ザーゲの旅 2017年


山形県(鶴岡・立石寺・天童) <11月12日~11月15日>

 

 本当は10月23日に出かける予定だったが、台風が直撃しそうなので、11月12日の便に変更。懸念した通り、23日の庄内行きの便は欠航となったので、延期してよかった。

 今回の旅行の主目的は鶴岡にある日本唯一という黒いマリア像を見ることと、立石寺山寺参り。

 

11月12日(日)

 庄内行き羽田発は6時55分の便しか取れなかった。そこで、吉祥寺発5時40分の空港バスに乗ることにしたのだが、駅までの路線バスは始発前。それで初めてネットでタクシーを予約する。便利なもので、家の前までちゃんと来てくれた。

 

 鶴岡駅でレンタカーを借りる。最初は一人旅の予定だったので、路線バスを使ったスケジュールを立てていたが、連れが一緒に行くことになったので、車が使えて楽できた。

 

・鶴岡市の旧風間家住宅

 祖先は新潟県の武士だったが、その後商人となり、18世紀後半に鶴岡に移住。幕末には鶴岡第一の豪商になったという。

 石を積み重ねた屋根や梁の組み方は明治27年の坂田地震を教訓にして作ったそうだ。

 面白かったのは屋敷の中に蔵造りの部屋があり、そこが金庫室。大きな金庫の暗証番号が数字ではなくイロハだった。 

 

 その後、鶴岡城址公園を散策する。

 

・藤沢周平記念館

 私は藤沢周平の本は1冊も読んでいない。周平がこの鶴岡の人だということも知らなかった。記念館を見て、暇があったら読んでみようかと思った。藤沢ファンなら興味深く見られる記念館だった。

 

・「雪の降る町よ」記念モニュメント

 中田喜直が鶴岡滞在のときにイメージして作られた曲だそうだ。作詞内村直也。

 

・鶴岡カトリック教会天主堂

 お目当ての黒いマリア像のある教会。明治18年にパリの外国宣教会が鶴岡に宣教師を派遣し、ここに土地を購入し、明治36年に完成した教会。

 フランス・ノルマンディ州のデリヴランド教会をイメージして作られたもので、この教会堂献堂記念としてデリヴランド修道院から寄贈されたものだという。フランスの木の芯に石膏をかぶせたレプリカである。

 

 正直、ウーンとうなってしまった。思っていたような感動はなかった。正直安っぽいような感じがしたからである。教会に置いてあった簡単な説明書によると、これを本物の黒いマリアと鑑定したのは、フランス国立学術研究所のドベルク美那子氏(研究所所員?西洋史を深く勉強してきた日本人)によるもので、昭和52年だったとある。

 

 現在ヨーロッパには黒いマリアと言われるものが約450体(約200がフランス)あると言われている。それらの中には紀元前から崇拝されていた像もある。また、それらのルーツや、なぜ黒いのかも諸説ある。

 それにしても、それらの黒いマリア像が本物かどうか鑑定されたというようなことはこれまで私が読んできた本には書かれていなかった。

 寄贈先の修道院がこの像についてどういう説明をして鶴岡に寄贈したのかということについても書かれていない。いろいろ疑問が出てくるが、教会には誰もいなかったので聞けなかった。オリジナルがどんなものかも調べがつかなかったので、鶴岡の黒いマリアについてはもう少し調べてからにしたい。

 

・加茂水族館

 ここはクラゲ水族館として有名ということなので、楽しみにしていた。でも、水族館の三分の二はいわゆる魚、アシカやアザラシなど。2年前京都水族館でも同じようにたくさんのクラゲの水槽を見たことがあり、ここが特別ということではなかったが、クラゲは何度みても面白い。

 

11月13日(月)

 道を間違えてしまい、快晴でもあったので、急きょ予定変更し、立石寺(860年、天台宗慈覚大師創建)へ。芭蕉の「閑かさや 岩にしみいる せみの声」のあの山寺である。

 

・山寺

 奥ノ院まで1015段の階段。行けるところまでにしようということで、まず根本中堂をお参りして、芭蕉の句碑を見、芭蕉と曽良の像を見て、山門から階段を登る。

 

 そろそろ紅葉の時期で、山寺から見る景色は素晴らしいと宣伝されていたが、いわゆる赤い紅葉がほとんどなかった。

 しかし、山里を見下す景色はよかった。五大堂(経文が納められていて、建物の下には慈恵大師の遺骸が納められているという)まで登り、奥ノ院まであと数百段というところで、息切れし、下山する。

 

 芭蕉は当初、ここを訪れる予定はなかったが、知人に勧められてやってきたという。夕方、麓の宿坊に宿を借りてから、立石寺まで登ったそうである。40代後半とはいえ、なんという健脚かと感心する。

 山寺駅そばの芭蕉記念館を見て、鶴岡に戻る。

 

・鶴岡の芭蕉

 芭蕉は新暦7月13日に鶴岡を訪れ、知人の長山重行宅に3日間滞在し、その後、市内を流れる内川(最上川支流)を船に乗って酒田に向かう。鶴岡で詠んだ歌(連歌の発句)。

 

 めずらしや 山をいで羽の初茄子

 

 

 芭蕉は長山家で初茄子を御馳走になったのだろう。鶴岡近郊の民田でとれる名産子茄子の漬物だったと思われる。

 

11月14日(火)

 最初の計画では出羽三山をそれぞれ行けるところまで行ってみたいと思っていたが、連れがひどい風邪を引いてしまったということと、昨日の山寺登山で少しばかり足に自信を無くしたので、三山の一つ、羽黒山だけにする。

 ここには三神合祭殿があり、そこをお参りすれば月山、湯殿山と三山めぐりをしたことになるそうで、楽することにした。 

 

 と言っても、麓の随神門から山頂までは一ノ坂、二の坂、三の坂、合わせて2000段を越える石段である。ただし、別な自動車道で第一駐車場まで行けば、10分もせずに三神合祭殿に着く。その場合、一の坂にある国宝の羽黒山五重塔は見られないが、それでよしとする。

 

 三山合わせてお参りし、そこから逆に三の坂を三分の一ほど下る。脇道に入ると、芭蕉が泊まったという別院があり、そこは南谷と言われている。今は跡だけで芭蕉の句碑があるらしい。

 

 「ありがたや雪をかほらす南谷」

 

 この南谷に行く石段の急なこと、半端じゃない。脇道に入るところでかなりグロッキー。帰りは登らなければならない。南谷まで降りることは諦める。

 鶴岡に戻り、レンタカーを返す。急に激しい雨が降りだしたので、危機一髪だった。 

 

 鶴岡駅から余目(アマルメと読むのでびっくり)乗換、新庄まで行き、そこから天童駅へ。天童温泉は山間にあるのかと思っていたが、町中だった。温泉にのんびりつかって疲れを取る。この旅館は温泉室を出たところで、ビールをサービスしてくれる。美味しかった。 

 

11月15日(水)

 連れの風邪がなかなか治らず、明日はゴルフで朝早いということもあり、早めに東京に戻ることにする。

 旅館から歩いて、道の駅へ行き、お土産を買う。今の季節、なんといってもラ・フランスだ。赤カブも  美味しそうだったので、その他菓子類などまとめて送ってもらう。

 

