だが見ることは出来ないということであった。…(略)
この上《かみ》は一体《いったい》どうなっているだろうか。自分は此処まで来て、ブレーゲがブリガッハに合し、そうしてドナウの源流を形づくるところを見て、僕の本望は遂げた。このさき、本流と看做すべきブリガッハに沿うて何処までも行くなら、川はだんだん細って行き、森深く縫って行って、谿川になり、それからは泉となり、苔の水となるだろう。そこまでは僕の目は届かぬ。僕は今夕此処を立たねばならぬ。・・・」
ドーナウ川の源泉はもう一つあって、それは明日訪れることになっている。今日はこの後、トリベルクへ行く。
観光地トリベルクはシュヴァルツヴァルトの森の中にある保養地である。ここにはドイツ一落差のある滝が名所となっている。一昨年、ライン川にある唯一の滝というのを見たが、落差はそれほどなかった。ここもあまり期待はしていなかった。それだからか、なかなか風情があってよかった。あいにく滝に向かう山道で激しい雨が降ってきた。しばらくすると止んだが、それもまたそれで面白かった。全体の風景が日本の渓谷ととてもよく似ていて、親しめる。
トリベルクの通りの両側には土産物屋が並ぶ。主な土産はもちろん木製の「カッコウ時計」。手作りの高級なものから500円くらいの小さなものまである。
カッコウ時計は日本では鳩時計という。カッコウは別名閑古鳥といい、不景気なときに鳴くから、縁起がよくないので、鳩にしたという説があるが、本当かどうか。
8月27日(月)
シュヴァルツヴァルトめぐりを予定した大きな目的はドーナウのもう一つの源泉を見ることだった。ところが、この源泉に行く方法がわからない。源泉のそばに礼拝堂とレストラン兼ホテルがあるらしいが、そこまで行くバスはなさそうだ。たいていの人は車で行くから、HPのアクセスサイトを見ても、自動車道路の案内しかない。それでもフルトヴァンゲンから7キロということはわかった。まず電車とバスでフルトヴァンゲンに行き、あとはタクシーで行くしかなさそうだ。
フルトヴァンゲンは時計博物館があることで知られているということだからタクシーぐらいなんとかなるだろうと思った。実際はタクシー乗り場などなく、インフォメーションセンターで頼んでもらうことになった。町にはタクシーは数台しかないのでと言って、10分ほど待った。親切な運転手だった。源泉についてから1時間後に迎えに来てもらうことにした。
駐車場のそばに「ドーナウ源泉入口」と書いた門が立っている。入場料は不要。そこから細い坂道を下ると、すぐに源泉にたどり着く。
うーん、ドーナウエッシンゲンの源泉よりは確かに山の中の泉という点では源泉の雰囲気はあるが、この本家争い、どちらが本家かどうか私には判断がつかない。ただ、3年前からの念願だったこの源泉を見られて感無量!
ここはまたドーナウ川とライン川の分水嶺があるところなのだそうな。その標石が立っている。私は地理の勉強は苦手だったので、分水嶺というのがどんなものか知らなかった。山の上から二つの川が見えて、こちらドーナウ川、あちらライン川なんてものがあるわけないし。簡単に言えば、ここを分岐点として山中から湧き出た水が左に流れていったものがドーナウ川になり、右に流れたものはライン川に入っていく。(これでいいのかな?)
フルトヴァンゲンに戻り、時計博物館に行ってみる。実にたくさんの時計が展示されていて面白かった。オルゴール付きで人形が動くという大きな時計には目を見張った。決まった時間にしか作動させないらしく、残念ながら見られなかった。
ここから昨日行ったトリベルク経由でグータッハの野外博物館(フォークツバオエルンホーフ)に行く。昔の代官屋敷や農家を集めた博物館である。2週間ほど前、私の知り合いがたまたまトリベルクに旅行し、ここを訪れたが、絶対にお勧めというわけではないと歯切れ悪く言っていたが、なるほど、わかる、という感じだった。それでも家族連れがたくさん来ていて、それなりに楽しんでいた。
8月28日(火)
夕方までにフランクフルトに着けばいいので、午前中はシャオインラントという見晴のいい山へ行く。シュヴァルツヴァルト最後の日である。
フライブルクからトラムとバスを乗り継いで30分もしないところにゴンドラ駅がある。このゴンドラ、ゆうに10分はかかる。長く大きな松ぼっくりがびっくりするほど実っているモミの木の森の上を越え、高い風車も越え、やがてシャオインスラント駅に着く。ここからかなり長い坂道を登っていくと山頂になる。そこにはそれほど高くはない鉄塔が立っていて、登ることができる。しかし、高所恐怖所の私は登らない。日本と同じヤナギランがそこかしこ咲き乱れていて、ああ、いいなと思う。下界の景色を堪能して、戻る。
ホテルで荷物を受け取って、フランクフルト空港駅まで。そこで娘と別れ、私はヴォルムスへ行く。明日からは一人旅。
8月29日(水)
午前中ロルシュの修道院へ行き、夕方にはヴォルムスに戻ってきて、仕事関係の人と会い、その後、夜まで市内散策をする。ヴォルムスもロルシュも何回も来ているが、それなりに久しぶりなので、寄ってみてもいいかと思った。
ヴォルムスは1521年ルターが帝国追放の処分を受けることになった帝国議会開催の町として有名なのだが、中世の一大叙事詩『ニーベルンゲンの歌』の舞台としても知られていて、観光的にはこちらのほうが強い。町なかには英雄ジークフリートのブルンネンやレリーフがたくさん見られる。
クリームヒルトとブリュンヒルトの因縁の対決があった大聖堂のそばには二人の女性をかたどった面白い像が新しくできていた。町外れのライン河畔にはニーベルンゲン族の宝(ラインの黄金)を投げ入れるハーゲンの像が立っている。私は以前「クリームヒルデ」というホテルに泊まったことがある。『ニーベルンゲンの歌』に興味を持っている人には欠かせない町である。
ロルシュはヴォルムスから電車で30分強。カロリング王朝時代の修道院は今では「王の門」と教会の一部しか残っていないが、この門の様式が建築学的に素晴らしく、世界遺産に登録されている。また、倉庫みたいに見える建物は教会だったそうだが、そこにはオーデンヴァルトの森で殺されたジークフリートの棺が置いてある。エッ、本当?と、これがまたいろいろ想像できて面白い。
今回は修道院が大改築工事をしていて、建物はカバーがかけられてあり見られない。だが、ジークフリートの棺はすぐそばの博物館で見られた。修道院のまわりに広がる庭と薬草園はそのまま残っていて、見応えがある。この時期、ケーニヒスケルツェ(王の蝋燭)、和名ビロウドモウズイカという薬草が目にも鮮やかな黄色の花をつけるのだが、ここの薬草園のケーニヒスケルツェは前から素晴らしく思っていたが、相変わらず目を引いた。
8月30日(木)
午前中にウルムへ。市内を見た後で、日本で申し込んでいたウルム大学付属植物園のガイドツアーに参加。
ウルムも何度か訪れたことがあるが、世界一高いという大聖堂とドナウ川のそばの薬草園は素晴らしかったが、町そのものは私としてはそれほどいいとは思わない。ガイドブックに載っている見所も取り立ててここへ来てまではという厳しい見方をしている。ただ、ネットで調べていたら、大学付属植物園で「神々と伝説とその植物について」というテーマのツアーが目に留まったので、ぜひにもと思ったのだ。
ツアーは夕方6時から始まる。早めに着いて園庭を見ようと思ったところ、着いた途端、ものすごい雨と雷。集合場所の建物に逃避する。ガイドを務めるのは生物学者のヴァルターさん。参加者は私を入れて11名、うち男性4名。ヴァルターさんと一緒に傘をさして外へ。広大な植物園の一角、薬草コーナーを回る。私の耳ではちゃんと聞き取れないと思い、事前に録音の許可をいただくが、後で聞いたら雨の音ばかり。
このテーマは幸い拙著『魔女の薬草箱』で取り扱った内容と共通しているところがあったので、たとえばヨハニスクラオト(オトギリソウ)の前で説明を始めたら、ドイツ語がよくわからなくても内容がわかるから不思議なものだ。約2時間のツアーが終わる頃には雨も止む。貴重な時間だった。
8月31日(金)
ウルムからミュンヘンに。ホテルでチェックインしてからベネディクトボイエルン修道院に行く予定だったが、今日も雨。明日の予定と取り換えてインゴルシュタットへ行く。ここは今春行ってきたばかりである。今回の旅は最後の2日間以外、今春あるいは数年前に行ったところばかりである。なぜかというと、その際訪れた薬草園の春と夏の違いを見ておきたかったからである。
ということで、インゴルシュタトは雨でもよかったのだが、面白いもので、インゴルシュタットに着いたときには雨は上がっていた。
この春来たばかりと言っても、薬事博物館が目的だったから、町をよく見たわけではない。薬事博物館の薬草園での目的は果たしたので、帰る時間まで町を散策する。なかなかいい町である。滔々と流れるドーナウ川の岸辺でしばし休む。つい数日前にこの川の源泉を見てきたのだと思うと、こういう旅ができることを心から嬉しく思う。
9月1日(土)
ベネディクトボイエルン駅下車。目の前がもう修道院。739年にベネディクト会によって作られたオーバーバイエルンでもっとも古い修道院である。バロック様式の壮大な建物に目を見張る。
この修道院で19世紀初頭に「カルミナ・ブラーナ」という古い詩歌集の写本が発見された。約300ある歌は恋愛や酒などを題材にした世俗的なもので、おそらくここを訪れた学生や修道僧たちが作ったものだろうといわれている。
20世紀になってドイツの作曲家カール・オルフによってそのうちの24の詩に曲がつけられて、『カルミナ・ブラーナ』は世界的に有名になった。中でも「おお、運命の女神よ」という合唱曲はよく知られていて、映画やコマーシャルにBGMとしてよく使われているそうだ。
