今年の4月に魔女街道ツアーを催行したので、夏のツアーはお休み。個人旅行でのんびりしてきた。
今年前半は本当に忙しかった。大げさだが、機内で仕事を一つ片付け、気がつけばそこはドイツ、というような慌しい旅の始まりだった。
ということで、旅の準備がきちんとできなかった。しかたなく、行ってみたいところ、行かねばならないところを中心におおまかなスケジュールを立て、あとはそのときの気分次第。
ただ、前半の1週間は娘と一緒だったので、その部分だけは娘に綿密なスケジュールを作ってもらった。
8月23日 フランクフルト空港からヴュルツブルクへ(2泊)
8月25日 フランクフルト空港で娘と落ち合い、ケルンへ(1泊)
8月26日 ケルンからパリへ(4泊)
8月30日 パリからストラスブールを経由してハイデルベルクへ(2泊)
9月 1日 ハイデルベルクからフランクフルトへ(2泊) 娘はこの日帰国。
9月 3日 フランクフルトからハンブルクへ(2泊)
9月 5日 ハンブルクからライプチヒへ(4泊)
9月 9日 ライプチヒからアイゼナーハへ(2泊)
9月11日 アイゼナーハからフランクフルトへ。
9月12日 成田着。
旅に出たら、3週間なんてアッという間だが、旅日記を書くとなると長い。こと細かに書くことも憚れる。ということで、旅日記というよりは備忘録程度の報告記になった。
8月22日 機内で映画『ボニーとクライド』を見る
大昔に観た映画の中で印象に残っているものの一つ。強烈に記憶に残っている場面とほとんど忘れていた場面があったが、昔と同じように引き込まれてしまった。そして、私が選んだ平凡な生き方についてしばし考えこんだ。
8月23日 フランクフルト空港からヴュルツブルクへ
空港に16時40分着。そのまま17時30分の電車でヴュルツブルクへ行く予定。この日からジャーマンレイルパスを使うことにしていたので、さて、空港でパスのヴァリデーションがうまくいくかどうか、ちょっと心配だった。
しかし、遠距離駅のホームに下りるすぐのところにDBの窓口があり、混むこともなくすぐにできたのでホッとした。この窓口は毎日6時から22時まで開いている。
8月24日 ヴュルツブルクを歩く
・ケッペレ―黒い聖母子像を見に行く。
知りたかったことは結局わからずじまい。やはり直接メールなどでお尋ねするしかないと思った。
・シーボルト博物館と新大学そばのシーボルト像
シーボルトは江戸に出てきたとき、日本の眼科医の前で目の手術をやってみせた。そのとき、瞳孔を開く薬草ベラドンナを使ったという。おそらくドイツから携えてきたのだろうと言われている。それを確かめたかった。無理だろうと思ったが、やはりそこまで細かい説明はなかった。せっかくだから、新大学の近くにあるというシーボルト像も見に行く。
・ドーム博物館
これはお勧め。ドームだから宗教の絵や彫像を展示しているのだが、その配置が実に面白い。中世から21世紀までのものを時代順ではなくテーマごとに並べている。中世の聖母子の絵と並んで21世紀の画家の絵がある。15世紀のキリストの磔刑像の横に現代作家の磔刑像がある。この組み合わせは大変興味深い。じっと見ていると、どちらも古く、どちらも新しく見えてくる。
2004年にヴェルツブルクでティルマン・リーメンシュナイダー展がフェストング・マリーエンベルクとこのドーム博物館の2箇所で大々的に行なわれた。たまたまその時期にヴュルツブルクを訪れる用事があったので、運よく見ることができた。そのとき、私はミヒャエル・トリーゲルという画家の「最後の晩餐」の絵を見て愕然とした。彼の描いた最後の晩餐はキリスト一人だけが細長いテーブルに座っていて、12使徒など一人もいない。こんな最後の晩餐なんて見たことがない。衝撃的だった。ダヴィンチの謎なんて吹っ飛んでしまう。
[追加]このキリストの顔がまた凄い。目鼻のないのっぺらぼうなのだ。(10/24)
この最後の晩餐の絵は今回も飾ってあった。ほかにトリーゲルの絵が何点か展示されていた。この画家にとても興味を持ったので、彼について目下調べているところである。
8月25日 初めてのアシャッフェンブルクでブレンターノの墓参りをする
フランクフルト空港に娘が着くのは18時なので、それまでどうするか、昨夜ドイツの地図を開いてあれこれ迷ったが、フランクフルトに近くて、城がいいと聞いているアシャッフェンブルクへ行くことにした。