 山形新幹線は天童駅から直通で東京駅まで行く。時間を待つ間、駅に隣接している天童市将棋資料館を見る。本格的な駒や天童独特の駒、大昔からの将棋の駒の変遷などの展示、駒の作り方のビデオなど、館内は狭かったが、とても面白かった。

 左馬(馬の字が鏡文字)は天童独特なのだそうだ。

 

 旅は体力勝負である。


ドイツ+オーストリア(ザルツカンマーグート) <7月5日~7月17日>

 

 今年は、現地11泊という意に反した短い旅行だったが、都合というものもあるので、しかたない。

 だからこそ、じゅうぶん楽しみたいと思って出かけた旅だった。

 

7月5日(水)~6日(木)

 フランクフルト空港から電車でヴォルムスへ。ヴォルムスは好きな町なので何度か訪れている。1521年、カール五世がルターを呼んで帝国議会を開いた町である。この議会で、ルターは自説(95か条のテーゼによるカトリック批判)を撤回せず、教会から破門、帝国追放の処分を受けた。

 この議会の開かれた場所は三位一体教会の裏と書いた看板があったが、探しても見つからなかった。

 

 もう一つ、この町で有名なのが、『ニーベルンゲンの歌』(第一部)の舞台だったということ。ジークフリートがブルグント王国の皇女クリームヒルトにプロポーズするために、故郷クサンテンからここにやってくる。

 さまざまなことがあって、ジークフリートは首尾よくクリームヒルトと結婚することができるが、クリームヒルトは兄の国王の妃ブリュンヒルトとジークフリートを巡って大ゲンカをする。 

 

 このことはブリュンヒルトにとって耐えられない屈辱だった。彼女は奸計を用いて、家来ハーゲンの手でジークフリートを亡き者にする。それを知ったクリームヒルトが復讐を誓う。ここまでが一部。第二部はクリームヒルトの復讐によって一族郎党すべて滅びゆく。

 

 『ニーベルンゲンの歌』は本当に面白い。私はこのジークフリート伝説に出てくる場所、たとえば彼が龍と闘って不死身となった場所や殺された場所をいくつか見て歩いてきた。いくつかというのは、もちろん言い伝えだから、「・・・ではないか」という研究者の推論に基づいてウロウロするということである。であっても、これが面白い。

 

 今回ヴォルムスを訪れたのは、クリームヒルトとブリュンヒルデが壮絶な喧嘩をした場所大聖堂やニーベルンゲンの宝をライン川に投げ捨てるハーゲン像のあるライン河畔、ニーベルンゲン博物館など、以前訪れたところを再度確認のためだった。ニーベルンゲンの資料がけっこうあった博物館が明日まで夏休みだったのは誤算だった。

 

 7月6日の夕方、ヴォルムスから電車でケルンに移動。この電車が90分遅れ。ドイツ鉄道の遅れには慣れていたものの、ここまで遅れるとは!

 最近はとりあえず「すみません」とは言うようになったが、遅延の理由は言わない。それでも、車内で「返却金申請用紙」が配られる。初めてのことだったので、用紙をもらってみる。

 書式に従って記入し、指定の封筒で提出すると、60分以上の遅延には運賃の25パーセント、120分以上は50パーセント返却される。ただし計算して4ユーロ以下の場合は支払の対象にならないと書いてある。

 

 ヴォルムスからケルンの乗車賃は50ユーロなので、日本円に換算すると1600円強戻ってくることになる。しかし、ネット予約の格安チケットを19ユーロで買ったので、返却はされるにしても、4.75ユーロ(約618円)。

 試してみようかとも思ったが、現金にせよ銀行口座にせよ日本まで送ってくれるのかどうか尋ねるチャンスもないまま忘れてしまった。いつまで有効なのかも書かれていないみたいだ。面白い経験として記しておくことにした。

 

7月7日(金)

 ケルンから日帰りでクサンテン(Xanten)へ。ジークフリートの故郷である。オランダとの国境に近い町。16年前に訪れたことがあるが、これだけ大昔なら仕方ないと思うが、まるで初めての町にやってきたほど、様変わりしていた。古代ローマの遺跡を再現した広い公園ができていたり、クリームヒルトの風車も整備されていて、観光に力を入れてきたのがわかる。

  昔はなかったニーベルンゲン博物館もできている。ここは面白かった。けっこう参考になる絵がたくさんあった。

 

 さて、ジークフリートは船でヴォルムスへやってきたという。町外れに港があったので、そこかと思って行って見たが、これは北海に注ぐ湖だった。観光局で尋ねると、町から車で20分ほどのあたりにライン川が流れていて、そこから出かけたという。車がなくては行けそうにないのであきらめる。

 

7月8日(土)

 午前中、ケルンのヴァルラーフ・リヒャルツ美術館へ。ここは私の好きな美術館だ。 午後はライン河畔でのんびり過ごす。夕方の電車でフランクフルト空港へ。ここで娘と合流。ルフトハンザでザルツブルクまで。

 

7月9日から一週間

 ザルツブルクとザンクト・ギルゲン(St.Gilgen)を拠点にして、ドイツとオーストリアの国境をなす山岳地帯を歩いた。

 以下、そのいくつか。

 

・ケールシュタインハウス(Kehlsteinhaus)

 ベルヒテスガーデン(Berchtesgarden)駅からバスを利用。ここには2006年の夏に一度来ているのだが、なんとケールシュタインハウスでは大雪になり、辺りは何も見えなかった。夏なのに考えられないようなお天気だったので、なんとしてももう一度行きたいと思った。

 

 ベルヒテスガーデンはドイツだが、ケールシュタインハウスはオーストリア。海抜1881メートル。1939年にヒトラーの誕生祝に贈られた山荘。敗戦時、アメリカ軍に占領され、イーグルネスト(ヒットラー山荘)と名付けられた。

 そのためかアメリカでは有名な観光地になっているという。たしかにこの日もアメリカ人観光客がわんさといた。

 

 ヒットラー山荘へ行く途中、ヒトラーに関する資料館がある。ここは前によく見たし、時間の関係で、そのままイーグルネストまで。

 金箔(?)のエレベーターで山荘まで上がる。エレベーターから降りて外へ出た途端、エッ、

こんな景色だったのかと感嘆の声をあげる。絵葉書で見た十字架がちゃんと見えるし、そこまで歩いてもいける。360度パノラマが広がる。

 

 ヒトラーは高所恐怖症で、ここには10回くらいしか来てないそうだ。もったいない。確かにここへ登る山道は狭くてカーブも多いので、ハイカーはいいが、自家用車は禁止だそう。

 室内は今はレストランになっているが、ムッソリーニが贈ったという暖炉が壁際にそのまま設置されている。今も冬は使用するのだろか。

 

・ケーニヒスゼー(Konigssee)とオーバーゼー

 ベルヒテスガーデン駅からバスでケーニヒスゼー下車。そこから遊覧船に乗り、湖の奥オーバーゼーで下船。徒歩20分くらいで、もう一つの湖オーバーゼーへ。お天気がよいので湖の色がとてもきれい。しかし、この日も暑かった。

 泳いでいる人もいる。

 

 湖畔の景色を楽しんだのはいいが、帰りの船着き場は観光客で船待ち状態。電車ならすし詰めということもあるが、船は定員があるから、長蛇の列。やっと乗船できたと思ったら、雷鳴とともに一天にわかにかき曇り、船の速力より雨足のほうが速く、静かな湖面に荒々しい波。

 

 やっとケーニヒスゼー船着き場に着いたはいいが、なんとベルヒテスガーデンに戻る最終バスが終わっていた。最終と言っても17:30である。さあ大変。タクシーで行くしかないが、タクシーなど見あたらない。

 ちょうどまさに店をしめようとしていたパン屋があったので、駆け込み、タクシーを呼んでもらうよう頼む。親切な女性だった。

 あれこれあって、8時半にはザルツブルクに帰りつけた。ヤレヤレ!