「そうだ」というのは、私は詩歌集のことは知っていたが、恥ずかしながら、カール・オルフのことやBGMのことなど知らなかったので、たまたま私の知り合いが合唱でこれを歌うということを聞き、興味を覚え、だったら行ってみようと思った。
修道院内部はガイドツアーでしか見られない。午後2時からの1回だけである。12時頃に着き、修道院付属の薬草園を先にじっくり見ておいた。これは正解だった。ベネディクトボイエルン駅から乗り換えのトゥツィングまで行く電車が1時間に1本、遅くなると2時間に1本になってしまう。ツアーは4時に終わるので、そのあとで薬草園を見たらミュンヘンに戻るのがとても遅くなる。
問題の「カルミナ・ブラーナ」だが、それだけ有名なら、修道院の中はさぞ「カルミナ・ブラーナ」だらけ、たとえば中はこの曲がエンドレスで流されているのではないか、写本のコーナーはじっくり見られるように広いスペースがあるのではないか、ショップではCDやそれ関係の本がたくさんあるのではないかと。まあ、そんなことはないだろうと思っていたが、その通り。ここは歴史的に由緒ある修道院、バロック様式やロココ様式の豪華絢爛な部屋がたくさんあり、ガイドはその説明に懸命で、「カルミナ・ブラーナ」の部屋も確かにあったが、ガラスケースに写本のコピーを2枚ほど展示して、簡単な説明パネルがかかっているだけ。ガイドの説明もいたってそっけない(ように思えた)。
ショップにはもちろんCDや本はあったが、「カルミナ・ブラーナ」グッズみたいなものはまるでなし。絵葉書くらいあってもいいのにと思った。
ベネディクトボイエルンのガイドツアーが14時からなので、昼までに着けばいいと計算、では午前中はどうしようとあれこれ考える。ミュンヘン市内はなんとなくもういいかという気持ちだったので、ベネディクトボイエルンへ行く途中のプラネッグに行くことにした。マリアアイヒという礼拝堂のある。バイエルン地方のマリア巡礼地である。ここのマリア像は黒い聖母子である。このことについてはこちらで。
ずいぶん久しぶりだった。礼拝堂の横の会堂が新しくなっていて、ショップも充実していた。
明日はミュンヘンを離れる。残った時間をアルテピナコティークか、せめてマリーエン広場あたりで夕食とか、どこでもちょっとくらい出てもいいかと思ったのだが、どうしてだろうか、まったくその気持ちになれなかった。人ごみが嫌だったのか(土曜日で人がいっぱい)、疲れていたからか(確かにこのところだいたい2万歩は歩いている)、ホテルは駅の隣である。ミュンヘンに2泊しながらあの駅前の広い通りを渡ることすらしなかった。ちょっともったいなかったかな。
9月2日(日)
午前中にヴュルツブルク着。いつも泊まるホテルは駅の真ん前。今回は別なホテルにしようとネットで検索して決めたのが、駅前通りを歩いて、右に曲がればユリウスシュピタールがある交差点の目の前。4階建ての立派な建物に大きくホテル名の看板。エッ、こんなに立派なの、すごく安いホテルのはずなんだけどと戸惑いつつ、中に入ると、合点。ホテルは4階部分のみ。しかも面白いのが、またもトイレ。予約したときに設備案内で「専用トイレとシャワー。ただし廊下に面している。」と書いてあった。これってわかりますか?まあ専用らしいし、安いしで予約した。
この建物は横に広くて、幅が狭い。つまり片側にできるだけたくさん部屋を作ると専用シャワー室がつけられない。だから廊下を挟んで反対側は一方よりも狭くして、そこはすべてシャワー室になっている。そして、ドアに「○号室専用」と書いてある。確かに専用だったが、使用するには服を着て、部屋には鍵をかけてでなければならない。でも、部屋は清潔だし、狭くて困るということもなかったし、廊下には共同のポットもあったし、朝食もまあまあだったし、交通の便もよく、値段を考えれば何の文句もない。ではまた次もここにするかと言えば、やはり室内にトイレ、シャワーのついているところがいいな。
チェックイン後、ハーナウ経由でゼーリゲンシュタットへ。春に来たばかりだが、今度はもっとゆっくりしよう。修道院の庭園、特に薬草園のコーナーはじっくりみよう。のんびりマイン河畔で時間を過ごそう、そう思ってやってきたが、ここも夏祭りで町の人たちが繰り出し、大賑わい。しかもものすごく暑い。日本を思えば耐えられるかもしれないが、ドイツでも暑いのは暑い。誰もかも真っ赤な顔をして歩いている。長い行列がある。何かと思ってみればアイスクリームの店。つい私も買ってしまう。
ウルムのときも、インゴルシュタトのときも、すぐに気がついたことだが、薬草園に入ると、薬草の香りがあたり一面たちこめている。薬草はどちらかというと見た目には地味なものが多い。春と夏の違いを知りたかったのだが、そういう点では驚くような違いはあまりなかった。せいぜい春にはなかった葉が茂っているなとか、これはあくまでも素人の判断だ。しかし、香りについてはこれが一番の違いだと思った。花や実が香りを通して精いっぱいその存在を主張しているという感じがした。
違いではないが、びっくりしたのがドイツスズランだった。白い小さな釣鐘状の花が茎に並んで咲いている様は誰もが思い浮かべるだろうが、そのちいさな実がこんなにも赤くてかわいいものとは知らなかった。ちなみにドイツスズランは有毒植物である。
また、庭園のダリアの花が満開で、見事だった。ダリアといえばすぐに思い浮かべるのはポンポンダリア。しかし、ダリアの種類は多く、なんでもアメリカダリア協会というのがあって、そこでは花の姿から16の種類に分けているとか。ダリアというとなんかポピュラーすぎてあまり関心を持たなかった私が無知だった。
9月3日(月)
ヴュルツブルク大学付属植物園で数時間を過ごした後、巡礼教会ケッペレへ行く。この教会に行くには覚悟がいる。ヴュルツブルクで有名なマリーエンベルク要塞も登るのが大変なのだが、その要塞を見下ろす高さにある。バスはない。ひたすら階段、階段・・・
実はここにも黒い聖母子像がある。主祭壇のある部屋の裏手に小さな礼拝室があり、そこに飾られている。
数年前、知人がヴュルツブルクに遊びに行くと聞いたので、だったらぜひ行ってみてはとお勧めしたところ、なかった(見つからなかった)と聞いてびっくりした。それで本当かどうか確かめようと、フーフーしながら登っていったのである。
昔通りの場所にちゃんとあった。知人がどうして見つからなかったのかよくわからないが、ひょっとして何かの理由で礼拝堂の扉が閉まっていたのだろうか。
ホッとして、町へ戻り、ユリウスシュピタールへ。ここには「ロココ薬局」という部屋があり、月曜から金曜の14時から1時間だけ見せてくれる。春には時間が合わず、残念な思いをしたので、今回はぜひにとスケジュールに入れた。で、どうだったかというと、同じようなものはミュンヘンのドイツ博物館やハイデルベルクの薬事博物館で見たことがあったので、正直それほどの感激はなかった。
夕刻、レジデンツの庭園へ行く。実に見事な造園で、しばしベンチに座りこむ。この時期は夜8時まで開園しているので、憩の場所としてこういう庭があるのはうれしい。
9月4日(火)
ヴュルツブルクからカッセルに。ドイツメルヘン街道協会のブリギッテと会う。カッセルでは6月から100日間、「ドクメンタ」という5年に一度の芸術祭が開かれている。そのためにホテルは軒並み値上がり。私がいつも泊まるホテルも例外ではなかった。そこでカッセルから電車で30分ほどのホーフガイスマルにホテルをとった。明日訪問することになっている町は電車で一つ隣りなので好都合である。
なによりホーフガイスマルには長年の友人であるウッフェルマン氏が勤めるインフォメーションセンターがある。ホテルはこのセンターの目の前である。彼はなんと今アイスランドを旅行中だということで、会うことはできなかったが、この春、ブリギッテと一緒に彼の職場を訪れ、このホテルで食事をしたので、雰囲気はわかっていた。
夕方までブリギッテとドクメンタを見る。市内のいくつかの美術館と広大な(これが本当に広い!)カールスアオエ公園を会場にして、様々な現代美術が展示されている。ともかくすごい人出である。美術館では行列もできている。美術学校の生徒たちだろうか引率者に従ってやってくるグループも多く目につく。ミュンヘンのホテルで一言挨拶を交わした日本人の男性と偶然出会った。話を聞くと、彼はこのためにやってきたのだという。
まずは公園内を歩く。これが芸術?というようなものもかなりあったが、大竹伸朗による作品「自画像―解体された倉庫」には人が集まっていた。小さな古びた倉庫とその前にひっくり返ったボート、倉庫のそばの木の上にもボート。ブリギッテは「これはツナミのことよね」と言う。
大竹伸朗は現在四国を拠点にして活躍している現代芸術家だそうだ。私は彼のことも知らなかったし、これがツナミや東日本大震災をテーマにしたものかどうかもよくわからなかったが、大勢の人が見ていることになんとなく日本人としてうれしかった。
9月5日(水)
マウルブロン近郊の森でビッケルさんの薬草ツアーに参加したのはずいぶん昔のことだった。再びそういうツアーに参加してみたいと思っていたところ、ブリギッテが今春ホーフガイスマルの隣町に住むツィンマーマンさんのツアーに参加して面白かったということを聞いた。そこで、もしこの夏に同じような企画があるならぜひ参加したいと言ったところ、ブリギッテがセッティングしてくれた。
ツアーの予定はないが、午前中なら薬草畑や森を案内してくれる。そして、夕方には薬草料理をご馳走してくれる。夜には薬草に興味のある女性たちが月一度ツィンマーマンさんを囲んで話をしたり食事をしたりする定例会(シュタムティッシュ)があるので、それに参加してもいいと。
大変ありがたい申し出だった。ブリギッテはいつも私のこうした希望を叶えてくれる。どれだけ感謝していることか。