城へ行く途中に美術館(クンスト・ハレ)があったので入る。フリーデマン・ハーン(1949年生まれ、マインツやスイスで活躍)という現代画家の特別展だった。現代作家についてはほとんど知識がないので、なんの予備知識もない。どうも心を打つような作品とは思わなかった。
アシャッフェンブルク城は、話に聞いていた以上に面白かった。城博物館に展示してある絵がよかった。またかつて陶器製造で栄えた町というその陶器がとても見ごたえがあった。ドイツの陶器はマイセンばかりでないと思った。見て回るのに最低2時間は必要。
ここで「ブレンターノ家の部屋」があるのを発見。そしてクレメンス・ブレンターノのデスマスクが飾ってある。エッ、あのドイツロマン派のクレメンス・ブレンターノ?とびっくりした。彼のことは『少年の不思議な角笛』でグリム童話がらみもあり、関心をもっている作家だったので、2002年に、ライン川畔エストリッヒ・ヴィンケルにある彼の家を訪れたことがある。晩年はミュンヘンで過ごしたと思っていたので、本当にびっくりした。
近くにいた係員に思わず「あのクレメンス・ブレンターノ?」と尋ねてしまう。ブレンターノはまちがいなくこの地で亡くなり、墓もここにあるという。歩いて20分もすれば墓地に行けるという話を聞いて、一目散に墓地を目指す。
ドイツは今日がこの夏最後の猛暑だった。ペットボトルを抱いて、途中、何人かに道を聞き聞きして、たどり着く。とても広い墓地で探すのに苦労した。確かにクレメンス・ブレンターノと銘がある。フーンとうなった。これはラッキーな出会いという意味である。
ブレンターノは私個人の関心事だが、アシャッフェンブルクはフランクフルトからの日帰りコースとしてお勧めの町だと思う。
8月26日 モンマルトルの墓地でハイネの墓参り
昨日、偶然にブレンターノの墓をお参りすることになったが、モンマルトル墓地は予定に入れていた。4日には今回の旅行の大きな目的である知人のお墓参りがある。墓地めぐりの多い旅である。
昨日はフランクフルト空港から直接ケルンまで来て、そこで1泊した。ドイツからパリに入るには、ケルンからタリス(THA)に乗るのが時間的にもっともいい。
ただし、タリスはベルギー経由になるので、3カ国鉄道パスを購入しなければならない。ユーレイルセレクトセイバー3カ国というパスが安くで都合がいいので、それを買っておいた。このパスは1等しかない。
タリスには予約が必須で、パスに追加料金を払わなければならない。2等で十分なのだが、パスが1等だから、これもいやおうなしに1等である。ところがタリアの1等は飲み物、菓子が好き放題。そして朝食まで出る。昔、ドイツからイタリアまで寝台車で行ったことがあるが、そのときに出た朝食の不味さには閉口したものだが、さすが時代が違うか、けっこう美味しくてぺロリとたいらげてしまった。
パリ北駅でコインロッカーに荷物を預ける。ドイツとフランスは隣国なのに、政情が全く違うということをコインロッカーのセキュリティーチェックで知らされた。コインロッカーのある場所は独立した部屋になっていて、入り口で荷物検査と身体検査がある。荷物をとりだすときも身体検査がある。パリだけかと思ったが、ストラスブールでも同じシステムだった。
モンマルトル墓地ではハイネとスタンダールの墓を見るのが目的。初めてモンマルトル墓地にやってきたときは、私がスタンダールにのめりこんでいたときだったので、なによりもスタンダールだった。ハイネの墓地もお参りしたことはしたが。あれからどのくらいの年月がたったか。今はなによりもハイネである。興味のあり方がさまざまに変るのは人の常とはいえ、一つことに集中してこなかった(できなかった)自分の生き方について思うこと多し。
8月27日 モン・サン・ミッシェルへ
この日はモンパルナス駅から朝早い電車に乗らなければならない。そのために、パリでのホテルはこの駅のそばに予約した。
モン・サン・ミシェルへはパリからバスツアーもあるが、個人でも簡単に行ける。鉄道パスを持っていれば、費用も安くあがる。参考に、私たちの1日コースを紹介する。
・モンパルナス駅7:05発(TGV) ― 9:08レンヌ着
・レンヌ9:30発(バス)― 11:00モン・サン・ミッシェル着