 

・眠れる魔女(Schlafende Hexe)

 この地域のどこかにこういう名前の山(1460m)があることをネットで調べ、写真もコピーして持って行った。しかし、山の姿は富士山のような山でない限り見分けるのがなかなか難しい。あれかこれかと山の姿を目で追ったが、しかとはわからなかった。

 ところが、頼んでもらったタクシーを待つ間、前方を見ると、なんと間違いなく写真とおりの「眠れる魔女」山が見えた。万歳!

 

・ザルツカンマグート

 ザルツカンマ―グート(ザルツブルクを含む上部オーストリアの山岳地帯)は塩の領主直営地という意味。つまりハープスブルク帝国の経済を塩で支えてきた重要な地域である。

 しかも、ここ一帯は、岩塩鉱だけでなく、1800メートル級の山々と数多くの湖を有する風光明媚な観光地になっている。

 そのいくつかを。

 

・ハライン(Hallein)

 観光用のトロッコで岩塩坑内を案内する町がいくつかある。映像を見ると、急斜面を滑り降りる滑り台のようなもので地底におりていく。皆キャーと悲鳴をあげている。私は絶対嫌だと拒んだのだが、せっかくここまで来たのだからと娘に説得されて、その一つハライン(Hallein)の岩塩坑で試してみることにした。

 娘の後ろに座って娘の腰にしがみつき、目をつむって耐える。でも、あっという間で、けっこう楽しかった。

 坑内には大きな地底湖もあり、船で渡る。坑内の要所要所の壁に、塩をめぐる領主と司教の争いについての映像がドラマ風に流れる。

 

・ウンタースベルク山

 ザルツブルクのホテルの窓から見えるウンタースベルク山1663m。グリムの『ドイツ伝説集』に良く出てくる山なので、行ってみたかった。巨人が住んでいて、村に降りてくるとか、カール大帝あるいはバルバロッサ赤ひげ王とも言われているが、この山中に隠れているとか。

 バスを降りてロープウエーで頂上駅まで行く。そこからかなり険しい道を20分ほど歩くが、十字架の立っている頂上まで歩く気力はなく、私は途中で景色を楽しみ戻る。ここも360度の見晴。

 

・ザルツブルク市内で

 ザルツブルクは4回目なので、あらかた観光名所はまわっている。今回初めて行った、あるいは経験したことを。

 

 ザルツアァハー川の近くにあるメンヒスベルクの丘に登る。頂上には美術館があるのだが、この日は月曜なので休み。

 見晴がいい。写真でわかると思うが、長い箱のようなものがエレベーターである。

 

 観光船に初めて乗る。ザルツブルクは観光客であふれている。この観光船、なんの見所もないのだが、それゆえか、戻り着くとき、ワルツの曲に合わせて、船がぐるぐる何度もまわってくれる。それで乗船客は大喜び。

 

 ザルツブルク名物というザルツブルガーノッケルンというデザートを食べる。ザルツブルク周辺の3つ山をイメージしたという巨大なお菓子。卵白を泡立て、オーブンで焼く。だが、大きい割にはやわらかく、娘と半分にしてペロリ。

 

 もう一つカイザーシュマレンというデザートが有名だというので、初めて食べる。パンケーキを細かくちぎったものにアーモンドやナッツ類を混ぜた砂糖味で、メインディッシュにもなるそうだ。見た目はよくないが、それほど甘くなかったので、美味しく食べられた。

 

・ザンクト・ギルゲン(St.Gilgen)

 ザルツブルクからバスで約50分。ヴォルフガング湖に面した避暑地。最初は同じ避暑地でもバート・イシュル(Bad Ischl)にしようかと思ったが、翌日立ち寄って町を見たが、とりとめのない町だったので、ザンクト・ギルゲンに決めてよかった。とても小さな町で、土産屋も1軒しかないが、とても落ち着いた雰囲気がある。ここで3泊。

 

 モーツアルトハウスというのがあったので、モーツアルトが住んでいたのか、それで湖の名前もそれにあやかったのかと思ったが、全く違った。ここに住んでいたのはモーツアルトの母親と姉だけだったそうだ。ヴォルフガングというのは10世紀にこの地で布教していた偉い聖人の名前だった。その昔は「アーバーゼー」と言ったらしい。

 

 山の上から、バスの車窓から、湖畔で、ちょっと曇っていても、どこから見ても、ヴォルフガング湖の色は美しい。

 

・シャーフベルク(Schafberg)

 ザンクト・ギルゲンからヴォルフガング湖観光船でザンクト・ヴォルフガング下車。そこから登山鉄道で登る。午前中は霧で何も見えなかったが、登るのを午後にまわしたらようやく晴れてくれた。それでも霧とお日様の追いかっけこみたいだった。シャーフベルク山頂(1783m)で見下したたくさんの湖。その美しさはいつまでも忘れらないだろう。 

 

・ダッハシュタイン(Dachstein)

 ザンクト・ギルゲンからバスと電車を乗り継いで、ダッハシュタインヘーレン駅で下車。そこからバスでダッハシュタインロープウエー駅まで。ロープウエーは最初の下車駅から行く氷穴めぐり(数年前に来たことがある)と終点のダッハシュタイン頂上行きの2つある。終点駅で降りたすぐ目の前に氷河があり感動。ここももちろん360度見渡せる。

 

 きつい坂道を含めて40分ほど歩くと、ファイブフィンガーという展望台に出る。断崖から突き出た5つの見晴台である。怖くて足が前に進まない。それでも、行く前に見た写真よりは短い指だったので、第二関節あたりまでは行けた。

 

・ハルシュタット(Hallstatt)

 前回訪れたときは、町中から出ているケーブルカーで岩塩坑に行くつもりが、バスを乗り間違えてダッハシュタインまで行ってしまった。岩塩坑はすでにハラインで試したから、丘の上に整備されているケルトの遺跡を見るだけにした。

 途中の小屋にガイド風の女性がいたので、本当にここはケルト発祥の地なのかと尋ねてみた。彼女の答え。発掘されたものから判断してそうだと思うが、実際の住居跡というのは発掘されていないそうだ。

 

・ツヴェルファーホルン(Zwolferhorn)