というわけで、その日が今日。待ち合わせの場所はホーフガイスマルの隣のグレーベンシュタインという駅。こうして、ツィンマーマンさんや彼女の仲間と過ごした一日はとても有意義だった。すばらしい経験だった。
私がキノコ好きだと言ったら、今晩食べるキノコを探しましょうと言って森に連れていってくれた。あいにくキノコは見つからなかったが、その気持ちがうれしかった。
シュタムティッシュに集まった仲間たちは何か一品もってくる。パンであったり、ケーキであったり。それを分け合って食べる。バラ科のメーデジューセ(和名セイヨウナツキユキソウ)という花のジャムがとても美味しかった。
私は夏なら赤い金魚とか日本の春夏秋冬を表面に焼きいれた和製クッキーをお土産に持っていった。お世辞かどうか、きれいだし、美味しいと言ってくれた。座の中心はツィンマーマンさん。彼女は実に魅力的な女性だった。仲間が集まってくるのがよくわかる。
9月6日(木)
カッセルから電車を乗り継いでナウムブルクへ。チェックインした後、すぐにバスでネープラまで行き、そこで別なバスに乗り換えれば3時半にはメムレーベン修道院へ着く。修道院の閉まる4時半に再びナウムブルクに戻ってくる。これが今日の予定だったのだが、大幅な変更を余儀なくされた。
というのは、バスに乗って20分くらい走ったとき、車体の下でズズズというものすごい音がして、バスが止まってしまった。運転手はバス会社にだろう何度も電話をかけた末、すぐに代替えバスが来るから待っているようにと言う。待つしかない。歩いて戻るには遠くに来すぎた。そして、代替えバスが来たのは1時間後。ネープラに着いたときには修道院行きのバスは最終バスだ。それに乗ったら帰って来られない。
ウーン、ネープラからナウムブルクに戻るこれも最終バスは2時間後。バスセンターと言っても、まったく何もない。鉄道のネープラ駅はここから歩いて20分強。しかも時刻表を調べていないから、駅に行ったとしてもバスより早い電車があるかどうかわからない。
ウーンである。どうしたものか。ここで2時間待ってナウムブルクに戻るか。今日一日まったく無駄になる。それも癪だ。で、時刻表をじっくり見ると、1時間後にアイスレーベン行きのバスがやってくることがわかった。アイスレーベンはルターが生まれ、亡くなった町だ。そこなら鉄道でナウムブルクに戻ることもできるし、本数もあるはずだ。アイスレーベンも久しぶりだし、よし!それにしようと、バスを待つ。チューリンゲンの森を見ながら、ハルツの東端アイスレーベンまで1時間。
アイスレーベンの駅ってこんなに小さかったかなと遠い記憶をたどる。幸い駅員がいたので、ナウムブルクへ戻れる電車を最終まで教えてもらう。2時間は町を見る余裕があったので、歩き出す。駅から近いと思っていた町の中心は歩いて30分弱もかかった。そういえば駅からバスで行ったかもしれないと自分のあやふやな記憶を呪いつつ、歩く。
アイスレーベンにはそれなりにいい印象を持っていたのだが、今回はそうは思わなかった。ただ、ルターの故郷という思い入れだけだった。1時間ほど町を見て、さて、バスセンターに行けば、もう駅行きのバスは終わっていた。やむなくまた30分かけて歩く。
ナウムブルクは特急も止まるので、ハレで乗り換えようとしたら、特急は大幅に遅れているので、普通列車に乗るようにというアナウンス。やむなく普通列車に乗ったはいいが、あたりはすでに真っ暗、ホームの表示版も見えないので、どこの駅に着いたのかわからない。ドイツ鉄道は特急以外は次はどこなんてアナウンスしない。降り口は右とか左とかどうでもいいことはアナウンスするのに。
ということでだんだん不安になる。こういうときは聞くに限る。地元の人だろう、親切にあと3つ目と教えてくれた。なんという一日だったろうと思い、そういえば夕食もまだだった、ホテルで食べようと、ホテルは駅のそばなので、駆けつける。9時20分。ああ、無情。ホテルのレストランは9時で終わり。フロントの女性がいうのは、町に出ても、もう営業しているレストランはないと思うだって。
それでも探しに出かけ、小さなコーヒー店をみつけたので、持ち帰ると、フロントの女性が気の毒に思ったのだろう、パンとハムとチーズを一皿にしたものなら用意できるから、部屋で食べますかと申し出てくれる。5ユーロだったが、その量の多いこと、半分でいいのにと思うが、彼女の親切をありがたく受けて、部屋で一人食べるも半分も食べられなかった。
グダグダと書いてしまったが、こういう日もあると、それはそれなりに楽しんだ一日だったのかもしれない。とはいえ、今日の写真はひどい!
9月7日(金)
メムレーベン修道院に行くつもりでナウムブルクに宿を取ったのだから、やはり行こうと今日の予定を変更し、昨日と同じコースでバスに乗る。ドキドキしたが、今日は何事もなく10時前に修道院に着いた。ここへ再び来る目的は庭にある薬草園を見ること。2008年に訪れたとき、ここで見た瓢箪をもう一度見たいと思ったこと。時期的には同じ夏だったが、白い小さな瓢箪の実がもう少し大きくなっているのではないかと期待したのだ。ところがどうしたことか今年の瓢箪は黄色の気持ち悪い形をしているのだ。どうしたのだろう。違う種類に植え替えたのだろうか。
修道院内の展示も含めて、2時間かけてじっくり見る。帰りはバスでは無理だとわかっていたので、受付の人にベープラまでタクシーをお願いした。女性の運転手だった。降りるとき、17.50ユーロだったので、少ないけどおつりはいらないと言って18ユーロだしたら、3ユーロ返してくれた。どういうこと?「これからの旅行に使ってね」だって。そんなに貧乏旅行に見えたのだろうか。タクシーでまけてもらったのは初めてだ。
こうして午前中に着く予定だったザーレフェルトに夕方着く。町はお祭りで中心街の店は夜中の12時まで営業するのだそうな。今晩はレストランでゆっくり食事ができた。
9月8日(土)
グリム兄弟の『ドイツ伝説集』に「ひげの生えた乙女」という話がある。大筋を紹介する。
ザールフェルトを流れる川の中に教会が建っていて、そこには十字架にかけられた修道女とその足元に上靴が片方、そしてそこにひざまづいてヴァイオリンを弾く男の姿を彫った石碑がある。その謂れは・・・
ザールフェルトの修道院に美しい王女が修道女として暮らしていた。ある国王がこの王女をどうしても我が物にしたいと執拗に迫り、諦めようとしなかった。王女はこの美しい身体ゆえにこういうことになるなら、醜い身体にしてくださいと熱心に神に祈った。すると、たちまち王女の顔には醜いひげが生えてきた。王は怒って、王女を磔にした。ところがすぐには絶命せず、大変な苦しみに耐えていた。
これを憐れんだある楽師が苦しみを和らげようと一生懸命ヴァイオリンを弾きつづけた。疲れてひざまづきながらも弾き続けた。王女はこの楽師に感謝し、金と宝石の施された上靴を片方落として楽師に与えた。
この石碑のある教会は、その近くにかかっている橋から階段を下りたところにある。
グリム兄弟はこれと似た話を『グリム童話集』の初版に載せたが、伝説の分野にあたるということで再版からは省いている。
私はこの話が好きで、いつかザールフェルトに行ってみたい、その石碑とやらを見てみたいと思い続けてきた。あるとき、ミュンヘン郊外のプラネッグにあるマリアアイヒ礼拝堂で黒い聖母子像を見つけたとき、そこにこの話通りの像があるのを見て、とてもびっくりした。
それで今回は無理にもザールフェルトをスケジュールに組み込んだ。もっともこの石碑が今もあるかどうか、この伝説がザールフェルト市の観光として伝えられているかどうかは怪しいと思っている。市のHPを読んでも一言も触れていないからだ。
この町の観光名所の一番は「メルヘン洞窟」という大きな鍾乳洞である。私は鍾乳洞も大好きだから、これが見られたらそれでもいい、ともかくザールフェルトを流れるザーレ川が見られたらいいと思った。
ザールフェルトは予想以上にいい町だった。いくつかの市門と外壁に囲まれた市街地は木組みの家もいいし、横道も雰囲気があるし、もう一度行ってもいいと思った。
鍾乳洞は町からバスでほんの10分ほどで着く。一帯が公園になっていて、家族連れが多いが、大人だけのグループもけっこう楽しんでいる。私は植物園を歩いてから昼食。メニューに「赤ずきん」というゼクト(スパークリングワイン)があるのを見て、頼む。このワインはお店でよく見かけるが、飲むのは初めてだった。
鍾乳洞はガイド付きでないと入れない。中は寒いからと入口でマントを渡される。三角帽子もかぶりたかったら貸してくれる。
ドイツや日本の鍾乳洞はいくつか見ているので、それほど素晴らしいとは思わなかったが、最後の「童話の森」という鍾乳洞には感動した。天井から垂れる無数の鍾乳石が下の浅い池に映って、まるで地下に森が広がっているよう見える。きれいな曲が流れ、しばしうっとりして見とれる。写真ではうまく写っていないが、少しは雰囲気わかっていただけるだろうか。
で、ひげの生えた王女の話はどうなったかというと、『ドイツ伝説集』にこの石碑は「ザーレ川の橋から階段づたいに行ける」と書いてある。
ザールフェルト駅前の広い道路をまっすぐ歩いていけばザーレ川にかかる橋がある。そこから階段で川辺まで行くことができる。左の階段を下りて川岸を歩いていくと私が泊まっているホテルの裏側にでる。もちろんというか残念ながら教会が建つような中洲などない。長い藻が流れにゆらゆら動いているのが見えるだけ。
右側の階段を下りると、ベンチが一つ。しばらく座って、カモの泳ぐ川面を見つめていると、どうみてもカモではない何かが泳いでいる。大きなネズミ?カワウソではないだろうか。数匹がスーイスーイと泳いでいる。無理してでもザールフェルトに来てよかったと思う。
9月9日(日)