・モン・サン・ミッシェル15:15発(バス)― 16:45 レンヌ着
・レンヌ18:35発(TGV)― 20:40 モンパルナス駅着
モン・サン・ミッシェルの滞在時間は4時間。修道院をじっくり見て、お昼を食べて、お土産屋を覗き、海辺も散策できる。レンヌでは2時間弱の時間が取れるので、町の 名所をほぼ見てまわることができる。21時にはホテルに帰りつくので、疲れも少ない。
この日の写真をいくつか。
(1)モン・サン・ミッシェルには一度は行ってみたいと思っていた。潮の干満で孤立したり、往来できたりというピラミッド型の花崗岩の島。トンブ山(死の山)の頂に建てられたベネディクト会修道院(708年)は巡礼地となり、島は堅固な要塞として英国との100年戦争にも侵攻されることはなかった。
ガイドブックや映像で見てもうまくイメージできなかったが、実際に見ればなるほどと納得できる。まさに写真通り!映像通り!なのだ。
午前中は曇天で、がっかりしたのだが、午後から快晴。
(2)修道院付属教会の列柱廊―2列の円柱の組み合わせが素晴らしく、しばしたたずむ。
昨年見たメルクの修道院はあまりに華麗すぎて正直がっかりしたが、ここは私のイメージする修道院にかなり近かったので、嬉しかった。
(3)修道院の大広間に黒い聖母子像があったのにはびっくりした。由来は不明。あとで調べよう。
(4)この島の名物は巨大なオムレツだそうな。巡礼者のために「プラールおばさん」が考案したというもので、店の名前もそのものずばり「プラールおばさん」。
泡たて器で丹念に攪拌されたフワフワオムレツは写真のように巨大(?)だが、味は 微妙かな。コーヒーとデザートを注文して一人60ユーロだからかなり高い。今日の夕食は節約しなければ。
8月28日 パリ市内観光
オルセー美術館→ノートルダム→コンシュルジュリー→サント・チャペル→ ジャックマール・アンドレ美術館→シャイヨー宮→エッフェル塔。
8月29日 この日もパリ
中世美術館→装飾芸術美術館→ルーブル美術館。
ルーブルは午後から入場したほうが混まない。この日は水曜だったので、夜の9時ま で開いている。夕方4時に入ったので、人に邪魔されることなく見たい絵や彫刻を堪 能できた。ルーブルは3度目だが、そのときそのときで興味が変わるものだから、いくら見ても飽きない。9時まで5時間あったが、それでも足りなかった。
これでパリともお別れ。久しぶりのパリを数日だが歩いて思ったこと。パリの好きな 人にはたまらなく魅力のある町なのだろうと思った。しかし、私はパリ派ではないとつくづく思った。
◇いくつか書き留めておきたいこと。
・車窓から田園風景を眺めて気がついたのは、藁ぶき屋根の農家が1軒もなく、すべて石 造り。またエッフェル塔から眺めたパリは緑がとても少ない。
・パリはメトロが発達していて歩きやすいのだが、難点はエスカレーターやエレベーターが極端に少ないこと。前に来たときは私も若かったのだろう、ほとんど気にならなかったが、今回はとても気になった。
乗換えするのに階段また階段。車椅子の人、お年寄り、荷物を持った人、彼らはどうするのだろう。どこか隅っこにエレベーターがあるのだろうか。
8月30日 ストラスブールで途中下車し、その後ハイデルベルクへ
ストラスブールは2005年に一人で訪れているが、そのとき見られなかったパレ・ロワン美術館とアルザス民俗博物館に行く。
あらあら、このいい匂いは何? 大聖堂近くにクッキーのお店がある。すい寄せられて中へ入り、あれこれ買ってしまう。ハイデルベルクへ向かう車中でさっそく試食。美味しかった。でも、カロリーありそう。
8月31日 バート・ヴィムプェンの豚博物館へ
2004年に一度訪れている豚博物館だが、そのときの写真をみた娘が行ってみたいというので、同じようにハイデルベルクから日帰りで行ってみることにした。
前はガイドブックに書いてあった鉄道で簡単に行けたのだが、現在、バート・ヴィムプェンの鉄道駅は閉鎖されていて、途中からバスに乗り換えることになる。DBの時刻表で調べたが、どのバスに乗るのが一番いいのかわかりづらかった。行ってみたい人には詳しいことをお教えします。