 ザンクト・ギルゲンのバス停そばからザイルバーンで登る。下からは見えなかったが、かなり長い距離を登る。ここでもヴォルフガング湖が見えて360度のパノラマ。頂上の十字架まで行く。雨柱が見えたので、急いで降りる。

 降りる途中から雨降りだす。ギリギリ。下におりたら土砂降り。

 

 ザルツブルク空港からフランクフルトへ。2泊する。

 

・ヘッペンハイム(Heppenheim)

 この町は木組みの家街道に入っていて、町中には100を超す影絵のついた外灯があり、ジークフリートの街灯もあるということだった。そして、町外れにはジークフリートの井戸もあるという。

 

 フランクフルトから電車で約1時間。駅から徒歩20分ほどで旧市街。マルクト広場を中心に外灯のある小道をゆっくり歩いても、1時間ほどで見終わってしまう。

 外灯の伝説はヘッセン地方の伝説に限ったものなので、「ホレおばさん」などもあったが、一般にはあまり知られていない伝説ばかり。

 ジークフリートの街灯はなかった。ヘッセンの伝説ではないから最初からおかしいなあとは思っていた。

 

 しかし、まだジークフリートの井戸がある。バスで駅の反対側ラングネーゼ(Langnese)まで行く。井戸はすぐ近くの小さな公園にあった。なんだかなあというものだった。

 通りの向かい側にラングネーゼのアイスキャンディの大きなマークが見える。製造工場だ。見学できそうなので尋ねてみたが、ダメだった。

 

 路地を歩いていると、開き窓を開けておくときのストッパーでとても可愛いのを見つけた。これまで気が付かなかったのか、初めてみた。

 

・ヴィースバーデンのネロベルク(Neroberg)登山鉄道

 ヴィースバーデンはヘッセン州の州都。私が今回この町を訪れたのは、市街の外れにあるネロベルクという丘(245メートル)に上る水力鉄道にぜひとも乗ってみたかったからだ。この鉄道については、うまく説明できないので、ウィキペディアから抜粋した。

 

 「2台の車両がワイヤで連結されており、車両がそれぞれ山頂と山麓に位置している。山頂駅の近くにあるポンプ小屋に、山麓から水がくみ上げられる。くみ上げられた水(約7,000リットル)が山頂の車両のタンクに注がれ、その重みで山頂の列車が降りる。

 (ワイヤの反対側にある山麓の車両は、山頂から降りる車両に引っ張られて登っていく。)山頂の車両が山麓までたどり着くと、車両のタンクから水が出され、山頂へとポンプを通じて水が送られる。以下、これがひたすら繰り返される。なお、水が凍結すると危険なことから冬期は運休となっている。」

 

 この鉄道は1888年に作られた。ヴィースバーデンが温泉地として突出した水量を誇ることから、予算不足解消として考えられたものらしい。

 麓に着くと、車両の下から水が勢いよく放出される。この水がふたたび上まで送られていくのだ。面白い。

 

 ネロ中腹にロシア正教会がある。ちょうど日曜のミサが行われていた。入口にスカーフを入れた箱があり、それをかぶって中に入る。ロシア正教会のミサは初めて見た。興味深かった。

 

 夕方にはフランクフルト空港へ。今回は雨続きの旅行だと思っていたので、曇りや霧もあったけど、快晴もあったので嬉しかった。こんなふうにして、今年の夏の旅行は終わった。


北海道(網走、摩周、釧路) <6月12日~6月17日>

 

 最後に北海道へ行ってから40年が過ぎた。あのときは濃霧でまったく見られなかった摩周湖をちゃんと見てみたいというのが一番の目的。加えて、オホーツクの海と釧路湿原を見ること。網走2泊、摩周2泊ののんびりした旅にする。見たかったところ、印象に残ったことだけを簡単に記す。

 

6月12日(月)

 羽田から女満別空港へ夕方着く。そこからバスで網走まで。予約したホテルは網走駅の前。 バスターミナルは駅から徒歩15分弱、そこが繁華街。夕食を兼ねて、町を散策する。ターミナル近くにある永専寺が

元網走刑務所跡。レンガ塀と入口と看板が残っている。

 曇天のせいもあるだろうが、さびれた感じがして、網走ってこんな町だったかなあと昔の記憶はない。

 

6月13日(火)

 快晴とはいかなかったが、まあまあの天気。網走駅(JR釧網線釧路方面)から夏だけ停まる原生花園駅(無人駅)下車。

 昔はこんな駅舎はなかったように思う。駅の裏手の丘一面が原生花園。道も整備されていて、歩きやすい。

 オホーツク海が目いっぱいに広がる。時折観光バスで観光客がやって来て、サッと見て、去っていく。

 

 花の季節にはちょっと早かったようだ。見たかったハマナスもほんの数輪しか咲いていない。ハマナスはドイツでよく見るバラ科のカルトーフェルローゼ(ジャガイモバラ)の原種である。いくつか咲いていたが、ドイツの花より強い赤色をしている。

 

 たっぷりオホーツクの海を見て、路線バスで網走のバスターミナルへ。そこからバスで流氷館へ。それほど見応えがあったわけではないが、なによりクリオネの生態について知ることができたのが面白かった。

 クリオネは決まった一つの餌(リマキナ)しか食べない。パンダの笹と同じだ。このリマキナもクリオネと同じ貝類で、流氷の海でしか獲れない。クリオネは餌がなくても1年間は生存するらしい。今みているクリオネはこの春に獲れたものなので、1年後には死んでしまうという。

 クリオネがどうやって餌を食べるかのビデオがあった。頭に口があって、触覚が6本、それが餌をつかまえて取り込む。衝撃的だった。

 何度も見てしまう。ついでに録画にも撮った。

 

6月14日(水)

 昨日流氷館を見たので、今日は網走監獄博物館と北方民族博物館を見る。監獄博物館へ行く途中、現在の刑務所の建物とレンガ壁が見える。ここで降りると次のバスまで1時間。門のあたりでうろうろして、何ですかと聞かれたら面会ですと答えるのもなあ、ということで降りずに監獄博物館に。

 

 監獄博物館では10時からの無料ガイドさんの案内で50分間見て回る。説明もよかった。北海道開拓を支えたのは網走刑務所の囚人と屯田兵と内地から派遣されてきた人々。それがよくわかる。リアルな人形による展示が面白い。入浴場面などヘーという感じ。 

 

 北方民族博物館は無料のオーディオガイドで見て回る。何がよかったという特別なものはないが、どうしてこんな寒い地域に住むようになったのだろうと。移ることよりもその地で生きるための知恵を働かすということに感動。

 夕方、釧網本線で摩周駅へ。

 

6月15日(木)

 曇天。摩周湖見えるか。かなり諦め。摩周湖行きのバスに乗る頃にポツリポツリと雨。アー、摩周湖は私にとってついに幻だったかと思っているうちに第一展望台に着く。やはり濃霧で何も見えず。

 帰りのバスは折り返しの25分後か3時間後。せっかく東京からやってきて、土産物屋(大きい)を覗いて帰るのではあまりに情けない。霧でもいいから3時間はここにいることにした。