今日が日曜だったということを意識していなかった。どうしてもお土産に買いたいものがあったが、ザールフェルトは観光地ではないからお店は軒並み休み。お土産は諦めて、ワイマールかエアフルトに寄ろうか、あれこれ考えて、やっぱりお土産を買おうと決断。遠回りになるが、ライプチヒ駅に行くことにした。ここはたくさんの店が入っていて、日曜も営業しているのを知っていたからだ。こうしてライプチヒ駅で買いたかったものを買い、夕方の電車でフランクフルト空港へ。
飛行機の中の楽しみに映画がある。今回も往復で4本見た。日本映画「テルマエ・ロマエ」がとても面白かった。原作はコミックだということだが、アイデアがいい。阿部寛という役者はテレビのコマーシャルでしか知らなかったが、なかなかローマ人に似合っていた。
米映画「ショーシャンクの空に」もなかなか面白かった。最後がちょっと安易すぎるかなとは思ったが、エンターテインメントらしくこれでいいのかもしれない。
25日間の旅を終えて成田に着く。秋が来るまでこの蒸し暑さと付き合うのかと思う。(了)
7年前と2年前の2回、ドイツへ一緒に行った仲間たちと今年の夏は蒲郡の花火を見に行ってきた。メンバーのKさんが故郷の蒲郡にご夫婦で暮らすことになり、蒲郡の金魚花火は面白いという話をしてくれたのがきっかけ。
金魚花火?それ何?初めて聞いた言葉だった。説明を受けても、ネットで見ても、どうもイメージが浮かばない。だったら、見るにかぎる。ということで、メンバー8名で1泊2日の蒲郡の旅を楽しんできた。K・Tさんが綿密なスケジュールを作ってくれた。現地ではKさんとK・Tさんの車に分乗して移動という大変楽な旅行だった。
昨年一度だけ、それもとんぼ返りで、名古屋に行っただけで、愛知県のことは何も知らなかった。いろいろなものを見て、とても楽しい旅ができた。その中で、特に、私が面白かいと思ったこと、へーと思ったことなどを簡単に記しておく。
7月28日(土)
豊川駅に集合し、豊川稲荷の近くのうなぎ専門店で昼食。関東と関西の蒲焼は違うということを聞いていたが、実際に食べたのは初めて。関東風のねっとりした蒲焼と違って、蒸さないで、そのまま焼く関西風は皮がパリパリして美味しかった。K・Tさんから教えてもらったのだが、裂き方も違うそうで、関東は腹から裂くのは切腹をイメージさせるので、背から裂くそうだ。へーと感心した。私は夜に備えてうなぎ半分の定食にした。
豊川稲荷
稲荷といえば神社と思っていたのだが、ここがお寺だったのにびっくり。正式には「豊川閣妙厳寺」という曹洞宗の寺院。信仰対象はインド由来の仏教の女神「だき尼真天」。この女神は宝珠と稲穂を持って白狐に乗った姿で描かれているので、通称「稲荷」になってしまったということだ。これもへー。
奥の院の裏手に霊狐塚がある。塚の上には五百羅漢ならぬ大小取り混ぜた狐の石像がびっしり立ち並んでいる。石工に作ってもらうとかで、顔もさまざま。中でも親子狐像の表情がとても面白かった。なにを意図してこういう顔つきにしたのだろう。
東海道赤坂宿の大橋屋
東海道の道幅は場所によって違うのだろうと思うが、ここ赤坂の宿の場合は狭いなあと思った。そこに現在1軒だけ残っている旅籠、大橋屋を見物した。面白かったのは一階から2階へ料理を運ぶリフトがあったこと。リフトといっても、おそらく手動だろうが、大きな箱を上に引き上げるだけのもの。
ルートヴィヒ二世の作ったノイシュヴァンシュタイン城を思い出した。ノイシュヴァンシュタインの場合は歯車を使って動かしたようだし、王は一人だけで食事をしたかったので、そういう装置を作らせたが、ここでは狭く急な階段を重い料理を運ぶ不便解消のためとそれぞれ用途は違っていても、面白いなあと思った。
金魚花火
蒲郡では明日の日曜に大きな花火大会が行われる。これは相当大きくて、大勢の観客が押しかけるそうだ。今晩の花火は蒲郡市中区にある秋葉神社のための奉納花火である。神社近くの三谷漁港広場で行われた。
花火の種類は4種類。「打ち上げ花火」と「乱玉花火」はそう珍しいものではなかったが、思っていた以上に大きな規模だったのは楽しめた。「手筒花火」は初めて見た。三河地方独特のものだそうな。火薬を詰めた竹の筒を縄で巻いて細長い筒にし、そこに火薬を入れる。筒を横にして火をつけると、筒口からものすごい勢いで花火が飛び出してくる。そのときを狙って横になっていた筒を立ち上げて抱きかかえる。シュッシュッ、バシバシと花火が上へ飛んでいく。しばらくすると筒の底が抜けて、ものすごい音とともに闇の中に火の粉が飛んで消える。筒を持った人はさぞ怖いだろうと思う。
この手筒花火を打ち上げるのはこの地区の青年会の男性会員である。一人一人の名前が読み上げられる。今年42歳になる本厄の男性たちも紹介され、打ち上げに参加。手筒の太さや長さにも微妙な違いがあり、最後に打ち上げた青年団の団長のは一段と長く太かった。
筒を抱えて両足を踏ん張って立つ。まるで歌舞伎役者の見得のようで、いかにも男性的でかっこよかった。まわりからは「パパ!」とか「○○さん!」なんて声が飛ぶところも歌舞伎と同じ。これが20発以上続く。
ついで金魚花火。どういう仕掛けになっているのかわからないが、屋形船が何艘も海上に出て、そこから勢いよく「何か」を発射する。するとそれが赤い火の固まりとなって、海上をすべるように動き出す。確かに赤い金魚だ。数知れない金魚が海の上を動く。私はひたすら目を凝らして見つめる。動画で撮ったが、赤い光のようにしか写っていなかったのは残念。最後に「○○の打ち上げ花火は○○さんがお孫さんの誕生祝いとして奉納されました」(正確ではない)というような紹介が続く。まさに地元の人々による手作りの奉納花火大会だ。なんとも面白いなあと思う。とても堪能した。教えてくれたKさんに感謝。
この夜の宴会
いつものように、飲み、食べ、しゃべる。場所は「昭和食堂」といういかにもレトロな名前の居酒屋。店内には昭和を代表する映画のポスターがいたるところ貼ってある。料理もなかなか美味しかった。味噌カツ、昔ながらの焼きそばなどグーな味。アルコールがほどよく回ったところで、T・Kさんが学生時代によく歌ったというドイツ民謡「わすれな草」を披露。なぜ「わすれな草」なのかということは書けば長くなるので、省略するが、ともかく「へー」の一つだった。お開きは2時半。
7月29日
竹島
蒲郡の海岸から長い橋を渡ったところにある小さな島。ここでみた「スホウチク」という竹が面白かった。天然記念物ということだったが、どこかで見た覚えがある。普通の竹のようにつるつるした緑色の節の上下の節は鮮やかな青い縦線が何本も入っている。この節の模様が交互になっている。けっこう面白い。
八丁味噌工場見学
岡崎城のそばにある八丁味噌工場を見学。「カクキュウ」と「マルヤ」2つあるが、私たちは「マルヤ」に入る。味噌作りの行程をガイドさんが説明してくれる。味噌の元を入れた大きな樽の上には大小の石がピラミッド状に高く積まれている。総重量約3トンとか。大きな石一つだと傾いてしまい、重しとしては均衡にならないという話になるほど。八丁味噌の謂れは、昔、このあたりの村を八丁村といい、味噌作りが盛んだった。八丁とは岡崎城から八丁離れていたからだと。なるほど。八丁味噌に白味噌などを混ぜた混合味噌が赤味噌で、八丁味噌は純粋味噌だそうな。なるほど。
岡崎城
徳川家康の生まれた城。それほど大きくない。隣の家康館に入るが、それほどへーとか面白い!というものには出会わなかったのは江戸時代についての私の無知ゆえである。
ただ面白いと思ったものが一つあった。庭園に淡墨桜の木があったこと。この桜については今年3月の京都旅行で触れている。
岡崎駅
ここでグループは解散。私を含む4人は豊橋まで出て、あとは新幹線で東京へ。Kさんは蒲郡の自宅へ。T.Kさんは奥さんのSさんと蓼科の別荘へ。
そこで最後に皆でお茶をということになったのでが、そのお茶を飲むところが駅前にまったくない。1件だけあったカフェは日曜で休み。立派な駅舎なのに、スタンドバーもなし。これでいいの?でも、きっと地元の人には必要ない施設なのだろう。
豊橋駅に出てもコーヒースタンドすら見つからず。売店で飲み物やお弁当を買って、待合室で食べるというもの。もしかしたら私が見つけられなかっただけかもしれないが、そんなもん?なんて思うコーヒー飲みたい私でした。
【追記】Kさんがここの部分を読まれて、とても恐縮しているというメールをいただきました。私としては「それも楽し」のつもりで書いたのですが、私の書き方がきつかったかと反省しました。Kさん、気になさることはまったくありません。
ひかり号に乗ったらあっというまに東京。愛知県のほんの一端しか見られなかったが、手筒花火と金魚花火を堪能できて満足のゆく旅だった。手筒から飛び出す金色の光の束、海上を勢いよく走る金魚の赤色が今もまぶたに焼き付いている。
*今回も写真がうまく撮れなかったので、Sさんの写真をお借りした。ありがとう。
知人のMさんから、ガイドブックでは行けない、見られない石垣島を案内するので行かないかと誘われた。3月に沖縄本島と石垣島、竹富島に行ってきたばかりだったが、行ってみようと思った。それはもう少し沖縄について知りたかったということと、Mさんが長年八重山の雑穀について研究し、綿密なフィールドワークを積み重ねてきて培った現地の知り合いの方々を紹介してくださるというので、きっと濃い旅ができるだろうと思ったからだった。沖縄の暑さに耐えられるだろうかという不安もあったが、石垣島の最北端で星空を見たいという思いも強かった。
7月1日(日)
チェックインしたあと、白保までバスで。乗客は2人。一人は白保の民宿のおばさん。海岸へ行くところにあるまあまあな宿。玄関先に咲いているハイビスカスの花を折ってくれる。今度石垣島に来たときは考慮してみますねと言って別れる。しばし海を眺めて、30分後に来るバスに乗って、石垣市内に戻る。