豚博物館でなんと2時間も遊ぶ。外に出て、市内に入る坂道のところに「薬草魔女」という名前のハーブの店を発見する。時間がなかったのだが、ちょっとだけ中へ入ってみると、店主らしき男の人がいたので、薬草魔女のビッケルさんと知り合いかどうか尋ねると、もちろん知り合いだという。そして、この店の主は彼の奥さんで今は休暇中なので、自分が店番をしているのだという。もっと話したかったのだが、バスの時間がせまっていたので、サヨナラする。奥さんはきっとブロッケン山にお出かけなんでしょう。
9月1日 ハイデルベルク城を見て、フランクフルト空港へ
ハイデルベルク城へ行く登山鉄道に乗り、終点のケーニヒスシュトゥール駅まで行く。ここまで来るのは初めて。小雨が降っていて、とても寒かったが、上からの眺めは抜群。城がうんと下に見える。登山鉄道の車両は古めかしくて、よかった。
娘は2歳になる前にハイデルベルクに来たことはあるが、もちろん何も覚えていないので、観光名所を一通り見る。夕方、フランクフルト空港へ向かう。夜の便に乗る娘を送り出して、私はフランクフルト市内のホテルへ。明日からまた一人旅になる。
9月2日 日帰りでマールブルクへ。イートシュタインへは行けず。
今年はチューリンゲンの聖エリーザベト生誕800年にあたり、彼女と関係する町では来年まで記念行事が続く。
エリーザベトはハンガリーの皇女で4歳のとき、11歳のチューリンゲン伯と婚約し、アイゼナーハのヴァルトブルク城へやってくる。3人の子どももでき、敬虔なクリスチャンとして生きるが、伯が十字軍遠征で戦死すると、城から追放されてしまう。彼女はマールブルクへ逃れ、そこで貧者のために働き、24歳で亡くなる。列聖されて聖エリーザベトとなる。マールブルクのエリーザベト教会は彼女のために建立された。
エリーザベトについて少なからぬ関心をもっている私はたびたびマールブルクやヴァルトブルクを訪れているが、今年はなにがあってもこの2箇所だけは訪ねようと思ってドイツへやってきたのである。エリーザベトについてはいつかまとめるつもりでいる。
フランクフルトにいる間に行ってみたいところがあった。電車で小1時間ほどのところにイートシュタインという町があって、そこに魔女の塔があるという。今日しか時間がないので、マールブルクから戻ってきて、その足で行ってみることにした。ところが直通の電車は来週の金曜日しかないという。そんな辺鄙なところなのか。ネットで調べたところ普通の町のようだったが、アクセス情報はすべて自動車に限られていた。
とりあえずSバーンでニーデルンハウスまで行って乗り換えれば行けるらしいので、そこまで行ったのだが、1時間に1本かという電車に乗りついでも、そのあとどうしたらいいのか、帰りの電車があるのかどうかもわからない。すでに6時。
ということで、ニーデルンハウスという見知らぬ町の駅前でコーヒーを飲んでフランクフルトまで引き返した。旅の準備ができていなかったことを痛感する。
9月3日 ハンブルクのホテルでチェックインしたあと、シュターデに行く
魔女の縁でお世話になっているM氏がリューネブルクの次にお勧めの町がシュターデであると聞いていたので、行ってみる。M氏が勧めてくれた町だったが、その後、町は変わったのだろうか、あるいは私が歩くところを間違えたのか。申し訳ないが1時間ほどでハンブルクに戻る。
[追加]シュターデの名誉のために。
お勧めのところは旧港のあたりだとM氏に指摘された。どうやら、とばくちで帰ってきてしまったようだ。ドイツをよくご存知のM氏のお勧めだというのにおかしいなとは思っていたが、疲れていてそれ以上動き回る気持ちがなかったのがいけなかったようだ。(10/24)
9月4日 知人のお墓参りにリューネブルクへ
私がこれほどドイツと深い縁をもつようになったのはリューネブルク近郊の村キルヒゲレールゼンに住むシャルロッテ・グロースマンのおかげである。
彼女についてはいくら言葉を費やしても言い尽くせない。ここ数年、家庭の事情と彼女の健康問題もあって老人ホームで暮らしていた。昨年の4月にホームを訪問したとき、かなり弱っているかなとは思ったけれども、そして、今年の5月に寄ってみようと思いながら、夏に会えるからと自分に言い聞かせて会いに行く時間を作らなかった。
9月4日に行くという手紙を出したが、それが届かないうちに亡くなったという電話をもらった。こんな形でリューネブルクを訪れるようになるとは!