 レストランで昼食を食べていると、外のベランダにエゾシマリスが姿を見せる。このリスは北海道にしかいないリスだそうだ。

 

 ボーとしていると、外の空気がなんとなく動いているような感じがする。

 もしやと思って、外へ出て見るとわずかに湖面が見える。あわてて展望台まで行くと、摩周湖が全貌を現した。もちろん曇天だからブルーの湖面ではないし、上のほうに霧はかかっていたが、ちゃんとすべて見えた。感動の一瞬だ。二時間後である。そして15分もしないうちにまたも湖面は霧に隠れる。でも、これでいい。

 

6月16日(金)

 摩周駅から釧網本線に乗る。本線と言っても1両だけ。それでも大丈夫ということはそんなに乗客がいないということだろう。

 昨日の原生花園駅を通り、釧路湿原駅に。ここも夏だけの臨時の無人駅。

 荷物預けるところなし。上に展望台があり、そこにビジターセンターがあるから、そこなら荷物なんとかなるだろうと急な木の階段を登る。小さなキャリーバッグだったので、助かった。ビジターセンターで荷物預かってもらえる。

 センターでは湿原についての動画やパネルがある。裏手の坂道を歩いていくと、鶴岡展望台。ここが釧路湿原を見下す第一の展望台だそうだ。なるほどこれが釧路湿原か。広い広い。幸い午前中は晴れの予報。その通りだった。

 

 湿原は昔よく行った志賀高原などで見ているし、歩いてもいるが、ここは広さ全国1だそうだ。冬にはタンチョウ踊りが見られる。ところが、下調べした中にこの展望台がなかったので、おかしいなと思い、センターの人に聞くと、私が調べたのは釧路市郊外にある展望台だという。センターの人が言うには、しかし、展望はここが一番ですよと。

 

 展望台のあたりでのんびり過ごし、釧路駅へ。釧路湿原を歩けるところは温根内ビジターセンターだと聞いたので、バスに乗る。

 町中を過ぎるとあたり一面湿原みたいな感じの平野が広がる。畑ではない。牧草地にしているのだろうか。

 

 知らない町で見る町名は実に面白いものがある。ここへ来る途中大楽毛というところを通る。オタノシケと読むらしい。

 なんという地名だ、笑ってしまう。そういえば秩父バスで三頭山荘へ行ったときもおかしな名前を見た。

 笛吹がうずしき、人里がへんぼり、どうしてそんな読み方をするのだろう。

 

 展望台を通過してビジターセンターへ。約50分。荷物を預けるロッカーがある。裏手に木の道があり、そこを歩いていけば湿原散策となる。どのくらい歩けば奥まで行き着くのか、景色が変わるのか、聞きそびれてしまい、また雨もポツポツ降り出したので、15分ほど歩いて戻り、直近の釧路行きバスに乗って駅へ。

 

 釧路駅は見事に何もない駅。ただ、さすが釧路と思うのは英語のほかにロシア語で交番と書かれていること。早めに空港に行き、ショッピングセンターでお土産を買い、ホッケ定食を食べて、さてというところで、飛行機30分遅れというアナウンス。最終便だったので、帰宅は夜中12時をまわったところ。

 

 今回の北海道旅行はそれなりに楽しかった。車があればもっと有効に時間を使うことができたのだろうが、私にはこれでじゅうぶんだった。

 

 網走から釧路までの風景で気になったことがある。どこを歩いても大きなフキが繁っている。どこまでも、どこに行ってもフキだらけ。摩周道の駅の案内所で聞いたら、「うちら、あれは雑草扱いですよ」と。食用は足寄町(松山千春の故郷だそう)で栽培しているという。フキノトウも道端のは食べないのかな。あまりのフキだらけに、最後は気味が悪くなりそうだった。 

 

 車なし、観光バスも使わなかった旅は確かに不便だった。しかし、それは観光客の勝手。道民はちゃんと生活しているのだ。

 

 やはり北海道は冬がいいと思った。オホーツクも海面だけ見れば、太平洋と変わりない。やはり流氷がなければね。釧路湿原も雪に覆われてタンチョウツルが姿を見せなければね。ただ寒さに弱い私には無理。

 


ドイツ <4月21日~5月4日>

 

 今回の旅行の目的はもちろんハルツでヴァルプルギスの夜を過ごし、1年ぶりの友人たちに会うこと。そして、キリスト教社会になって特別な意味を持つようになった「メメントモリ(死を思え)」をテーマにした「死の舞踏」の絵を見にいくことだった。死の舞踏の絵は、ベルリン、リューベック、フュッセンの教会にあるのは見たが、小さな町の教会にもあることがわかって、それを見たいと思ってのことだった。

 

4月21日(金)

 フランクフルト空港から電車でカールスルーエへ。ここで3泊する。

 街中を散策していて目にはいったのが、大通りに沿って上空を長々と連なる青色の鉄パイプだった。

 地下鉄工事でボウリングした地下水を流している管なのだという。こんなふうに上空に排水管を設置するのは普通なのだろうか。地下鉄工事の工法を私が知らないだけなのか。

 

4月22日(土)

 何年か前に南ドイツのギュギュリンゲンという小さな町で魔女展があるのを知って訪れたのだが、そのときに「牛乳魔女」の絵が展示されていた。柱を牛にみたて、そこに斧を差し込んで乳搾りをする女。類感呪術の一種である。その牛乳をもらおうと壺を差し出す悪魔。このように悪魔と結託して牛乳を盗む(ときには腐らせる)のが「牛乳魔女」だと告発された時代の絵である。

 

 この絵がどこにあるのか知りたかったがなにも説明がなかった。今年になって偶然にこの絵がエッピンゲン(カールスルーエから電車で約1時間)の教会にあると知った。

 しかもこの教会の横手にある牧師館の外壁には「死の舞踏」が描かれているという。また、この町でもかつて魔女迫害があり、その反省にたった魔女のブロンズ像もあるという。

 これだけそろっていたら、ぜひとも行かなきゃ。ということで、日帰りでエッピンゲンの町へ行く。

 

 駅前の公園を通って10分ほど歩くと町の中心地マルクト広場に出る。広場の横の通りにカトリック市

教会(15世紀中頃)があり、この中に牛乳魔女の絵があった。ああ、これだ!と思う。他の壁画はほとんど

消えかけているが、これはかなり鮮明。1320年の壁画という。修復されているのかもしれない。ただ、悪魔のセリフ(おそらくラテン語)は消えかけていて読めない。教会の人がいたら聞こうと思ったが、誰もいなかった。今後の宿題。

 

 ドイツ、特に南ドイツには「・・・インゲン」という地名が多い。ゲルマン民族大移動の時代の入植地がこのように命名されているらしい。エッピンゲンもその頃の町だと推測されている。宗教革命時代には新教と旧教のせめぎ合いがあって、今は両方の教会がある。牛乳魔女の絵がある市教会はカトリックである。

 

 教会の横手にある牧師館の壁に長さ10メートルの死の舞踏の絵が描かれている。20世紀になってから描かれもののようだ。死の舞踏というテーマは現代でも生きていて、多くの絵が描かれている。

 マルクト広場から駅通りに行く途中に魔女のブロンズ像もあった。

 