今日到着のF氏からメール入っていたので、バスターミナルで待ち合わせし、彼が借りたレンタカーでバンナ公園へ。時間がないので、頂上駐車場で一瞥するだけで降りてくる。
市役所前で全員合流。18:00頃から沖縄料理の店で夕食。参加者は元太田知事の側近であった元県職員、黒島出身のT氏)、地元で農家を営むM氏とU氏、石垣島の農家と地元料理を知りたいという目的で関西方面からやってきたSさん、Dさん、Saさん、黒島で保育活躍をしているkさん、そして東京組3名のにぎやかな夕食となった。農業の実態など私の知らないことをたくさん聞かせてもらう。
10時半頃お開き。そのあと関西組みとF氏、私で「琉歌」というライブハウスで一飲みしたあとホテルへ。
ホテルは4階だったので、海は見えず。後でMさんの部屋から外を見せてもらったら海が見渡せてとてもよかったので、3日にまた戻ってくるので、そのときは上の階にしてもらうように頼む。
7月2日(月)
朝、9時半ホテルのフロントに集合。関西の3人と私たち3人、2台のレンタカーで出発。やがて進行方向左が東シナ海、右手が太平洋、その距離200メートルというところを走り、石垣島北部の玉取り展望台で快晴の海の眺望を楽しむ。
平久保にある食堂「浜遊」に立ち寄り、オーナーの米盛さん、写真家の大塚さんを紹介してもらう。サガリ花を見につれて行ってもらう。夜咲いて、朝には散ってしまう幻想的な花。その夜も見に連れてきてもらうことになったので、とても楽しみ。満天の星も見えるかもしれない。
その後、浜木綿が一面に咲く浜辺でしばらく遊び、「浜遊」に戻り、ソーキそばの昼食。裏手にある米盛さんの畑や林を案内してもらう。知らない植物がたくさんあり、言葉だけでは知っていてもはじめてみるものなど、とても面白かった。
その後、道とはいえないものすごいガタガタ道を走って昔の集落の遺跡へ。ほとんど何もない。坂を降りれば海岸に出る。ヤドガリが砂浜を歩いた跡がしっかり残っている。まるで幾何学模様のようで、しかもかわいい。
朝鮮半島から流れ着いたハングル文字のペットボトルがたくさん打ち寄せられている。しばらく海を眺め、次に風葬がそのまま残っているところに連れていってもらう。話には聞いていたが壮絶なものだ。そこから、今晩の民宿「北のとうだい」へ。汗びっしょりなので、私は荷物を持ったまま真っ先にシャワー室に飛び込む。でも、タオルがなかった。狭いシャワー室。これはこれでしかたないか。なにせ、明日の朝食込みで2000円とか。部屋は女性4人で雑魚寝。
夕食は「浜遊」で。その前に平久保灯台へ。ちょうど夕陽が沈む時間。東シナ海のほうに沈む。そして太平洋側からは月が昇ってくる。今夜は十三夜の月、煌々とあたりを照らす。これはこれで素晴らしいのだが、おかげで満天の星空は無理とわかる。
夕食は、Mさんがさっぱりしたものをと注文してくれたので、野菜中心のさっぱり系。藪カンゾウ(アキのワスレグサ)という百合科の花の甘酢漬けがとても美味しかった。あまり褒めたからか、冷凍したものを全員お土産にたくさんいただく。
夕食が終ってから夜咲くサガリ花を見に行く。昼間みた場所である。ここは米盛さんが手入れをしてともかく観光用になっている。サガリ花は実に幻想的な花だ。見ていると、一つ一つスーと流れ星のように落ちてくる。
宿へ戻ってから、宿主の知り合いが海で取ってきたというシャコガイとホラガイの料理をいただく。ホラガイの貝が見事なので、F氏はもらって、宅配便で送っていた。
中庭にござを敷いて、横になったり車座になったりしていろいろ話す。月明かりの届かないところに見える星々。1時ごろまで石垣島の北の果てを楽しむ。
7月3日(火)石垣島から黒島
早朝のサガリ花を見に行くので、6時集合。浜遊に行き、そこから米盛さんだけが知っている場所へ連れていってもらう。湿地帯なので、長靴を借りる。原生林とは言わないまでも凄い林の中を歩く。ここのサガリ花は数からして昨日のとは段違い。ここを観光化するかどうか、地元でも意見が分かれているようだ。
平久保に別れを告げ、川平湾に寄って、砂浜で朝食(民宿で作ってもらったパン)を食べる。しばらく海を見てから石垣乗船場へ。
石垣港から黒島へ。迎えの車で島仲文江さんの家へ。関西組が農地の整備と地元料理を作ってみたいという希望を叶えるべく、Mさんが交渉して設定してくれた。関西組はすぐに台所の手伝い。邪魔にしかならないだろう私は近所を散策。目に前にウタキがある。暑い。歩く気力なく、ここのベンチでボーとする。
昼食ができあがり、黒島料理をいただく。ウンヌイ(すり潰したベニ芋に小豆を入れておにぎりのようにする。)魚汁(丸グルクン)、在来カボチャ、空気てんぷら、青菜とトマトの胡麻和え。
食事をしながら離島の人たちの結婚についてこんなことを聞く。何もすることがないので、若いときに結婚し、子どもを生む。でも、離婚もする。親が孫を子どもとして育てたりするらしいが、誰もそれを隠したりせず、おおっぴらなのだそうな。
午後はユシ豆腐作りを見せてもらい、出来上がったらすぐに食べる。島仲家のお嫁さんの仕事である。すごく美味しい。作っているところを見ると簡単そうだが、やるとなるとうまくいかないだろうな。私は黒島の歴史や文化を紹介する黒島ビジネスセンターを見て、4時の船で石垣島へ戻る。
ホテルにチェックインしてシャワーをして一休み。みんなが戻ってくる頃、港へ迎えに。関西組は島仲家に泊めてもらい、畑作業をするとか。
夕食は江戸前寿司の店。ただ、沖縄産の青い魚の握りも出てくる。地元の野菜をつかったテンプラなど。飲みながら、話はつきない。星野リゾート開発のことも話題になる。お開きになってから私はコーヒーが飲みたくて、竹島の有力者のYさんに案内してもらって30分ほどおしゃべりする。
7月4日(水)
M氏の農園を見せてもらう。関西組は黒島から農園に直接やって来る。
M氏の息子さんは地元観光を支える仕事に従事し、農園は継がないそうだ。それで、M氏は農作物を今は果樹に植え替えて、果物を息子さんに食べてもらうのだということだった。
今日も暑い。アセロラの実がたわわ。初めて見た。もいで持って帰る。イランイランの花も、バナナの花も、初めてみるものばかりで面白かった。帰りは農協(ユラティク市場)まで連れていってもらう。いろいろ野菜を買って、タクシーで空港まで。那覇経由で羽田へ。
沖縄はけっこうはまりそうでこわかった。いつかまた行ってしまいそうな気がする。Mさんのおかげで本当にいい旅になった。
*覚書
・琉球方言はエ段がイ段に、オ段がウ段になる。おたき(御嶽)→うたき など。
・見事な街路樹は福木という樹だった。
モインからグリュースゴットまで
「モイン」は低地ドイツ語で「やあ」「こんにちは」「じゃあ」というような挨拶の言葉。グリュースゴットも同じような使われ方をする南ドイツ独特の挨拶語。グリュースゴットはこれまでよく耳にしたが、モインを耳にするのは初めて。最初は「モーニング」のように聞こえ、朝でもないのにといぶかしがったが、そうかこれが文字だけでみたことがあるMOINなんだなと気付く。
今年の春のドイツ旅行はデンマークと国境を接するシュレースヴィヒ・ホルシュタイン州のモインから始り、グリュースゴットのミュンヘンまで15日間。目的は大きく2つ。それについては最後に回し、まずはスケジュールと簡単な感想を。
4月25日
成田からフランクフルト経由ハンブルクに。ここで1泊。
4月26日
ハンブルクからシュレースヴィヒに。ここで3泊。
聖ペトリ教会とバイキングの居住地ハイタブにあるバイキング博物館へ。
4月27日
すぐ向かいはデンマーク、バルト海へ通ずるフレンスブルクと北海に面するフーズムへ日帰りで。
フーズムは『みずうみ』の作家シュトルムのふるさと。彼にそれほど思い入れはないが、重い雲に覆われた北の果ての町というイメージがあり、それを実感しようと行ってみる。ところが思っていた以上にいい町だった。ニーダーザクセン州のシュターデとリューネブルクのいいところをあわせたような町だった。
4月28日 シュレースヴィヒ城博物館
見ごたえあり。別棟にあるエルンスト・バルラッハとケーテ・コルヴィッツの彫刻は必見。
4月29日
ハンブルクで途中下車して、その後ヴェアニゲローデへ。ここで2泊。
ハンブルクで知人のアンゲリカと会い、一緒に倉庫街にあるスパイシー博物館へ。ヴェアニゲローデでは知人のゲルディとイタリアンの夕食。
4月30日
ヘクセンタンツプラッツとヴェアニゲローデでヴァルプルギスの夜を。
今年は久しぶりにヘクセンタンツプラッツ(魔女の踊り場)のヴァルプルギス会場を覗いて見ることにした。ゲルディの娘さんのご主人が火の輪を使ったショー(フォイアーシュピール)を見せるというので、楽しみにして出かけたが、実演は予定変更で20時からだという。
ゲルディのお孫さんのレアちゃんも火のショーを夜ヴェアニゲローデの城で初登場だという。レアちゃんは緊張した顔つきで「見てね」と言っていたので、それに間に合わせるには、ヘクセンタンツプラッツは18時に出なければならない。中途半端になるが仕方ない。これからいよいよ佳境に入るかという頃にターレの町に戻り、ヴェアニゲローデに向かう。
レアちゃんの火の輪のショーは立派だった。まだ12歳の女の子。おじさんに習って頑張った。たくさんの拍手。その様子、なぜかフラッシュが機能せず、レアちゃんの芸だけでなく、夜の撮影はみなピンボケ。
ここで若い日本人男女4名と会う。「ひょっとしてザーゲさん?」と言われてしまう。 拙著を読んでここに来てくれたとか。嬉しいことだ。
5月 1日 ゴスラーへ。ここで1泊。
あまりにも天気がよかったので、皇帝居城の庭で数時間ボーと過ごす。大げさに言えば、至福の時。