17歳で結婚したシャルロッテ。翌年、息子を生み、夫は第二次世界大戦で戦死。戦後、両親と息子を連れて、故郷シュレージエンを追われてリューネブルクへ避難・・・その後の生活は彼女にとって決して本意ではなかったはず。享年83。
9月5日 ハノファー近郊の村に友人を訪ね、そのあとライプツィヒへ
Hさんにはドイツ関係の仕事でずいぶんお世話になっている。ドイツ人のご主人と息子さんの3人、ハノファー近郊の小さな村で羨ましいようなドイツ田舎暮らしをしている。シャルロッテのお葬式に間に合うように花輪を注文していただいたので、そのお礼にと立ち寄った。
9月6日 ライプツィヒ戦勝記念碑を見て、造形美術館を見て、ゴーゼを飲む
ライプツィヒ訪問の目的の一つはクルマバソウシロップ入りのゴーゼビーアを飲むことだった。理由を書くと長くなるので割愛する。もともとハルツのゴスラーに由来するゴーゼビーアがライプツィヒに入ってきて、著しい変貌を遂げたみたいだ。純ゴーゼビーアのほかに、ハーブのシロップを入れたゴーゼがよく飲まれているというのである。しかもストローで飲むという。
9月7日 日帰りでベルリンへ
・カフカが死の前年に新しい恋人と住んでいた家を見に行く。
写真にあるこの家の2階を借りていたという。この窓辺に立ったカフカのあの黒いまなざしがみつめた先には何が映っていたのだろうか。
2階には今は誰も住んでいないのか、玄関の表札に名前が書かれていない。壁にはここにカフカが住んでいたという看板がかけてあるが、その文字は消えかけていた。
・ボーデ博物館では見たいものがたくさんあって興奮した。
・久しぶりに見たノイエヴァッヘが変わっていたことにびっくりする。
昔はこの建物の床には戦死者を祀る火が絶えず灯され、衛兵が見張りをしていた。今は床にケーテ・コルヴィッツの彫像と花束が置かれてあって、衛兵の姿はない。
・ドイツの鉄道は遅れるというのがここ何年かの評判である。乗り継ぎのときは注意しなければならない。
ベルリン中央駅でのこと。ライプツィヒ行きのホームに降りたら、大混雑。ミュンヘンから来る電車が1時間遅れているという。そのアナウンスはあるのだが、なぜ遅れているのかの説明はない。それでも一応謝ってはいた。おかげで私の乗る電車も影響を受け、20分遅れた。
それでも、今日のベルリンがとても楽しかったので、明日もまたベルリンへ来てもいいかなと思った。
9月8日 日帰りで南ハルツのシュトルベルクへ
今日もベルリンに行くかどうか考えに考えたが、予定通り、南ハルツのシュトルベルクに行くことにした。シュトルベルクは農民戦争の指導者で敗北したあと処刑されたトーマス・ミュンツァーの生まれた町であり、硬貨鋳造で栄えた町である。
北ハルツと同じ木組みの家が美しい町だと聞いていたが、その通りだった。駅からちょっと歩くが市内に入ると一回りしてもそんなに時間はかからない。城のある山までの坂道はけっこうきついが、上から見下ろすとこの町がいかに山深いところにあるかよくわかる。日本で言えば、ひなびた山の中の温泉地みたいだ。お勧めの町である。
市の中心にあるマルティン教会でラッキーなことがあった。前から疑問に思っていたことなのだが、免罪符(今は贖宥状と言う)に書かれている免罪の意味についてどうしてもわからず、ドイツ人に聞いたことがあるのだが、二通りの解釈があり、これは教会筋の人に聞くしかないだろうということになって、そのままになっていた。
この教会に免罪符のコピーが飾ってあり、かつ事務所に親切そうな女性がいたので思い切って尋ねてみた。女性はとても喜んで質問に答えてくれたばかりか、このコピーの実物があるといい、時間外にもかかわらず展示してある部屋に連れていってくれた。疑問が解けて感謝の念いっぱいである。