4月23日(日)

 マウルブロン修道院はシトー派の古い修道院(1147)で、今はユネスコ文化遺産になっている。ここの神学校に入学したヘッセは半年で逃げ出すが、その経験は『車輪の下』の主人公ハンスに投影されている。

 

 修道院の入口に日本でも有名になった薬草魔女ガブリエル・ビッケルさんのお店がある。 昔、彼女の薬草ツアーに参加したことがある。今日はお留守だった。

 

 これも昔、修道院の敷地内にあるレストランで食べたマウルタッシェンという西洋餃子みたいな料理がとても美味しくて、いつかまた食べようと思っていた。

 お店はずいぶん広くなり、従業員もたくさんになっていて驚いた。昔は小さなお店だった。マウルタッシェンの味は変わりなく美味しかったが、もちろん大げさだが、座布団みたいなタッシェン(袋)が3個も大皿に。

 でも、せっかくの料理、無理して完食した。

 

4月24日(月)

 カールスルーエからニュルンベルクまで電車で3時間ちょっと。乗車券はドイツ鉄道のHPから特別提供価格のものを予約する。これは乗車1週間ほど前までに予約する必要があり、決めた電車に乗らないと無効になってしまう。でも、通常60ユーロが19ユーロで提供されている。信じられない安さ。今回も何回か利用する。よほどでない限りジャーマンレイルパスも必要なくなった。日本の新幹線もこのようなサービスがあればと思う。

 

 ニュルンベルクのホテルに荷物を預け、ニュルンベルク裁判が開かれた法廷を見学に行く。建物内部の展示パネルは実に詳細を極めていた。東京裁判の資料も展示されていた。以前に極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷を市ヶ谷に見学にいったが、法廷そのものはニュルンベルクのほうがずっと狭い。

 数年前にニュルンベルク近郊にあるナチス党大会の跡を見に行ったときは、その広さに圧倒された。ミュンヘンもベルリンもナチスの町ではあったが、ニュルンベルクはより特別な町である。

 

 話変わるが、ニュルンベルクといえば、ニュルンベルガ―ソーセージの本場。ということで、夕食は定番のビールとソーセージ。ついでに今回の旅で食べたドイツ料理の定番を。

 

4月25日(火)

 ニュルンベルク駅のコインロッカーに荷物を1泊の予定で入れる。身軽になってヴィーザオという町へ。目的はヴィーザオ近郊のヴォンドレプという村。チェコの国境近く。そこの教会の礼拝堂に死の舞踏の天井画がある。

 初めての土地。グーグルマップで調べても、その教会のあるバス停がどこなのかよくわからない。ともかくバスを乗り継げばその村には着けそうな気がする。かなり調べたがそれでもアバウトにならざるを得なかったのだ。

 

 特に大変なのはバスの時刻表に「アンルーフ」と書いてあるバスである。これは遅くても1時間前に指定の電話を通して予約すれば、たとえ乗客が一人でも来てくれる。バス料金で乗れるが、この交渉は土地に無案内だと難しい。

 昨年、ウルムのインフォメーションで頼んで利用したことがあったが、今回はヴィーザオのホテルでお願いする。

 なんとか途中のバス停で乗り換えバスが来てくれることになったので、不安ながら出かける。バスとタクシーの機能をもったアンルーフはこの地域では「バクシー」という。思わず笑ってしまう。

 夜になって雪が降り出した。車の屋根に少し積って、すぐ止んだが。

 

 お目当ての教会は思った通りのバス停のそばだったので、30分もすれば用は済んだ。バスは2時間に1本だから乗り遅れることはない。ところがそのバスが来ないのだ。ドイツのバスは田舎の場合ほぼ定刻通りに来るはずなのに、来ない。次のバスは2時間後、しかもそれが最終バス。まわりにカフェー一軒もなし。人口400人の村だ。これで頼んだバクシーは使えなくなった。しかも、その最終バスが10分たっても来ない。真剣にヒッチハイクを考えた。

 

 やっとバスが来た。ヤレヤレ。運転手は途中道路工事で迂回して遅くなったと言うが、頼んだバクシーには乗れなくなった。このバスの終点からどうやってホテルのあるヴィーザオまで帰れるのだろうか。しかし、ずいぶん時間がかかったが、なんとか帰りつけてホッとした。ながながと書いてしまったのは、今回の旅で一番緊張した日だったからだ。

 

 肝心の礼拝堂の天井画は素晴らしかった。天井に描かれた35枚の死の舞踏。不確かだが、1669年に描かれたと推測されている。礼拝堂横の教区教会マリアヒンメルファールトはバイエルンの巡礼教会の一つである。

 

4月26日(水)

 ヴィーザオからバイロイトへ。バイロイトは初めて。思っていたより大きな町だった。いたるところ、ワーグナーの小さな銅像がある。ベルリンの熊、ミュンヘンのライオンと同じだ。

 

 

 バイロイトは目下シーズンオフだが、ワーグナーの祝祭劇場の建物くらい見ておこうと思ったし、ワーグナー博物館もみたい。両者は駅をはさんで南北にある。ともに駅からかなり離れているので、両方に行くにはバス利用がいいと現地に行ってからわかった。ガイドブックにはそのことは書いてなかったので、

甘く見てしまった。

 

 それで、劇場の最終ガイドツアーに間に合わなかった。着いたらツアーが終わって客が出てくるところだった。

 客の中に親切なのかよくわからない青年が、せっかく来たのだから、ちょっと中を覗かせてあげたらと案内人に頼んでくれた。それで劇場のドアを開けたら、もう電気が切れていて真っ暗。その青年は左手に舞台があるんだよと教えてくれたが、何も見えなかった。

 

 劇場そのものは思ったよりも小さな建物だった。シーズンには何十万という人が訪れるのだろうが、レストランやカフェーは今はすべて閉まっていた。

 

 ワグナーとコージマが過ごした家(ハウス・ヴァンフリート)がワーグナー博物館になっている。ワーグナーの希望するような家にしたという。内部も見られる。ルートヴィヒ二世がこの家も劇場も資金提供している。

 家(博物館)の前にルートヴィヒ二世の胸像がある。

 建物の裏手にはワーグナーとコージマの墓がある。シーズンオフだからか、まったく献花はなかった。

 ワーグナーとビューローの妻だったコージマ(リストの娘)の恋愛はスキャンダルとなったが、ワーグナーの妻が亡くなってから、コージマは離婚し、その後ワーグナーが亡くなる20年間も一緒に夫婦として生きてきたのだから、非難に値しない。

 

 ニュルンベルクに戻り、コインロッカーから荷物を取って、ヴュルツブルクへ。

 

4月27日(木)

 ヴュルツブルクでは午前中に市庁舎の中にある死の舞踏の壁画を見るつもりだった。ところが、その壁画のある会議室が今日は会議があるので、入れないと言われた。エッ!ちょっとだけでも覗かせてと頼んだが、冷たく拒否された。

 アポをとらなかった私が悪いのだからしかたない。でもアポが必要だとは思わなかった。受付で担当者のメールアドレスを教えてもらった。今度ヴュルツブルクを訪れる予定がったら、絶対アポ取ろう。