夕方、由紀子さんと待ち合わせして、知人のアレックスの家に。久しぶりに会うクリストファーも交えて、バルコニーでバーベキュー。話はSeeleとGeistの違いになる。日常会話でさえままならぬ私は思うことを伝えられずもどかしい思いをする。日本に帰ったらメールするといいながら、まだ果たしていないが。
5月2日 カッセルへ。ここで2泊。
ホテルにチェックインしたあと、ゼーリゲンシュタットというマイン河畔の小さな町へ。ここはフランク王国のカール大帝にまつわる伝説のある町。カール大帝は娘エンマと恋人エギンハルトの仲をなかなか認めようとしなかったが、遂に許し、この町に住む二人を祝福する(ゼーリヒ)ことになる。この伝説は知っていたが、場所までは知らなかった。
そのエギンハルトの作った教会の薬草園に行くために調べてわかったことだった。マイン河畔に面した旧市街は木組みの家が並び、予想していた以上に綺麗な町だった。
5月3日 ホーフガイスマル
カッセルのグリム博物館へ。今年全面リニューアル。展示の仕方もずいぶん変わり、それなりに面白味もなくはなかったが、全体的に言うと、学問的な側面が強くなったように思う。
世界中で翻訳された『グリム童話』の本を並べた展示コーナーがなくなったのは淋しいし、子どものためのコーナーも消えてしまった。挿絵がたくさん展示されているのだから、それらのポスター販売などもあっていいと思うが、そうした記念品を扱うグッズコーナーが極端に小さくなっているのも淋しかった。
ここでメルヘン街道協会のブレドウさんと待ち合わせして、彼女の車でホーフガイスマルへ。この町のツーリストインフォメーションセンターのウッフェルマン氏と会い、町を案内してもらい、夕食をご馳走になって、カッセルに戻る。
ホーフガイスマルはザーバブルクやトレンデルブルクに行くために何度も降りた駅だが、町中を見たのは初めて。こなにも美しい町だったのかとびっくりした。
5月4日 バンベルク。ここで1泊。
ミヒァエルスベルク修道院。新宮殿。夜のガイドツアー(このことは後で)。
この地が発祥のラオホビーアと今が旬のアスパラガスを食べる。ホテルはE・T・A・ホフマンの家のそば。
5月5日 ヴュルツブルク途中下車後、レーゲンスブルクへ。ここで3泊。
ヴュルツブルク大学植物園(このことも後で)を見たあと、ユリウスシュピタールでアスパラの昼食。
5月6日 インゴルシュタット
いつだったか一度行ったことのある町。どこかへ行く途中でなんとなく下車したような覚えがある。そのとき見た薬事博物館が面白かったので、今回は目的をもって再度行くことにした。
早めにレーゲンスブルクに戻ってこられたので、ドーナウ河畔の歴史的ソーセージ屋に行く。2005年に友人たちとここで大いに食べ、大いに飲んだ楽しい思い出のある店。ただ、やっぱり一人で黙々食べるのは味気なかった。
5月7日 パッサウ
初めての町。たまたまパッサウのドームで木曜日昼にオルガンコンサートがあることを知り、レーゲンス滞在中に日帰りで行ってみようと思った。
大昔、友人からとてもいい町だと聞いていたが、機会がなかったので、今回行ってみる。その友人とは疎遠になってしまって連絡がつかないが、「本当ね。とてもいい町だったよ。」と知らせることができたらなあと思った。
町の様子もよかったが、特に、ドーナウ川にイン川が流れ込んで合流し、大きなドナウ川になって流れる様子は見飽きなかった。数年前、ドーナウ川の源泉があるドーナウエッシィンゲンに行ったが、ドーナウ川の源泉はもう一つ別なところにあるそうで、本家争いをしているという。今年の夏にはもう一つの源泉を見に行くことにしている。
5月8日 ミュンヘン
ミュンヘン大学へ。白バラ通信で知られたショル兄妹の記念室を見る。大学から歩いて英国庭園まで。しかい、見所の庭まで歩くには疲れすぎてしまった。それにとてもいい天気だったので、ベンチに座り、芝生で寝転んでいる人々をボーと眺める。これも至福のひととき。
その後、ヴィクトアーリエン広場であれこれ店を覗き、夕方、ミュンヘン空港へ。ミュンヘンから日本へ帰るのは初めて。さすがビールのミュンヘン。空港の建物の前にはビアガーデンが二つ。そういえば今回はヴァイツエンビーアを飲んでいなかったな、ということでチェックインした後、喉を潤す。
5月9日 成田から家へ
5月のJALは機内で見たい映画がたくさんあって困った。日本では見るつもりのなかったが、「マーガレト・サッチャー 鉄の女の涙」を見てみる。
メリル・ストリープの演技は絶賛されたが、映画としては難点ありで批判も多いようだったが、私には意外に面白かった。
認知症になっているというサッチャーの回想という形で始る。政治家としてよりも、家庭を持った妻であり、母である一人の女の悲しみが伝わる。
懐メロでケリー・グラントとデボラ・カーの「めぐり逢い」も見た。ときどき吹き出してしまうような面白さだった。ずいぶん昔見た「レナードの朝」をもう一度。
とこうしているうちに成田着。明日から仕事だ。
さて、次は旅の目的とその結果について、これも簡単に。
・シュレースヴィヒの聖ペトリ教会にある天井画
北欧神話(ゲルマン神話)の主神オーディン(ヴォータン)の妻フリッガと愛の女神フライアが空を飛んでいる絵がこの教会の天井に描かれている。1280年から1300年頃に描かれたもの。数年前、魔女の飛行について調べていたとき、この絵が紹介されている本に出会い、2002年に一度訪れている。
フライアが猫に乗っている。それはよくわかる。ところが、フリッガの乗物はなんだかよくわからない。ある本ではホウキと書いてあり、ある本では「木に似たもの」と書いてある。私にはどうしてもホウキには見えなかった。ずっと気になっていた。
ふと思い立って、この教会のHPにアクセスしてみた。すると、なんとこの絵を「魔女」と紹介していた。異教の女神を魔女とみなすのはキリスト教の見方だから、それはそうなのだろうが、だったらなぜ教会に魔女の絵を残しておくのかという疑問もある。
もう一度訪れて、できれば教会の人にこの疑問をぶっつけてみようと思ったのだ。受けつけの女性は「これは魔女ですよ。どうしてかって、そうなんですもの」みたいな返事だった。HPに魔女と書いた理由は、「魔女」という言葉のインパクトに頼った観光用のものではないのかと思ったが、どうだろう。
・バンベルクの魔女ツアー
別に魔女の格好をした女性が妖しいところを案内するなんて不真面目なツアーではない。バンベルクは魔女狩りの激しい町だった。その歴史をひも解きながら、町を案内する極めて真面目なツアーである。夜7時から9時まで2時間。参加者は男女合わせて10人ほど。あまりに激しい魔女迫害のせいか、バンベルクにはその痕跡は残されていないし、鎮魂の碑一つない。ドイツには市民が市当局と組んで記念碑や記念館のようなものを作っている町がいくつもある。私はツアーの最後になぜそういうことをしないのかとガイドに尋ねたら、「僕もそう思うが、市はその気持がないのだ」と云う。
薬局・薬事博物館・薬草園についてのメモ
*は過去に訪れたところ。
【ドイツに多い薬局の名前】
一角獣、鹿、ライオン、ヒマワリ、駅、市庁舎
【薬局の室内装飾とショーウィンドウ】
フーズム(スワン薬局)、ゴスラー(鹿薬局)、ヴュルツブルク(養老院ユリウスシュピタール薬局)*リューネブルク(市庁舎薬局)
【薬事博物館】
ホーフガイスマル、インゴルシュタット、*ハイデルベルク
【ちょっと変わった薬草園】
スパイス博物館(ハンブルク)、ミヒャエル教会の天井絵(バンベルク)
【修道院の薬草園】
ドリュゥベック、ゴスラー、ゼーリゲンシュタット *ミヒァエルシュタイン修道院
【大学や市立の植物園】
ウルム大学植物園、ヴュルツブルク大学植物園、インゴルシュタット薬事博物館の薬草園
今年の親戚会は淡路島1泊。この機会を利用して、大阪の親戚の家に泊めていただき、関西方面を歩くことにした。その1週間の旅で印象深く残っているものについて簡単に記しておく。
3月31日(土) 東京から大阪へ
羽田から関空までの飛行機、強風のため出発が50分遅れる。しかし、機中から見えた富士山が見事だったのでよしとする。
4月1日(日)
宿泊地は南あわじ市にあるホテル。ホテルのそばの福良港から観潮船咸臨丸(1860年勝海舟がアメリカに渡ったときの蒸気帆船を復元)に乗る。1時間コース。船乗り場に今日の渦の具合を伝える看板がでている。私たちが乗る時間帯は「期待薄」と出ている。2時間前だったら「期待大」だった。
私は数年前に鳴門から遊覧船に乗って、大きな渦は見ている。今日は確かに期待薄だったが、港から紀伊水道に出て、鳴門大橋の下あたりに来ると、瀬戸内海と鳴門海峡とでは潮の流れも速さもまったく違う。なるほど、ここで渦潮が生まれるのだなとよくわかる。
4月2日(月)
昨年の四国旅行のときに淡路島まで行きたかった。『古事記』で有名な国産み伝説の地をぜひとも見たいと思ったからだった。しかし、時間的に無理で諦めたことがあったので、今回は楽しみだった。
伊弉諾尊・伊弉冊尊の二神が天上の「天浮橋(あめのうきはし)」に立って、「天沼矛(あめのぬぼこ)」をもって青海原をかきまわしてその矛を引き上げたところ、矛の先から滴り落ちる潮が凝り固まって一つの島となった。これがオノゴロ島で、二神はその島に降りて夫婦の契りを結んで国産みを行った。初めに造られたのが淡路島で、その後次々に島を生んで日本国を造られたとされる。おのころ島の所在地については諸説あるようだが、淡路島の南の海上にある沼島(ぬしま)とする説がある。(ウィキペディアより)
沼島は灘ターミナルセンター(南あわじ市)の土生(ハブ)港から渡る。沼島は周囲9キロの小さな島だが、タクシーもなく、島の反対側には山を越えていかなくてはならず、足の弱い人にはかなり過酷。それで、約1時間で沼島の周りを一周する観光船(15000円)をチャーターする。このガイドの説明がとてもよかった。