気分よくライプツィヒに戻る。夕食は「四季」という寿司屋にすることにした。知人 からここは回る寿司屋なのだと聞いていたので、どんなものか見たかった。店内はずい ぶん広く、お客もかなり入っていた。店内の一角が回る寿司コーナーになっている。船 の形をした入れ物に握りがのっている。かなり豪勢である。 「よし」と決めてカウンターに座ろうとしたが、なんと悲しいかな、椅子が高くて座 れない。何度か試みたがどうしても座れない。カエルみたいにピョコピョコ跳ねている のはいかにも恥ずかしい。泣く泣くテーブル席に着く。経営者は日本人ではなさそう。 握り職人もアジア人ではあるが日本人ではない。
メニューを見て注文したお寿司はおもいのほか美味しかった。これで12ユーロ弱である。
9月9日 エアフルトで途中下車して、そのあとアイゼナーハへ
エアフルトの町の守護者は聖エリーザベトである。ひょっとしたらエリーザベト特別展でもやっているのではないかと思い立って、途中下車した。まずはドームへ行くと、日曜日のオルガンコンサートがあった。ラッキーである。
ドームの一角で聖エリーザベトの生涯を描いた現代作家の展示があったので、それを見て、そのあとドームの上にあるドイツ一とかいう大鐘(グローリオザ)を見る。階段がきつかった。ガイドが鐘を手で打ってみせた。日本のお寺の鐘に似た響きだった。
アイゼナーハのホテルでチェックインしたあと町の中心地にあるゲオルク教会に行く。ここでもオルガンコンサートを聴くことができた。疲れも取れ、そのあとプレディガー教会に行く。
エリーザベト展を見る。まったく知らなかったのだが、エリーザベトの生涯を描いた無声映画が作られているのだ。それを流していた。30分ものだが、とても興味深く見た。
9月10日 バッハの家とルターの家を見て、ヴァルトブルク城へ
ヴァルトブルク城でエリーザベト展を見る。マールブルクも面白かったが、昨日のプレディガー教会といい、こちらのほうが見ごたえはあり、圧倒的に役に立った。
9月11日 バート・ホーンブルクからフランクフルト空港へ
空港に荷物を預けて、バート・ホーンブルクへ行くことにした。名前だけは知っていたが、行ったことのない町である。バートだから温泉保養地だとは思うが、持参したガイドブックには載っていないし、パソコンなしだから調べることもできない。
フランクフルトから近いので選んでみただけである。駅に着いてもインフォメーションセンターもないし、市内地図の書かれた案内版もない。どうしたらいいのか。そんなときは町の中心とおぼしきところに向かって歩くだけ。といことで、人が歩いていく方向についていったら、うまく市内に入れた。
現代的な町で、古い家並を求めることは無理だが、なかなかいい町だった。教会もよかったし、クアパルクの近くの公園もよかった。フランクフルトからSバーンで25分弱。時間が余ったら行ってみるのもいい。
空港での荷物検査はかなり厳しかった。12時間後は日本だ。こうして私の夏の旅は終わった。準備不足をもろに感じた旅だった。この次は来年の春。行きたいところのめぼしはついている。しっかり準備をしておこうと思う。(2007.10.21了)
2007年のヴァルプルギスに長野から参加してくれたMさんと東京代表Nさんに世話役になってもらい、湯田中温泉で魔女たちの同級会を開いた。
その後、私は長野市内で1泊し、前から気になっていた鬼女紅葉伝説の地(荒倉山の山中)を歩いてみようと思った。脚の弱い私でも行けるかどうか、長野観光局に問い合わせしたところ、急な坂道はそれほどないので、ゆっくり歩けば大丈夫だが、今年はすでに熊の目撃情報があるので、熊対策はしておいたほうがいいということだった。仲間と一緒に、鈴を振りふり、歌を歌ったり、大声で話したりするといいという。