 ここの死の舞踏は20世紀に描かれた現代作家によるものだが、見て見たい。

 

 目的が達せなかったので、ヴュルツブルク大學にあるレントゲン記念館に行く。ヴィルヘルム・レントゲンはX線の発見によってノーベル物理学賞第一回目を受賞している(1903年)。そのノーベル賞受賞証の本物がガラスケースに展示されていた。あるガイドブックには、彼がエックス線を発見した教室がそのまま残っていると書いてあったが、それはなかった。

 

 午後の電車でゴータに。ゴータは8世紀の記録にある古い町で、18世紀にはドイツ啓蒙主義の中心地になった。

 1875年にここでドイツ社会民主主義労働党が結成された。その際の綱領についてマルクスが『ゴータ

綱領批判』という本を書いている。昔、読んだが、内容はすっかり忘れてしまった。ただゴータという名前だけが記憶に残っていたので、いつか行ってみたいと思っていた。

 

 ゴータは旧東ドイツで、特別な観光名所もないからか、ワイマールのような手立てもされないままの古い町である。

 しかし、昔を偲ばせる重厚な建物が残っている。

 

4月28日(金)

 公園内のフリーデンシュタイン城博物館とその向かいにあるヘルツォーク博物館。ここにハンス・バルドゥング・グリーンの絵があると何かに書いてあったが、実際にはなかったので残念だった。だが、この二つの博物館はとてもよかった。

 

 私の好きなフリードリヒ・カスパーの祭壇用「山頂の十字架」の別バージョンが見られた。ドレースデンにある絵が有名なのだが、17年後に同じモティーフで描かれたものである。ずいぶん雰囲気が違う。

 

 夕方の電車でハレへ。

 

4月29日(土)

 ハレはヘンデルの町。確かにヘンデルはハレが出身かもしれないが、イギリスに帰化してほとんどイギリスで活動していた音楽家だ。それでも博物館はそれなりの展示があるかと思ったが、楽器展示が多くて、私にはあまり面白くなかった。

 むしろ、モーリッツ博物館がよかった。モローもあった。カンディンスキー、など表現主義時代の絵画が揃っていた。ここはお勧め。

 

4月30日(日)

 ハレを午前に出発し、昼前ヴェアニゲローデに着く。駅でゲルディと会う。彼女の車でバウムクーヘンの家に連れていってもらい、土産のクーヘンを買ってから、町に戻って彼女と一緒に昼食をとり、別れる。

 

 毎年ヴァルギスの夜はヴェニゲローデに泊まってどこかに行ったのだが、今年は止めた。

 正直もういいかなという気持ちが大きくなっている。私が言うのもなんだけど、魔女って何だろうと思う。日本でもドイツでも魔女はもやはコスプレする楽しみのキャラクターになってしまったみたい。そのためか、今年はヴェアニゲローデの町でも昨年とくらべて魔女の姿がずいぶん多くなっている。

 

 夜までにゴスラーへ行く予定にした。その前に、ヴェアニゲローデ城の祭りだけでも見ていこうかと思った。ところが、城へ行くミニ電車が満員で待たされ、城へ登る坂の下の入場口にもすごい行列ができている。今年はどうしたのだろう。来年もまたこんなに賑わうなら、考えよう。

 

5月1日(月)

 昨日が日曜、今日は祝日(メーデー)でドイツは連休。ヴェアニゲローデやゴスラーのような小さな町の店は軒並み休店。日本だったら、かきいれどきなのにと思うが、ドイツ人はせっかくの休日は自分のためにと思うのだろう。

 

 電車でブラウンシュヴァイクに。ここにハッピー・リッツィ・ハウスという変わった建物があると知り、見に行く。フンデルトヴァッサーのような建物を想像していたのだが、ちょっと違った。建物の壁面全体に現代アートというのだろうか、色鮮やかな絵が描かれている。

 世界的に有名なニューヨークの建築家ジェイムス・リッツィ(私は知らなかった)が建てたもの。オフィスビルとして使われているので、内部の見学は不可。中世からの重厚な建物が立つ通りの向かい側にある。その対比はなんとも奇異な感じがする。

 

 夕方ゴスラーに戻って、例年通り、Yさんと会って、彼女の車でアレックスの家を訪れる。毎年、家族全員そろって私たちを待っていてくれる。嬉しくありがたいことだ。上の息子さんは今年ゲッティンゲン大学に入学し、アパート暮らしをしているが、連休で戻ってきている。

 

 下のお嬢さんは今はギムナージウムに通っているのだが、ピラティスに凝っているという。私は知らなかったが、Yさんの話では、日本でも盛んだそうで、でも、どちらかと言えば年配の人が通うようなものだけどね、とこっそり教えてくれた。

 ピラティスはドイツ人の看護師ヨーゼフ・ピラティスがリハビリを目的として生み出したエクササイズ法だそうで、調べたら、日本でも若い人から高齢者まで行っているようだ。

 

 美味しい食事をご馳走になり、デザートに日本からお土産に持っていった羊羹(根尾谷で買ってきた淡墨桜羊羹)をみんなで食べた。彼らは羊羹は初めてという。切ると中に塩漬けの桜の花が入っている。薄く切って食べる。美味しいと言って1本食べてしまったので、よかった。

 

5月2日(火)

 今日も例年通り、ゴスラー近郊の村にすむ日本人のCさんのお宅を訪問する。彼女は優秀な翻訳家で、料理も得意、田舎暮らしを楽しんでいる。おまけにオルガニストでもある。村だけでなく、近郊の教会にも頼まれて弾きに行っている。

 昨年は、教会まで行ったのだが、オルガンのカギを忘れ、時間もなくて、聞かせてもらえなかった。今年は時間をたっぷりとったので、聴かせてもらい、オルガンの弾き方を教えてもらった。ピアノとはずいぶん違う。

 よほど練習しないと弾けないことがわかった。

 

 その後、手作りのドイツ料理をご馳走になった。ドイツ式カリフラワーの食べ方を味あわせてもらった。かなり軟らかに茹でたカリフラワーにシュニッツェルを焼くときに使うパン粉(日本とちがって細かい粉のよう)を炒めたものをかける。とても美味しかったので、このパン粉を買って帰ることにした。デザートも手作りのケーキ。ケーキ屋さんになれるほどの腕前に感心してご馳走になる。

 

 今回食べたドイツ料理定番を以下に2つ追加。

 

5月3日(水)

 今日の夕方の便でフランクフルトから日本へ帰る。生憎雨だったし、どこかへ行く予定もなかったので、いつだったか行ったことのある動物園に行く。ミアキャットとゴリラを見ているとまったく飽きない。

 

 今回は緊張した前半の旅に比べて後半はユルユルだった。美術館巡りが少なかった。 今年の春は遅く、菜の花畑も7分咲き、トチノ木の花もまったく咲いてなかった。それでもハルツの自然をたっぷり

味あい、のんびりもできて、まあまあの旅だった。

 