沼島をとりまいて海上には多くの岩が立っている。中でも上神立岩という岩でできた島はいかにも矛の先から滴り落ちた雫が固まったみたいだ。海の色も鮮やか。黄泉の国への入口だという岩穴もあったりして、すっかり古代の世界に。
船から降りて、沼島で食べた昼食は蛸天そば。蛸のテンプラは初めて。淡路島の名産は玉ねぎで、どこへ行っても玉ねぎ、玉ねぎだった。土産物屋で試飲したインスタントのオニオンスープが美味しかったので、買ってしまう。
名物といえば、イカナゴのくぎ煮という佃煮も初めて食した。イカナゴは関東では小女子という小さな魚で、これを佃煮にすると、醤油色のついた曲がった魚がまるで釘のようだからだそう。関東でも知っている人もいるし、最近は通販でも購入できるので人気があるそうだ。私も小女子の佃煮は知っているが、釘みたいになっていただろうか。
またも「ウキペディア」を利用させてもらうと、「くぎ煮」は神戸市長田区の珍味メーカーである株式会社伍魚福(ごぎょふく)の登録商標だということだが、どこでも「くぎ煮」と表記してあった。毎年3月末頃には阪神地区、東播磨地区のスーパーに山積みされるという。明石海峡大橋のたもとにある淡路サービスエリアやJR新神戸駅・新大阪駅、神戸空港、大阪国際空港、関西国際空港などの土産物店でも販売されている。
関西でも、阪神地区、播磨地区、淡路地区以外ではイカナゴの釘煮はあまり食されない。例えば京都市ではいかなごの釘煮よりもちりめん山椒が主流である。
4月3日(火)
ドイツでお世話になっている知人のお嬢さんが9月から同志社に留学しているので、彼女と会う。地元京都はもとより、大阪や奈良にもすでに何度か足を運んでいるということだが、法隆寺はまだということだったので、近鉄奈良駅で落ち合い、興福寺、二月堂を見て、そこから法隆寺へ行く。
二月堂の上から見下ろす奈良の町がいいと聞いていたが、本当にその通りだった。お天気がよかったらもっと素晴らしい眺めだったろう。
彼女がメニューを見て、積極的に選んだ昼食がサンマ寿司+うどんの定食。サンマ寿司は三重県の志摩半島、和歌山県に至る熊野灘沿岸一帯で食べられる郷土料理だそうだ。私は初めて食べたが、美味しかった。東京でも食べられる店があったら行ってみたいと思った。ドイツ人に教えられた日本の味だった。
この日は荒れるという天気予報通り、中宮寺を出る頃には大雨。この日は近畿地方だけでなく、全国的に台風並みの雨と強風だったらしい。私たちの傘はおちょこになるし、電車は運休が相次ぎ、帰宅するのに大変な一日だった。
4月4日(水)
紀州和歌山の華岡青洲顕彰館は数年前に訪れたことがあるのだが、もう一度確認したいことがあったので、ここは親戚の車で連れていってもらうことにした。昨日の天気とは打って変わって快晴。
帰りに道の駅で柿の葉寿司を買って、紀ノ川べりの桜の木の下で食べる。ピクニック気分。根来寺の桜が満開。車から降りて、しばし見とれる。
4月5日(木)
淀屋橋から八幡市に出て、駅近くのケーブルカーで石清水八幡宮へ。荷物が気になっていたが、八幡市駅にロッカーがあり、しかも大きいのがあったので、ラッキーとばかりすぐに入れる。500円。ところがケーブル駅に向かうすぐの店に「荷物預かります。200円」という看板あり。
石清水八幡宮は京都の鬼門(北東)延暦寺と対峙して裏鬼門(東西)を守る神社。長い歴史があるので、さまざまないい伝えがある。『徒然草』や『源氏物語』にも出てくる。石清水なのだから、清水がある。坂をくだったところに小さな神社の形をした建物の中央に四角の泉があった。澄んだ水だった。
神社のそばの広場にエジソン記念像があった。なぜエジソン?と社務所の人に聞く。エジソンは電球のフィラメントに使うタングステンを最初は竹を使用し、いいものはないかと探していて、ここの竹を選んだのだそうな。駅前にも像がありエジソン通りと命名されていた。そういえばそんな話を子どもの頃に読んだ覚えがあったような。
八幡市駅から墨染駅(すみぞめ)へ。今回の旅行でとても楽しみにしていた一つが墨染寺(こちらはぼくせんじと読む)の薄墨の桜。
白っぽい桜だが、散りぎわの頃には薄墨色になるという。岐阜県本巣市根尾谷の樹齢1500年という薄墨桜(エドヒガンザクラ)が有名で、その他、全国的にあるようだ。しかし、私が墨染寺へやってきたのは、『古今和歌集』に載っている歌が理由である。
深草の野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは墨染に咲け
上野峯雄(かんつけのみねお)が太政大臣藤原基経の死を悼んで歌ったものである。これにいたく感動した豊臣秀吉が古い寺を復興させ、そこに1本だけ墨染めの桜を植えたという。
駅前から琵琶湖疎水を渡ってすぐの商店街にある小さな寺。今は三代目だという。蕾が数個。散り際にはまだまだだった。
薄墨寺駅から深草駅へ出て、宝塔寺(前身は真言宗極楽寺)へ。『源氏物語』の頭中将が母の大宮の一周忌を行った場所であり、そのとき光源氏の息子の夕霧が中将の娘雲居雁との結婚を許された場所という。源氏三十三帳「藤裏葉」の巻である。入口に「源氏物語藤裏葉の苑」と刻まれた小さな石の碑が立っている。
夕食は四条川原町へ。京都の桜開花は今年は1週間遅かった。どこでも蕾や3分咲き。ところが高瀬川の岸辺に沿って植えられた桜並木はどれも満開だった。
4月6日(金)
佐川美術館は滋賀県守山駅からバスで25分ほどのところにある。佐川急便創業40周年記念行事の一環として1998年に作られた。佐藤忠良(佐藤オリエの父)の彫刻館と平山征夫の絵画館、陶芸家樂吉左衛門の茶室でできている。
樂吉左衛門は桃山時代に樂茶碗を造りだした初代長次郎以来の樂家十五代当主である。茶室は樂吉左衞門自身が設計創案・監修したもので、水庭に埋設された地下展示室と、水庭に浮かぶように建設された茶室の2つで構成されている。
数年前、NHKでこの茶室ができるまでのドキュメンタリー番組を見て、なんとしても見たいと思った。茶室見学は予約制で、テレビのせいか、すごい人気だったので、なかなかこちらの都合に合った予約を入れることができなかった。しかし、さすが落ち着いたようで、今は日によって当日でも空きがあるみたいだ。
私は茶道をたしなまないので、これが茶室としていいのかどうかわからない。しかし、膨大な投資をいとわなかった企業家と知り合い、一切の妥協を許さずに自分の夢の茶室をつくり上げることができた十五代樂吉左衛門という人は幸せにつきると思った。茶室の見学時間は30分ほど。茶立ての日程はまた別な日で予約制。
日本に住んでいるアメリカの画家ブライアン・ウィリアムズの特別展があった。これが面白かった。曲面絵画という。キャンバスは薄い板を貼り付けたもの。そのことでキャンバスを自由に曲げることができる。キャンバスも楕円だったりひし形だったり、好きな形にする。遠近法は用いない。キャンバスがそのまま立体感をうみだしていく。絵画としてはどうかわからないが、発想が面白い。
京都はお花見を主なる目的にしたが、今年は春になってもなかなか暖かくならず、桜には1週間早かった。それでも帰るにはまだ時間があるので、平安神宮へ。しかし、やはり中庭のしだれ桜はまだまだだった。庭の桜も満開は1本だけ。ただ、池を回遊する道に和歌に詠まれた植物を植え、そこに和歌と植物名を書いた札のあるのが面白かった。
京都発19時10分の新幹線で帰京。
初めての沖縄はまるで異国のようで新鮮だった。避寒のため毎年冬を沖縄で過ごしているM氏に案内していただいた旅、一般には見られないところへも連れていってもらえて、感謝あるのみ。沖縄で見てきたことの一端を簡単に紹介します。
3月13日(火) 東京―那覇
那覇空港12:45着。空港に迎えにきてくれたM氏の案内で南部地域を回る。
・ひめゆり記念資料館と平和祈念公園
この時期だからか、修学旅行生が多かった。ガイドの説明を熱心に聞いている姿は見 ていて気持よかった。
・沖縄ワールドの玉泉洞(鍾乳洞)
珊瑚の鍾乳石群は素晴らしかった。特に無数の鍾乳石が槍のように天井から垂れてい る「槍天井の間」は見事。
・受水走水(ウキンジュハイジュ)
新原ビーチ近くにある琉球稲作発祥の地と言われる場所。道路脇に小さな案内板はあ るが、注意しないとわからないような細い道に入っていく。山から湧く清水が二つの小さな田んぼに注ぎ入る。ここは拝所にもなっている。今も1月に田植えの儀式をしているそうだ。
・垣花樋川(カキハナ・ヒージャー)
垣花城跡の東方。細い山道を100メートルほど下ると、山の湧き水が崖の樋から大量に流れ落ちる平地にでる。昔、女たちは桶を頭に乗せて、水くみをしたという。実に風情のある坂道と景色。日本の名水百選の一つ。
・斎場御獄(セイファー・ウタキ)
ウタキは聖地の総称。セイファーは琉球王国最高の聖地。巨大な三角岩が向き合って重なっている。そこをくぐると拝所。このときは、地元の人か、3人の男女がじっと座って祈っていた。
新都心にある沖縄居酒屋で夕食。三線の演奏者が席にやってきて希望すれば歌ってくれる。私は沖縄の民謡を島唄というのかと誤解していた。本当は奄美群島の民謡を島唄といい、本島の民謡は琉球民謡というのだそうだ。なんとなくしんみりして聞きほれる。食事も美味しかった。もちろん泡盛も。
3月14日(水) 那覇―石垣島―竹富島―石垣島
・首里城
首里城のシンボルは龍。あらゆるところに龍の彫り物や絵が見られる。説明を聞いて面白かったのは、中国、琉球、日本の龍の指の数の違い。琉球は中国(5本)に遠慮して4本。日本は3本だそうな。ネットで龍の絵をみたら、確かにそうなっている。ただ、なぜ日本の龍は3本なのかは調べがつかなかった。
・玉陵(タマウドゥン)←「玉うどん」ではない!