昨年長野の講演会でお世話になったKさんやMさんにも声かけしていたので、万一熊に襲われたりしたら、申し訳ないと中止を申し出た。
ところが、車で行けるところまで行って、ほんの少しだけ伝説の地を歩きましょう。帰りは熊に関係ない鬼無里にも寄りましょうと言ってくれ、仲間を2人誘ってくださった。それで5名で行くことになった。
けっこう急な坂道もあり、キャンプ場に降り立ったときは軽い疲労感。そのときKさんやNさんが作ってもってきてくれたお昼のなんと美味しかったことか。好意に甘えて、すっかりおんぶに抱っこである。
鬼女紅葉伝説にはいくつかのパターンがある。このあたり一帯には鬼が住んでいたという伝説、京都から追い出されてこの山に隠れ住み、恨みから鬼女に変じた紅葉という女性、この地の紅葉の美しさ、それらが溶け合い出来上がった伝説である。美しい秋の紅葉をめでる紅葉狩りと鬼女紅葉を征伐する紅葉狩り。
紅葉狩りと魔女狩りの類似性あるいは異質性を考えてみたいと思っていた。それはいつかまとめるつもりである。その前にまずはこの伝説の地を巡ってみたいという思いがあり、今回、それが実現してとても嬉しかった。お世話してくださった方々には感謝あるのみ。そのときの写真をちょっとだけ。
今年の春は嬉しいことに、ヴァルプルギスの夜に参加するツアーが成立したので、ドイツ旅行はそれが主な目的。そのときのことはこちらで。
さて、仕事に追われてなかなか報告できないでいるまに、夏の旅行がせまってきた。なんとか簡単でも完成させておこう。すでに記憶も薄れ始めている。メモ程度になるが、締めくくって夏の旅行に出発しよう。
5月2日にフランクフルト空港で帰国組と別れ、延泊組3人は同じホテル。でも行動は別。
翌3日、ケルンに。これまで見ていなかった博物館めぐりをする。シュニットゲン美術館ではちょうど聖母マリア展が開かれていた。そのあと、ケーテ・コルヴィッツ版画美術館へ。コルヴィッツとケルンは何の関係もないので、おそらく彼女を好きな人が作ったのだろう。なかなか見ごたえはあった。
そのあと、4月30日の祭りに参加してくれたデュッセルドルフ在住のKさんとヴァルラーフ・リヒャルツ博物館前で待ち合わせ、一緒に見て回る。この美術館は私のお気に入りの一つに入れることになったほど素晴らしかった。
私が見たいと思っていたカルネバル博物館は遠かったので、諦めていたが、Kさんも行ってみたかったと言ってくれたので、案内してもらった。車があるのはとても便利だ。とても助かる。
ケルンのカルネバルの歴史がビジュアルにつかめたのでそれはそれで興味があった。しかし、どんな祭りも実際にその場で体験しないと本当の面白さはわからない。
その後、Kさんお勧めのケルシュビーアの飲めるビアホールに案内してもらう。美味しい。もっとおかわりして味わいたかったが、フランクフルトに戻らねばならない。最後は駅まで駆け足、Kさんとサヨナラする。
5月4日はリンブルクへ。ここはとても綺麗な町と聞いていたので、楽しみだった。駅から降りて目抜き通りを歩くが、何の変哲もない普通の町だったので、オヤオヤと思っていたが、旧市街に入ったら、期待にたがわず木組みの家がほどよく並び、確かに嬉しくなる町だった。高台にある大聖堂からの見晴らしもいい。大聖堂はライン川流域の特徴を持ったロマネスク様式だそうだが、外観の色はあまり私の好みではない。