 帰りの飛行機の座席が事前予約できない。(ルフトハンザはたいていそう)。私はいつでも動けるよう通路側がよかったのだが、すべて埋まっていて、窓際しかなかった。本当に久しぶりに窓際から外を眺めた。空港を飛び立ってしばらくすると夕日が沈む。羽田空港上空からはあれは豊洲かなと、窓際もそれなりに楽しめた。


根尾谷淡墨桜・熱田神宮 <4月10日~4月13日>

 

 京都八幡市の薄墨寺(ぼくせんじ)に薄墨(うすずみ)の桜を見に行ったのは、2015年3月。たった一つだけ小さく咲いていたのを見て、いつか岐阜県本巣市根尾谷にある樹齢千五百年という淡墨桜(うすずみ)を見たいと思った。

 

 根尾谷の桜の品種は彼岸桜で、和名は学者によって一定しないようだ。ここでは大井次三郎博士に よる判断でエドヒガンという。咲き始めはピンク、満開になると白っぽくなり、散り際には薄墨色になるという。

 なんとしても散り際に行けないものかと桜開花情報と私および連れの予定とを突き合わせて、この日程にしたが、1週間早かった。それでもほぼ満開の桜と満月が見られただけよかった。

 

4月10日(月)

 新幹線で名古屋乗り換え、大垣まで行き、そこから樽見鉄道で樽見まで。樽見鉄道は一両編成のワンマンカ―。約1時間。トンネルあり、揖斐川支流の渓谷ありで、車掌がガイドしてくれる。駅名が読めなくて、それが面白い。木知原(こちぼら)日当(ひなた)水鳥(みどり)鍋原(なべら)、神海(こうみ)!

 

 織部駅には千利休の弟子古田織部の生家があるという。マクワ瓜が名産の真桑駅。そういえば、マクワ瓜を最後に食べたのはいつごろだったろう。沿線一帯に広がる柿の木の畑。初めての路線に乗るのは楽しい。

 

 終点の樽見駅から歩いて淡墨公園へ。川を渡って、ちょっとした坂道を登る。徒歩約15分。見たかった桜の木がついに眼の前にそびえていた。ほぼ満開。

 樹齢千五百年。根元のなんと太いことか。木の高さ16メートル。何本もの支え棒に支えられながら、それでも見事に開花している様には感動する。

 

 公園内にある「さくら記念館」の展示およびパンフレットによると、この桜は1550年ほど昔、皇位継承の争いのために、この地に隠れ住んでいたオオドノオオキミ(後の継体天皇)が都から招かれ、この地を去ることになった。その際、 一本の桜を植えて詠んだ歌がこれ。

 

 身の代と遺す桜は薄住よ 千代に其の名を栄盛へ止むる

 

 その後、この桜は大正時代初期に衰えはじめ、昭和23年頃にはついに枯死寸前になったが、岐阜市の医師前田利行が治療にあたり、根接ぎ238本を行い、見事再生させた。

 しかし、昭和34年の伊勢湾台風によって被害を受け、またも痛々しい姿になる。昭和42年に当地を訪れた宇野千代の働きかけによって、様々な方面の協力が得られ、今は最新の科学技術によって保護されている。

 

 やがて、二代目を作り、日本のいたるところに移された。ザルツブルクにも渡ったようだ。東京では武蔵野市中央公民館にあると書いてあったので、帰ってから調べたが、そもそも武蔵野市には公民館はない。市役所で尋ねたところ、親切にあれこれ調べてくれたが、わからない。さくら記念館に問い合わせてみようかと思ったが、無理かなと思う。というのは、ずっと気にかかっていた「うすずみ」の表記について、本巣市役所にメールで尋ねたが、返事はなく、今回、記念館の係員に尋ねたが、明確な答えを得ることができなかったからだ。なぜ「うすずみ」は「淡墨桜」と書くのか。しかも、これは「うすずみ」と読めるのか。

 

 根尾谷の「うすずみ」は継体天皇の詠歌の「薄住」からきているのだと思う。京都の薄墨寺の「薄墨桜」は、平安時代初期に詠われた歌。

 

 深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染に咲け

 

 に由来しているという。

 

 あれこれ想いにふけりながら、うすずみ温泉に向かう。坂を下った橋のふもとに旅館のシャトルバスが来る。旅館はただ1軒だけ。夜にはシャトルバスで夜桜見物ができるというので、申し込む。温泉に浸かり、早めの夕食を済ませる。デザートに出たイチゴだが、果皮は赤く、中の果肉が真っ白。でも美味しい。初めて食べた。美濃娘という岐阜県特産のイチゴだそうだ。

 

 再び淡墨公園へ。桜はライトアップされているが、公園内は真っ暗。雰囲気あり。20分ほど見て旅館に戻る。これほどの桜なのに、ほとんど人出がないのが嬉しい。 

 

4月11日(火)

 今日は大垣に行く。芭蕉の『奥の細道』は大垣が「むすびの地」になる。いつか奥の細道をたどる旅をしたいと思っているが、まずは逆に「むすびの地」へ。

 

 樽見発8時43分の大垣行き電車に乗りたいのだが、旅館のシャトルバスは10時台しかない。それでタクシーを頼むことにした。

 この町にはタクシーが2台しかない。なんとか運よく予約できる。本巣市の人口はかつて約5600人だったが、今は1800人になったと運転手の話。観光ももっぱら桜の季節だけらしい。

 

 生憎の雨だった。傘をさして、大垣駅から歩いて、大垣城へ。その後、お目当ての芭蕉記念館に。記念館の展示はとてもよかった。桜満開の川端にたつ芭蕉と谷木因(大垣回船問屋の主人で芭蕉の友人)の記念碑を見て、早めに樽見に戻る。

 

 幸い午後には雨もあがったので、今夜も夜桜見物を予約した。帰りのシャトルバスに乗るとき、曇っていた空からちょうど満月が姿を現す。これで桜が散りだせば最高なのだが。おまけに桜の精も姿を見せたりすればね。

 

4月12日(水)

 まっすぐ東京に戻るのも味気ないしで、連れが初めてという熱田神宮と徳川美術館に寄る。熱田神宮は2015年7月に仲良し仲間と一緒に行っている。そのとき徳川美術館も見ているが、庭園は時間がなくて見られなかったので、今回初めて。

 徳川庭園は、かなり広い庭園だった。瀧もよく、桜も満開だったので楽しめた。一本の木にピンクと白の花がさくコブクザクラがきれいだった。

 

 徳川美術館には名鉄名古屋駅からバスに乗ったのだが、下車するバス停は「徳川美術館新出来」。「新出来」って「しんでき」と読む。同じく「古出来(こでき)」というバス停もある。出来町という地名があるそうだ。どんな由来なのだろう。

 名古屋にきたら、「ひつまぶし」ということで、名古屋駅でミニひつまぶす定食を食べて帰京。新幹線の中でもずっと淡墨桜が目に残る。

 

 淡墨桜の散るところが見たかったら、本巣市のHPで3月から始まる開花情報を調べ、散り始めてからでかけるしかない。

 日帰りでも可能だが、大垣のどこかビジネスホテルなら泊まれるだろうから、1泊し、レンタカーを利用すれば、樽見鉄道沿いの町を見て、夜桜も見て、大垣に戻ってくるということもできる。いつかまた行けるかな?