首里城のすぐそば。第二尚氏王統の陵墓。歴代国王と家族の墓所。沖縄戦で大きな被害を受け、戦後に修復されて往時の姿を見せている。灰色の古めかしい石の建物で、とても素晴らしかった。受付の横は小さな博物館。土葬の後、骨を洗って壺に入れるそうで、さまざまな形と色彩の壺が実物や写真で紹介されている。
・竹富島
午後から飛行機で石垣島空港へ。港から船で竹富島へ。竹富島はタクシーがないので、足の便は主にレンタサイクルと予約バスである。予約バスというのは電話をすると、島内にいくつかあるバス停に迎えにきてくれて、希望のバス停まで連れて行ってくれる。島内をぐるぐる回っているので、だいたい20分くらいで来てくれる。周囲9キロの小さな島である。自転車が苦手だったり、雨だったら便利。私はこのバスを利用した。
・カイジ浜(星砂浜)
観光客が集まって星砂を探している。私も15分くらい探す。白い小さな小さな星砂を3個と白い珊瑚の塊を拾う。有孔虫(原生生物)の殻の形が星のような形をしていて、この虫が死ぬと殻だけになる。この浜辺はこのような星型の殻が集中してあるところなのだそうな。私が見つけた3個はあまりにも小さくて、悔しいことだが、私のデジカメでは写らない。
・喜宝院蒐集館
バス停は新田水牛車の発着所。蒐集館は昔の生活用具など展示してあるのだが、沖縄に無知な私にはそれほど大切さがわからず、狭いこともあってすぐに見終わる。私がここを訪れたのは、私の友人の意向が大きかった。喜宝院(浄土宗本願寺派)の先代住職とつながりのある私の友人が、もし竹富島に行くなら、ぜひ今の住職さんに会ってきてほしいと言われた。それに偶然というか、M氏も今の住職さんとつながりがあって、やはりもし会えたらよろしく伝えてほしいと言われた。これもなにかの縁だろうと思って訪れた。
蒐集館は無休なのだが、入口は無人で入場料をそばの籠に入れるだけ。それで住職さんの住まいのある2階まで行ったのだが、お留守だった。残念。むなしく引き上げる。
・西桟橋
水牛車のバス停がある道を海に向かってまっすぐ行くと西桟橋に着く。つい最近ここにやってきた知人のお勧めの場所。海の水が特にきれいだと。引き潮だったが、確かにきれいな海水だった。今は桟橋として使われていない。人もほとんどいなくて、しばし透明な海底に見とれる。
最終の1つ前の船で石垣島港へ戻り、ホテルでチェックインしたあと、外へ出て、夕食を済ませる。八重山そば定食。残念ながらあまり美味しくなかった。選択を誤ったか。
3月15日(木) 石垣島―那覇
今回の沖縄旅行を決めた後で、昔からの仲間たちと7月に石垣島に再び来ることになった。それで今回は石垣島で評判の川平海岸などはパスして、午前中のみ近場を見て、那覇に戻ることにした。ところが、行きたいところは路線バスがない。そこで、ホテル前に待機していたタクシーの運転手と相談の上、希望のところをまわってもらうことにする。
・バンナ展望台
石垣島を熟知している知人のお勧め。素晴らしい眺望が見られるということだったが、 この日も曇天。それでも竹富島もうっすらと見え、なによりビーチに沿って長く、長く伸びるサンゴ礁がよく見えて感激した。裾礁(キョショウ)の内と外を区切る白い 波のラインが西表島までずっと伸びているのだと運転手さんはいう。そして遊泳のときは絶対にこのラインの外にでないこととも。私は潜りも泳ぎもしないので、ただ聞いておくだけ。
・石垣島鍾乳洞
玉泉洞の姉妹鍾乳洞で、全長3.2キロのうち約660mを公開している。林立する鍾乳石にイルミネーションをほどこした広い空洞の間は、なんかディズニーランドの夜景を見ているようで面白かった。
入口に至る小道に咲くハイビスカスが美しい。運転手さんの説明ではこれらの花は本当はハイビスカスと言わないでブッソウゲというのだそうだ。沖縄ならどこでも見られるが、私はなんでも「赤い花ならハイビスカス」みたいに思ってしまうほどこの花にはまったく無知だったので、調べてみたら、かなり複雑だった。
ハイビスカスというのは植物名としてはアオイ科のフヨウ属の総称で、フヨウ、ムクゲなどがそれにあたるが、これらは一般にハイビスカスとは言わない。通常は熱帯あるいは亜熱帯に生育するフヨウ属のいくつかを言うそうで、代表がここで見られる花ブッソウゲなのだそう。
沖縄ではハイビスカス、ブーゲンビリア、ガジュマルがいたるところ見られて、これらの植物が異国情緒を醸しだす大きな要因にもなっているのだなと思った。
・亀甲墓(キッコウバカ)
石垣島では亀甲のような屋根をしたお墓、亀甲墓が多い。運転手さんが説明してくれてなるほどと思った。この屋根は亀甲というより子宮を現していて、両側に石柱のある入口は足を広げた産道なのだという。これは中国の影響だそう。それに比べて沖縄本島では家の形をした大きな墓が圧倒的に多い。本土のような縦長の墓石というのはないという。
・八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑
第二次大戦中、国は地上戦のなかった諸島に人々を強制的に疎開させた。特に石垣島(北側)と西表島はマラリアの発生率が大きな島として怖れられていた。それで多くの人が罹患し、命を落とした。この島だけでも3647人だったという。その慰霊の碑である。バンナ公園のふもとにある。
そのほか、士族屋敷(宮良殿内)や桃林寺、市立博物館などを見て空港へ向かい、2時に那覇空港に戻る。
・県立沖縄博物館
じゅうじつした展示だった。ここはお勧め。琉球の伝統文化や庶民の暮らしに関する展示室は興味深かった。特に、琉球の歴史を写真やパネルで辿るコーナーは勉強になる。
M氏と国際通りへ。市場通りに入って牧志公設市場をゆっくり見る。サトウキビの絞りたてジュースを飲む。もちろん甘い。鮮魚の店では赤や青の魚が目に付く。お土産の見当をつけておく。海ぶどうを買ってきてという要望が二人ほどからあった。黒砂糖なら日本最南端の波照間産がいいかもというのはM氏の話。
3月16日(金) 美ら海終日観光バスツアー
昼食はつかないが、バス移動、入場料含めて4980円という安さ。ガイドさんもなかなかよかった。車の移動ができない私のような者はオプショナルツアーもときにはいい。
・古宇利島
名護市(市役所の建物面白ろかった)を抜け、嘉手納基地のそばを通って、古宇利島へ。心配していた天気もこの頃は晴れ間が見える。15分ほど停車。青いビーチを眺める。風が強い。
・美ら海水族館(沖縄海洋博公園)
水族館は珊瑚など面白いし、綺麗だったが、すごく時間が必要というふうでもなかった。それでも1時間はかかった。そのあと熱帯ドリームセンターに行ったが、これはゆっくり見る時間がなくて残念だった。蘭の花が見事。
・琉球村
着いたときは雨だったので、踊りのショーは屋内で。30分。面白かった。ミルクさまがのしのし登場して、面白かった。「ミルク」というのは琉球の守り神なのだが、弥勒のなまったものだろう。
牧志駅前で降ろしてもらい、市場通りで土産を買う。夕食は公設市場内の食堂で。一人ソーキそばと島らっきょにオリオンビール。沖縄に行ったら、このビールを飲むよう聞いていた。ウィキペデァによると、「日本のビール大手5社(麒麟麦酒・アサヒビール・サッポロビール・サントリー・オリオンビール)中のシェアは0.9%と圧倒的最下位であるが、沖縄県では最大のシェアを誇り、いわば県民ビールとして定着している」ということだ。これが実に美味しかった。仲間がいればお代わりというところだが、大人しく1杯だけにする。
3月17日(土) 沖縄中部―東京
M氏と待ち合わせしてまだ見ていなかった中部を見てから空港まで案内してもらう。
・嘉数の高台
ここから普天間基地が目の前に見下ろせる。確かに住宅地のすぐ隣りに滑走路のあるのがわかる。沖縄の基地問題は難しい。
・中村家住宅
昔の地頭職の家。当時のままに残っている数少ない沖縄の建物。屏風あるいは魔除けの役目をする石の壁(ヒンプン)のある家はこちらにきていくつもみたが、フールという豚小屋兼トイレの残っているのはここくらいとのこと。写真の手前に小さな穴があって、そこで用をたすと、豚がそれを始末してくれる。その際、トイレットペーパーはユウナという木の葉が最適らしく、数日乾かした葉をこのそばに積み重ねておくそうだ。
受付の人が説明に来てくれて、なんとポーズまでとってくれた。感激。綺麗な女性だったし、ここではその写真は割愛する。
・浜比嘉島
海中道路という立派な橋がいくつも小さな島を結んでいる。始祖神アマミチュウの墓へ。これらの島は珊瑚で出来ている。崩れ落ちそうな岩など、見て面白い。
更に橋を渡って宮城島へ。Mさんの知り合いが製塩で成功したという工場へ。世界で一番ミネラルの多い塩(ヌチマース)としてギネスに載っているそうだ。
・識名園
時間が少し残ったので、識名園という琉球王家の別宅に連れていってもらう。ユネスコ遺産になっている。なかなか風情のある回遊式庭園。面白かったのは、高台に作られた展望台。当時、中国からきた客人に沖縄は狭いと思わせたくなくて、けっこうな高台だが、まったく海が見えない場所を選んだそうな。
庭にデイゴの木があった。マメ科の落葉高木。春から初夏にかけて赤い花が咲くとというが、まったく蕾すらない。庭師の人に聞くと、めったに咲かないそうだ。沖縄県の県花だというのに・・・
少し早めに那覇空港に着く。M氏と遅めの昼食をして、お別れする。M氏には大変お世話になった。彼が沖縄にいなかったら、おそらく沖縄に行こうなんて考えなかっただろう。
チャンスは重なるもの、今年の7月にまた石垣島を訪れることになっている。沖縄の濃い文化にもっと触れてみたいと思う。