そばの司教区博物館は面白かった。カトリックのミサのときに信者が口に入れてもらうホスティエ(ホスチア)を作る機械が展示されていた。初めて見たので面白かった。手動クレープ焼きみたいなものだ。
フランクフルトに戻り、レーマーそばのシュトルヴェルペーター博物館へ行く。シュトルヴェルペーターというのはドイツの絵本の主人公で日本でもけっこう人気のあるキャラクター。もじゃもじゃペーターと訳されている。
ところがこの博物館いつのまにか引越していた。聞けば行けない距離でもないが、今日はツアーの仲間3人が帰国するので、空港まで一緒することになっているので、やめてホテルに戻る。
仲間たちはローテンブルクとケルンに行って、今日は市内でお茶したりお土産を買ったりして楽しんだという。よかった。空港でサヨナラする。
市内に戻り、行きつけ(?)のインターネットカフェでメールチェックしてからホテルに戻る。私に残された日は明日1日だけ。
5日、ホテルに荷物を預けて、私の好きな町フルダへ。ボニファーチウスの墓のある大聖堂とその隣の宝物館が素晴らしい。また、その近くに魔女の塔があるので、何度か訪れた町である。今日は宮殿の庭園で咲き乱れる花や黒ウタドリ(ツグミ科)の姿を楽しむ。実にのんびりとした時間。
町の文房具店に入っていろいろ物色していると、ほしかった形の書類挟みを見つけ、荷物が増えるのを承知でいくつも買ってしまう。
ホテルに戻り、荷物を受け取ってから空港に向かう。春の旅行もこれで終わり。帰ったら目の回るような忙しさが待っているのはよくよく承知していたが、その通りの日々だった。気がつけば夏の旅行がすぐ目の前。では、行ってきます。(2007.8.15)
長野日独協会より「ドイツ魔女街道」というテーマで講演をしてほしいと声をかけていただいたので、長野に向かった。東京ー長野間は電車賃さえ考えなければ通勤圏と言ってもいいくらいの近さなのだとびっくりした。
それでもせっかく長野まで来て日帰りはいかにももったいないと思い、長野で1泊、松本浅間温泉で1泊することにした。
講演のこと、その夜のこと、その翌日訪れた須坂市の蝶の民俗館のこと、松代の大本営跡に行ったこと、それらはまたにして、26日に訪れた松本城のことだけを簡単に。
このところ、中世ヨーロッパの城について書いてある本を読んでいるので、日本の城をじっくり見たいと思っていた。いい機会だった。
松本城はまさに戦国時代の戦いのために城だったので、余計に面白かった。
厚い壁に作られた矢狭間と、時代がまさに鉄砲戦に変わっていったでことがわかる鉄砲狭間、これらが全部で25箇所もある。
石垣を登ってくる敵を防ぐために、石垣に面した1階廊下の張り出し部分から石を投げる石投げ口「石落」が作られている。これはヨーロッパの城も同じである。
石垣は登りにくいようになぜ垂直にしないのかというと、落とした石が石垣の斜面に当ってバウンドし、遠くまで飛ぶようにしたからだと知って、なるほどと感心した。築城についてはまったくの素人だから面白い、面白いと感心ばかりして2時間過ごした。
天守6階の小屋梁の上にこの城の守護神「二十六夜社」が奉られている。言い伝えによると、1618年の正月二十六日に二十六夜月が女性の姿で天守番の前に現れ、我を祀れば、城は安泰、「御勝手向きは豊かなるぞ」と告げたという。
お釈迦様でなく、月の女神と言うところが面白い。ヨーロッパだったら、マリアでなく月の女神ダイアナというところだ。
昨年、うらわ市にある調神社(つき神社と呼ぶ)に初詣したとき、月についてもう少し勉強しようと思った。そう思いながらそのままになっていた。松本でまた月に出会い、これも月の女神のお告げか、今年はちゃんと月のことを勉強しよう。(2007.4.2.)